くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ファースト・マン」「ゴッズ・オウン・カントリー」「王朝の陰謀 闇の四天王と黄金のドラゴン」

ファースト・マン

手持ちカメラとクローズアップを多用した映像演出で重苦しくて仕方なかった。確かに人間ドラマとして描きたかったのだろうが、あれほどの偉業がアメリカではどのように捉えられているのかが前面に押し付けられてきた感じでしんどい作品でした。監督はデイミアン・チャゼル

 

主人公ニールが成層圏を超えるマッハのスピードで運転するとジェット機にのっているシーンから映画が始まる。操縦が不能になりなんとか地球に帰還してカットが変わる。彼には不治の病の幼い娘カレンがいて、その治療に余念がないが、その甲斐なく彼女は死んでしまう。そして、先日来からの彼の操縦を問題視した上層部は彼をパイロットから外す。そんな時、NASAが宇宙パイロットを募集しているという記事を見て、応募、採用される。

 

時は1961年、ソ連との宇宙競争に必死だったアメリカで、ソ連に追いつけ追い越せで、ジェミニ計画を推進、月に人間を送り込む計画を進めていた。

 

しかし、多額の税金とパイロットを危険に晒すということで反対運動も激しかった。そしてジェミニ計画からアポロ計画へ、いよいよ具体的なプロジェクトが進みはじめるが、突貫プロジェクトであることは明らかだった。

 

友人がその計画の中で事故死をしたニールだが、指名されるままにアポロ11号の船長を引き受ける。カメラはほとんどが彼らのバストショット以上で捉えていくので、一見華やかなはずなのに内面の苦悩ばかりが前面に出る映像となっている。

 

クライマックスは、月面着陸のシーンとそれに沸く世界の人々を写し、帰還して隔離室にいるニールに妻のジャネットが面会する場面で終わる。

 

あれほどの偉業がなぜ今まで映画にならなかったかがどこかわかるような一本で、決して華やかではなかったのかもしれないが、現実にリアルタイムで見た私としては、もっとたたえてもいいのではないかと思います。確かにリアルを追求するのも正しいですが、夢を見せるのも映画の役割ではないかと思います。

 

ほとんどが手持ちカメラクローズアップなので、クライマックスの宇宙シーンも小さく見えてしまったのが残念です。とはいえ、これもまたアポロ11号の物語だと思うと、感慨深いものがありました。

 

「ゴッズ・オウン・カントリー」

元来ゲイの映画が嫌いなのです。この作品も評判なので見に行きましたが、どうも感情移入はできませんでした。ただ絵作りは美しいので救いでしょうか。監督はフランシス・リー

 

農場を経営する父の元で、反抗的で行く末を模索しているジョニーが、この日も酒を飲みすぎて吐いている場面から映画が始まる。そして、バーに行って行きずりの男とSEXする。彼はゲイなのだ。

 

父は足が不自由でまともに仕事ができないのでジョニーに色々いうが、ジョニーがしっかり仕事をしないので苛立っている。さらに祖母もそんな孫に嫌気がさしている。

 

羊の出産シーズンが近づいてきて、父は勝手に手伝いの男ゲオルゲを雇ってしまった。最初はうけいれられないジョニーだったが、すぐにゲオルゲに惹かれ始め体を交える。そうなるとジョニーは今までと打って変わって真面目に仕事をするようになる。

 

しかし、息子の様子がどこかおかしいことに気がつく父と祖母。まもなく、父が発作で倒れる。甘えが抜けきれないジョニーは、なんとかこれからもゲオルゲにいて欲しいと頼むが彼は戻るという。自暴自棄になり、ゲオルゲと飲みに行ったバーで別の男と交わるジョニー。それに嫌気がさしゲオルゲは帰ってしまう。

 

やがて父は戻ってくる。気持ちを入れ替え頑張る息子を褒めてやり、息子の気持ちを認めてやり、息子のやりたいようにやることに賛成、ゲオルゲを迎えに行かせる。

 

最初は拒否するゲオルゲだが、ジョニーへの気持ちは変わらず、ジョニーの求めに応じて農場に帰ってきて映画が終わる。

 

ラブストーリーという触れ込みだが、要するにゲイの映画である。もろに男同士が抱き合うフルショットは見たくないし、どうもこの描写はいただけない。ただ景色の撮り方が美しいのでそれは救いという感じの映画でした。

 

「王朝の陰謀 闇の四天王と黄金のドラゴン」

全く、このシリーズにハズレはない。というよりツイ・ハーク監督作品にハズレがないというべきか。話はめちゃくちゃながら、勢いだけでどんどん見せてくるし、エンタメ性はハリウッド映画なんか足元にも及ばないから、とにかく楽しいのだ。

 

唐の時代、皇帝から、あらゆる人々を正義の元に罰することができる最強の神器降龍杖を判事ディーが授かるところから映画が始まる。強大な力を授けたことで自身の権力に災いが訪れることを懸念した皇后の則天武后は、降龍杖を手に入れるべく方術を使う怪しい異人組を雇い、司法長官のユーチに指揮させてディーを襲撃させる。

 

ところが、実は皇后は、封魔族に妖術で操られていて、巨大な龍が皇帝たちを襲ってくる。しかし、それも封魔族の妖術であるとディーたちが見破り、皇后の権力争いに乗じて自らの一族の積年の恨みを晴らし唐を滅ぼさんと画策していた封魔族と戦う決意をする。

 

ディーは親友のユーチと手を組み、封魔族の妖術を破るために三蔵法師の弟子であるユエンツオー大使に援護を頼む。一時は断ったユエンツオーであったが、自分の悟りの最後の試練こそ封魔族の積年の怨念を解放してやることだとわかり、急遽援軍として巨大な白猿に乗って現れる。

 

とにかく、オープニングから展開するワイヤーアクションの面白さに加え、CGで飛び交う飛び道具の面白さ、さらに龍や不動明王などの巨大な化け物の登場にスクリーンから目を離せないし、クライマックス、大理寺で、屋根の上を縦横無尽に舞う封魔族とその飛び道具を交わしながらのディーたちの攻防から、巨大な魔人の出現、そして白猿との一騎打ちなど、見せ場が目白押し。

 

ラストは、ユエンツオー大使によって封魔族の積年の怨念があっさりと解かれ、皇帝たちも無事王宮に戻るのだが、則天武后の権力欲は消えていなくて、その後皇帝となった旨のナレーションが入り映画が終わる。

 

面倒なサスペンスやミステリーはさておいても画面を見ているだけで面白い。こういう作品こそIMAXで見てみたいものである。さらなる続編を楽しみにします。

映画感想「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(ディレクターズカット完全版)

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ

初めて見たのは30年近く前になりが、確か三時間くらいだった気がします。今回のバージョンは散逸していたフィルムをある程度回収した四時間を超える作品で、追加されたシーンは明らかに劣化した映像になっています。それでも、見応えのある作品でした。大作とはこういうのを言いますね。クオリティは素晴らしいです。監督はセルジオ・レオーネ

 

いかにもギャングらしい男たちがある部屋に入って来る。ベッドをめくるが誰もいない。探しているのはヌードルスという男。そこへ一人の女性イブが入ってくる。ヌードルスの行き先を聞き撃ち殺してしまう。

 

一人の男が吊るされて拷問を受けている。そして苦し紛れにヌードルスは中国人の店にいると白状し、見張りを残してそこへ向かうギャングたち。すんでのところで逃げたヌードルスは、仲間のところへ戻り、見張りを撃ち殺す。そして、駅に隠してあったこれまで仲間と稼いで貯めた金を取りに行くがトランクに中は空っぽ。仕方なく、何処かへの汽車に乗る。そして時間は35年経ち、老齢となったヌードルスはこの街に戻ってくる。

 

仲間のファットジョーの店に行き、そこで、少年時代覗き見ていたジョーの妹デボラへの憧れの場面から一気にヌードルスの少年時代へ。

 

ストリートギャングで仲間と小金を稼いでいたヌードルスは、ある時ブロンクスからやってきたマックスと知り合う。やがて二人は意気投合し、一緒に仕事を始めるが、密輸の酒の回収のアイデアから地元のギャングの仕事を請け負うようになり金を稼ぎ始める。

 

ヌードルスたちは金の一部を駅のロッカーに隠すように決めるが、彼らのことを好ましく思わないかつてのストリートギャングに襲撃され、一番年下の仲間を殺される。逆上したヌードルスは彼を滅多刺しにして殺し刑務所へ。そして10年近い年が立ち出所してきたヌードルスを出迎えたには、この地で羽振りを聞かせるようになったマックスたちだった。

 

現代のヌードルスが街に戻ってきたのは、ある男から招待を受けたためで、駅のロッカーに行くと大金と殺しの依頼が書かれている。かつての仲間の墓が移設になり、移設先の墓地を尋ねるヌードルス。かつて彼が警察に密告し、仲間三人は警察に撃ち殺されたのである。

 

物語はここから、なぜヌードルスが仲間を密告したのかを語っていく。最愛の恋人デボラは、女優の道を進むためにヌードルスを捨ててハリウッドへ。意気消沈しているヌードルスが知り合ったのがイブという女性だった。

 

やがて禁酒法がなくなることになり、ヌードルスたちは次の仕事を考えざるを得なくなる。そこでマックスは、連邦準備銀行を襲うという突拍子も無い計画をヌードルスに話す。明らかに無謀と思われる計画に、ヌードルスは、彼らを捕まえさせて、未然に防ぐことを計画、警察署長に密告をする。

 

そして時が経つ。ヌードルスは、マックスを気狂い呼ばわりするといつも切れる理由が、マックスの父が精神異常だったことを知る。そして、ある財閥の基金で設立されたという病院を訪れるがなんとそこのロビーに写っていた写真には、女優になったデボラがいた。

 

ヌードルスはデボラの舞台を観に行き、楽屋を訪れる。そして、彼女が今暮らしている男性には息子がいるという。その息子の顔を見たヌードルスは、真相を知ることになる。

 

招かれたパーティで出会ったのは、今や実業家となったマックスだった。そして、自分を巧みに助けてくれたヌードルスに借りを返すために、自分を殺すようにヌードルスに訴える。しかし、断ったヌードルスは一人邸外へ。後に出てきたマックスの前をゴミ処理のトラックが横切る。そして、ヌードルスの前でマックスの姿は消える。自ら処理機の中に飛び込み抹消したのだろうか。

 

映像は、遡って中国人の店に行った若き日のヌードルス。アヘンを調合してもらい、放心したように微笑みかけるアップで映画が終わる。

 

ユダヤ人として、アメリカに渡ってきたヌードルスたち移民のいわゆる大河ドラマですが、大胆に配置した橋の構図が印象的で、画面作りのダイナミックさに引き込まれてしまいます。さすがに長い作品で、最初に見たときは、時が何度も遡るので、ついていけなかった印象がありますが、今回じっくり見直して、そのクオリティの素晴らしさを堪能しました。映画を楽しむには本当にいいですね。そんな気持ちが堪能できる1本でした。

映画感想「ともしび」

「ともしび」

シャーロット・ランプリングのほとんど一人芝居という作品で、彼女の周りを描写しながら、物語を描いていく。90分が限界のようなしんどい作品でしたが、ストーリーは伝わったので、クオリティはそれなりだったのでしょう。監督はアンドレア・パラオロ。

 

老齢を迎えたアンナと夫が淡々と食事をしている場面から映画が始まる。そして夫は何やら刑務所か何かに収監される。その後はこのアンナの行動をカメラが追うことで物語が進んでいく。

 

何やら女が中にいるアンナに向かって、幼い子供に何をしたかなどと罵倒するシーンがあり、アンナの夫が幼児に何かした罪を負ったようである。アンナは家政婦らしい仕事をしていて、時々夫に面会に行く。しかし、息子たちからは来ないようにと釘を刺されている。

 

通っていたスポーツジムも行けなくなり、何か演劇のレッスンらしきこともしているが、次第に体調がすぐれなくなり、途中で退席。家政婦の仕事も途中で帰るなど、徐々に体に不調が現れてきて、電車に乗って帰路について映画が終わる。

 

夫のことで次第に狂っていく日常が、一人芝居で描かれた作品で、ある意味、役者の力量にかかった映画ですが、さすがにシャーロット・ランプリング、見事でした。

映画感想「デイアンドナイト」「モースト・ビューティフル・アイランド」「赤い雪 RedSnow」

デイアンドナイト

それほど期待してなかったのですが、思いの外重厚に積み重ねられた人間ドラマの佳作でした。監督は藤井道人

 

一人の男明石のクローズアップ、涙が溢れている。カットが変わると、父が内部告発をしたものの自殺してしまい、明石が実家に戻ってきたところから物語が始まる。

 

閉鎖した工場を見に行った明石はそこで北村という男と出会う。彼は父に世話になったということだった。やがてマスコミなどの執拗な訪問などが相次ぎ、父の集めた資料などを調べている中、明石は、父を陥れた親会社の男三宅らに復讐心が芽生え始める。

 

そして北村に連絡、彼が運営する児童園を訪ねる。しかし北村は明石に夜の仕事を担当して欲しいと行って連れていく。なんとそこは、車の窃盗団で、他にも女性の不法就労させた風俗店などを北村は運営していた。この違法な金があるからこそ児童園が運営できているのだという。

 

児童園には高校生の奈々という女の子がいて、いつも絵を描いているのだが、明石に興味を持って何かと話しかけてくるようになる。

 

明石は、かつて父が準備したリコール隠しの資料を、知り合いの町工場から盗み出し、マスコミに流すが、三宅はそんな彼の行動を疎ましく感じる。

 

高校卒業を控えた奈々は、東京へ出ていくためもあり自分の両親のことを調べに戸籍を調べる。なんと、東京にいると北村に教えられていたが実は死んでいた。

 

北村は若き日、自分の妻を殺した男を殺したのだがその男には2歳の娘がいて、それこそ奈々だった。そして今日までその贖罪を続けていたのである。全てを知った奈々は北村に詰め寄る。北村は冷たい川に身を投げ死んでしまう。一方、三宅は明石の動きを封じるため彼らのやっている窃盗などを警察にリークし、次々と明石の仲間は捕まってしまう。今まで何も捕まらなかったのにいきなり捕まるということは、三宅も昔から何処かで噛んでいたのかもしれない。

 

明石は最後の対決のための、内部告発資料の原本をネタに三宅を呼び出し、殴りかかり重傷を負わせ捕まってしまう。三宅は殴られながらも、明石の父の告発によって露頭に迷うことになった大勢の従業員の不幸か、万に一つの不具合の結果に終わるだけの不良部品を隠す悪かを問いかける。

 

果たして善と悪は本当にどこに存在するのか。物語のテーマが、じわじわと画面から漂ってくる展開、演出がなかなか見せてくれます。役者の迫真の演技も映画を盛り上げ、しっかりとした出来栄えになっていたと思います。力作でした。

 

「モースト・ビューティフル・アイランド」

都会の裏に潜む暗部を描いた実話に基づく作品で、見終わったあとどっと疲れが出てしまいました。監督はアナ・アセンシオ。

 

不法移民で極貧の生活を送るルシアーナは、ある日知人から、高額な報酬がもらえるバイトを紹介される。セクシーなドレスを着てパーティに出るだけだと聞かされ、教えられたところに行くが、地下で女たちが何かの順番を待つ不気味なところだった。

 

そして自分が呼ばれ部屋に入ると、なんと、毒蜘蛛を体に這わせ、一定時間無事で過ごせるかどうかの賭けをする金持ちたちの余興に場だった。

 

必死で蜘蛛が這うのに耐えたルシアーナは、交代した知人の蜘蛛を自分の手に這わせてなんとか助けてやり報酬をもらい夜の街に消えていく。

 

それだけの話ですが、蜘蛛を這わせるシーンがとにかく肩がこるほどに緊張感があり、見終わってぐったりしてしまった。

 

「赤い雪 RedSnow」

演出、展開がとにかくくどいので、描くべく映像が混濁してしまい、物語も無駄に複雑になって、何を言いたいのかわからなくなってしまった。監督は甲斐さやか。

 

雪がしんしんと降る中、一人の少年が走っている。そして真っ赤な雪の轍に立ちすくんで映画は現代へ。

 

主人公白川一希は漆塗りの漆器を作る仕事をしている。ある時、木立というジャーナリストがやってきてかつての事件を調べているという。かつての事件とは一希の弟が行方不明のままいなくなった事件で、犯人と思われた江藤早奈江が疑われたが、少年の一希が全く喋らず、無罪になってしまった。そして木立は早奈江の娘早百合を見つけたことから事件を再調査していた。

 

早百合は、年配の男と暮らし、寂れた毎日を送っていた。映画は早百合と一希の過去のトラウマを浮き彫りにしながら、実際に何が起こったのかを映し出していく。

 

一希は少年時代の記憶が飛んでいて、弟を見失った後の時間の記憶がなく悪夢にうなされている。早百合は、一希の弟が殺される現場を目撃したはずだと木立に詰められるが告白をしない。

 

最後の最後に、たまらなくなった一希は早百合を殺す寸前まで追い詰めてしまう。そして見えてくる少年時代の記憶。弟ばかりが可愛がられ、嫉妬していた一希は、時々遊びに行っていた早奈江の家に弟を連れていった。もともと幼い男の子が好きだった早奈江は、一希の弟を可愛がり、その後の結末も一希は目撃していたが、喋らなかった。

 

映画は一希と早百合が霧深い湖に船を浮かべ消えていくシーンで終わる。全てが闇に消えていくというラストでしょうか。とにかく、過去と現代を繰り返し、それぞれの描写がしつこいので、とにかく無理やり複雑な作品に仕上がっている。もっと緩急をつけた演出をして見せるところに焦点を当てればいい映画になったろうにと思う一本でした。

 

映画感想「イタリア式離婚狂想曲」「ナポリの饗宴」

「イタリア式離婚狂想曲」

軽快そのもののリズミカルな展開とブラックユーモアが散りばめられたユニークな展開。見事というほかないテンポのいい演出に圧倒されてしまいました。監督はピエトロ・ジェルミ

 

イタリアの町の空気感と登場人物がテンポよく紹介され、物語は主人公フェルディナンドに焦点していく。この冒頭の畳み掛けのうまさにまず引き込まれます。

 

フェルディナンドの妻ロザリアは、何かにつけベトベトとフェルディナンドに絡んでくる。その鬱陶しさに辟易しているフェルディナンドは、なんとか彼女と離婚したいと画策している。

 

彼は隣に住む若い娘アンジェラに気があり、彼女もまた悪い気がしていない仲だった。フェルディナンドは、ロザリオに不倫をさせて追い出す計画を立て、画家のカルメイロをロザリオに近づける。

 

フェルディナンドの思惑通りロザリオとカルメイロは良い仲になり、二人で駆け落ちしていく。カルメイロの奥さんも現れ、フェルディナンドを罵倒、間も無くしてロザリオらの行き先を見つけて、フェルディナンドが向かうと一足違いでカルメイロの奥さんが撃ち殺していて、続いてフェルディナンドもロザリオを撃ち殺し、訳ありの三年の刑だけで無事出所、アンジェラと結婚し、ヨットでバカンスを楽しんでいるが、アンジェラはヨットを操舵する若者に心が動いていて映画が終わる。

 

皮肉が散りばめられたブラックコメディですが、コマ落としした映像なども含めコミカルな軽快なテンポがとにかく小気味好く、最後まで楽しんでしまいました。

 

ナポリの饗宴」

とにかく楽しいです。豪華絢爛、華やかな映像絵巻で、画面に食い入ってしまいます。監督はエットーレ・ジャンニーニ。

 

全編、ナポリの歴史で、これという中心の物語があるわけではない。辻歌劇芸人の家族がナポリにやってきて、風が吹いて、楽譜や台本が舞い上がって映画が始まる。

 

あとは、劇中劇で舞台上で展開する物語が街中に出てきたり、また書割のセットの中に入りこんだりと、所狭しとダンスシーン、歌唱シーンが展開。その豪華絢爛とした映像が何と言っても最大の見所。

 

やがて、二つの世界大戦も過ぎて、芸人たちがナポリを去っていって映画が終わる。とにかく美しい。これが映画だと言わんばかりの贅沢さに最初から最後まで引き込まれてしまいました。

映画感想「愛と銃弾」「マチルド、翼を広げ」

「愛と銃弾」

見るまではどんなものか見当もつかなかったが、あっけに囚われる冒頭からの展開に、どんどん引き込まれ、まさかという名曲までさらっと挿入されると、もう呆れるというより映画作りってこんなに楽しいのかと思ってしまう。監督はマルコ&アントニオ・マネッティ

 

葬儀の場面から映画が始まる。ナポリの魚介王と言われる組織のボス、ヴィンチェンツォの葬儀の場面。地元の実力者で裏社会でも力のある男の葬儀に大勢が集まっている。棺桶の中の男が突然棺桶の中で歌い始める。このオープニングでまず開いた口が塞がらない。自分はヴィンチェンツォじゃないと歌う男。妻のマリアが悲しみに暮れる姿で現れたところへ一人の若者が近づく。その姿に驚くマリア。そして物語は五日前に戻る。

 

自分の工場で仕事ぶりを見回っていたヴィンチェンツォは、突然悪漢に襲われる。そこへ現れたのは彼のボディガードでタイガーと呼ばれる二人の殺し屋。バイクに乗り、巧みに悪漢を退治するが一人を逃してしまう。しかもヴィンチェンツォは、臀部に銃弾を受け、瀕死の中病院へ向かう。彼に付き添ったマリアは、こんな生活に嫌気が刺したこともあり、ある計画を思いつく。

 

それは、ここでヴィンチェンツォは殺されたことにして、今まで貯めた金で海外で優雅に暮らそうというのだ。そして、身代わりはたまたまマリアが出会ったヴィンチェンツォにそっくりの男。早速手下にその男を殺させるのだが、病院で治療中にヴィンチェンツォは一人の看護婦ファティマに姿を見られてしまう。ヴィンチェンツォはタイガーに彼女を見つけて殺すように依頼。自分たちは葬儀の段取りを進めながらパニックルームという隠れ部屋に移る。

 

タイガーの一人チーロが看護婦を見つけたのだが、なんと彼女こそかつて若き日に愛し合った女性ファティマだった。ここでファティマがフラッシュダンスを歌う。思わずニンマリ。そして、一気に二人は盛り上がり、彼女を殺そうと出てきた相棒のロザリオを尻目にチーロはファティマを連れて逃げる。当然チーロには組織の殺し屋らが迫ってくる。しかし、殺しのプロでエリートでもありチーロはファティマを叔父の元に匿い次々と彼らを迎え撃つ。

 

しかし、ヴィンチェンツォの部下は、チーロの叔父の元に隠れてると突き止め、叔父の娘がニューヨークにいることを突き止めたヴィンチェンツォらは、ニューヨークの親戚に彼女を脅し、チーロが死ぬまでは娘は危険だと叔父に連絡する。叔父は仕方なく、ヴィンチェンツォたちにチーロやファティマの居場所を話さざるを得なくなる。

 

そしていよいよロザリオたちとの決戦が近づくが、殺戮を繰り返すチーロにファティマは一計を与える。そして、冒頭のシーン。

 

葬儀の場に現れたチーロはマリアに抱擁し、まんまと隠し部屋の鍵を手に入れる。ファティマはその鍵を持ってヴィンチェンツォの自宅へ向かうが、一方で警察にも連絡する。マリアはヴィンチェンツォに危険を告げるため、親戚の弁護士に電話をさせる。ヴィンチェンツォは慌てて隠し部屋を出て仲間たちに顔を見せ、身を守れと命令。そこへ駆けつけた警察官は、ヴィンチェンツォが生きているのを発見、彼らを逮捕する。

 

一方海岸ではロザリオと対峙するチーロ。そして、ロザリオを殺したチーロに叔父のボートが迫る。そして叔父は機関銃でチーロを殺しその映像をニューヨークに送り娘を解放させる。

 

ハワイへ向かう空港ロビー。ファティマに抱きついたのはチーロだった。

彼は胸に血糊が出る細工をして叔父に撃たせ、そのフェイク画像で娘を助けたのだ。また、隠し部屋にはマリアが、ダイヤモンドをミニカーに隠しているのを知っていたチーロはファティマに、そのダイヤを手に入れるように指示していたのだ。

 

ダイヤを手にしたチーロと叔父はそれぞれ未来に向かって飛行機に乗り込んでいた。浜辺で抱き合うチーロとファティマ、ファティマのお腹は大きくなって妊娠していた。映画はここで終わる。

 

つまりミュージカルなのです。次々とダンスシーン歌唱シーンがあり、映画マニアのマリアが繰り出す名作映画のパロディ的な会話も散りばめられ、それでいて中心の話はフィルムノワールのような犯罪物で、しかもラブストーリー。とにかく楽しいです。こんな映画、ありそうでなかった気がします。最高でした。

 

「マチルド、翼を広げ」

ファンタジーですが、どこか切ないほどの残酷さも潜んでいるドラマでした。監督はノエミ・ルボフスキー。

 

主人公マチルドが学校が終わって出てくるところから映画が始まる。友達に相手もされず、ポツンと一人座り込む。カットが変わると、先生と話をしているマチルドと母。しかし、母の言ってる言葉がどこかちぐはぐである。

 

家に帰ってきたものの、どこか母の様子はおかしい。ある日、母は帰ってきたマチルドにプレゼントだと言って一羽のフクロウを渡す。突然部屋に入ってきたのだという。

 

マチルドは自分の部屋にフクロウを入れて飼い始めるが、夜二人きりになるとフクロウがマチルドに話しかけ始める。もちろん母の前では喋らない。

 

母親はどこか頭が悪いらしく、突然家を出て行って、訳のわからないところを歩き回って帰ってきたり、突然、引っ越すといって見ず知らずの家に押しかけたり、クリスマス、マチルドが準備して待っているのにどこかに出かけてしまって、マチルドを怒らせたりする。そしてとうとう父親がやってくる。

 

どうやら父は離婚しているらしく、時々マチルドと連絡を取っているようだった。そして、マチルドが学校に行っている間に、母は入院を決意し、父に連れられて病院へ行く。フクロウの知らせで慌ててマチルドは戻ってきたが間に合わなかった。

 

病院で母は父に、こうなることはすでにわかっていた旨の話をし、抱き合って別れる。時が経ち、成長したマチルドは母の元を訪ねる。そして二人で詩を読むように会話をし、マチルドは病院を後にする。

 

映画はここで終わる。マチルドの苦悩を助けるかのようにやってくる言葉を喋るフクロウ。湖に沈むマチルドの描写、そしてラストでそこから浮かび上がり、立ち上がるマチルド。少女の成長と母への愛を描いた感じの作品ですが、父はなぜか離婚したままだし、マチルドは一人であることに変わりはない。

できは普通ですが、切ない話でした。

映画感想「バーニング 劇場版」「フロントランナー」

「バーニング 劇場版」

二時間を超える作品なのに、意外と長さを感じない。シンプルなストーリーなのに、独特のリズムで最後まで引っ張られた感じの作品でした。監督はイ・チャンドン

 

バイトをしながら田舎暮らしのジョンスは、ある時街で幼馴染のシン・ヘミと再会する。街頭のくじ引きで女物の時計を手に入れたジョンスは何気なく彼女にプレゼントする。彼女は近く旅行に行くので、愛猫に餌をやって欲しいと頼む。何気なく請け負うジョンスだが、彼女の家に行っても猫らしいものはいない。

 

帰ってきたジョンスはいかにも金持ちそうなボーイフレンドのベンと彼の前に現れる。そして三人は何かにつけ一緒に食事したり飲んだりするようになるが、ある時ヘミに連絡が取れなくなる。

 

ジョンスはベンが何か知っているだろうと後をつけたりするが、手がかりが見つからない。かつてヘミと一緒にベンの家に行った時、洗面所で女物のアクセサリーの箱をジョンスは見つけていた。

 

ある時、ベンを付け回していて、ベンから自宅に招かれる。前はいなかった猫がいて、外に逃げたが、ジョンスがかつてヘミに聞いていた猫の名前をいうと寄ってくる。さらに洗面台のアクセサリー箱に、ヘミにプレゼントした時計が入っていた。ジョンスはベンがヘミをどうにかしたと判断して、外に呼び出してナイフで刺し、車ごと燃やしてしまう。

 

映画はここで終わります。果たしてベンが本当に女を殺戮する異常者だったのか、ジョンスの妄想だったのか、いたるところに出てくる伏線が不思議な空気感を生み出しています。

 

結局その曖昧さで映画を締めくくったミステリーという仕上がりでしょう。淡々と展開する物語と寒々した映像はなかなか優れていますが、好みの映画ではない感じでした。

 

「フロントランナー」

マスコミが個人のプライバシーを叩く話は嫌いなのですが、この作品も御多分に洩れずでした。ただ、できが普通レベルだったので見れたという感じでしょうか。ラストの、主人公の演説に監督の思いが込められていた気もするのが救いでした。監督はジェイソン・ライトマン

 

マスコミが大勢集まる中、大統領選なのかよくわからないが議員たちのありようが長回しで延々と映されて映画が始まる。それから四年、主人公ゲイリー・ハートは大統領選で最有力候補として選挙活動をしていた。

 

ところがマイアミヘラルド紙の記者が、ハートを張り込んでいて思いももかけない女性とのスキャンダルをつかんでしまう。その真偽は最後の最後までわからないのだが、その記事でハートの立場は一気に逆転され、さらに、マスコミの執拗な攻撃は家族に向かうにつき、とうとう出馬を辞退する決心をする。

 

本人よりもその周辺のプライバシーにまで踏み込むマスコミの姿に躊躇することなく若者たちは未来に向かって欲しいという意味の最後の演説が、まさに胸に迫るものがありました。

 

映画の出来栄えは普通だった気がしますが、一つのメッセージとしては見るべき一本だったと思います。