くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「レディ・マエストロ」「ブルーアワーにぶっ飛ばす」「JOKER ジョーカー」

「レディ・マエストロ」

女性指揮者として成功したアントニア・ブリコの半生を描いた作品で、特に秀でたものはなく、丁寧に全てのエピソードを綴っていった感じでちょっと長い。監督はマリア・ペーテルス。

 

音楽ホールに勤める主人公ウィルが、今日のコンサートの指揮者を、会場に勝手に椅子を持ち込んでど真ん中で聞く場面から映画は始まる。上流階級の顧客であるフランクの苦情で彼女はクビになる。

 

指揮者を目指していたが、当時は女性が指揮者になることは叶わなかった。そんな中、彼女は様々なつてや自らの強引さで、指揮者としての教育を受けることになる。この展開がちょっと雑で、ただのいけすかない女にしか見えない。

 

物語は、必死で夢を叶えようとする彼女の姿と彼女の周りの人々との関わりを描いていくが、どのエピソードも同じ力の入れようで事細かに描写していくので、少々ドラマ性がぼやけてしまったのがちょっと残念。

 

やがてヨーロッパで女性の指揮者として成功し、アメリカに帰国、そこで非難の中、成功を収めていく過程が描かれていく。

 

全てに力を注いだ演出と脚本で、のっぺりした作品になってしまっているが、アントニオ・ブリコの人生を知る上では面白い作品でした。

 

「ブルーアワーにぶっ飛ばす」

面白いといえば面白いのですが、主人公砂田の描き方が、うちにこもるばかりの演出なのがどうも映画の流れでインパクトが弱く、ラストの処理で一気に明らかになる演出の意図が生きてこないのが少しものたりません。監督は箱田優子。

 

CMディレクターの砂田が不倫相手の男とホテルを出てくるところから映画は幕を開ける。撮影現場では、そつなく仕事をこなし、家には優しい夫がいる。母から電話で、祖母の容態が良くなったから一度戻っておいでと連絡が来て、親友の清浦と実家の茨城に行くことになる。

 

実家に着けば、何かにつけストレートに楽しむ清浦だが、一方で、何事にも毒づき心が荒んだ行動をとる砂田。好対照な二人の行動を描いていくのが物語の中心になる。

 

祖母を見舞い、一仕事終えた砂田は帰路につくが、なぜか吹っ切れた砂田の姿があり、隣で運転しているはずの清浦は消えていた。清浦は実は砂田が戻りたかった幼い日の自分の姿だったのか、映画は一人で運転する砂田のシーンでエンディングとなる。

 

清浦が突然登場する喫茶店のシーンが唐突なので、何かあると思ったが、こういうラストなのだと納得。ただ、こういう展開なら、もう少し砂田の前半の描写を毒々しくしないと緩急がはっきりしないと思います。面白い作品ですが、今時の独りよがり映画になったのは残念ですね。

 

「JOKER ジョーカー」

どうも気になるので、再見しにきました。見直してみて、この映画のすごさに改めて圧倒されてしまいました。幻想と現実の狭間を、監督トッド・フィリップスの感性で取っ払った上で、再構築し、映画というものの魅力を隅々に散りばめた傑作でした。

 

要するに、一人の狂人の幻覚と現実が交錯して、凶悪な殺人を重ねた上で、精神病院へ収監されるまでの、異常者アーサーの物語なのです。

 

画面の隅々まで見ていると、いたるところに散りばめられた現実ではあり得ない映像がこの作品の真価の全てです。時々ダンスをするアーサーの姿が階段の途中から病院の廊下、ウェインに殴られた後の洗面で佇むカットから同じ構図で切り替わる自宅のショット、福祉局の女性との面談シーンとラストの病院内での面談シーンのオーバーラップ、一番わかりやすいのは隣家の女性とのラブロマンスがあったかと思われる前半が、実は妄想だったと我に帰るところからの狂気への転換でしょう。

 

薬を増やして欲しいという冒頭のエピソードから、途中で、福祉局でのサポートが打ち切られ、薬はどうするのかと詰め寄るシーン、さらにクライマックス、アーサーが心配で自宅に訪ねてきた同僚たちに、もう薬を飲まなくなって気持ちが晴れてきたと言う下り。売れないはずのコメディアンアーサーのクラブでのライブシーンの矛盾。マレーにテレビ出演に招待され、その招待された自分を別のゲストの映像で練習をするシーン。果たして本当に招待されたのか?

 

どこまでがアーサーの幻想なのかどうかわからない物語です、というのがラストで、真っ白な病院の廊下にアーサーが歩くと血に染まる靴跡が続くシーンです。果たして面談者を殺戮したのかはわかりませんが、その曖昧さの後に、廊下の奥でダンスをし、係員に追いかけ回されて、THE ENDと出るクレジットにも意味がある。これで終わりなのです。

 

非常にクオリティの高い映像であり、と言って、あまり深読みしすぎると脇道に逸れてしまう傑作。これが映像表現というものの魅力だと思います。