くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「見世物」「知られぬ人」

「見世物」

サイレント映画なので、もうちょっとシンプルな映画かと思ってましたが、意外に込み入った作りの作品でした。絵作りも凝っていて楽しめました。監督はドット・ブラウニング。

 

羊が沢山走り出してくる場面から、羊飼いが羊を売って金を手にするところから映画は始まります。ここに、見世物小屋があり、さまざまな奇怪な人間などを売り物にする一方で、サロメの劇をメインに客を集めている。ここのスターロビンは女癖が悪く、羊飼いの娘レナをたぶらかして、夕食を奢らせたりしていた。そんなロビンを慕っているのは見世物小屋サロメだった。

 

ある時、サロメに横恋慕する一人の男グリーク(ギリシャ人)は、ロビンを亡き者にしようと企むが果たせず、羊飼いの男を殺して金を手に入れようとするも、羊飼いの男は羊を売った金をレナに預けていたので果たせず、追い詰められて逃亡する。一方、ロビンはレナから金を奪い、そのまま逃げるがサロメに助けられ匿われる。

 

グリークはロビンの持っている金を狙ってくる。一方サロメの父は盲目で、息子が軍隊から帰ると信じていたが、実は息子は絞首刑になる罪人だった。そしてその絞首刑の日、ロビンを息子と勘違いしたまま父は死んでしまう。そこへグリークが現れるが、サロメの家が怪しいと踏んできた警官がロビンを突き止める。ロビンはサロメの心に絆され改心し、金を返す。グリークは仕掛けた毒トカゲの毒にやられてしまう。とまあごちゃごちゃである。

 

そして何故か無罪になったロビンは今日もサロメと舞台に立っているところで映画は終わる。てんこ盛りのストーリー展開で、正直、物語を正確に把握してるか不安ですが、こんな感じでした。

 

「知られぬ人」

サイレント映画ながら、これはなかなか良い映画でした。作劇のうまさか、見せ方のうまさか、どんどん引き込まれてラストまで引き込まれました。監督はドット・ブラウニング。

 

サーカスの場面から映画は幕を開ける。このサーカス団のヒロインナノンは団長の娘で、この日も、相棒で両手のないアロンソからのナイフの標的などになって観客を楽しませていた。アロンソは密かにナノンを慕っていた。ここに怪力男のマラバールがいて、彼もまた純粋にナノンを慕っていたが、ナノンは男の手に触られることに極端に拒否反応を示す性格だった。アロンソは、巧みにマラバールがナノンに嫌われるように仕組んでいくが、純真なマラバールはそんなアロンソをいい奴だと思っていた。この日も娘に色目を使うアロンソを団長が滅多打ちにするするところをマラバールは助ける。

 

しかし、実はアロンソには両手があった。それを知るのは相棒で親しいコッホという背むし男だった。二人は巡業先で泥棒を繰り返す悪人だった。しかもアロンソの左手の親指は二本ある奇形だった。たまたま、コルセットを外し両手を自由にしていたアロンソの姿を団長に見られて、喧嘩になりアロンソは団長の首を絞めて殺してしまう。その現場で、二本指の男が絞め殺すのを一瞬ナノンが見てしまう。警察は泥棒と絞殺犯は同一と判断し指紋を調べ始める。

 

アロンソは、ナノンとマラバールをさらに遠ざけるためにサーカス団を旅立たせる。そんなアロンソにコッホは、ナノンと結婚しようとしても手があるのがバレれば嫌われるだけだと諭す。しかし、アロンソはナノンを手に入れるために狂気へと進んでいく。弱みを握る外科医を呼びつけ、自分の両腕を切断させたのだ。アロンソが入院している間に、マラバールとナノンは親しくなり、やがて男性の手に触れられることにも慣れてしまったナノンはマラバールと結婚することになる。

 

傷が治って退院したアロンソはナノンに会いにくるがそこでナノンとマラバールが結婚することを知り愕然とする。マラバールは新しい劇場で両手を馬で左右に引っ張らせ、馬は地面が動く台車を走ることで、マラバールの腕が安全なまま、怪力を見せる芸を企画していた。それを聞いたアロンソは、ショーの当日、レバーを操り馬が走る台車の動きを止める。腕を引っ張られるマラバール、暴れ始める馬、あわやという時、ナノンが馬の前に体を投げ出す。それを見たアロンソはナノンを庇い、馬に踏まれて死んでしまう。真実を知らないまま、マラバールとナノンは結婚して幸せになって映画は終わる。

 

ある意味、恐ろしい展開ではあるが、見るものを楽しませる展開は実にうまく組み立てられていて、どんどん物語に引き込まれてしまいました。単純に面白かったです。

映画感想「フリークス」

「フリークス」

映画史に燦然と輝く怪作、と言われていますが、意外に真っ当なテーマのあるそこそこな映画でした。本物のフリークスを登場させたという演出は流石に現代では叶わないことかもしれませんが、人間の本当の醜さとは何かを真正面から描いた点では、見るべき一本だと思います。監督はトッド・ブラウニング

 

延々と人間の醜さ、フリークスの存在などなどを語るテロップが終わってタイトル、場面は大勢の観光客らしい人たちが、案内の男にある囲いの中にいるフリークスとそうなったくだりを語るところから映画は始まる。

 

場面が変わるとあるサーカス団の空中ブランコのスタークレオパトラの姿。彼女にぞっこんなのは小人のハンス。しかしハンスを愛しているには同じく小人のフリーダ。ハンスはクレオパトラにいいように誘惑され弄ばれているが、ハンスはひたすら彼女に貢いでいる。しかしクレオパトラには愛人で力自慢のヘラクレスがいた。クレオパトラは、ヘラクレスとの仲を隠しながらハンスに金や宝石を貢がせる。物語はそんな二人の姿を彼らを心配して見守るフリーダやその他のフリークスの芸人たちを描いていく。

 

シャム双生児の姉妹、足のない男、手のない女、小頭症の女たち、などなど、見るからにフリークスだが彼らの心は実に純粋である。一方クレオパトラヘラクレスは五体満足ながら心は欲に染まっていた。ある時クレオパトラはフリーダから、ハンスには莫大な資産があることを知り、ヘラクレスと共謀してハンスに徐々に毒を飲ませることにする。一方で、ハンスとクレオパトラは結婚の流れとなる。

 

結婚式の日、クレオパトラは酔ってフリークスたちを罵倒し、さらにハンスに毒を多めに飲ませてしまう。倒れたハンスは医師に毒を飲まされたと診断されるがクレオパトラはうまく誤魔化す。しかしハンスは気が付いていた。そしてフリークスたちと協力しクレオパトラヘラクレスへの復讐の機会をうかがう。

 

嵐の日、サーカス団が移動する車の中で、ハンスはクレオパトラが薬と偽って毒を入れる現場を問い詰め、それをきっかけにフリークスたちがクレオパトラヘラクレスに襲いかかる。

 

場面は冒頭の場面となり、案内人に案内されて客らが囲いの中のフリークスを覗くと、そこには鶏のような姿にされたクレオパトラの姿があった。こうして映画は終わっていく。

 

人間の本当の醜さを、健常者とフリークスを対比させて描く手法は、非常に真っ当な作品として仕上がっていて、ある意味見るべき一本だったように思いました。

映画感想「悪魔の人形」「古城の妖鬼」

「悪魔の人形」

名作になるようなしっかりしたストーリーなのに、何故かマッドサイエンティストが出てきて生き物を6分の1にする展開が挿入されているという不思議に奇妙な映画でした。監督はトッド・ブラウニング

 

警察が脱獄した二人の男を探している場面から映画が始まる。二人の男マルセルとラヴォンは、なんとか逃げおおせて、マルセルの妻の実家へたどり着く。なんとマルセルは妻と共に生き物を6分の1に縮小する実験をしている。といきなりの展開に唖然とする。一方ラヴォンは無実の罪で刑務所に入っていて、脱獄して復讐を考えていた。ラヴォンはマルセルの研究を利用しようと考えるが、マリセルは心臓麻痺で死んでしまう。

 

マルセルの妻は研究を続けると言い、ラヴォンと共に、ラヴォンを陥れた三人の男がいるパリへ向かう。そこでラヴォンは老婦人に化け、小人にした人間を自在に操って毒を使って男たちに復讐していくのが本編、と言っても、別に小人でなくてもいいやろという展開がなんとも微笑ましい。

 

そして二人までを復讐を果たし、最後の一人に迫る中、とうとう最後の一人が自供をしてラヴォンの無実が晴らされる。しかし、研究を続けるというマルセルの妻は、反対するラヴォンを亡き者にしようとするが反撃されたので研究室を爆破する。この無理矢理感もまた良い。

 

ラヴォンにはロレインという幼い頃に別れた娘がいて、彼女が恋人トトと行く末幸せになることを確かめて、自らは本人だと明かさずに娘の元を去っていって映画は終わる。なんとも感動的な本筋にも関わらず、何故か人間を縮小するというとんでもない話で彩を加えているなんとも珍品な映画である。でも面白かった。

 

「古城の妖鬼」

いかにもホラーという展開でひたすら怖がらせようとするが、どこかおかしい、なんでみんな間抜けなの、なんでオーバーアクトなのと思っていると、ラストで大どんでん返しで大笑いするサスペンス映画だった。いやあこれは面白い。珍傑作でした。監督はトッド・ブラウニング

 

墓場、いかにもな老婆が墓を荒らしているオープニングから映画は始まる。コウモリがわざとらしく飛び回り、ある屋敷に飛び込んでくる男。この屋敷の主人カレル卿が死んだという。しかも血が全て抜き取られていて、首に噛み跡。この地方には古城に住むモラ伯爵という吸血鬼がいるという伝説があった。飛び込んできた男も、農夫が古城のそばで血を抜かれて死んでいる死体を見たという。ノエル刑事がやってくるが、そんな伝説はないという。カレル卿の娘イレーナにはフェードルという婚約者がいる。なぜかイレーナは、何者かに魅入られたように疲れている。さらにフェードルも古城のそばで気を失って倒れてから体がおかしいという。村人が皆吸血鬼を恐れる中、突然、ツエリン教授が現れる。彼は吸血鬼の研究の権威で、これは吸血鬼の仕業だという。そしてこの地方にだけ生える植物を部屋に置くように指導する。

 

一方、この屋敷の処分をカレル卿の友人のオットー男爵が依頼されていたという書類が見つかり、オットー男爵はこの屋敷をうまく処分するべく、吸血鬼の事件を早く解決しようとする。そんな中、モラ伯爵と娘もルナはいかにもな姿で、屋敷に迫ってくる。イレーナも魅入られ、カレル卿の遺体も消えてしまって、彼もまた吸血鬼になったのではとツエリン教授は言う。そして、吸血鬼が眠っている昼に古城に向かい、モラ伯爵らを倒すことが解決の道だと、オットー男爵とノエル刑事と共に古城に向かう。しかし、手違いで蝋燭の炎が消え、ツエリン教授らはピンチになる。教授はオットー男爵に何やら囁き始める。

 

一方屋敷では、カレル卿がピアノを弾いていたがそばにイレーナがいた。そして、こんなお芝居はできないと泣いている。実はカレル卿が死んで一年が経っていたのだ。カレル卿に扮しているのは別人で、オットー男爵が彼を殺害した犯人だと判断したノエル刑事らはツエリン教授と組んで、芝居をしているのだ。古城でオットー男爵に催眠術をかけたツエリン教授は、オットー男爵が一年前に戻り、再度カレル卿を殺害する現場を再現させようとしていた。

 

そしてまんまと催眠術にかかったオットー男爵は、偽物のカレル卿を毒殺し、カレル卿の家宝の宝石を手に入れ、密かに狙うイレーナを手に入れんとしていた。そして現場を抑えられ催眠術を解かれたオットー男爵はノエルらに逮捕される。古城では、吸血鬼のふりをした役者がルナを演じた相棒の女性の役者と片付けをしている。こうして映画はユーモア満点で終わる。吸血鬼俳優のベラ・ルゴシがいかにもな登場を繰り返し、しかも、イレーナの館を閉め出しているのに何故かいるのは奇妙だったにも納得がいくし、使用人らも全員お芝居をしていたというのが、いかにも間抜けな行動の理由もわかった。とにかく掘り出し物の珍傑作でした。面白かった。

 

映画感想「ハルムスの幻想」

「ハルムスの幻想」

ロシアの詩人ダニール・ハルムスの経験する夢と現実が交錯する二日間を描く。という解説を読んでなければ何のことかわからない。作者の方向性も物語の展開も全然掴めなかった。前半は何度か意識が飛んでしまいました。監督はスロボタン・D・ベシチ。

 

映画が始まると、プロローグとして何やら博士らしい白衣の男が脳を水に中に沈めて蘊蓄を垂れている。そして始まりとなって物語らしきものが始まる。どこか物々しい雰囲気の中一人の少年がひたすら進むのをカメラが追いかけていく。そして突然19年後となる。

 

主人公らしいハルムスが何か尋問を受けているのかなんなのか、自宅に戻ってくると窓から天使が飛び込んできて、梁を探してくれという。背中の羽を普通に脱ぐと一人の若者で、現実か幻想かわからないとってつけたような展開。

 

そして、突然梁を枕にしているハルムスの場面から、それを天使がノコギリで切るのだが、外に出て戻ってくるとまた元のままになっている。天使が一緒に捨てようとハルムスを誘うが、突然、アパートに大家の女が電話だと飛び込んできて、思わずハルムスは窓から落ちる。

 

しかし、階下の部屋で助けられるが、天使が窓の外に飛び出す。しかし市電に轢かれてしまう。そこへハルムスがやってきて、逮捕され、銃殺される。ハルムスを誘惑した女が窓を開けると天使やハルムスが羽をつけて宙に舞っているがカメラが引くとそれは舞台のセット。

 

こうして映画は終わっていくが、なんともコメントも感想も書きようがない。ギャグなのか真面目に意味のある演出なのかわからないシーンも多々あって、どう解釈したら良いのか、まさに奇想天外な映画だった。

映画感想「FUNNY BUNNY」ファニーバニー

「FUNNY BUNNY」

元が舞台劇なので、展開や間の取り方が舞台劇調になっている感が最後まで抜けきれなかったのは残念ですが、全体のお話としては面白かった。もっと切なくてラストで泣くべき物語なのに、出演者は泣いているが観客はそれに合わせられない感じの演出で締めくくったのは意図したものかどうかわかりませんが、この監督の作品としては中の下くらいの仕上がりでした。監督は飯塚健

 

二人の若者剣持と漆原がタクシーに乗り込みところから映画は始まる。公立図書館へ行ってほしいという依頼に、ものすごい勢いでタクシーを走らせる運転手西門、そのどこか自暴自棄な姿に説教を始める剣持の場面、そして公立図書館に着いて、うさぎの頭を被って降りる二人を運転手が見送る。二人は閉館間近に図書館へ駆け込み、受付の男女を拘束して、本棚に押し込め、何やら、誰も借りれない本を探し始める。

 

場面が一時間ほど前に戻って、漆原と剣持は各日に二十四時間営業する中華飯店のカウンターにいる。そして剣持は学生時代の友人田所の話を始める。場面は校舎の屋上、剣持と田所が話している。田所は最近筋トレを始め、鉄アレイも買ったのだという。そんな田所にバカな会話をする剣持、しかし、実は田所はいじめられていた。剣持は全然気が付かなかったが、ある時田所はいじめっ子らと喧嘩をして、殴られた拍子に死んでしまう。いじめっ子の主犯らは少年院に送られたのだという。

 

一方図書館、拘束された図書館員はたまたま隠れていた利用者に助けられる。三人は新見、遠藤、服部と言った。剣持らは逆に服部らに詰め寄られ、剣持がことの次第を話す。絶対借りられない本に隠された田所の宝、それはおそらく鉄アレイだと判断し、五人でその本を探し始める。そして、夜も明けようとする頃、一冊の本から鉄アレイを発見する。剣持は、この日少年院から出所してくるはずの田所を殺したいじめっ子の主犯に復讐するつもりだった。しかし、そんな剣持を漆原は必死で説得してやめさせる。この辺りの展開が、あまりに舞台劇すぎたのは実に残念です。

 

そして、説得された剣持と後の四人は夜明けの中華飯店へいく。そして時は四年が経つ。この日、剣持を待つ四人は中華飯店にいた。実は剣持は駅のホームで一人の青年が飛び込むのを助けた。彼の名前は菊池と言って、デビュー作だけヒットしたミュージックグループのボーカルだった。菊池は実は服部の知り合いで、という舞台劇らしいノリがカウンターで繰り返される中、剣持は菊池を連れてくる。

 

やがて剣持ら五人と菊池は、冒頭のタクシーに乗って電波ジャックするためにラジオ局へ向かう。そして菊池らのグループの切ない過去が語られていく。菊池らは四人でミュージシャンとしてデビューを夢見ていたが、デビュー間近の時、ボーカルの藤井が交通事故で死んだのだ。ラジオ局についた剣持らは全員ウサギの被り物をして局に突入するが、そこにいたのはかつての菊池のグループのメンバーだった。この後半部分が前半に比べてバイタリティに欠けているので、入り込めない。舞台劇ならこういう力の配分もありなのですが映像だと一つにまとめた方が良かったのではと思います。

 

そしてスタジオに入り、菊池は歌い始めるが、何故か藤井の声が聞こえ始める。絶唱する菊池をミキサー室で見つめる剣持らに涙が溢れていくる。映画はここで物語を締めくくり、中華飯店前でタクシーを待つ剣持と漆原が、来たタクシーに公立図書館までと告げて暗転エンディングとなる。

 

会話の応酬、セリフの間合い、エピソードの流れがいかにも舞台劇調なのですが、それを映像として面白く仕上げられたらよかったけれど映像のリズムに乗せきれず、切ない二つの話の重なりも描ききれなかった感じです。よくセリフを聞いていると、二つのエピソードの共通点が心に訴えかけてくるはずなのですが、そこの部分を軽く流した結果になったのが残念。おそらく舞台で見たら、物凄くいいんじゃないかと思います。

映画感想「椿の庭」「ブータン 山の教室」

「椿の庭」

一見綺麗な映画なのですが、全てを終盤のエピローグでぶち壊してしまった感のある作品でした。語るべきドラマを語れずに最後にダラダラと余計なシーンをいくつも繋いだために、奇妙な間延び感が出たのが本当に残念。結局写真家としては一流ですが、映像作家としては今一歩だったかという感じです。監督はフォトグラファーの上田義彦

 

庭の金魚が死んだので手で掬って椿の花に包んで埋めている場面から映画が始まる。ここに住まいする絹子は、中国?韓国?から帰って来た孫の渚と二人暮らしである。先日夫が亡くなり、四十九日を控えていた。この日無事四十九日を済ませた絹子に娘の陶子は、相続税の支払いなどにこの家を売ることを考えるように絹子に勧める。時の流れを庭の花のショットを多用することで表現し、富司純子の静かな演技と相まって淡々と流れるまるで映像詩のような展開が続く。

 

税理士の紹介で絹子の家を買うという男も見に来て、大切に使いたいと告げる。そんな時、夫の友人が訪ねてくる。絹子もよく知るその男性と一時の昔話に花が咲いたが、その日、庭で絹子は倒れてしまう。医師は大したことはないと言い、薬を処方するが、絹子は渚にも黙って薬を飲まないようにする。

 

次第に弱っていく絹子は、一人の時に身辺の整理を始め、思い出の品を渚や陶子に譲る。冬が近づいた頃、庭で枯葉をはいていた渚が絹子の様子を見ようと室内に入ると絹子は静かに息を引き取っていた。映画はここから非常にくどい展開になる。住むと言っていた家の買い手は何故か家を取り壊し、渚は陶子の一緒に住もうという勧めを断って一人暮らしになる。

 

絹子が死ぬまでは実に美しい映像で淡々と描くのに、死んでからにラストまでがいかにも俗っぽい映像でくどくどと暗転を繰り返す。わざとなのか、映像作りに才能がないのかわからないが、この終盤が実にもったいなかった。

 

ブータン 山の教室」

本当によかった。素朴でよくある話ですが、作り方によってここまで名編になるかというほど綺麗によくできた作品でした。素朴な展開の中に見事に埋め込まれたさりげない配役やエピソードが実に上手いし、なんと言ってもルナナの村の景色が抜群に美しい。余韻を残すラストシーンに涙が止まりませんでした。いい映画でした。監督はパオ・チョニン・ドルジ。

 

ブータンの都会に住む教師をしているウゲンは、ミュージシャンになる夢がありオーストラリアへの渡航を考えている今時の若者である。iPodで音楽を聴き、ギターを弾き、教師の仕事は適当で、ガールフレンドもいて友達もいる。そんな彼に、標高4800メートルの僻地にあるルナナという村の教師として赴任するようにという辞令が出る。冬までのわずかの期間だからと仕方なく引き受けたものの、ガザの町までしか携帯も使えず、そこから八日間かけて村まで行くことになる。

 

ガザからルナナまでラバを引いて連れて行ってくれる村のミチョンという若者とウゲンは村を目指す。どんどん高地へ進む中、子供時代は一面が雪になることもあったが今はなくなったとつぶやくミチョンの言葉に何某か心が揺れるウゲン。そして、最後の峠で、旅の無事を祈り石を積むミチョン達の行動にも興味を持たず先を進むウゲン。そして村まで二時間というあたりまで来ると、村人全員が出迎えてくれた。この旅程で、靴のエピソードが実に心に染み渡るのです。

 

ルナナに着いたものの、当然電気もなく、教室というところも荒れたままで、ウゲンはいきなり村長に、自分では無理だからと帰る準備を頼む。その夜は、与えられた部屋で眠ったウゲンだが、目が覚めると玄関に一人の少女が立っていた。彼女はクラス委員でペムザムという名だという。8時半から授業だが9時になっても先生が来ないから迎えに来たという。ウゲンは仕方なく教室に行き、自己紹介程度のことをするが、あまりに何もないのでその日はお休みにする。

 

結局、前任者の残した教材で授業を始めるウゲン。しかし次第に、子供達を教えることに希望を見出す。村長が帰りの準備ができたと言って来たが、冬までここに残ると告げる。町から教材を送ってもらったりしながら、次第に子供達と親しくなるウゲン。地元でヤクに捧げる歌を歌う少女セデュと知り合う。お互い何かを感じるも、それ以上の進展はなく、ウゲンはセデュからヤクに捧げる歌を習い始める。教室にもヤクを飼うようになる。

 

やがて秋が来て、冬が近づいてくる。オーストリアへの渡航の準備もできたという手紙も届く。ウゲンは去ることを決める。旅立つ日、ペムザムはみんなの気持ちを認めた手紙をウゲンに渡す。セデュも白い布を贈り戻ってくるようにと告げる。村長はずっと歌っていなかったヤクに捧げる歌を朗々と歌って見送る。後ろ髪を引かれるように旅立つウゲンは、最後の峠で自ら旅の無事を祈る。

 

カットが変わるとオーストリアのカフェでギターを弾いて歌うウゲンの姿があった。しかし、ふとポケットにあるオーストリアのパンフレットにメモしたヤクに捧げる歌をとり出し歌い始める。そのまま暗転して映画は終わる。おそらく戻るのかもしれない。しかし、ウゲン自身の夢も今叶いかけているのだ。この余韻のあるラストが見事で、一気に胸が熱くなります。いい映画に出会いました。

 

映画感想「プライベート・パーツ」「ロベルトは今夜」

「プライベート・パーツ」

C級の「サイコ」という感じで、ホラーサスペンスとして楽しめました。あれよあれよと展開するスリリングな怖さがなかなかの一本、少々グロいシーンもあり、変態シーンもありで面白かった。監督はポール・バーテル。

 

あるカップルがベッドでSEXしている場面から映画が始まり、カーテンの向こうに足が見える。SEXしていた女性ジュディがカーテンを開けるとシェリルという友達が覗き見している。怒ったジュディはシェリルを追い出し、シェリルは、叔母マーサの経営するホテルにやってくる。いかにも不気味なホテルについたシェリルはとりあえず数日泊めてもらうことにする。まもなくして、ジュディの彼氏がシェリルを探しにくるがたまたま出会ったムーン牧師に、三階の部屋に来なさいと誘われ行ってみたところ、廊下で首を切られてしまう。なんともショッキングなシーンがいきなりである。

 

シェリルはシャワーを浴びようと風呂場に行くが何やら物音がして見られている気がして寝室に逃げ込む。またしばらくしてジュディも探しにくるが巧みに地下室に誘導され何者かに殺される。全く見えないホラー展開に結構楽しんでいると、実はマーサにはジョージという名の息子がいて、写真を撮るのが趣味である。彼はのぞき穴からシェリルを覗いたり、透明な人形に水を入れて、顔に写真を貼り、自分の血液を注射器で入れて悦に浸るという変態的な趣味の男だった。

 

一方、シェリルは合鍵を作るために街へ行き、そこでジェフという青年と知り合いデートに誘われる。このホテルにはかつてアリスという少女が泊まっていて、突然行方不明になったとジェフが話す。アリスのことばかり言うジェフに愛想をつかしてホテルに戻ったシェリルだが、ジョージがのぞいているのを知って、誘惑し部屋に来るように誘う。

 

ジェフは、シェリルと仲直りするべくホテルにくるがマーサに罵られた挙句、地下のスペースに閉じ込められてしまう。シェリルに誘惑されたジョージはシェリルを自室に招く。ところが、ジョージは注射器を取り出して、自分の血をシェリルに注射しようとして来たので、シェリルはジョージを殴り倒す。そこへマーサが飛び込んで来る。ジョージの胸がはだけてみると、それは女性の体だった。マーサと揉み合ったシェリルはマーサも殴り倒す。

 

そこへ、ジェフが戻ってこないのを心配したジェフの父が警察を連れてやってくる。そして地下室で、首を切られたアリスの死体を発見、さらにジェフを救い出す。全てが解決したかで警察が帰ろうとすると、マーサが兼ねてからいっていたホテルの説明の声が聞こえる。なんとそれは人格が入れ替わったシェリルの姿だった。こうして映画は終わる。

 

シャワーシーンや覗きの趣味など「サイコ」を思わせる場面も散りばめられ、作られた時代を彷彿とさせる作品ですが、それなりに見せ場の連続が面白い映画で、決して駄作という感じではなかった気がしました。

 

「ロベルトは今夜」

いったいこれはなんの映画なんだと言う感じの本当に奇想天外な作品だった。中途半端なエロシーンの連続と、よくわからないような人間関係、さらに突然サイレントになったりとやりたい放題の映画でした。正直ストーリーは把握できていません。監督はピエール・ズッカ。

 

一枚の絵画を酷評しているオクタビアと友人の場面から物語は始まる。どうやらオクタビアの妻がロベルトと言って、彼女をいろんな男と関係させながら、それを覗き見するオクタビアの変態性が物語らしい。

 

中途半端なエロシーンが散りばめられ、縛られたり、男達に弄ばれたりするロベルトだが、一方で男達を手玉にとっている風も見られる。アントワーヌという青年を養子に迎えて、彼も絡めての奇妙なストーリーが展開するが、結局、オクタビアは死んでしまい、ロベルトはアントワーヌとローマに行くことになる。

 

突然1944年というテロップが出て、病院でナチスの将校を看病する看護婦姿のロベルトが出て来て、突然サイレントでやり取りした挙句ナチス将校は連行されていく。この後にエピローグがよくわからず、突然真っ赤な衣装に変わったロベルトがアントワーヌと立っていて映画は終焉に向かう。

 

正直、全然把握できない映画でした。解説できる方いたら是非コメントが欲しいです。