くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「プリズナーズ・オブ・ゴーストランド」

プリズナーズ・オブ・ゴーストランド」

趣味の悪いサイケデリックな色彩映像と無駄に仰々しいセット、日本人を馬鹿にしたような遊び感、何でもかんでも言葉にして説明する安っぽい台詞、全く園子温監督の自己満足にしか見えない映画だった。シュールな中に観客に見せたいものが感じられれば良かったが、そこが全くなかった。園子温どうした?という感じです。

 

いきなり安っぽい銀行に押し入る主人公のヒーローとその相棒。意味不明な男の子が飴を差し出し、その少年を撃つのかどうかという場面でタイトルから一気に遊郭の派手な場面へ。裏社会を牛耳る風なガバナーという全然カリスマ性にない小物の悪党が登場し、どうやら女たちをはべらして勢力があるらしいが、全然そうは見えず。ところが彼は刑務所にいるヒーローを連れ出して、ガバナーから逃げ出したバーニスという女を散れ戻すように依頼。ヒーローの体中に、センサーで爆発する仕掛けとタイムリミットを設定するというSF的な色合いから、それほど強そうでもないヒーローは素直にそのミッションを受ける。

 

一方バーニスという女は、なにやら囚われの身で声を出せなくなるほど衰弱している。ヒーローはあっさりと彼女を救い出すが声が出ないので、センサーに話しかけられず、バーニスに悪さをする気もないのにしたようになって睾丸が爆発する。バーニスはゴーストランドという貧民街のようなところにやってきて、自分を助けてくれたのはヒーローだと宣言、ヒーローもその気になって、ガバナーの圧政に苦しむゴーストランドの人々とガバナーの本拠地の遊郭へ乗り込むのですが、なんともおざなりというか適当な流れ。

 

で、ガバナーは退治され、ゴーストランドの人たちも自由になり、ハッピーエンドの幕切れなのですが、アクションシーンも殺陣シーンも細かいカットで誤魔化してるし、悪役たちも全然悪役感がないし、それより、ガバナーが普通すぎて、全体のキャラクターがウダウダでした。一体園子温は何をしたかったのだろうという映画だった。

映画感想「由宇子の天秤」「カラミティ」

「由宇子の天秤」

映画としては傑作でした。ストーリーの構成、深く踏み込んだテーマ、そしてサスペンスのような展開、見事ではありますが、いかんせん

重いし、暗い、希望が見えないラストも辛い。監督は春本雄二郎。

 

一人の男性がリコーダーを吹いていて、彼をカメラが捉えている。傍にいるのはドキュメンタリー作家の由宇子である。取材しているのは3年前いじめで自殺した女子高生の父長谷部だった。取材が大詰めとなり、女子高生と男女の関係があったと騒がれ自殺した矢野先生の母親や妻との取材のアポも進む中、番組完成は大詰めだった。

 

由宇子は、塾を経営する父政志と二人三脚で、塾の講師も掛け持っていた。この日も生徒達に慕われながら塾で教える。昼はドキュメンタリー作家として真実を追い続け、この日、矢野先生の母と娘とのインタビューを終える。さらにその母の希望で、母が一人住まいするアパートへ取材に向かう。そこで見たのは、警察の捜査以上にネットなどの中傷で居場所を失った厳しい現実があった。矢野先生と女子高生との関係は全くの嘘で、何もかもが作り上げられた物だった。由宇子は、先生の妻のところへ行き、そこで娘が学校でいじめられている現実も知る。

 

そんな頃、父の塾で、一人の生徒小畑萌が倒れる。由宇子が彼女から妊娠していることを聞かされ、しかもその相手は政志だと打ち明けられる。病院へ連れていくべく萌の家にやってきた由宇子は、ガスも止められどん底の生活をしてる萌の家を見る。そこへ萌の父哲也も帰って来る。哲也は気はいいが不器用で収入がギリギリだった。

 

塾に戻った由宇子は、政志に詰め寄り白状させるが、対処を考えていた。正直に申し出るという政志に、ネットやマスコミの暴力で悲惨な状況になった家族を目の当たりにしてきた由宇子には、法律以上の恐怖を感じていたのだ。由宇子は知り合いの小林医師に相談し堕胎処理を依頼する。そして、萌の家に頻繁に出入りするようになった由宇子は、萌の勉強を見たり、ガス代を払ったりし、心を閉ざしていた萌は由宇子に親しみを感じ始め、哲也共々、束の間の幸せを感じる。ところが、小林に検査してもらった萌は子宮外妊娠の可能性もあり、小林は病院で処置しないと無理だと告げる。

 

観念した由宇子と政志は全てを明らかにする決断を迫られるが、由宇子が取材したドキュメントが完成し、放送まで二週間と迫っていた。ここで由宇子の周辺でスキャンダルが起こると放送が中止になる危険もあり、それは避けたかった。苦悩する由宇子は、哲也にもらった映画のチケットで萌と一緒に出かけるべく迎えにいくが、そこで、萌の家から出てきた塾の男子生徒と出会う。その彼がいうには、萌は体を売っている上に嘘つきだから信用してはいけないと言われる。一瞬で何もかも変わっていく由宇子だが、そこへ、放送局から、矢野の妻志帆が来て、放送をやめてほしいと言っていると連絡が来る。

 

由宇子が行ってみると、なんと、矢野先生は長谷部という女子高生と無理矢理関係を持った証拠の動画と、全て告白した遺書を見せる。冤罪だと思われていた事件は、実はその通りだった。由宇子は放送中止を申し出てそのまま萌の待つ車に戻る。そして萌に、塾の男子生徒から聞いたことを詰め寄る。萌は突然車から飛び出してしまう。由宇子は政志のところへ行き対処を考える。しばらくして哲也から連絡が入り、萌が事故にあったという。

 

病院へ行ってみると哲也が悲嘆に暮れていた。娘が妊娠していたこと、体を売っていたことが分かったのだ。由宇子は、意識の戻らない萌のベッドの脇に、成績が上がったらあげると約束していた萌が欲しがっていた時計を置く。しかし哲也は、自分が買ってあげるからと返す。哲也が車で送るというのを断った由宇子だが、気を取り直し戻ってきて、萌の子供の父は、政志だと告白する。逆上した哲也は由宇子の首を絞め、気を失わせてどこかへ去る。気がついた由宇子の携帯に、放送は中止が決まったと連絡が入り映画は終わる。果たして彼らは今後どうなるのか、暗い余韻が残った気がします。

 

これでもかという二重三重の層を重ねたストーリー展開とメッセージが見事で、二時間以上あるドラマに食い入ってしまいましたが、やはりちょっと暗すぎました。

 

「カラミティ」

とにかく目を見張るほどに絵が美しい。本当に美しいのでそれだけでも値打ちのあるアニメでした。ストーリーは若干荒っぽいですが、絵の色彩感覚の素晴らしさに息を呑みました。西部開拓時代に実在した女性ガンマンカラミティ・ジェーンの子供時代の物語で、評判通りの一本でした。監督はレミ・シャイエ。

 

主人公マーサとその家族が母の待つ街を目指して幌馬車隊で進んでいる場面から映画は始まる。隊を率いるリーダーアブラハムの息子イーサンとことあるごとに喧嘩をするマーサは、持ち前の勝ち気な性格から、男のズボンに履き替え、髪の毛を切って男みたいな姿になる。そんな彼女を隊のメンバーは厄介者=カラミティと呼ぶ。

 

途中大怪我をした父に代わり家族を支えるマーサだが、ある時、サムソンという騎兵隊の兵隊と知り合う。サムソンは、道を間違えているマーサらを導きしばらく旅を共にするが、ある早朝行方をくらます。しかも、隊の貴重品も消えていて、マーサにも疑いがかかる。マーサは、サムソンを泥棒と判断し、単身馬に乗り、隊を離れてサムソンを追う。途中、お調子者の青年と出会い、荒野で生きる術を学ぶと共に、金採掘をしているムスタッシュとも出会い、ようやくサムソンと出会うが、実は泥棒はイーサンで、イーサンの父アブラハムがサムソンの登場で立場が弱くなったので、出ていってもらうために貴金属を与えたことがわかる。そして、幌馬車隊は危険な川を渡る道を進んでいると警告する。

 

マーサは隊が渡ろうとしている川で彼らを救う。そして真実を知ったアブラハムらはマーサを再度迎え入れ謝罪する。こうして映画は終わっていきます。

 

とにかく、色彩が息を呑むほどに美しい。物語は雑ながらも、アニメとしては一級品だった気がします。

映画感想「エルミタージュ幻想」「モスクワ・エレジー タルコフスキーに捧ぐ」

エルミタージュ幻想

圧巻というか圧倒されるというか、こんな度肝を抜く映画があったことにも驚かされます。物凄い一本でした。監督はアレクサンドル・ソクーロフ

 

19世紀の衣装を身にまとった人たちが車から降りてきてとある建物へ入っていく。カメラの一人称により彼らを追いかけ語りかけると共に、一人の黒服の男性がリードするようにカメラを導いていく流れとなる。

 

建物はエルミタージュ美術館、というか、宮殿である。部屋から部屋へ導かれるままにカメラが入っていくと、壮麗そのものの調度品、美術品、さらにはエカテリーナ大帝も登場し、時代は現代から帝政ロシア時代へと遡っていく。時に現代が一瞬映されるが、映像はどんどん、帝政全盛期の宮殿をフィクションか幻影かはたまたドキュメンタリーか錯覚を起こさせながら描く。全編90分ワンカットのカメラで描く映像はもう圧巻としかありません。

 

そして映像は、クライマックスの大舞踏会の場面へ流れていく。巨大という表現が当てはまる部屋に何千、いや何万という豪華なドレス衣装を纏った人たちが踊る。そして舞踏会が終わり、廊下、階段を埋め尽くす人人人。彼方まで埋め尽くされた大群衆をカメラが追いながらゆっくり窓の外へ移動すると外は海である。こうして映画は終わっていく。

 

驚くべきは、オープニングが明らかに普通の季節なのに、途中エカテリーナ大帝が雪の中庭に出ていく場面があること。一体どういう風に撮っていったのかと目を疑ってしまう。恐ろしいほどの大作、それがこの作品を形容する言葉かもしれません。見事でした。

 

「モスクワ・エレジー タルコフスキーに捧ぐ」

アンドレイ・タルコフスキー監督の晩年を捉え、当時のソ連の姿を交えながら描いたドキュメンタリーです。「サクリファイス」撮影時のタルコフスキー監督の姿が切ない映画でした。監督はアレクサンドル・ソクーロフ

 

大勢の子供達が飛び出して来る。それを捉えるカメラ、映画を撮影する場面から映画は始まる。アンドレイ・タルコフスキーが、晩年の一本「ノスタルジア」を制作しているという流れから始まり、ブレジネフの死など当時のソ連の姿を背景に捉えていく。

 

ソ連本国で映画を作らせてもらえないところから、海外に拠点を移す決意をするタルコフスキー。そして、ヨーロッパに移り、遺作となる「サクリファイス」撮影に臨む。折しも気管支ガンに冒されていた彼は、作品完成と共に亡くなる。

 

精力的に映画作りをするタルコフスキーの姿と、ソ連時代に貧しかった彼の姿を描くドキュメンタリーで、タルコフスキーのファンとしては一見の価値のある一本でした。

映画感想「クリスマス・ウォーズ」「トムボーイ」「スクールガールズ」

「クリスマス・ウォーズ」

なんともスケールのちっちゃな凡作だった。メル・ギブソン主演というだけできた感じです。もうちょっと面白いかと思ったのに残念。監督はイアン・ネルムス、エショム・ネルムス。

 

いかにも金持ちの少年ビリーが偉そうに学校へ行く。この日はクリスマスイブ、科学展に毎年優勝してきた彼は今年も出品するが、なぜか次点に。怒ったビリーは殺し屋に仕事を頼む。一方プロの殺し屋ジェイソンはこの日も仕事をしていたが、クソガキビリーにつまらない仕事を頼まれる。今年科学展で優勝した少女を脅して辞退させるというものだった。

 

ここはカナダの山中で暮らすクリス。彼は実はサンタクロースだった。しかし、世の中の子供達はサンタクロースを蔑ろにし始め、国からの援助も減り、毎年のプレゼントにも財政的に苦しくなっていた。仕方なく軍事物資の製造を始めることになっていた。

 

一方ビリーは今年もサンタクロースからのプレゼントを楽しみにしていたが、なんと届いたのは石炭だった。怒ったビリーは殺し屋にサンタクロースを殺害してくれと依頼する。殺し屋は様々な情報から、クリスの住まいを見つけ、襲撃をかける。そしてクリスを撃ち殺すのだが、クリスの妻に銃撃され殺し屋は死んでしまう。

 

カットが変わると、ビリーの家に来客、なんとクリスとその妻だった。クリスは無事だったのだ。そしてビリーを散々脅して帰っていく。クリスは殺し屋に破壊された製造工場を規模を拡大して再建し始めていた。で、これで映画は終わる。

 

なんやねんと言う作品で、もっと遊び心満載のふっ飛んだ映画かと思ったががっかりでした。

 

トムボーイ

ちょっと洒落た映画でした。LGBTとか性同一性障害とか大人が張ったレッテルが馬鹿馬鹿しくなるとってもピュアな性の物語。子供時代は誰もが男の子であり女の子であるという中性感があると思う。そこを切り取って素直に映像にした手腕は見事でした。監督はセリーヌ・シアマ。

 

一人の男の子?が父の運転席で車を運転しながらはしゃいでいる場面から映画は始まる。転居を重ね、この日も新しい家にやってきた。先についていたのは妊娠をしている母と妹のジャンヌ。この妹、ロングヘアでいかにも可愛い女の子然としている。ショートヘアの子供はロールという女の子だが、男の子のような格好で男の子のように振る舞っている。

 

ロールは新しい家で友達もいなかったが、近所に住むリザという女の子と仲良くなる。空き地では子供達が遊び、ロールはミカエルという名前で男の子のふりをして仲間に入る。水着を工夫したりしながらバレないように振る舞い、リザはミカエルに好意を持ち始める。やがて二人は幼い恋人たちのようになりキスを交わす。

 

次第に慣れてきたミカエル=ロールは、妹のジャンヌも連れて遊びに加わるが、ジャンヌが一人の男の子に突き飛ばされたことでミカエルはその男の子に掴みかかり怪我をさせてしまう。ところがその男の子が母を伴ってロールの家に来たことで、ロールの母はロールが男の子のふりをしていることに気がつく。

 

一夜明けて、母はロールにワンピースを着せ、喧嘩した男の子の家とリザの家を回り女の子だと告げる。そのあと、子供達はロール抜きで遊んでいたがロールがのぞいているのを見つけ、みんなの前で女の子であるとリザに確かめさせる。

 

傷ついたロールはそれから家に引きこもるが、間も無く学校が始まる日が近づく。ロールの母には赤ん坊も生まれていた。ロールはさりげなくベランダに出ると、下からリザがのぞいていた。リザのところに降りて来たロールにリザは、本名を教えてと語りかける。答えるロールの口元に笑みが生まれて映画は終わる。

 

本当に大人が大騒ぎすることなんか意味がないと言わんばかりにとっても純粋そのものの男女の姿が綺麗に描かれていて、とっても引き込まれてしまいます。こういう感性はありそうでないものだと思う。その意味で素敵な映画でした。

 

「スクールガールズ」

思春期を迎えた主人公の心の揺れ動きを捉えた青春ドラマだと思うのですが、スペインというお国柄なのか、その背景にある物を汲み取ることはできませんでした。その意味で、相当に良くできた作品と呼べるのかもしれません。監督はピラール・パロメロ。

 

修道院で合唱の練習に集う少女たちは、声を出さずに口を動かすように指導されている場面から映画は始まる。一通り終えて、では声を出しましょうと言われてタイトルカットが変わる。このオープニングが実に斬新です。

 

バルセロナオリンピックにわくスペイン、修道院に通うセリアは、どこにでもある女子学生の毎日をおくっていた。ある時、バルセロナから一人の生徒ブリサがやって来る。都会育ちで洗練されたブリサにセリアは影響を受け、次第に友人のクリスの姉らとも付き合う中で少しずつ大人の世界へ足を踏み込んでいく。

 

ディスコに行き、男友達と遊び、タバコや酒を試しながら、性に興味を持ち始めた少女たちの女子トークに盛り上がったりする。何かにつけ厳格な学校の先生たちに反抗したりしながらも日々の青春を楽しむセリア達。ある時、クリスの姉らとゲームをした時に、セリアが母一人子一人で、父の姿が見えないことなどで茶化され、セリアは、死んだと聞かされている父のこと、そして何かを隠している母のことに疑問jを持ち始める。以前かかってきた叔母からの電話への不審が蘇ってきた矢先、再び叔母から電話がかかる。

 

一人で向かうという母にセリアは自分も行きたいと告げる。そして母と共に祖母の家にやってきたセリアは、何故母が寄り付かなかったかを空気で感じてしまう。家に戻ったセリアは母と一緒に食事を作ると言う。ここまで過ごしてきた母の思いがようやくわかったような気がした。

 

カットが変わると、合唱の発表会、舞台袖で待つセリアは客席に母の姿を見つける。颯爽と舞台に出て歌い始めるセリア。周りを見ると、友達も一緒だと確信する。セリアのアップで映画は終わっていく。

 

キリスト教への宗教観や未婚の母への世間の目などスペインならではの価値観が背後に流れ、その中で描かれる思春期の少女達の瑞々しい青春の一瞬の輝きが、独特の色合いで描かれています。次第に主人公の心が変化していく様と、何気なく描写される生活の場の風景が見事な映像として映し出されています。なかなかのクオリティの一本でした。

映画感想「TOVE トーベ」「護られなかった者たちへ」「死霊館 悪魔のせいなら、無罪。」

「TOVE トーベ」

映画としては普通でしたが、ムーミンの生みの親トーベの物語を知ることができたのは収穫でした。監督はザイダ・バリルート。

 

主人公トーベが狂ったように踊っている。傍に酔いつぶれた男性、そしてカットは1944年の防空壕、トーベは子供達にフィンランドに伝わる妖精ムーミンの物語を語っている。オーバーラップしてトーベの自宅、彫刻家で芸術家としての誇りを持つ父がトーベを責めている。そんな父から逃れて部屋を借りたトーベは絵画で芸術家として成功するべく励んでいた。一方で、ホームパーティーをめぐり、恋を繰り返し、1人の妻子ある男性アトスと知り合う。しかし、絵画はなかなか認められない。そんな頃、市長の娘で舞台芸術家のヴィヴィカと出会う。

 

ヴィヴィカは、女性同士でキスすることを教え、そんなヴィヴィカにトーベは夢中になっていく。ヴィヴィカは、生活のためにトーベが書いている風刺画に興味を持つ。それはムーミンという妖精を描いたものだった。ヴィヴィカはパリに旅立ちそこから戻ってきたヴィヴィカはトーベにムーミンのミュージカル舞台をやりたいと提案する。乗り気でなかったトーベだが、舞台は大成功する。やがて時が経ち、トーベは絵本作家として人気者になっていた。

 

トーベは、誘われるままにパリの展覧会に行き、その後のパーティでヴィヴィカと再会する。トーベは懐かしい思いが蘇り、彼女を追ってきたヴィヴィカと夜を過ごすが、トーベはこれが最後だからと別れを告げる。その翌朝、目覚めたトーベは窓から入る風を感じる。そして彼女は、再び油絵を描き始める。パリの展覧会で知り合った女性トゥーリッキが訪ねてくる。絵の題名を聞かれ、旅立ちだと答えて映画は終わる。

 

トーベという女性をストレートに描いた素直な作品という感じの一本で、これという秀逸したものではありませんでしたが、勉強になる作品という感じでした。

 

「護られなかった者たちへ」

原作の良さ、脚本のうまさは見事なのですが、配役がチグハグでせっかくのフェイクが全部無駄になってしまった感じで、映画として昇華しきれなかった点だけは残念。少し、受け入れられない部分のある物語ですが、厚みのあるいい映画でした。監督は瀬々敬久

 

東日本大震災の避難場所から映画は幕を開ける。笘篠が、妻と息子を探して避難所に駆け込んでくる。しかし見当たらず、大丈夫だからという伝言ダイヤルを受け取る。一方、利根という青年は、かんちゃんよと呼ばれている少女、中年の女性けいと知り合う。利根、かんちゃん、けいは避難所で家族のように親しくなる。そして九年の時が経つ。

 

捜査一課の刑事笘篠は、ある事件に遭遇する。それは、拉致して放置し餓死させた殺人事件だった。笘篠は、被害者が勤めていた役所を訪ねるが、そこでは非常に人格者だという噂だけだった。さらに同様の事件が再び起こる。二つの事件に共通するものを見つけた笘篠は、被害者がかつて勤務していた役所を再度訪ね、そこで行われていた窓口の隠蔽の証拠を掴む。さらに、そこの職員で生活保護担当の円山幹子から情報を得ていく。映画は震災直後の利根らの姿、9年後の利根の姿と、震災で妻子を亡くした笘篠の苦悩などを交互に描いていきます。

 

震災後、地元で仕事が無くなった利根は栃木へ仕事に行き、間も無く宮城に戻ってきて高校生になったかんちゃんと再会する。しかし、遠島けいは、生活が苦しく餓死寸前であることを知る。そして、三人で生活保護の申請のため役所を訪れるが、その時に対応したのがのちに被害者となった三雲と城之内だった。一旦は申請は降りたのだが、何故か、けい自身が申請を取り下げたことを知り、利根は真摯に対応しなかった三雲らにあたり、さらにけいが餓死してしまったことにキレ、役所に火炎瓶を投げ逮捕されてしまう。けいには若き日に手放した子供がいて、申請することでその子供に迷惑がかかることをおそれたのだ。

 

笘篠は、円山と話をするうち、生活保護の実態を目の当たりにし複雑な心境となるが、捜査の中、三雲と城之内に関わる人物の中で利根を発見し容疑者として捜査を始める。一方、かつて三雲らと一緒に役所にいた上崎という男が政治家として活動していた。利根の次のターゲットが上崎と判断した笘篠らは、上崎に張り付き、接触してきた利根を逮捕する。利根は間も無く自白するが確たる証拠が見つからないままに難航し始める。

 

笘篠らは、利根の背後にある何かを探るために震災直後の利根らの周辺を探るうちに、当時かんちゃんと呼ばれていた少女の行方にたどり着く。かんちゃんは、本名を幹子と言い、笘篠らが聞き取りをした円山幹子がその成長した姿だった。そんな頃、上崎が何者かに襲われ行方不明となる。拉致した場所の推測がつくという利根の言葉を頼りに笘篠らが向かう。そして、上崎を拉致している円山幹子を発見する。そして丸山を逮捕、事件は収束していく。笘篠は、避難所でかんちゃんと言葉を交わしていた。笘篠の息子も黄色の服を着ていて、かんちゃんも同じ服だったからである。

 

利根を搬送していく途中で、笘篠は利根と二人きりで話す。その時利根は、震災の時に、助けを求めている黄色い服を着た少年を助けにいけなかったことを後悔し、避難所で見かけたかんちゃんを守ろうとしたのだと告白する。こうして映画は終わっていく。

 

それぞれの人生にさりげなく関わっていく人物をオーバーラップさせて物語を綴り、かつて守れなかったそれぞれの想いを一つにまとめていく流れはうまいのですが、どうも幹子が犯罪を犯す動機がまるでテレビドラマレベルにしか見えないのが非常に残念。可もなく不可もない一本ですが、一級品には仕上がりきれなかった気がします。吉岡秀隆が政治家に見えない弱さ、清原伽耶が今ひとつ迫力に欠けるのも残念。配役がチグハグになっているのだけが気になる一本でした。

 

死霊館 悪魔のせいなら、無罪」

面白かった。このシリーズは正当な怖がらせ方もですが、実話に基づくという前提ゆえかストーリーがしっかりしているので見ていて飽きません。今回も、悪魔の恐怖もですが謎解きの面白さも堪能できました。でも、「エクソシスト」へのオマージュに見えるようなシーンがたくさんあって楽しかった。監督はマイケル・チャベス

 

デビッドという少年に悪魔が取り憑いたということでウォーレン夫妻が乗り込んでいる。まもなくして神父もやってきて悪魔祓いを始める。この冒頭のシーンは「エクソシスト」そのままに見えるのがとにかく楽しい。そして一気に引き込まれるのですが、デビッドに取り憑いた悪魔を取り除くために、デビッドの姉デビーの恋人アーニーが、自分に乗り移れと叫んだことから物語は本編へ。エド・ウォーレンが、気を失う寸前、そのアーニーの言葉を聞いて、そのまま病院へ入院する。

 

一命を取り留めたエドは、デビッドの家族に危険を知らせるように妻ロレインに依頼するが、すでにアーニーが殺人を起こしていた。やがてアーニーは逮捕されるが、悪魔に取り憑かれたことが原因だとウォーレン夫妻は説明する。しかし、アーニーに悪魔付きの証拠が見られない。ウォーレン夫妻はデビッドの家に行きその地下に隠されていた黒ミサのオブジェを発見、さらに似通った事件を探す中、もう一件そのオブジェが関わった事件を見つける。そして、元神父で今はオカルトの研究をしているカストナーを訪ねる。そして、調べるうちにこの呪いについて書かれた書物を見つけるが肝心の部分が訳せない。ロレインは単身カストナーのところへ行く。

 

一方、留置所にいるアーニーは、悪魔付きの症状が現れ始めてきた。折しもエドは真犯人はカストナーの娘であることを見破り、ロレインの後を追う。ロレインはカストナーの住まいの地下にあるクロミサの祭壇を壊すべく地下へ進む。駆けつけたエドだが、逆にカストナーの娘に呪いをかけられ、ハンマーでロレインを襲う。しかし間一髪、エドのハンマーは祭壇を破壊、カストナーの娘は悪魔に魂を奪われ大団円となる。こうして映画は終わっていきます。

 

実際のアーニーの裁判やらが流れる中でのエンドクレジットですが、映像は明らかに「エクソシスト」に似通っている部分が多々あり、それが返って楽しめることになりました。B級ながらホラー映画としては一級品の出来栄えだった気がします。

 

映画感想「サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ」「007 ノー・タイム・トゥ・ダイ」

サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ」

なるほど、これは配信ではなく劇場で見ないと真価は見えない作品です。音というものを追求し尽くした物語というか音響効果を徹底して人間ドラマの中に盛り込んだ作品。淀みのない音を聞くこと、濁った音を聞くことの本当を知らしめる、どこか哲学的な空気も感じさせる映画でした。監督はダリウス・マーダー。

 

ステージで激しくドラムを叩く主人公ルーベンの姿から映画は幕を開ける。見ている私たちも思わず耳を押さえたくなるほどの大音響。観客の反応も、それよりボーカルの声さえも聞こえない。そのドラムの嵐の中、ステージを終えたルーベンと恋人のルー。二人はキャンピングカーで移動し暮らしながらツアーをこなしていた。ある時、ルーベンは、突然耳鳴りを経験する。しばらくして収まったが、その違和感の中、再びステージに立つ。しばらくして、言葉が聞き取りにくくなってきたことから病院へ一人行き、そこで聴覚が急激に無くなっていると診断される。それでもステージに立つが途中で全く聞こえなくなりステージを後にする。追ってきたルーに耳のことを告白。

 

ツアーを中止するかどうか悩むルーベンだが、ルーはプロデューサーに連絡し、中止せざるを得ないと話を進める。一方支援団体を紹介してもらいルーベンを連れていく。最初は入り込めなかったルーベンだが、ルーに諭され、そこで暮らすことになる。世話をしてくれたのは、ここの運営者ジョーだった。ジョーは毎朝、ある部屋を空けておくのでそこでおもいつくままにノートに書くようにと提案する。

 

錯乱していたルーベンは次第に落ち着き始め、耳の聞こえない子供たちと一緒に遊んだり、手話を身につけていく。平静になってきたもののルーの活躍が気になって焦りも生まれていた。人工内耳をつけるには多額のお金が必要だったが、キャンピングカーや、音響機材を全て売り、金を工面し、ジョーに内緒で手術を受ける。

 

病院から戻ってきたルーベンはジョーに手術を受けたことを話すが、ジョーは、聴力を戻すことを望むものではないと冷たく対応して、施設から追い出してしまう。ルーベンは次の通院までの四週間、何とか過ごし、再度病院へ行き、音を感じさせる処置をしてもらうが、元のように戻ると考えていたルーベンにとって全く予期しないほどの殺伐とした音だった。

 

それでも、聞こえるようになったルーベンは、ルーの実家を訪ねる。暖かく迎えるルーだったが、もう一度旅に出て元の生活を目指したいというと、ルーは以前からクセにしていた手を引っ掻く仕草をする。ルーベンは、ルーの気持ちを察し、一人ルーの実家を後にする。公園で、雑音のような音の洪水を聞いていたルーベンは、頭の人工内耳を外す。ルーベンが全く音が消え静かになった景色を見て映画は終わる。

 

音が与えてくれていたものの意味を音を失って初めて知るという成長の物語ですが、それ以上の何かを感じさせてくれます。聴力を通じて描こうとした何かがそれとなく伝わる感じがする作品で、それをどう表現するかが人によって違うというのなのかもしれません。ただ、音響効果の演出は素晴らしかった。

 

「007 ノー・タイム・トゥ・ダイ」

ダニエル・クレイグの007を一旦終わらせるのはこの方法しかない感じのエンディングですが、何をおいても007シリーズ、そのスケールの大きさと、面白さは普通の娯楽作品として十分満足いくものでした。ただ、悪役がどうも弱くて、決してラミ・マリックが下手くそというわけではないけど、曲者感がなさすぎたのは寂しい。しかも、流行りの細菌兵器の工場もどう見ても巨大さに欠けたので、ジェームズ・ボンドのピンチ、ハラハラが物足りなかった。でもオープニングのカーチェイスは抜群に面白いし、少々浪花節的な色付けも個性があって良かったかなという感じです。監督はキャリー・ジョージ・フクナガ。

 

一人の少女がアル中らしい母親から呼びつけられる場面から映画は幕を開ける。この家は雪深い湖のほとりに立っている。突然、外に能面をつけた男が立ち、家に侵入してくる。少女は避難部屋に逃げようとするがドアが開かず、隠れていると、母親は撃ち殺されてしまう。この犯人は、少女の父に家族全員殺されたので復讐に来たのだという。あわや少女も撃たれるかと思ったが突然銃で応戦して犯人は倒れる。

 

死体を外に引き摺り出したが突然生き返り、少女は氷の張った湖に逃げる。ところが氷が割れて落ちてしまう。浮き上がれない少女を犯人は氷の周囲を機関銃で撃って少女を助ける。ジャンプカットして一人の女性が水面に現れる。ジェームズ・ボンドの恋人マドレーヌである。冒頭の少女の成長した姿だと推測される。二人は仲睦まじく愛し合い、ボンドは亡くなった過去の女性の墓地に行くが、そこにあったカードを取った途端墓地が爆発、身の危険とマドレーヌが危ないと思ったボンドは追っ手から逃れながらホテルに向かうが、悪者から、マドレーヌの父はスペクターだと知らされる。ホテルに戻り、愛車に乗りマドレーヌが指示してボンドを襲ったのかと疑う。しかしマドレーヌはそうではなかった。ここからのカーチェイスシーンが実に面白い。難を逃れたボンドとマドレーヌだが、二人には別れが待っていた。駅でマドレーヌを送り出すボンドだが、マドレーヌはさりげなくお腹を触る。妊娠しているのである。そして5年が経つ。

 

現役を退きジャマイカでのんびり過ごすボンドに旧友のフェリックスが現れる。彼はCIAで、誘拐されたオブルチェフという博士を救出してほしいという。オブルチェフはヘラクレスという細菌兵器を開発していて、その兵器は、DNAをプログラムすると目標のターゲットを殺すことができるものだった。

 

ボンドは博士を救出すべく向かい、そこでパルマという諜報員と博士のいる場所へ向かうが、何と、敵はボンドを殺すためにプログラムした細菌を放出する。ところが博士はその場にいるスペクターだけを殺すようにプログラムしていた。しかも博士は何者かに拉致されてしまう。

 

実はこの細菌はMI6のMが開発させたもので、兵器ではなく平和のためのものだった。博士を拉致したのはサフィンという男で、サフィンはマドレーヌに近づいてくる。冒頭で能面をかぶって少女を助けた男こそサフィンだった。サフィンはマドレーヌに、獄中でスペクターのボスブロフェルドを殺すように指令する。それは彼女にブロフェルドのみを殺せる細菌兵器を体につけて接触させるというものだった。

 

一方ボンドはブロフェルドと接触するため、精神科医でもあるマドレーヌと再会、彼女と同行することになる。マドレーヌには一人娘もいたが、ボンドが自分の娘かと聞くが違うと答える。ボンドとマドレーヌはブロフェルドのところへやってきたが、すんでのところでマドレーヌは思いとどまる。しかし、マドレーヌがボンドに接触していたため、ボンドがブロフェルドに触れたことでブロフェルドは死んでしまう。

 

ボンドは正式にMI6に復帰し、サフィンが計画していることを阻止するために動き始める。そしてとある島でオブルチェフ博士と兵器開発を進めているのを知り、乗り込んでいく。一方サフィンはマドレーヌと娘のマチルダを拉致して島の基地に連れてきた。そして、ボンドとサフィンの最後の戦いが始まる。

 

激闘の末、マドレーヌとマチルダは無事島から脱出させたボンドだが、サフィンを仕留める際、ヘラクレスに感染したことがわかる。一方、ボンドの持参してきた爆薬では基地を破壊できないため、基地を爆破してしまうために英国軍にミサイル攻撃をしてもらうようにMに依頼する。ボンドはサフィンを仕留めたものの、自らの体にヘラクレスを浴び蝕まれ、脱出できないまま、ミサイルは到達してしまう。ボンドの死を悼むMI6のメンバーと、マドレーヌがマチルダを連れて車で走るシーンで映画は終わる。マチルダはボンドとマドレーヌの娘だったという流れである。

 

なるほどそうして終わるかという感じですが、007は007、二時間を優に超えるけど楽しめました。最後に、ジェームズ・ボンドは戻ってくるという文字が出るので一安心でした。

映画感想「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」(4Kリマスター版)「ソウルメイト 七月と安生」

GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊

見逃していたアニメ大作を見る。評判通りの傑作でした。もし、この作品を1995年リアルに見ていたらもっと驚いていたと思います。斬新な画面と音楽、さらにシュールで哲学的な物語、行間に隠された様々な謎、これこそ日本アニメの真骨頂です。世界中にファンを作り出したことも納得の作品でした。監督は押井守

 

すでに水没した地域もある近未来西暦2029年、一人の女性、いやアンドロイド草薙素子がビルの屋上から真下を見下ろし、徐に衣服を脱いで全裸姿となる。衝撃的なオープニングである。ある外国人が一人の男を連れ帰らんと密談をしているがそこへサイバーテロ対策に非公式に組織された公安9課通称攻殻機動隊が突入するが、反撃に遭う。そこへ窓を突き破って草薙素子が突入する。

 

そんな頃、某国手配中の凄腕ハッカー、通称人形使いが日本に現れると言う情報が入ってくる。草薙や相棒のバトーらはその情報を追い始めるが、背後に、外務省や公安6課らの陰謀が見え始めてくる。

 

調査を進めているある時、謎のハッキングの痕跡を見つけた草薙らが現場に向かう。そこには、事情もわからず人形使いに脳内に架空の記憶を埋め込まれた一人のごみ収集員を見つける。さらに、その本体を模索するものの真実に辿り着かなかった。草薙とバトーは突然何者かの声を聞く。

 

ある日、一つの擬態が車にはねられ残骸となって公安9課に持ち込まれた。まだ脳内損傷のない半身の擬態を調べていたが、公安6課と外務省が回収をしたいとやってくる。不審に思った草薙らが、彼らを見張るが、突然半身の擬態が話し始める。自分こそが人形使いであり、一時公安6課に避難したものだと答え、そして脱出する。草薙らはその擬態を追う。そして草薙は擬態の本体にたどり着くがそれは戦車であった。

 

攻撃してくる戦車と応戦する草薙だが、間一髪駆けつけたバトーが戦車を不能にする。草薙は人形使いに直接アクセスすると言い出し、半身の擬態に並ぶ。一方外務省と公安6課は、擬態を破壊するためのヘリを送り込んで来る。実は、元々バグとして存在していたプログラムが自ら意思を持ち、人形使いとしてネット内を暗躍し始めたのだ。何とか擬態の中に閉じ込めたものの逃げ出したため、外務省らは破壊することを決定したのだ。

 

人形使いは草薙に、更なる進歩のため一体となって子孫を残すことを望むと提案する。危険を感じたバトーは接続を切ろうとするが、そこへヘリからの攻撃が入り、擬態も草薙も破壊される。意識が薄れていく草薙が次に目覚めるとバトーの部屋で少女に体に入っていた。少女となった草薙あるいは人形使いはバトーに車のキーをもらい家を後にする。街を見下ろし、ネットの世界は無限だと呟いて映画は終わる。

 

独特の世界観と、骨太な画面作りに埋め込まれる凝縮された哲学的なストーリー展開に魅了される一本で、押井守の評価を世界に知らしめたと言う解説を十分唸らせる傑作でした。

 

「ソウルメイト 七月(チーユエ)と安生(アンシェン)」

これは傑作でした。ストーリーの組み立てのうまさ、エピソードの配分のテンポ、登場人物の心理描写などなどが練り込まれて仕上がっていました。もう感動の涙しかありませんでした。久しぶりに自分好みの青春ストーリーに出会いました。監督はデレク・ツァン。

 

アンシェンのところにある映画プロデューサーが訪ねてきている場面から映画は幕を開けます。ネット小説で話題の「七月と安生」を映画にしたいが作者のチーユエの居場所が分からず、小説の中に登場するチーユエの相手役のアンシェンのところにきたのだと言う。しかしアンシェンは、チーユエなどと言う人物は知らないと答える。その帰り電車の中でアンシェンはかつてチーユエの恋人だった青年ジアミンと再会する。アンシェンは、自分たちから去ったのはジアミンだと半ば罵り急いで列車を降りるが降り側にジアミンは名刺を投げる。

 

アンシェンは自宅に戻る。幼い娘のトントンが眠る脇を通り自分のベッドで、さっき言われた「七月と安生」と言うネット小説を読み始める。それは、13歳の頃に知り合ったチーユエという友達との切ない思い出の物語だった。映画はアンシェンが小説を読みながら過去を回想していく流れと、その真実を微妙に織り交ぜて展開していく。

 

13歳の時学校で出会ったアンシェンとチーユエはすぐに意気投合し、安定した家庭のチーユエは事あるごとにアンシェンを自宅に招く。温かい家庭、優しい両親の元で暮らすチーユエにかすかな嫉妬を覚えるアンシェン。アンシェンの父は亡くなっていて、母は仕事でほとんど家にいなかった。アンシェンは自然と世渡りの術を覚えていったのだ。二人はいつも一緒に行動を共にし、二人の友情はどんどん育まれていく。

 

やがてチーユエは進学、アンシェンはバーで仕事を始める。チーユエは好きな人がいると言う。それは陸上部にいるジアミンという青年だった。アンシェンは、巧みにジアミンに近づき、チーユエとの仲を取り持つように行動する。まもなくして、チーユエはジアミンと出会い、交際が始まる。チーユエはジアミンとアンシェンの勤めているバーへ行き、アンシェンは初対面のフリをしてジアミンと会い、それから三人で遊ぶようになる。

 

ある時、ハイキングに行った時、たまたまアンシェンとジアミンが二人きりで途中の祠に寄る。その際、ジアミンは幼い頃からつけているペンダントの説明をアンシェンに話す。その話はチーユエもジアミンから聞いていた話だった。やがて、アンシェンはバーのバンドのメンバーと恋に落ち街を出ることになる。駅で見送る際、列車の窓から顔を出したアンシェンの首にジアミンのペンダントがかかっているのをチーユエは気づき複雑な思いになる。

 

アンシェンは、北京に行き、そこで恋人と生活を続けるが、一方チーユエはジアミンとの日々を過ごす。しかし、アンシェンはそれから波乱の人生を送るようになる。バンドの恋人に浮気をされ別れ、続いてフリーカメラマンと恋に落ちて貧しいながらも様々な地を巡る生活になる。チーユエとジアミンは街を出ることもなく過ごしていたが、ジアミンは学校を卒業すると外に出てみたいと街を出ていく。それでも二人の仲は変わらなかった。

 

ところが、偶然アンシェンはジアミンと再会する。二十歳をすぎ、安定を求め始めたアンシェンは仕事につき日々を過ごしていた。ジアミンも就職し忙しい日々を過ごしていた。チーユエは地元で銀行に勤め、ジアミンとの結婚を目標に日々を過ごしていた。チーユエはアンシェンと久しぶりに再会し、小旅行をするが、男を適当にあしらって活発に生きているアンシェンとチーユエはつい喧嘩をして別れてしまう。

 

やがて、チーユエとジアミンの結婚の日、ジアミンは突然行方をくらます。結婚式に花婿に逃げられた花嫁という噂が広がり、チーユエは念願の街を出ることが叶う。そこまで読んで眠ってしまったアンシェンの寝室にアンシェンの娘トントンがやってくる。ベッドの下に隠していたアンシェンの缶を開く。その缶には、アンシェンが大事にしていた若き日の手紙と先日再会したジアミンの名刺が入っていた。手紙には、街を出たアンシェンがチーユエに送っていた手紙が入っていたが、その文面の最後に必ずジアミンのことが書かれていたのだ。

 

一方、ジアミンもチーユエのネット小説を読んでいた。そんな彼にトントンから電話が入る。そして、ジアミンと会ったトントンは母アンシェンが大事にしていた手紙とネット小説を見せて、愛していたのか?自分のパパなのか尋ねる。ネット小説「七月と安生」の作者はアンシェンで、チーユエはアンシェンのペンネームなのだというのだ。アンシェンはジアミンに会い、物語の経緯を話す。

 

チーユエは結婚式の後妊娠していることに気がつく。そしてアンシェンに会いにきて、アンシェンはチーユエの出産を支える。順調だったはずの産後だが突然の出血でチーユエは亡くなってしまう。アンシェンはチーユエの子供を育てる決心をし、チーユエが夢に描いていた自由な人生を歩んでいることを小説にしたのだ。小説の中では、無事出産を終えたチーユエは子供をアンシェンに預け、世界へと飛び出していた。映画はこうして終わっていきます。

 

とにかく、上手いとしか言いようのないストーリー構成で、よくある展開もここまでしっかり練り込まれたら引き込まれざるを得ません。絵作りも美しいし、無理矢理難を言えばラストの子供の下りは少し無理がある気がしないでもありませんが、そこを目を瞑っても、相当なクオリティの作品だと思います。本当に良かった。