くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ミッドウェイ」(2020年版)「窮鼠はチーズの夢を見る」「喜劇 愛妻物語」

「ミッドウェイ」

日米両側を公平に描き、日本の横柄さを誇張するわけでもなく、アメリカの有意さを見せるわけでもなく、いかにアメリカも真珠湾攻撃で追い詰められたかもちゃんと描いている演出は良かった。いい映画になっていたという感じです。監督はローランド・エメリッヒ

 

史実なので物語は決まっているのですが、まず真珠湾攻撃が行われる場面から映画は始まる。一気に戦艦を失ったアメリカは、ニミッツ提督を司令官として日本の次の攻撃に対処しようとする。一方山本五十六連合艦隊を中心とする日本軍は初戦で一気にアメリカを叩くべく次のターゲットをミッドウェイに絞るが、アメリカの暗号分析官レイトンはその作戦を薄々察知する。

 

アメリカはミッドウェイが攻略されれば太平洋での拠点を失い、そのまま西海岸からアメリカ本土まで攻撃される危機感を持つ。そして、戦艦ゼロ、空母三隻という弱体化した海軍で世界一の戦艦と十隻の空母を擁する日本軍を迎え撃つべく待ち伏せ作戦でミッドウェイおびき寄せ作戦を遂行する。

 

待ち伏せられていると知らず日本軍はミッドウェイへ侵攻、圧倒的な力でミッドウェイに襲い掛かるが、アメリカ軍の反撃に遭い、死に物狂いで襲いかかってくるアメリカ戦闘機の前に次第に劣勢となり、大半の空母を沈められてしまう。

 

山本五十六連合艦隊司令長官は敗北を認め、このまま侵攻することを諦め引き返していく。こうして映画は終わるが、そこにアメリカ軍の勇姿を称える仰々しいラストもなく、惨敗して悲壮感に打ち拉がれる日本軍も描かれない。ここから4年近くの長期戦に臨む二国が描かれて映画は終わる。今まであまり見かけなかった戦争映画という感じの一本でした。

 

「窮鼠はチーズの夢を見る」

なんとも脚本がだらだらしていて、終盤は見ていられないほどしつこかった。さらに成田凌が圧倒的な存在感が見事なのですが、相手役大倉忠義が力不足で、ひたすら鬱陶しくしか見えないために映画がとにかくめんどくさい仕上がりになった感じです。たまきと一夜を過ごした後の恭一のシーンあたりでカットしてれば十分恭一の心の苦悩やたまきの気持ちが表現し切れた気がするのですがあのあとは見ていられませんでした。監督は行定勲

 

広告代理店に勤める恭一が颯爽と会社に行き、その帰り突然目の前に大学時代の後輩今ケ瀬が現れるシーンから映画は始まる。このオープニングはうまい。今ケ瀬は探偵会社に勤めていて、恭一の妻知佳子の依頼で恭一の浮気調査をしていた。恭一は女癖が悪く、今ケ瀬に隠蔽してほしいというが、大学時代から恭一に気が合った今ケ瀬はキスと引き換えに真相を隠すと言い出す。仕方なくキスだけを許した恭一だが、まもなくして知佳子から、好きな人ができたから別れてほしいと言われる。

 

そんな頃、恭一は大学の頃からの友人夏生と出会う。夏生も昔から恭一が好きだったが、これを機会に接近してくる。しかし、今ケ瀬という相手がいることを知り、詰め寄った末、別れさせようとする。しかし、夏生と体を合わせようとしてもうまくいかない恭一はまた今ケ瀬のところに戻る。そしてとうとう体を重ねる。

 

そんな頃、かねてから恭一に気がある部下のたまきと親しくなる機会があり、次第に恭一とたまきは中途半端な恋愛関係になっていく。一方今ケ瀬は恭一から離れていく。やがてたまきと恭一は婚約するが、今ケ瀬のことが心から離れない恭一は今ケ瀬を探し求めたりする。

 

今ケ瀬も恭一のそばに出没し始め、一方たまきも恭一のどうにも煮え切らない態度に嫌気が差してくる。そして、とうとう恭一から離れる決心がつく。そして恭一は今ケ瀬と一緒に暮らし始め、心置きなく体を合わせるシーンで映画は終わる。

 

とにかく、恭一のキャラクターが沸きらないために映画が引き締まってこず、いつまでもだらだら感だけが表に出ている展開が続くので、やたら長く退屈になってくる。最近の行定勲の演出はどうなってしまったのかと思う出来栄えだった。

 

「喜劇 愛妻物語」

それなりに面白いしテンポもいいのだが、緩急がワンパターンで次第に後半飽きてきた上にうるさくなってきたのはちょっと残念。それに、物語が終始貧乏臭くて、ドライに笑えなくなってしまった。監督は足立伸。

 

売れない脚本家豪太が、この二ヶ月SEXをさせてもらえない妻チカの尻を見ている場面から映画が始まる。娘のアキと三人暮らしで、口を開けば悪態ばかりつく気の強いチカに終始引っ込み思案に振舞う豪太。

 

ある時、「ものすごい速さでうどんを打つ女子高生」という物語を脚本にする話が舞い込む。豪太はこの企画実現のため、香川県へシナロケに行こうとチカを説得し貧乏旅行に出かける。ところが取材対象の女子高生はすでに映画化が決まっていると言われ、シナハンは無意味になる。仕方なくそのまま旅行することにした豪太だが、相変わらず悪態をつくチカに辟易とする。

 

物語は旅先で展開するドタバタ劇にチカの機関銃のような悪態と豪太の妄想が入り乱れての展開となるが、小さな小ネタエピソードが次第にネタ切れになり、チカの悪態ばかり目立つ上に、終盤に向かってほのぼのする緩急が今ひとつまとまらない。終盤で種明かしになる、チカがいつも履いている赤パンツの意味のタイミングもすでに物語がダレ始めてからというのも残念。

 

旅館の女将の由美との再会から、豪太が待望のSEXにありついた上、微かな希望に揺れて鮨屋で寿司を食べているところへ、何もかも没になったという連絡が豪太に入り、とうとう切れたチカは豪太に別れようという。

 

とはいうものの一緒に帰りの列車に乗っていて眠っている。相変わらずSEXのことばかり考える夢を見る豪太、豪太の仕事が順調になりひたすらアシスタントとしてワープロを打つチカの夢が出て映画は終わる。夫婦ってこんなものかな。というラストのじわっとくる夢シーンは素敵。

リズムもテンポもいいのだがどこかもうちょっとという感じが否めない一本。でも勢いのあり映画でした。

映画感想「マイ・バッハ 不屈のピアニスト」「ソニア ナチスの女スパイ」

「マイ・バッハ 不屈のピアニスト」

二十世紀最高のバッハ演奏家と言われているジョアン・カルロスマルティンスの半生を描いたいわゆる不屈の音楽家の物語ですが、いかんせんあれもこれもと描こうとしたためにかなり長く感じ、さらにピアノシーンが何度も繰り返されるのだが、描写が単調で疲れてきてしまいました。監督はマウロ・リマ。

 

練習用の無音ピアノで練習する一人の男ジョアンのカットから映画は始まり、子供時代、彼が天才的な感覚からみるみるピアノが上達、しかもバッハの難曲をこなしていく様が描かれる。間も無くして二十歳でカーネギーホールでデビューし世界的に活躍し始めるのだが、たまたま家のおもての公園でサッカーを楽しんでいるときに事故に会い右手に麻痺が起こってしまう。ジョアンは金属のギブスを指にはめて演奏を続けるが、あるツアーの時ブルガリアで、道で強盗に殴られて、脳の神経が損傷、間も無く右手が動かなくなる。それでも左手だけでカムバックして第一線に出るも、その酷使から指も動かなくなっていった。

 

とうとうピアノが弾けないとなったが、指揮者として求められ、やがて楽団を組織する。映画は終盤、一本指になったジョアンがピアノを見事に弾くシーンで締めくくられ、本人のエピソードがテロップとして流れて映画は終わる。

 

時々子供のシーンにフラッシュバックするが、その意味がわからないし、なんの効果も生んでいない。不屈の努力で怪我を克服する姿なのか、音楽家としてビジネスとして成功していく姿なのか、子供時代の不幸を描くものなのか、どれもこれもで視点が定まらず、ただただ長く感じる映画でした。

 

「ソニア ナチスの女スパイ」

スウェーデンの実在の二重スパイソニアの姿を描こうとしているのだが、もうちょっとサスペンスフルなところもしっかりできていればなかなかの一本になった感じです。ただ、複雑に人物が入れ込んでいるにもかかわらずよく整理できていたと思います。監督はイェンス・ヨンソン。

 

スェーデンの女優ソニア・ビーゲットはナチスのパーティに招かれて、笑顔を振りまいていた。彼女にとって政治と女優活動は関係ないという割り切りの元だったが、周囲の彼女への視線は強かった。当時ナチスノルウェーに侵攻し、ナチスの国家弁務官テアボーフェンはソニアをプロパガンダに利用すべく近づいてくる。一時はパーティ招待を断ったソニアだがテアボーフェンはソニアの父を収容所へ連行してしまう。

 

父を助けるために方法を探るソニアに近づいてきたのがスェーデン諜報部だった。そして、再度テアボーフェンに近づくべく接触したパーティで、ソニアはアンドルと出会う。急速に親しくなったソニアとアンドルはやがて恋人同士になっていく。一方、再度テアボーフェンと接触できたソニアは、テアボーフェンの勧めでテアボーフェンの邸宅に住むようになる。

 

ノルウェーではテアボーフェンと、スウェーデンではアンドルと会うようになるソニアは、スェーデン諜報部の指示で、スウェーデンに潜むマリアという諜報員を探り始める。一方、テアボーフェンはソニアが父を返して欲しいという言葉に、ドイツのスパイとしてスウェーデンの情報を流すように言われる。

 

こうしてソニアは二重スパイとして活動せざるを得なくなる。たまたまアンドルの持ち物から、海岸線の砲台の写真を発見、その写真スタジオから、ソニアの友人のカメラマンが関わっていることを突き止める。そして、マリアの正体はアンドルではないかと疑うが、踏み込んだスウェーデン諜報部からアンドルは逃亡する。

 

そんな中、ナチスの連絡員と接触するソニアの前に本当のマリアであるフェリスという人物が現れる。さらにフェリスらはアンドルを捕まえるべくアンドルとソニアの相引きの場所である孤島の小屋に向かうがアンドルはまんまと脱出。スウェーデン諜報部はソニアの情報からフェリスを逮捕し、ソニアの両親もノルウェーからスウェーデンに引き取り匿う。しかしアンドルの行方はわからなかった。

 

こうして映画は終わり、ソニアのその後がテロップで流れる。実在の人物のそのままを描いたのみで終わった感じがちょっともったいない気もする一本で、作りようによってはかなりのサスペンスになりそうだったが、そこが狙いではないのかもしれない。

映画感想「海の上のピアニスト」(イタリア完全版)

海の上のピアニスト

先日見た4K版より約五十分長い日本初公開版を見る。当初公開されたものは時々感情の流れが途切れたり飛んだりする印象が気になってましたが、今回の長尺版はその辺りはスムーズに流れます。私個人としてはこの長尺版の方が作品として完成されているのではないかと思います。

 

三時間近くになるものの退屈でだれる瞬間がないし、エピソードの配分もうまくいっている気がしました。どこがプラスになっているのか違和感なかったということはこれが本来ジュゼッペ・トルナトーレが目指した形ではないかと思います。

映画感想「mid90s ミッドナインティーズ」「真夏の夜のジャズ」(4Kリマスター版)

「mid90s ミッドナインティーズ」

これは良かった。まず音の使い方が抜群に良い。国は違うけれど、かつての自分達の少年時代と全く変わらない世界があった。しかも映像のリズムがいい上に、少年たちの心の温かさが切々と伝わってきて引き込まれてしまいました。ラストも良い。良い映画見たなあという感じです。監督はジョナ・ヒル

 

クレジットのA24がスケボーで壊される。そして一人の少年が部屋から飛び出してきて彼を追いかけて出てくる兄。少年スティヴィーは力の強い兄イアンにいつも殴られていた。この場面の音の使い方が極端にデフォルメされていて、この映画のセンスの良さをまず感じます。

 

スティヴィーの姿とタイトルクレジットが交互に映され、スティーヴィーが街をうろついている場面へ移る。そこで、スラム街の不良少年たちがスケボーで遊んでいる姿に見入ってしまい、そのカッコ良さに憧れる。そして兄イアンにスケボーを譲ってもらい、一人で練習しながら、スラム街の少年たちのそばに屯するようになる。

 

やがて一番年齢が近いルーベンと親しくなり彼といつもつるんでいる黒人のレイ、髪の毛が金髪のファックシット、映画監督になる夢を持っていつもカメラを片手にしているフォースグレードらと遊ぶようになる。

 

映画はスティーヴィーとスラムの少年たちとの交流を中心に展開し、ふとしたことからスティーヴィーはレイらに気に入られ、次第にこのグループにのめり込んでいく。しかし、息子の行動に不信を持った母のダブニーはレイらの溜まり場に乗り込んで、今後付き合うなという。しかし、次第に成長して自立心も芽生えてきたスティーヴィーは、そんなことはお構い無しにグループの中に溶け込み、やがて、少女とのSEXまがいのことも経験していく。母に責められて落ち込むスティーヴィーにレイが、みんな自分が最低だと思っているが周りを見たらもっと最低な奴がいることに気がつくものだと、つるんでいる仲間の一人一人の素性を教えて慰めてくれる。

 

レイの一番の親友のファックシットが、最近ドラッグや酒に溺れるようになって来たのを気にやむレイはファックシットに忠告をするが、ファックシットは、酒を飲んでいるにもかかわらず仲間を車に乗せて遊びに行こうと誘う。気が進まないながらも乗り込んだスティーヴィーたちだが、事故を起こし、スティヴィーは意識を失ってしまう。

 

スティヴィーが気が付くと傍らに兄がいて、ジュースをくれる。病院にやってきた母ダブニーはロビーでスティーヴィーの症状を心配して泊まり込んだレイらの姿を見つける。ダブニーはその優しさに心を打たれ、レイらをスティーヴィーの病室に招いてやる。

 

そこで、フォースグレードが撮り溜めていた映画を見ようとレイらが提案。スイッチを入れると、生き生きとスケボーで滑ったり楽しく過ごすレイやスティーヴィーらメンバーの姿があった。そして、その映画に題名こそ「mid90s」だった。こうして映画は終わる。もう最高ですね。

 

音の使い方が見事というのと、低いカメラで向こうからこちらにスケボーで滑ってくる少年たちのカットも素晴らしい。スティヴィーが親しくしていくレイらのメンバーの暖かさも見事だし、兄や母の描き方もとっても良い。本当にいい映画に出会いました。

 

真夏の夜のジャズ

1958年開催の第5回ニューポート・ジャズ・フェスティバルを捉えた名作中の名作。本当にいい映画ですね。音楽ってこういうものなんだよ、音楽ってこう楽しむものなんだよって語りかけてくるような気がします。監督はバート・スターン。

 

ドキュメンタリーなので物語というものはありませんが、暗闇に浮かび上がるような野外舞台のシチュエーション、ステージに嬉々として聴き入っている観客の顔、ただ楽しむように歌い上げて観客に声を届ける歌手たちの笑顔、とにかくどこをとっても素敵。

 

しかも、ステージのオレンジをバックにした人々のシルエットの捉え方、ラストの街を去っていく若者の車のショット。いい映画というのはなんとも言えない感動を呼び起こしてくれます。えーっ、もう終わり?そんなものさえ感じられる名作でした。

映画感想「おかしな奴」「凱里ブルース」

「おかしな奴」

昭和初期に活躍した実在の落語家三遊亭歌笑の半生を描いた作品で、全体が丁寧に物語を追っていく一方で、芸達者が繰り広げる落語の世界も面白い逸品でした。監督は沢島忠

 

子供の頃から顔立ちがユニークでみんなから馬鹿にされて大きくなった主人公は、子供の頃から落語が好きで、そのまま大人になる。しかし徴兵検査では生まれながらの近視で丙種になり家族からも疎まれる。そんな主人公は東京へ出て落語家になることを決心し、単身東京へ向かう。

 

なんとか弟子入りできた金楽師匠の元で芸を磨いていくのが前半となる。弟子同士の確執や可愛がってくれた兄弟子の死、結婚などの人生を描くも、寄席でのトラブルから寄席出入りを禁止される。時は第二次大戦も終わり、ラジオで人気が出て、歌笑の名前で人気を博すも、古典的な落語界からは疎まれる。しかし、その人気はどんどん上がる一方で、金楽師匠の口利きもあり、寄席へ戻れるようになる。そして真打となって落語会に復帰するが、後援会に呼ばれて出かける途中で交通事故にあい、呆気なく死んでしまう。

一人の芸人の半生という普通の作品ながら、テンポ良い展開はなかなか面白い作品でした。

 

「凱里ブルース」

話題になるだけのある作品。小品ではあるけれども、中国の農村の閉鎖された空間、四十分の長回しにもかかわらず組み立てられたリズム感の面白さに引き込まれていきます。監督はビー・ガン。

 

主人公シェンが刑期を終えて凱里の村に帰ってくる。しかし妻はすでに亡く、可愛がっていた甥は、弟によって遠方に売られていた。シェンは甥を引き受けるべく旅に出る。そしてダンマイという村につくのだが、時間が遡るのか心の思い出がかぶるのか不思議な世界がシェンを引き込んでいく。そして甥を引き受けようと学校へ行くが、新学期にまた来いと言われ、再び汽車に乗る。

 

甥を向かいにいくためにバイクに乗せてもらい延々と進む長回しシーンが素晴らしく、次々とシーンや人物を入れ替えながらもカメラは途切れることはない。にもかかわらず映像のリズムが静かに展開していくのだからこれは映像感性の良さと思わざるを得ません。

シンプルな物語を幻想的にしかも鋭い映像感性で綴っていく表現の素晴らしさに魅了されてしまう作品でした。

映画感想「喜劇 急行列車」「吹けば飛ぶよな男だが」「あゝ軍歌」「人数の町」

「喜劇 急行列車」

たわいのないプログラムピクチャーで、気楽に見れるコメディですが、構成はしっかりしているのはなかなかのものです。監督は瀬川昌治

 

東京から長崎に向かう急行列車、専務車掌の青木が乗り込んで、列車の中で起こる様々なエピソードを綴って行く。若き日に出会った女学生毬子のエピソードを中心に、妻とのちょっとした夫婦喧嘩、さらに、再度鹿児島へ向かう急行で出会う心臓の悪い少年や、車内でのお産、追いかけてきた青木の奥さんが産婆の免許があり、程よく仲直りしてほのぼの終わる。気楽そのものの喜劇です。

 

吹けば飛ぶよな男だが

これは傑作。主演のなべおさみが見事だが、脇役の配置が見事で物語が無駄なく映像で表現されています。これがつまりは感性の優れた人が作った作品というところです。軽いコメディと熱い青春ドラマと温かい人情が溢れかえる作品でした。監督は山田洋次

 

主人公三郎が大阪駅前でピンク映画の主演女優を物色しているところから映画は始まり。いかにも田舎から出てきた花子を見つけ、まんまと撮影に及ぶが、花子は逃げ出す。逃げ出された花子をその時の勢いで助けた三郎は、兄弟分のガスと花子を連れて神戸へ。そこで花子に客を取らせようと誘った教師を交えての人情ドラマが展開する。

 

三郎のバラックのアパートの隣にはなかなかうだつのあがらないヤクザの不動がいて、この男に惚れ込んだ三郎は一端のヤクザになろうと奔走。一方で、トルコに花子を売ってしまうものの、トルコの女将お清ともすったもんだの人情喜劇が繰り返される。

 

そんな時、花子に妊娠が発覚。どうやら田舎にいた頃妊娠させられたようで、堕ろせという三郎に、なんとかしろという教師との三つ巴。自暴自棄になった三郎は、たまたまヤクザもんに絡んで殺傷事件を起こし刑務所へ。一方花子はどうして良いかわからず雨の中歩き回って流産した挙句死んでしまう。

 

すぐに出所できた三郎はお清らとアパートで花子の葬式をあげ、花子の田舎に骨を届けて、遠洋漁業の船に乗る決心をする。港にお清を呼び、ガスらに見送られて船で去る三郎のシーンで映画は終わる。

 

三郎の隣の部屋の不動という中年ヤクザやトルコのお清らも含め脇役が素晴らしい上に、さりげないシーンの数々が無駄なく描かれた描写も上手い。がむしゃらな三郎の姿が生き生きした仕上がりになっている傑作でした。

 

「あゝ軍歌」

痛快、なんの淀みもなくカラッと笑い飛ばす。不謹慎とかどうとかいうものなどなく、何もかも笑い飛ばしながらも、戦争の哀愁をさりげなく盛り込んだ脚本と演出、そして演技の妙味に引き込まれてしまいます。監督は前田陽一

 

第二次大戦の戦場シーンから映画は始まる。適当に過ごしている福田とカトやん。そして終戦して25年、今や如何わしいツワー会社を運営し、今日も東京を訪れた老人を東京案内している。ある時、福田は靖国神社に息子の霊を納めたいという婆さんを案内する。その婆さんは霊を収めた後どこかで死にたいという。案内した福田は、自分のバラックのような家に招く。

 

福田とカトやんが飲み屋回りをした帰り、お腹の大きいツネ子に夫と間違われる。そしてそのまま福田の家へ。しかしお腹が大きいのは詰め物だった。そんな頃、アフリカに行きたいという若者の世話をしたカトやんだが、手違いで、若者の入った棺桶が福田の家に配達される。そこへ、17歳という妊娠した若い女もやってくる。

 

こうして奇妙な同居生活が始まる。あとは、細かいエピソードをちりばめながらのドタバタ劇だが、芸達者が揃っているので、とにかく軽妙でテンポがいい。そして、婆さんが息子の墓を作るのに金がいるということになり福田たちは靖国神社の賽銭泥棒することにする。クライマックスは、賽銭箱の中に福田が入り、まんまと金を手に入れるも、袋を間違えて、金は手に入らない上に福田とカトやんや逮捕されて一年後。福田らが出所してくると、婆さんら元のメンバーが待っていて、また一緒に生活を始めて映画は終わる。

 

婆さんの息子の死んだくだりや、要領良く生きてきた福田とカトやんのこれまでもウィットが効いていて楽しい。靖国神社に賽銭泥棒にはいるとか、黙祷を脱出手段にしたりとか、不謹慎とかいうのも吹っ飛ばしたあっけらかんとした展開も爽快。楽しい映画でしたし、ほんのり涙ぐむシーンもあり素敵な映画でした。

 

「人数の町」

胡散臭い映画です。シンプルな展開と物語の中にさまざまな風刺を盛り込んでいるという評価は確かにそうですが、映画としてのテンポはよくないし、やたら長く感じるし、どこかで見た展開も見られるしというのが感想です。監督は荒木伸二。

 

借金を返さず、取り立て人に追われていた蒼山は、黄色のつなぎを着た男に助けられ、不可思議な町に連れて行かれる。そこでは、入る時に何かのカプセルを打ち込まれ、部屋ナンバーだけで女性とSEXしたり、食料を得るために、架空の書き込みをしたり、外に出ては、ダミーの投票をしたり、架空の宣伝投稿に協力したりさせられるが、衣食住は完全に保証されていた。

 

一人の女性緑と親しくなり、様々なこの町での活動を体験するが、紅子という女性が失踪した妹を探すべくこの町にやってくる。その妹とは蒼山が親しくなった緑で、その妹には娘もいることがわかる。

 

この町での活動を受け入れられない紅子は緑の娘を連れ、蒼山と一緒に脱出することにする。この街を離れると、不快音楽が頭の中に響くようになっていたが、職員の機械を盗み脱出。しかし戸籍もなく金銭的にも追い詰められていく。そこへ、黄色のつなぎの男が現れる。

 

シーンが変わると、平穏に暮らす蒼山、紅子、緑の娘がベッドにいる。蒼山が仕事に出かける。蒼山は黄色のつなぎを着て新しい住人に自由について説明して映画は終わる。

 

細かい矛盾は無視して考えてみるに、いわゆる、世の中はこういう作られた何かによって支配されているということを言いたいのだろうかと思う。ある意味、なるほどと思うのだが、一方で、今更という気もする。その表現がもう少し斬新なら面白いのですがという気がしなくもない映画でした。

映画感想「宇宙でいちばんあかるい屋根」

「宇宙でいちばんあかるい屋根」つ

うーんとなんともまとまらない映画だった。いろんなエピソードがなぜ入ってくるのかはっきり見えない上に、キーになる星ばあの桃井かおりがなんとも汚らしくて映画のファンタジックさを潰している感じで残念。上手く作ればもっといい映画になりそうな作品でした。監督は藤井道人

 

2005年、主人公つばめは、義母と父との3人暮らし、この日密かに想いを寄せる隣の家の享に手紙を渡そうとポストに投函するが、後悔してしまう。彼女は書道を習いに行っていて、その帰り教室の屋上に上がっていると、奇妙な老婆が現れる。彼女はキックボードに乗って空を飛んだようにみえたので、星ばあと呼ぶ。

 

なんでもできるという星ばあの言葉を鵜呑みにして、つばめは享に出した手紙を取り戻してもらう。しかし、星ばあは行動して後悔した方がいいという。つばめは2歳の時に家を出た実母に会いに行く決心をする。その母はいまは水墨画作家になっていた。その個展で彼女に会うも何も話せず帰ってくる。

 

そんな頃、享の姉が妙な男と付き合っていたのを気にかけた享はその男を追いかけ、雨降りの中バイクを走らせていて、目の前に現れたスケボーの青年を避けて事故を起こす。つばめは享の病院に看病に通うようになる。

 

星ばあには会いたい人がいて、茶色の屋根の家に住む誠と言う孫を探していた。つばめはこれまでの恩返しに夏休み中その家を探すことにし、享も協力する。ふとクラスメートの笹川に会った。実は享が事故を起こした時にいたスケボー少年こそ笹川で、彼の家の屋根が茶色、しかも名前は誠だと知る。

 

つばめは星ばあを誠に合わせるが、誠には星ばあは見えていなかった。しばらくして、誠はつばめを誘い、実は先日死んだおばあちゃんがいたと写真を見せる。それは星ばあだった。

 

やがて星ばあはつばめの前からいなくなる。ある夜、ベランダに出ると、星ばあが持っていた水筒の蓋が糸電話のようになっていた。つばめはその糸電話にお礼の言葉を告げる。折しも、義母にも赤ちゃんが生まれ、つばめはお姉ちゃんになった。

2020年、水墨画の個展が開かれている。書道教室の屋上から町並みを見下ろす絵に立ち止まる書道教室の先生、そして映画は終わる。

 

なんとも脚本が良くないのか、今ひとつまとまらず、そういう風に作ったのかと言われればそれまでですが、なんか噛み合わない映画だった。