「私は光をにぎっている」
カメラの被写体までの距離がほとんどのシーンでかなり遠く、登場人物の表情がほとんど見えない上に、松本穂香がいつもの調子のとぼけた演技なので、人物が誰がだれでどうなのかつかみ切れなかった。つまりは変わりゆく東京の下町という物語なのだろうという意味では普通だったかという感じです。監督は中川龍太郎。
長野の民宿にいる主人公澪が、祖母の入院で民宿をたたむにあたり、上京して父の親友の涼介が営む銭湯に世話になることになる。
最初は仕事を探す澪だが思うように行かず、いつの間にか銭湯を手伝うことになっていくが、この銭湯のある場所一帯は再開発で無くなっていくことを知る。
街の風景を撮る映画館に勤める青年や、札幌へ出て行くラーメン屋の店員、エチオピアかどこかから来て国の料理を出している若者など、様々な人間模様を描きながら、時の流れを描いていく。という演出なのだが、どうも分かりづらい。
結局、澪は再び銭湯を去り、一年後、なぜか、銭湯の入り口が残っていて、あの辺りの住民が集っている姿を涼介が見てエンディング。
何か、うまく噛めない作品で、肝心の松本穂香が映画を牽引していかないので、芯が見えてこない。カメラアングルも微妙なので、空気感も出ていない。演出もややありきたり。悪い映画ではないけれど、ちょっともったいない感じでした。
「象は静かに座っている」
長い、画面が暗い、色彩がない、物語が陰惨なのですが、長回しの多用とあえて被写体をぼかすカメラ演出のリズムに後半は引き込まれました。なかなかの仕上がりの個性的な作品でした。監督はフー・ボーという人ですが、この一本を残して自殺したという一品です。
一人の青年チェンが、女性との一夜を終えて窓辺に佇んでいる。そこにやってきたのがチェンの親友で、今一夜を過ごした女の夫。そしてその友人は飛び降り自殺する。
高校か中学か、ある学校の階段で、ブーの友達カイがシュアイの携帯を取ったとブーとシュアイが言い合いをしている。そしてふとしたことでシュアイは階段から落ちて救急車で運ばれる。怪我をさせたブーはこの街を離れるべく、自慢のビリヤードのキューをジン老人に買ってもらい金を作る。そしてガールフレンドのリンを誘うが、リンは二の足を踏む。
ブーが行きたいのは満州里にあるサーカス団にいる象で、その象はただ座っているだけという奇妙な象だというのだ。実はリンの家は母と二人暮らしだが、どうもうまくいっていないし、リンは学校の副主任と不倫関係にあった。
チェンは、弟を怪我させたブーを探し回るが彼はチンピラでよくない仲間も一緒になっている。さらに、友人を自殺させた負い目から満州里に行こうかと考えている。
老人のジンは、家では息子達から老人ホームに移れと言われているが、この街を離れることを拒んでいる。ジン老人を慕っているのは孫娘だった。ジン老人は孫娘を連れて満州里に行こうと考える。
実はカイは携帯を取ったのは事実で、その携帯にはリンと副主任との不倫場面の動画が収められていて、それがネットに広がり、リンも家を出る決心をする。リンの家に怒鳴りこんできた副主任の妻らをバットで殴り殺し、満州里行きの列車に乗るべく駅に行く。
チェンは駅で、仲間が捕まえたブーと出会うが、カイが駆けつけて、ピストルで脅す。チェンの弟は死んでしまったが、チェンはブーを責める気は無かった。
やがて、ジンは孫娘を連れ、リン、ブーもバスで満州里を目指す。途中で列車に乗り目的地に着く。象の鳴き声が夜の闇に聞こえて映画は終わる。
とにかく、画面がほとんど逆光で、意図したものか、何かの障害でこういう画面になったのか、前半特にしんどい。また、手前に場面を描きながら奥の場面をぼかし、カットが変わると奥の場面を再度描くという繰り返しの技法が中盤に登場する。全体の映画のリズムはよくできているので、退屈ということは後半ないのですが、物語が殺伐としていて、どの登場人物にも全力で演出が施されているのでぐったりしてきます。良い映画ですが、もう少し短くても良かった気がします。