夏目漱石の原作ももちろんすばらしいのだろうが、いったい、演出が見事なのか、演技が見事なのか、人間のあまりにも繊細すぎる心の機微が、これほどまでに見事に映像になっていることに驚嘆してしまいます。
市川崑監督の名作の一本「こころ」。もちろん、あの文豪夏目漱石の代表作の一本である。
主人公の野淵は、なにか妻に隠しているような影が見える。その微妙な心の影を敏感に察知する妻は、何かにつけて、詰め寄るが、その真実を決して語らない。最初は、野淵に女でもいるのかと勘ぐるが、物語はそんな俗っぽい平凡なものではないのである。それが薄々わかってくるのが、終盤の三分の一あたりからなのだが、それまでは、野淵と書生の日置との語らいの中に、どこか野淵夫婦のどこか、感じるぎくしゃくさを描いていく。
映画は野淵が親友の梶の墓参りをしているシーンに始まる。そこにやってくるのが日置で、なにかにつけ、野淵を慕っているのだ。一瞬、野淵の妻への恋心かと思わせるがそれも違う。
ああでもないこうでもないと消去法で物語を追いかけていくが、その端々に描写される登場人物の心の変化する様が実に見事である。
何気ないカメラワーク、さりげない視線の変化、移動、どこまでが市川崑の演出なのか、俳優の力量なのか見えないほどに、見事なのである。
そして、野淵が妻との出会いの頃からを回想していく下りになり、野淵と梶との友情から、下宿屋の娘とのであい、何気ない三角関係、梶と娘との何気ない心の牽かれあいを感じた野淵が、まるで梶の気持ちを逆なでするように、いや裏切るように娘の母に娘との結婚を申し込み、その夜、梶が自殺し、そして、すべてを日置に告白した手紙を出して、自殺を決意するまでの下りの見事さは、決して原作のすばらしさだけでは表現しきれない、映像表現のすばらしさが存在すると思うのです。
野淵が梶への後ろめたさから、ふて寝するそばに薬をおいていく梶のシーンがたまらなく切ない。
日置が病床の父の元をさり、野淵の家にやってきて、野淵の死が現実だったと知るラストシーンは圧巻である。見事な一本でした。