くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「モンソーのパン屋の女の子」「シュザンヌの生き方」「ベレニス」「獅子座」「モンフォーコンの農場」

「モンソーのパン屋の女の子」

「六つの教訓話」シリーズ第一作。女性を追い求めていく一人の男の物語ですが、実は女性はそんな男の姿をずっと見ていたというなんともコミカルな一本、面白かった。監督はエリック・ロメール

 

主人公である私が友人とカフェにいる。いつも気になる一人の女性シルヴィーが脇を通る。友人が声をかけろというが、なかなか踏ん切れないままに、私と友人がシルヴィーとすれ違う絵が繰り返される。ところが、ふとした偶然から私はシルヴィーと肩をぶつけてしまい、思わず声をかわすことになる。まもなくして友人は仕事で離れていくが、なぜかそれからピタリとシルヴィーと会えなくなる私。

 

私は待ち伏せしたり、いそうなところを探したりするが全然出会えず、立ち寄ったお菓子店の店員にちょっかいを出し始める。そしてその店員とデートの約束をし店を出て少しいったところで、杖をついたシルヴィーと再会する。なんと捻挫をしていた。しかも、彼女の部屋はお菓子店の向かいで、いつも私のことを見ていたという。

 

そして私はシルヴィーとデートを約束し向こうへ歩き去って映画は終わる。ニヤリとしてしまうラストシーンで、自分に出会えなくなり苛立っている男を陰から盗み見ていた女性のちょっと小悪魔的な展開が楽しい一本でした。

 

「シュザンヌの生き方」

「六つの教訓話」シリーズ第二作。したたかな女たちの物語に翻弄されていく男たちをユーモラスに描くタッチがとにかく楽しい映画でした。監督はエリック・ロメール

 

主人公のベルトランには何事にも調子良く振る舞うギヨームという友人がいる。ベルトランはソフィーという女性が気になっていて、ギヨームは自宅でやるパーティに呼んで仲を取り持とうと提案する。そこへ一緒にきたのはシュザンヌという女性で、ギヨームがソフィーにかかりきりで話をしているので気が気ではない。ソフィーが先に帰り、ギヨームはようやくシュザンヌの方に近づきシュザンヌを家に泊めてやる。これはギヨームがシュザンヌを落とすための手だった。そんなギヨームを半ば羨ましく思うベルトラン。

 

シュザンヌとギヨーム、ベルトランは一緒に楽しんだりを繰り返すが、女に気の多いギヨームは、次第にシュザンヌから遠ざかる。一方シュザンヌはベルトランに近づいてくる。ちょっとしたお金が入り、裕福になったシュザンヌにベルトランもギヨームも奢ってもらいながら豪遊する。

 

久しぶりにシュザンヌにあったベルトランだが、シュザンヌはタクシー代を貸してほしいという。ギヨームにも借金をしているしソフィーにも頼めないというが、ベルトランは、持っている金を本に隠したままで、財布には手持ちがなかった。そこで、ベルトランはシュザンヌを家に泊めてやることにする。翌朝、シュザンヌは先に帰った後だったが、なんと本に隠していた金がなくなっていた。たまたま、先日もギヨームを招いた事もあった。

 

ベルトランは、シュザンヌの住所を探すが、ソフィーはシュザンヌが結婚することになったというのを聞く。ベルトランの金を獲ったのは誰かはわからないが、女の子を遊び相手に適当に扱っていたつもりのベルトランやギヨームが実は女性から適当にあしらわれていた。となんともユーモアあふれるラストでした。

 

「ベレニス」

エドガー・アラン・ポーの「ベレニス」というテロップと不気味な音の後始まる、まるでサイレント映画のような演出で語る作品。監督はエリック・ロメール

 

私といとこのベレニスは全く性格が違うという説明から映画は幕を開け、ひたすらサイレントでセリフというものはなく、私の一人語りで話が進む。

 

ある時、突然ベレニスは発作を起こして倒れてしまう。しかし私がレコードをかけているうちに彼女は目を覚まし、いつの間にか恋に落ち、結婚をするのだが、実はそれは私の妄想で、気がつくと自分は暗がりの中にいて、ベレニスは発作の後死んでしまったことを知る。という物語。ちょっとシュールでホラーな一本でした。

 

「獅子座」

これはなかなか面白かったです。のちの透明感のある作風とは少し違っての悲惨そのもののストーリーですが、それでも、どこかユーモアを交えた演出はエリック・ロメール映画という感じです。エリック・ロメール監督の長編第一作。

 

一人の電報配達人が颯爽と走っている場面から映画は幕を開ける。かつて著名な音楽家だったが、今や安アパートで暮らすピエールは、電報配達人のベルの音で目が覚める。悪態をつきながら電報を受け取るが、なんとそれは叔母が亡くなり遺産を相続するという内容だった。一気に機嫌を直した彼は友人を呼び、パーティを始める。今住んでいるアパートは、家主が売ってしまったので明日には出ていかなければならなくなるが、ピエールは全く気にしなかった。

 

家でのパーティに飽き足らずモンパルナスに繰り出して大騒ぎをする。夜が明けて、友人たちは帰っていく。そしてバカンスや仕事でパリを離れていく。時は約半月後、ピエールは安ホテルで暮らしていた。叔母がピエールの相続権を剥奪していて、いとこに全ての遺産が行き、ピエールは一文なしになったのだ。ピエールは、友人を頼って街を彷徨うが、誰もがバカンスに出かけていたり、仕事で出張していない。みるみる日々の生活、食事さえもなくなる。服はボロボロになり、靴は破れ、食べ物を盗もうとして追い返され、拾い食いをしながらどんどん落ちていく。ところが、ここに調子のいいホームレスと出会い、相棒を組んでなんとか生きていけるようになる。時は約一ヶ月以上が過ぎていた。

 

バカンスや出張に行っていたピエールの友人たちが戻ってくる。そんな頃、遺産を相続したピエールのいとこは車の事故で死んでしまう。ピエールの友人たちは、ピエールが遺産を全て相続することになったことを知るが行方がわからない。一方ピエールは相棒のホームレスと、観光客らに恵んでもらいながら生きていた。たまたま立ち寄ったところでいつものように調子のいいトークで金を恵んでもらおうとしていて、傍に来た流しのバイオリン弾きを見つけたピエールは、そのバイオリンをとって軽く弾く。その音をたまたまその店にいたピエールの友人が聞き、ホームレス姿のピエールを見つける。

 

ピエールが堕ちてしまった自分を嘆いていると、友人が駆けつけ、ピエールが遺産を相続したことを知らせる。歓喜するピエールは友人の車で去って映画は終わる。

 

なんとも皮肉の効いた作品で、みるみる落ちぶれていくピエールの姿の描写が恐ろしくリアルなので、この先が予想できない。そこを逆手にとってのどんでん返しと冒頭のシーンにつながるようなエンディングがなんともコミカルで見事。なかなか面白い映画でした。

 

「モンフォーコンの農場」

近代化が進んでくるモンフォーコンの農場に嫁いだかつては教師だった一人の女性の短編映像。監督はエリック・ロメール

映画感想「ペトルーニャに祝福を」「クレールの膝」「ある現代の女子学生」

ペトルーニャに祝福を」

面白い映画なのですが、結局、どこへも落ち着かずに映画が終わって行くので、消化不良のままでエンディングを迎えてしまいました。もう少し、映像からいろいろ感じ取らなければいけないのかとも思うのですが、理解が及びませんでした。監督はテオナ・ストゥルガル・ミテフスカ。

 

水のないプールの中、一人の女ペトルーニャのカットと派手な音響、暗転してタイトルから、ベッドで目覚めたペトルーニャに母が朝食を差し入れる場面へ移って映画は始まる。この日、仕事の面接がある。北マケドニア、シュティブという小さな街に住む32歳のペトルーニャは、大学を出たものの仕事がなく、いまだにウェイトレスしかしたことがない。美人でもなく太めの体型で、この日の面接でもセクハラまがいの態度で臨まれ不採用となる。

 

帰り道、地元の伝統儀式に巻き込まれてしまう。その儀式とは司祭が川に投げ入れた十字架を男たちが奪い合い、手に入れた者には幸せが訪れるという者だった。たまたま橋の下で眺めていたペトルーニャは、十字架が流れてきたので思わず飛び込み手に入れてしまう。司祭も彼女が取ったことを認め、動画にも撮られ周知の事実となるが男たちが黙っていないで、大騒ぎとなる。やがて警察がペトルーニャの家まで来て彼女を警察署に連れて行く。さらに地元のリポーターも彼女を取材すべく行動する。

 

警察署長も司祭もどんどん騒ぎが大きくなる上に、ペトルーニャは十字架に固執するので困り果てて行く。なんとか穏便に返却させようとするがペトルーニャもそれに応じない。やがて男たちは暴徒となって警察署に押しかけ、ペトルーニャは自宅に帰る事もできなくなる。警察署長は巧みにペトルーニャから十字架を取り上げ署の金庫へ入れ、検事を呼ぶ。検事もなぜ呼ばれたかわからないままにペトルーニャと話すが、十字架は署長にとられたと話す。そして、署長は十字架をペトルーニャに返し、帰宅を許す。一緒に出てきた司祭にペトルーニャは十字架を返し、そのまま帰っていって映画は終わる。

 

終盤のたたみかけるような唐突な展開にあっけに取られるし、あの熱心なリポーターについてはあのあと言及されないし、熱心な信者でもあった母などについても尻切れで、ペトルーニャの世話をしていた若い警官とペトルーニャとの握手に何がしかの希望は見られるものの、ちょっとラストがあっけなさすぎて戸惑ってしまいました。

 

クレールの膝

大人たちと少女たちの恋愛ごっこのような展開が、独特の会話の応酬とネストール・アルメンドロスの美しいカメラで描かれて行く透明感あふれる作品でした。「六つの教訓話」の第五話です。監督はエリック・ロメール

 

結婚を控えた中年のジェロームは少年時代を過ごした避暑地アヌシーを訪れ、旧友で女性作家のオーロラと再会して映画は始まる。淡いブルーとレッドの色彩を中心にした画面作りが美しい。オーロラが仕事部屋を借りているボルテール夫人の家を訪ねた際、夫人の娘ローラと出会う。

 

ローラはまだ10代の少女だが大人のジェロームに父親に抱くような不思議な愛情を感じる。そんな気持ちを察するジェロームは、オーロラの次回作のネタにと誘惑してみようと提案する。ローラにはボーイフレンドはいたがローラにとっては物足りなかった。ジェロームは、ローラと親しくするうちに、さりげなくキスをしてみたりするがローラは決して拒絶することはなかった。

 

そんな時、ローラの姉クレールが恋人のジルを伴って現れる。ジェロームは、まだまだ成熟しきっていないもののみずみずしいほどの魅力のあるクレールに惹かれる。特に、クレールの膝に心奪われてしまう。ジェロームは、クレールにも感情を向けるが、クレールの心はジルから離れることはなかった。

 

映画は、ジェロームのクレールへの想いやローラとの関係をオーロラと話しながら、ジェロームが行う行動を、一日単位で短いシーンを重ねて描いていきます。クレールの恋人ジルがクレール以外の女性とキスしているところをたまたま見かけたジェロームは、ある時、クレールをボートに乗せてアヌシーへ向かう途中雨に降られ雨宿りした所で教える。そして、泣くクレールの膝を優しく撫でる。

 

やがて一ヶ月がたち、ジェロームが帰る日が来る。前夜、オーロラにクレールとの経緯などを話し、やがてボートで去っていく。その後、ジルがクレールの元を訪れ、ジェロームが見かけたミュリエルという女性とのことを正直に話し、クレールを優しく抱き寄せキスをする。その姿をじっと見つめるオーロラのカットで映画は終わる。

 

ジェロームが作り出していく小説のネタのような物語と、現実の少年少女たちの恋愛模様の微妙なズレを描いていく作品で、会話劇が中心になるエリック・ロメールらしい作品。淡々とした会話劇なので、しんどいところもありますが、少女たちの瑞々しさで最後まで見ることができます。透明感あふれる作品でした。

 

「ある現代の女子学生」

一人の女子学生を追っていく感じの記録映画的なショートフィルムでした。監督はエリック・ロメール

映画感想「フラワーズ・オブ・シャンハイ」「ハウス・イン・ザ・フィールズ」

「フラワーズ・オブ・シャンハイ」

リー・ピン・ピンの美しいカメラとワンシーンワンカットと暗転を繰り返す映像に陶酔感を覚えてしまうけれど、上海の高級遊郭での人間模様のドラマにいつの間にか引き込まれていきました。監督は侯孝賢(ホウ・シャオシェン)

 

19世紀末の清朝末期、上海にあるイギリス租界にあった高級遊郭、この日も男たちは食卓を囲み、周りに妓女を侍らせて歓談をしている場面から映画は幕を開ける。じゃんけんをしては酒を飲むという遊びに夢中になる男たち。アヘンを吸い、そこには退廃的な空気感さえ漂う。赤い蝋燭の灯に映し出される景色をカメラがゆっくりと右に左に移動しながらワンカットで捉えて行く。

 

映画は、ほとんどワンシーンワンカットで、遊郭の中で展開する人間模様を繰り返し繰り返し描いて行く。王という男は小紅という女をいずれは見受けしようと通うが、裏切られ、別の女を娶ることになるものの、結局その女にも裏切られるという顛末を迎える。別の男は一人の女と夫婦になると約束、その女は万が一夫婦になれなければ心中すると言った男の言葉を信じ、心中未遂を犯してしまう。等々の男と女の官能的な物語を散りばめながら、阿片を常用する退廃的な遊郭の姿を描いて行く。

 

特に、筋の通った一本の物語はない様々な人間模様という展開で映画は終わって行く。美しい光の演出と遊郭の中から一切外に出ない閉鎖空間のみの物語を徹底した世界は、不思議なくらいにこの時代の中国の一ページを映し出してくれます。人物の名前についていけないところもありましたが、なかなか見応えのある映画でした。

 

「ハウス・イン・ザ・フィールズ」

これは本当によかった。元来ドキュメンタリーは見ないのですが、内容に惹かれて見に来ました。この作品は、モロッコに住むある姉妹の一年足らずをまるで普通のドラマ映画のように見せて行く映画です。しかも、カメラアングルが素晴らしい上に、挿入されるインサートカットとのバランスが映像にストーリーを生み出して行く。本当にドキュメンタリーなのかと思うほどの見事な映画でした。監督はタラ・ハディド。

 

ロッコの民族楽器でしょうか、弦楽器を弾く男性の姿から映画は幕を開けて暗転してタイトル、続いて冬というテロップが出て映画は始まる。モロッコの山深い村、ここに住むアマジグ族は数百年昔ながらの生活と風習を守って暮らしている。ここに住む、ガディジャの姉ファティマは19歳になり、間も無く結婚で嫁ぐことが義務付けられていた。仲の良い姉妹で、何かにつけ語り合ったりする二人。ガディジャは頭がいいので父は学校へ行かそうと思っている。ガディジャはテレビで、モロッコ政府が男女平等を謳った法律を作ったと友人に語るが、友人には別世界のことにしか聞こえない。ガディジャは、将来街に出て弁護士になる夢を持っていた。

 

映画は、冬に始まり、春、夏と移って行く。ガディジャとファティマの日常を捉えるカメラと一方で、次第に近代がこの村にも押し寄せ、村の若者も、街に出て働くことを夢見る言葉も聞こえてくる。そして、夏、ファティマの婚礼の儀式が盛大に行われる。今まで慎ましやかで自然に囲まれた感のあった画面は一気に賑やかに彩られる。しかしそんな姉を見ながら一人残るガディジャの寂しげな姿も描かれる。

そして、山間に佇むガディジャがフレームアウトし、間も無く訪れる秋を予感させるような枯れ始めた木々が画面に浮かび上がって映画は終わる。

 

映像が物語を生み出して行く展開が本当に引き込まれるほどに素晴らしいし、ファティマとガディジャが語り合う場面はドキュメンタリーと思えないほどに自然にセリフの応酬に見えてしまう。見てよかったと思える一本でした。

映画感想「海辺の金魚」「幸せの答え合わせ」「シンプルな情熱」

「海辺の金魚」

小品ですが、淡々と流れるストーリーと、丁寧な映像作りが好感の一本。花と晴海を演じた二人がとっても透明感があったのが良かった。監督は小川紗良。

 

浜辺で叫ぶ花の姿からタイトル、そして海辺に立つ養護施設へ移って映画は始まる。今日、新しく晴海という女の子がやってきたが、なかなか打ち解けない。そんな彼女が気になる花。花はこの日18歳の誕生日だった。なかなか打ち解けない晴海に花が関わるうちに、晴海の背中に虐待の跡を見つける。

 

次第に心を通わせ、花を慕うようになる晴海。ある時、一時帰宅で晴海は帰ったが、なぜか、延長になって、決めた日に施設にもどって来なかった。不審に思った花は資料から晴海の家を見つけ、迎えに行き二人で浜辺の船の中に隠れる。しかし見つかってしまい、晴海は児童相談所へ、花は施設に戻される。

 

途方に暮れる花は、金魚鉢から金魚を掬い海に放してやる。そこへ、晴海が帰ってきて二人は抱き合って映画は終わる。非常にシンプルで素朴な映画ですが、何気ない心の動きを丁寧に演出した手腕は評価できます。花の過去をさりげなくさらりと流し物語に色合いを含ませたのも良かった。一時間余りの小品ですが、良質の作品でした。

 

「幸せの答え合わせ」

しっかりした構図と絵作りの美しさ、さらに芸達者二人の熱演と、踏み込んだ演出はなかなかの逸品でしたが、どう見ても、妻のグレースに共感できず、エドワードばかりを悪者にしたような視点が気になったのは私だけでしょうか。監督はウィリアム・ニコルソン

 

浜辺で、幼い頃の息子のジェイミーを見つめるグレースのシーンからシーンが変わる。グレースとエドワードは29年寄り添った夫婦で、この日もいつものようにエドワードが朝食の準備をしている。グレースは、何かにつけエドワードに食ってかかり、言葉を交わしたいと迫る。エドワードは息子のジェイミーを招く。ジェイミーはここしばらく実家に戻っていなかった。

 

ジェイミーが来た夜、グレースはいつものようにエドワードに責め寄り、逃げるように部屋に行ったエドワードを見るにつけ、テーブルをひっくり返して切れてしまう。どう考えてもうるさすぎる妻にしか見えない。そんな母をいたわるジェイミー。

 

翌朝、エドワードはジェイミーに、グレースと別れるつもりだと告げる。そして、ジェイミーが席を外している間にエドワードはグレースに別れようと告げるが、執拗に食い下がり破綻を防ごうとするグレース。あれだけ夫を責めておきながら、なんとも勝手な女だという印象から物語は本編へ。

 

エドワードには一年前から愛し合ったアンジェラという女性がいた。そのことも聞いたグレースだが、なんとか修復する義務があるとさらに責めるが、エドワードは黙って家を出て行く。ジェイミーはグレースを気にして週末には顔を出すようになる。

 

やがて、財産分与なども含め書類がグレースに届くが、エドワードと一緒にサインすべきものだと食い下がる。さらに、犬を飼って、エドワードと名前をつける。そんな母を心配するジェイミー。

 

グレースはエドワードと同席して弁護士のところへ呼ばれるも結局サインすることなくもの別れに終わる。グレースはアンジェラの家に押しかけ、エドワードに迫るが結局アンジェラに説き伏せられて、その家を後にする。エドワードは後を追いかけ、友達として付き合うかというがそれを拒否するグレース。心配するジェイミーがグレースを抱きしめるて映画は終わっていきますが、どう考えても、グレースの方が非があるように見えてしまう。何かにつけキリスト教の宗教観を持ち出したりするグレースの存在がかなりくどいし、アンジェラの家に押しかけるところはサイコパスのレベルになっているように見える。

 

シンメトリーな構図や美しいカットも多用した作品なのですが、どうも、私には好みの映画ではありませんでした。

 

「シンプルな情熱」

一人の男にのめり込み、息子も仕事も投げ打ってひたすらSEXしてもらいたいと溺れる人妻のなんとも淫乱な映画という感じでしたが、これを純粋なラブストーリーと捉えるだけの余裕はない。ひたすら濡場の連続には流石に参りました。監督はダニエル・アービッド。

 

一人の女性エレーヌの顔のアップから、思い出のホテルについてつぶやく場面から映画は始まり、あとはひたすらエレーヌとロシア人のアレクサンドルとのSEXシーンが繰り返される。ポールという子供がいるにもかかわらず、アレクサンドルからの連絡を最優先にするエレーヌ。物語はとにかくシンプルにSEXシーンの連続。

 

大学の教師であるエレーヌは、授業中でもアレクサンドルからの連絡を待ち、仕事中もポールの事も後回しにする日々。アレクサンドルが仕事でエレーヌのところに来ない時間があると、イライラして普通で無くなって行くエレーヌ。

 

ある時からアレクサンドルからの連絡が完全に途切れ、精神的にも参ったエレーヌはポールの事もできなくなり、元夫が迎えにくる。仕事を休み、ロシアまで探しに行くが、結局アレクサンドルに会えない。そして八ヶ月がたち、ポールとエレーヌが普通の生活をしていたが、突然アレクサンドルから連絡が入り、エレーヌはポールを友人のところへ追いやり、アレクサンドルを自宅に引き込みSEX、そして、アレクサンドルのホテルに送ったエレーヌはこれを最後にと決心する。

 

と、綺麗なラブストーリーのつもりで作ったのだろうが、尻軽女エレーヌの淫乱な恋にしか見えないのがなんとも残念な映画でした。

映画感想「ブラック・ウィドウ」

「ブラック・ウィドウ」

大作だからといって二時間超えなくてもいいじゃないのと思うような作りの映画で、後半こそ派手なアクションのCG映像満載になるけど、それまではやたらこれまでの経緯や蘊蓄を静止した場面で描くので、正直退屈。二時間弱の尺でもうちょっと前半を手際良く処理すれば最も面白かった気もするし、肝心のクライマックスのあっという作戦の爽快さも今ひとつない上に、悪役のウィドウが意外に普通だったり、あっけなく空中要塞も落下してしまったりと、ちょっと終盤も雑な作りが目立った映画でした。監督はケイト・ショートランド

 

姉ナターシャと妹エレーナ、その両親の和やかなシーンから映画は幕を開ける。突然襲いかかってきた政府の兵士たちを見て、時は来たと突然脱出、飛行機に飛び乗って窮地を逃れる。そしてタイトルの中で、ナターシャとエレーナが、何やら研究施設に拉致されて戦士に変わって行く映像が流れる。

 

時が経ち、暗殺者となったエレーナは、あるミッションで、自分たちを洗脳している何かから覚醒させるガスを浴び、レッドルームという秘密組織の存在を知る。そして、偽りの家族を頼る中、姉ナターシャと再会する。そして、父として慕ったレッドガーディアンを刑務者から救出し、母としていたメリーナの元へ向かう。

 

レッドルームの首謀者ドレイコフは、孤児の女の子を戦士として育て、洗脳して世界中にばら撒いて、全ての組織を自在に操ろうとしていた。ナターシャたちはわざとレッドルームに拉致されることでレッドルームのアジトに潜入。そこは空中に浮かぶ要塞だった。さらにドレイコフに近づくため、メリーナとナターシャは姿を入れ替え接近、一方エレーナは覚醒させるためのガスを要塞内で拡散する作戦を進める。そこへ、かつてナターシャのミッションで殺してしまったと思っていたドレイコフの娘で、今や最強の戦士となった女性が立ちはだかる。

 

しかし、意外にあっさりと無力化し、さらにこちらもあっさりと要塞は落下を始めて、ドレイコフもすんなり死んでしまい、あとは落下する要塞からの脱出劇と、洗脳から目覚めた戦士たちとのハッピーエンドで物語は終わって行く。

 

エンドクレジットの後のエピローグで、姉ナターシャの墓にやってきたエレーナの姿で、姉を殺したのはこの男ホークアイだとメリーナが教える場面でエンディング。

前半はしんどく、後半は程よい見せ場、まあ、今更この程度のCGでは目新しさもなく、普通の娯楽映画でした。

映画感想「東京リベンジャーズ」(実写版)「ライトハウス」

「東京リベンジャーズ」

面白いわけでもなく、つまらないわけでもない映画。原作があるので仕方ないところもありますが、もうちょっと物語を整理した方が良かったのと、主演のはずの北村匠海が主演に見えないほどの存在感のなさは演技力の弱さゆえか、吉沢亮山田裕貴の存在感が際立ったためかわかりませんが、主人公が物語を牽引できていないのでやたらだらだら感が出てしまった。監督は英勉

 

一人のヤクザが半グレグループの車に轢き殺されるところから映画は始まる。ダメフリーターの武道は、ある日ニュースで、かつての唯一の彼女日向と弟ナオトが暴力団と半グレの抗争に巻き込まれ死んだというニュースを知る。何事にも謝るばかりで、生活の至る所でくだらない毎日を送る主人公武道は、地下鉄のホームから突き落とされ、列車にあわや曳かれるという瞬間に10年前にタイムスリップしてしまう。といっても10年前も彼の存在は、何かにつけ謝るばかり。仲間達と連みながらも、この日、喧嘩に行くことになっていた。そこで不良グループにコテンパンにやられ、公園で転がっている武道は日向の弟ナオトがいじめられている現場に出くわす。なんとか武道はナオトを助けるが握手した途端現代へ戻る。

 

現代に戻った武道はそこで今や刑事になったナオトと出会う。そして、過去を変えることで姉日向を助けたいと申し出る。日向を助けるためには、東京卍会のリーダー佐野と稀咲という男が出会わないようにすればいいとナオトは武道に告げ武道は再度10年前へ。そこで、ひょんなことから佐野と知り合い友達になってしまう。佐野には龍宮寺という相棒がいて、お互い昔ながらの不良として生きようと理想を追い求めていた。佐野と知り合う中で、暴力団との抗争に発展する原因は他にあると思った武道は再び現代へ戻る。

 

佐野が変わった原因は、相棒だった龍宮寺の死によることがわかった武道は再度10年前に戻り、東京卍会とメビウスという不良グループとの抗争で龍宮寺が死んだことがわかり、止めようとするが既に喧嘩は始まってしまう。しかしその場は東京卍会の圧勝でなんとか収まったのだが、実はメビウスのメンバーは根に持っていて、密かに龍宮寺を殺そうと画策を始める。そして、一人呼び出された龍宮寺は、メビウスのメンバーと死闘を開始、そこへ駆けつけた佐野らとの大乱闘となるが龍宮寺はナイフで刺されてしまう。

 

武道は龍宮寺を抱えて救急車を呼びに飛び出すが、目の前にかつて彼と喧嘩した将貴が立ち塞がる。武道は必死の思いで将貴を倒し、龍宮寺は病院へ行き、一命を取り留める。現代に戻った武道は日向のマンションへ向かう。出迎えたのは、日向の無事な姿だった。こうして映画は終わる。

 

三枚目的な武道のドタバタが今ひとつ面白みに欠け、一方佐野や龍宮寺の活躍の方が映画として面白いために、肝心のタイムスリップする武道の奔走する姿が際立ってこない。さらに稀咲という存在や、武道の友人の行く末のエピソードなどもおざなりのままになる。行きつ戻りつの面白さが醍醐味なのだろうが、刑事になったナオトの役割も全く物語に色合いを生み出してこないし、結局アイドル映画なのだが、中心の話が浮き上がらなかったのと脇役が全て適当に流してしまったために全体がだらだら見えてしまった感じでした。

 

ライトハウス

ほぼ正方形というフレームでしかもモノクロフィルム撮影、光と影の多様、シンメトリーな構図、ロバート・パティンソンウィレム・デフォーの鬼気迫る演技、ギリシャ神話の物語を引用した台詞の数々、どれもこれもが狂気の世界、その中で描く、閉じ込められた空間で次第に狂って行く二人の現実とも幻想とも言えないドラマ、一度見ただけではその真価も、その物語さえも把握できない世界に圧倒されると共に、疲れ切ってしまいました。傑作なのかもしれませんが、参りました。監督はロバート・エガース。

 

遠くに聞こえる汽笛でしょうか不気味に繰り返される音、カモメの声、荒れ狂う波の咆哮、その中で霧の彼方から船に乗った二人の灯台守が浮かび上がる。これから約四週間、孤島の灯台を守るべくベテランのトーマスと木こりだったが報酬に惹かれてやってきた新米のウィンスローが赴任してきた。こうして映画は幕を開ける。画面のフレームは1.19:1というほぼ正方形のサイズである。そのサイズが異様な緊張感を生み出す。

 

何かにつけ奴隷のようにウィンスローをこき使うトーマス、しかもトーマスは灯室にウィンスローを決して入れず、ここは俺のものだとトーマスは豪語する。平気で屁をこき、ウィンスローの仕事にケチをつけてはやり直させる。ウィンスローは、今にもキレそうになりながらも言われるままにトーマスに従う。禁止されている酒を平気で飲むトーマス。ウィンスローの前に片目のカモメがやたら現れる。カモメを殺したら不吉なことが起こると忠告するトーマス。ウィンスローは、浜辺に打ち上げられる死体を見つける悪夢を見る。ベッド脇にある女神の人形をポケットに入れる。ウィンスローは、トーマスからの仕打ちに苛立ち、カモメにあたり殺してしまう。

 

やがて、四週間が過ぎて、視察船がやってくる日が翌日に迫り、今までは規則を守っていたウィンスローもトーマスと酒盛りをして酔い潰れる。ところが、翌日、嵐が近づいてきて船が来ないことがわかる。嵐に備え、宿舎の窓に板を貼る。ウィンスローは再び作業を続けるが、岸壁に女の死体を見つけ近づくとそれは人魚で、ウィンスローを襲ってくるがそれも幻想だった。灯室のトーマスを覗きに行き、それは人間ではない姿を見つけるウィンスロー。ポケットの人形と幻覚で見た人魚を思い出しては自慰に耽るウィンスロー。非常食が埋めてあるからとトーマスの言うところを掘り起こすと、そこにあった箱には酒しか入っていなかった。

 

酒を飲むしかない二人は次第に狂気へと変わって行く。しかも、ウィンスローの本名はトーマスという名だと告白、トーマスとウィンスローに、お前は自分だと叫ぶ。嵐はさらにひどくなり、とうとう窓を破り波が襲いかかる。ウィンスローは逃げ出そうと脱出ボートを出してくるがトーマスに壊されてしまう。浸水した室内でウィンスローはトーマスの日誌を見つける。そこには、ウィンスローの勤務状況が書かれていたが、どれもこれもひどい内容だった。ウィンスローはトーマスに襲いかかり、トーマスも応戦するが歳に勝てず、犬のようにされてしまう。

 

首に縄をかけられたトーマスはウィンスローに引き出され、非常食を埋めていた穴に放り込まれ埋められる。そして、灯室の鍵をとったウィンスローは、灯台に戻るが、トーマスが襲いかかる。ウィンスローはトーマスを返り討ちにして殺し、灯室へと向かう。そして、ランプのレンズを開くがその眩しさからか階段を転げ落ちてしまう。

 

岸壁の上に横たわるウィンスローの死体にカモメが群がり、肉をついばんでいる。解説によるとプロメテウスの末路と同じ表現らしいが、さすがにそんな教養はないので後から理解した。

 

モノクロフィルムの独特の色合い、大量の光源を必要とする撮影、構図へのこだわり、ギリシャ神話の引用、鬼気迫る演技合戦、どこをとってもとにかく圧倒される映画でした。これを傑作と表現して良いものかどうかは自分の尺度では難しいですが、もう一度見に行きたいと思わせる作品でした。

映画感想「ベル・エポックでもう一度」「スーパーノヴァ」

ベル・エポックでもう一度」

ファンタジックな物語で、先は大体読めるのですが、役者たちの味のある演技が最後まで映画を引っ張ってくれました。少々オープニングあたりのカット割が細か過ぎて騒々しく見えてしまいましたが、ラストはほんのり感動させてくれました。いい映画でした。監督はニコラ・ブドス。

 

かつてイラストレーターだったが、今時のデジタルの世界に馴染めず、この日も友人との食事の場で今時の会話に退屈して出てしまう。そんな夫ヴィクトルに愛想をつかし始めた妻のマリアンヌは、ある時思い切り悪女を演じてヴィクトルを追い出してしまう。そんな頃、ヴィクトルの後を継いでデザインの会社をしている息子は、父にもう一度人生を取り戻してもらいたく友人のアントワーヌがしている、過去の思い出を再現する時の旅人社に父の願いを叶えるべくプレゼントする。

 

映画の冒頭、アントワーヌが運営する時の旅人社の事業で、この日、マリー・アントワネットの時代を再現する場面が描かれ、細かいカット割で描写して行くオープニングにまず翻弄される。アントワーヌは早速、ヴィクトルの希望の時間を聴取するが、それは1974年5月、ヴィクトルが、若き日のマリアンヌと出会ったベル・エポックの店だった。

 

当時を再現する中で、マリアンヌ役のマルゴが現れる。ヴィクトルは、役者であると知りつつ、次第に惹かれて行くのだが、一方でマルゴにはアントワーヌという恋人がいる。舞台裏で指示しながらも嫉妬してしまうアントワーヌの姿と、懐かしい妻への想いに自分を取り戻して行くヴィクトル。ヴィクトルは、自分で当時のイラストを描き、それをアントワーヌに渡して再編してもらっていた。しかし、契約の一日はあっという間に終わる。ヴィクトルは息子に頼んでさらに二日追加するが、ヴィクトルとマルゴは演技以上の気持ちが昂って行く。

 

この後映画は、架空の世界か、現実の世界かわからないように、時の旅人社のセットの中も行き来するように展開、マルゴの部屋にやってくるヴィクトルの場面になって行く。一方マリアンヌは、ヴィクトルの友人でもあるフランソワという恋人とベッドにいた。マルゴを愛するアントワーヌは、ヴィクトルに嫉妬し、役者を変えてしまうが、ヴィクトルは、マルゴの家を探し当てる。そこには夫と子供のいる家庭があったが、それもまたアントワーヌが作り上げた架空の世界だった。

 

一方、マリアンヌは、次第にヴィクトルへの思いを再確認し始め、時の旅人社にあの日の思い出を再現してもらう。ベル・エポックで待っているヴィクトルのところへ、今度は本物のマリアンヌが現れ、あの日と同じ会話をし、店を出て行く。こうして、ヴィクトルとマリアンヌもまた恋人同士に戻り映画は終わって行く。エピローグで、マルゴとアントワーヌの結婚式の場面で映画は終わっていきます。

 

非常にカット割が細かくて、フランス語の応酬に最初は戸惑ってしまうほど騒々しかったのですが、次第に流れが掴めてくると、ほんのりファンタジックな雰囲気に呑まれていきました。傑作というものではないけれど素敵な映画だったと思います。

 

スーパーノヴァ

淡々と流れて行く二人のカップルのドラマ。別れという悲しみに突き進んでいくだけの物悲しい映画ですが、コリン・ファーススタンリー・トゥッチの見事な演技力でぐいぐいと引き込まれていきました。これがゲイの映画でなかったらもっと素直に楽しめたかもしれませんが、なかなかの秀作でした。監督はハリー・マックィーン。

 

ベッドで裸の男性、サムとタスカーのカットから映画は幕を開けます。明らかにゲイカップルの二人は、キャンピングカーに乗ってどこかへ向かっている。作家でもあるタスカーは、不治の病らしく、有名なピアニストのサムのために、タスカーは演奏会を勝手に企画して会場へ向かっているらしいことがわかる。

 

美しいイングランドの風景を背景に、二人の最後の旅の物語が淡々と描かれていきます。サムの姉夫婦の家に立ち寄り、集まってくれた友人たちとパーティを開く。ふと一人サムがキャンピングカーに戻り、タスカーがいつも手元に置いている箱の中を見る。そこには、小説の下書きなどを書いたノートがあり、次第に文字がおぼつかなくなって、しまいには白紙になっているのを発見し涙する。その箱の中に、何やら薬らしいものを発見、さらに小さなカセットテープも見つける。

 

後日、サムはタスカーに、車の中で見つけたテープについて問いつめる。それは、まともな間に自殺をするというのを録音したタスカーの遺言の言葉だった。サムは、最後まで一緒にいたいと懇願する。二人のあまりにも切ない会話の応酬が延々と続き、イングランドの景色を窓の外に写した背景の前で立つ二人のカットで暗転、サムがピアノを弾く場面になって映画は終わっていきます。

 

別れへ向かうだけの切ない映画ですが、広がる緑の景色や、暖かい姉夫婦や友人の会話に救われながらラストまで見入ってしまいます。凝ったテクニックもなく、丁寧なカメラワークと演出で描いて行く二人のカップルの物語に、いつに間にか熱いものを感じてしまいます。良質の作品というイメージに素敵な映画でした。