くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「いつも2人で」「ホリック×××HOLiC」

「いつも2人で」

決してずば抜けた傑作ではないけれど、洒落たラブストーリーを堪能できる映画でした。オードリー・ヘップバーンがいてこその映画という感じですね。40年ぶりくらいの再見です。監督はスタンリー・ドーネン

 

倦怠期を迎えているジョアンナとマーク夫婦が、仕事で呼ばれた先へ飛行機で向かうところから映画は始まる。今や建築家として成功し、娘のキャロラインも生まれて裕福に暮らしている2人だがどこかギクシャクしていた。映画は、彼らの現代を描きながら、2人の出会いの頃の貧しかった頃の恋物語から、やがて新婚のラブラブの時代、お互いに浮気をしてギクシャクしていきながらも、愛を確認し合う熟年期から現代へ至る物語を空間と時間を交錯させ、車を乗り換えていくことで時間軸を表現しながら描いていきます。

 

そして、目的地に着いた2人はそれぞれの過去の浮気相手と再会するが、浮気相手同士婚約が決まったことを目の当たりにし、マークとジョアンナはパーティの席を離れて車でドライブに行く。そして離婚の言葉をちらつかせながらも、お互いに離れられず、再度愛を確かめ合ってキスをしてこれまでの物語がフラッシュバックして映画は終わる。

 

シンプルですが、巧みに組み合わせたストーリーでリズムよく展開する物語はとっても洒落ていて軽妙で楽しい。オードリー・ヘップバーンの存在感で持つような作品ですが、名作として位置付けてもいい映画だなと思います。

 

「ホリック×××HOLiC

なんとも言えない平凡な映画で、デジタル映像というのが発達していなかったら見ていられない出来栄えの映画でした。役者任せの演技演出と映画センスが全くない監督の蜷川実花の絵作りの陳腐さ、しかもストーリーが全然流れてこない前半部分からいきなりのクライマックスも悪役の吉岡里帆の適当演技に映画自体がどんどんスケールダウンしていくのには参りました。原作がそれなりにしっかりしているので、なんとか踏みとどまったものの、もういい加減、蜷川実花も映画作るにやめたらいいと思う。

 

アヤカシなる人に取り憑いたような悪が見えてしまう四月一日=ワタヌキが必死で逃げている場面から映画が始まる。そして、絶望した彼は屋上から飛び降りようとするが、そこに一匹の美しい蝶が現れ、それに惹かれるようについていくと、不思議なミセにたどり着く。そこの主人ユウコは、どんな願いも叶えてくれるという。但しそれには見返りが必要だというが、ワタヌキにはなんの希望もなく与えるものもないという。そこでミセを手伝うことになるワタヌキ。ここまでの展開の適当さにまいってしまう。しかもユウコのカリスマ感が今ひとつ見えてこないので、その後の謎のエピソードのいくつかもなんの面白みもない。

 

ワタヌキは学校でひまわりという少女と関わりを持ち始める。彼女は生まれながらにアヤカシを身にまとい、周りの人間を不幸にしてしまうことに悩んでいたが、百目という同級生といると楽だからと、ワタヌキを含めて三人で行動するようになる。ワタヌキはひまわりのアヤカシをなんとかしようと考えて、自分の身を犠牲にしてアヤカシを取り込もうとして、階段の上から落ちて重傷を負ってしまう。目が覚めると女郎蜘蛛が傍にいて片目を食べさせて貰えば助けてやると、ワタヌキの片目を食べる。さらに、ワタヌキは女郎蜘蛛に今のままの平穏な日々をかなえてくれるように望んでしまう。

 

目が覚めたワタヌキの目は普通だった。何かがおかしいと考えるが、この日は四月一日、ワタヌキの誕生日だった。神社の祭りに行き、ユウコに頼まれた焼きそばを買って帰り、夕食を作り、ユウコらと食事をするが、再び目が覚めると四月一日だった。そして、ワタヌキは四月一日を繰り返すようになる。

 

ワタヌキは、片目を女郎蜘蛛に取られたが、百目が自らの目をワタヌキに与え、さらにワタヌキの命を助けるためにひまわりと百目は見返りをユウコに与えていた。それを知ったワタヌキはなんとか女郎蜘蛛のループから抜け出すため、ユウコの助けを得て、女郎蜘蛛と対決に向かう。一方ひまわりは、この街から出ていく。

 

百目がいる神社に向かい、そこで女郎蜘蛛とアカグモらと戦いを始める。しかし、女郎蜘蛛は境内に安置してある魔物を呼び出してしまう。そこへ、ユウコが助っ人にやってくる。女郎蜘蛛やアカグモは魔物に取り込まれてしまうが、表に出てこようとする魔物をユウコが防ぎ、その間にワタヌキと百目が神の矢を放ってことなきを得て終える。しかしユウコは、ワタヌキらの前から消えていく。

 

ワタヌキは、ユウコにミセに止まってほしいと懇願するも、ユウコは蝶の化身となって消えてしまう。ワタヌキはミセを継ぐことを決意し、百目と共に客を迎えるようになって映画は終わる。

 

とにかく、センスのない色彩と造形美術で作り出されるCG映像が派手なだけであまりに品がない上に、ストーリーテリングがなってないために、物語が全く流れていかない。しかも展開それぞれに動機づけがない上に、役者へに演技演出ができていないために、役者が勝手にお芝居をしていて映画全体がまとまってこない。そんなままで、なんでを繰り返しながらにクライマックスとエンディングとなる。まあいいかという仕上がりになった感じの適当作品でした。

映画感想「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」

「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」

1969年夏、ウッドストックが開催された時、160キロ離れた場所で行われた音楽フェスティバル「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」を捉えたドキュメンタリーで、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を取った作品。当時の黒人歌手の歌声のバイタリティに前半は引き込まれるのですが、ほとんど知らないミュージシャンと歌ばかりなので、後半しんどくなってきた。しかも、黒人差別をこうやって戦ってきた感がどんどん強くなってくると、ちょっと鼻についてきました。監督はアミール・“クエストラブ”・トンプソン。

 

1969年のフェスティバルの画面に、当時起こった数々の事件、特にマルコムXキング牧師の殺害事件などの報道を挟みながら、さらにケネディ襲撃から月面着陸まで、時代を映し出したニュースも交えてのミュージシャンのステージシーンはとにかく面白い。当時の観客やミュージシャンの今の姿のインタビューも交えた映像で進んでいくながれは、ドキュメンタリーであることを意識した映像作りですが、この時の撮影フィルムが五十年間表に出なかったことが語られるに及んで、次第に黒人差別と戦ってきたというメッセージがどんどん前面に出てくるので、後半は流石にしんどくなってしまいました。取り上げたテーマゆえに賞を取ったのではと思えなくもない作品でした。

映画感想「パリ13区」「ベルイマン島にて」

「パリ13区」

映像のテンポがいいし、曲の選曲も心地よく、SEXシーンは頻繁に出てくるもののシンプルで嫌味がないのでいやらしさも見えない。出だしはいい感じで始まるものの終盤若干弱さを感じるのですが、あっさり素敵なラブストーリーで締め括ったのはよかった。監督はジャック・オーディアール

 

巴里の街を俯瞰で見下ろすカメラがマンションの一室へ入りと全裸の女性エミリーがマイクで何やら歌を歌っている。そこへ男性がやってきてSEXを始めて映画は始まる。エミリーの部屋に一人の男性カミーユがやってくる。どうやらルームメイトを募集していて、やってきたのがカミーユらしく、エミリーはそのままカミーユと暮らしようになるが、時を経ずして二人はSEXにふけるようになる。

 

カミーユは高校の教師をしている。エミリーはコールセンターで携帯電話の勧誘をしているが、ふとしたことでクビになってしまう。一方、カミーユは学校の同僚ステファニーを部屋に連れ込んでいたので、エミリーと諍いになり出ていくことになる。しかし、エミリーはカミーユのことを実は愛していた。エミリーは、男性を買ってはSEXをして気持ちを紛らわせる。

 

場面が変わると、アダルトチャットの画面で、金髪の女性がセクシーな行為をしている。ここにノラのいう女性がソルボンヌ大学に入学し、パリの部屋に住まいを始める。しかし、人と接することが苦手で、授業に出て、隣に声をかけてもその後が続かない。誘われたパーティに行くのに金髪のウィグをつけて出かけたが、何とその姿がアダルトチャットのアンバー・スウィートにそっくりで、男たちが勘違いしてしまう。しかも、学校でも広まってしまいノラはいたたまれなくなってしまう。

 

場面が変わると、エミリーは、中国系のレストランで働いていた。カミーユは友人の不動産会社の手伝いにはいっていたがそこへやってきたのは、仕事を探していたノラだった。ノラはカミーユと一緒に不動産の仕事をするようになるが、一方で、アダルトチャットの女優アンバー・スウィートと接触し始め、次第にビデオチャットで友達のようにつきあうようになる。ノラはカミーユとSEXをする関係になるものの、カミーユは今一歩乗り切れないノラに不審を抱き始める。

 

そんな頃、カミーユはエミリーと連絡を取る。こうして、カミーユとエミリー、ノラ、アンバー・スウィートとの物語が絡み始める。カミーユは結局ノラとは仕事の上での付き合い以上に深くなることはなく、一方、エミリーはカミーユに頼まれて外国人の顧客との通役などでカミーユの仕事にも関わっていく。そんな頃、エミリーの祖母が亡くなる。エミリーが住んでいた部屋は祖母の持ち物だったため、エミリーは急速にカミーユとの関係を取り戻し始めた。

 

ノラはアンバー・スウィートと実際に会うことを決心し、公園で待ち合わせる。ノラはその場で倒れてしまい、アンバー・スウィートにキスを求める。一方エミリーはカミーユにデートに誘われ嬉々としていた。こうして映画は終わっていく。

 

オムニバスドラマのように展開していくが、次第にそれぞれが絡み合い、それぞれの関係がうまくまとまって未来へ向かうラストが気持ちがいい。映像のテンポも音楽のセンスも洒落ていて、映画として楽しめる一本でした。

 

ベルイマン島にて」

中盤まで、よくある流れの作品かと見ていましたが、後半みるみるオリジナリティ溢れる心地よい展開に流れ、ラストは素敵に終わりました。とってもいい映画でした。イングマール・ベルイマンに関する知識があればあったで良いし、なくても映画としては素敵な作品だったと思います。監督はミア・ハンセン=ラブ。

 

映画監督のトニーとクリスが、ベルイマンがその作品を撮影し晩年を過ごしたフォーレ島=ベルイマン島へやってくるところから映画は始まる。トニーはこの地で新作の試写を行う予定で、何かのインスピレーションを期待してやってきた。トニーはすでに監督として成功していたが、クリスはまだ認められたばかりだった。クリスは次の作品の脚本を書き進めようとしていたが行き詰まっていた。やがて、クリスは、かつて叶わなかった初恋の思い出を投影した物語をトニーに語り始める。映画は、映画内映画という形で、クリスが描こうとする作品を映しながら、時折クリスがトニーに語るショットを交えながら展開していく。

 

クリスが描く物語はこうである。エイミーは友人の結婚式でかつて恋したヨセフと再会する。ヨセフには妻もいたが、二人は束の間のアバンチュールに燃え上がり、エイミーはどんどんヨセフに惹かれていく。しかし友人の結婚式も終わり、やがてヨセフは島を離れていった。

 

そして、トニーが、一旦島を離れるにあたり、クリスは一人でベルイマンの晩年の自宅を訪れる。そこでつい時間を忘れた瞬間、場面がジャンプし、クリスの作品の撮影の現場となり、そこで、自らの初恋の思い出で登場したヨセフの姿の男優がクリスに声をかける。そして、それまでクリスが語ってきた物語と撮影が重なって終盤を迎える。撮影が終わり、場面が変わると、娘を連れて戻ってくるトニーのシーンから、娘がクリスに飛びついて三人の睦まじい景色で映画は終わる。

 

クリスの初恋の男性と撮影している作品の男優を同一人物で演じ、終盤、現実とフィクションが重なる演出のテンポがとっても素敵な流れになる。ヘタをすると凡作になる物語ですが、脚本のテクニックのうまさと爽やかな感動で終わらせる才能は見事でした。

映画感想「さらば愛しき大地」「たぶん悪魔が」

さらば愛しき大地

三十数年ぶりの再見。高度経済成長期に、次第に崩れていく旧態然とした日本の姿と近代化していく姿のチグハグな矛盾を切り取った見事な作品ですが、さすがに物語が暗くてどんどん沈んでいく展開は相当に重い。しかしそれでも引き込まれる描写力に圧倒される力強さには参ってしまいます。好みの映画とは言えませんが、評価に値する傑作だと思います。監督は柳町光男

 

工業地帯の明かりのショットからのタイトル場面が終わると、一軒の家の柱に繋がれている幸雄の場面に変わる。時は高度経済成長期、茨城県鹿島の農家の長男の幸雄は、何かにつけ反抗的ですぐに暴れる性格で家族から疎まれていた。妻との間に二人の男の子がいる。幸雄の弟の明彦は東京でサラリーマンをしていた。明彦の元カノの順子は村で男好きな母と二人で居酒屋をしていた。幸雄は工事現場のダンプの運転手をしているが、高度経済成長全盛期で飛ぶ鳥落とす勢いで、農家の仕事は両親と妻に任せて金儲けをしていた。

 

そんな頃、兄弟だけで溜池で遊んでいた幸雄の二人の息子が溺れて死んでしまう。妻を殴り、行き場のない怒りをぶつける幸雄は、背中に子供の戒名の刺青を掘る。さらにバス停で明彦の元カノの順子を乗せてやりそのまま関係を持ってしまう。そして順子に溺れて家にも帰らなくなる。一方、仕事の方は次第に陰りが出始め、順子との間に子供もでき、妻にも息子が生まれるに及んで、幸雄はいつの間にか覚醒剤に溺れ始める。

 

まもなくして東京の明彦が戻ってきて、幸雄と一緒にトラックの仕事を始めるが、元々経営に才能のない幸雄は取引先の信頼を失い、経営は明彦が中心になっていく。幸雄はますます覚醒剤にはまり、次第に幻覚を見るようになる。そんな幸雄をひたすら愛し続ける順子は、何かにつけて明彦に援助をしてもらいながらなんとか毎日を暮らしていた。

 

やがて明彦の結婚が決まるが、幸雄はすっかり薬にのめり込んでしまい、正気の時間がほとんどなくなっていく。そして明彦の結婚式の日、明彦に悪態をつく幸雄を明彦は家に帰す。覚醒剤をやめると宣言したものの、また覚醒剤を打ってぼんやりする幸雄に順子は泣いてすがりつく。幸雄に疎まれ、とりあえず台所に立った順子だが、正気を失って、順子さえも自分に説教してくる幻聴を聞き、包丁で順子を刺してしまう。明彦、幸雄の父、幸雄の友人の大尽らが刑務所の幸雄に面会して戻ってくる。こうして映画は終わっていく。

 

時折挿入される、田んぼののどかな景色と風に揺れる木々のカット、それを見つめる幸雄のショットが独特の情感を映画に生み出して、高度経済成長によって崩壊していく農村の奇妙な時の流れが見事に切り取られている映像が見事。落ちていく幸雄というキャラクターを物語のテーマにしたストーリーテリングも上手い。少々暗いけれど、素晴らしい一本でした。

 

たぶん悪魔が

何とも退屈な映画だった。淡々と一人の自殺願望の青年を追いかけていくストーリーに、制作当時の環境破壊問題や原水爆問題を取り入れた映像が繰り返すのについていけなくなってしまった。しかも、人物関係がよく理解できないというのもしんどかった原因かも知れません。傑作という解説ですが、私には無理でした。監督はロベール・ブレッソン

 

新聞記事に墓地で自殺したシャルルという青年の記事、続いて殺されたという記事が出て物語は六か月前に遡る。裕福な家に育ったものの、自殺願望があるシャルルは友人のミシェルたちと教会で環境保護の集会に出かけるが、違和感を覚えて出てくる。シャルルのポケットに青酸カリを見つけたアルベルトはそっと瓶を捨てる。浴槽に沈んだままでじっとしているシャルルをたまたまやってきた友人に見つけられる。

 

時は1977年、環境問題が次々とテレビで取り上げられ、さらに各国の原水爆実験のニュースが流れている。ある時、教会で寝袋に入っていたシャルルだが、隣で寝ていた男が募金箱の金を取って逃げ、シャルルは警察に捕まってしまう。しかしアルベルトらがシャルルを助け出す。シャルルは、精神科の治療を受けにいく。その様子を見てアルベルトたちは安心する。しかし、シャルルは、蓄えていた金を持って、知人を訪ね、銃を買い、あらかじめ決めていた知り合いに銃を渡して墓地で殺してもらうように依頼する。そして墓地で銃で撃たれてシャルルは死んでしまい、撃った男は暗闇に消えて映画は終わる。

 

友人以外の登場人物との関係がほとんど理解できないし、淡々と流れる物語と紋切り型の台詞の連続で、脈絡がつながっていかないので、さすがにしんどかった。

映画感想「十九歳の地図」「ゴッド・スピード・ユー!BLACK EMPEROR」「火まつり」

「十九歳の地図」

40年ぶりくらいの再見。初めて見た時の印象は忘れてしまったが、今見直してみると、一本芯の通った映画だなとしみじみ思う。時代色もあるのですが、描きたいメッセージがしっかりとブレずに描けている気がします。評価されるに値する一本であると思います。監督は柳町光男

 

一人の青年吉岡が新聞配達している場面から映画は幕を開ける。新聞屋の二階で生活する吉岡は、同じ部屋に中年のうだつの上がらない紺野という男と毎日を送っている。自分が配達している家々にバツをつけて評価をし、それを地図にしていく日々を送っている。バツをつけた家にいたずら電話をし、まるで自分の不満をぶちまけるような罵詈雑言をぶつける日々である。街には巨大なガスタンクがあり、それを囲んで、いかにも庶民以下の人たちが暮らしている殺伐とした世界を舞台に物語は展開する。

 

紺野には、マリアという、自殺未遂して片足が不自由になった女がいる。その女のために、ひったくりをしたりコソ泥に入ったりするのだがとうとう捕まってしまう。そんな紺野を見る吉岡はさらに悪戯電話に拍車をかけ、今日もガスタンクのある街を新聞を配って回る。ゴミを漁るマリアの姿を横目に走り去る彼の姿で映画は終わる。

 

鬱陶しいほどに暗い物語だが、一人の若者の未来に行き場のない苦悩の姿を描き出していくという芯がどの場面でもぶれない映像展開でなかなか迫力を感じてしまう。繰り返し描かれる新聞配達のシーン、玄関先で牛乳を盗んだり、吠えてくる犬に石をぶつけたり、そんな一つ一つがメッセージをこちらに投げかけてくる。これが映像表現と言えるものだと思う。決して好きな作品ではないけれど、映画としての面白さを感じられる一本だった。

 

「ゴッド・スピード・ユー!BLACK EMPEROR」

暴走族ブラックエンペラーの新宿支部の若者たちのドキュメンタリー。監督は柳町光男

 

密着したドキュメンタリーなので、それぞれのメンバーをじっと見据えるカメラ、一方で路上を疾走する暴走族の姿をスピード感あふれるカメラが追いかけるクライマックスと、かなりの力作である。しかも、それぞれの青年たちの心の姿をちゃんとカメラに収めている真摯な映像も好感。ドキュメンタリー映画の良し悪しはわからないけれど、見ていて、飽きない魅力のあるフィルムでした。

 

火まつり

ちょっと掴みどころの難しい映画でしたが、全体に漂う何かの存在がじわじわと忍び寄ってくる不気味さと、熊野の漁村の古いしきたりで縛られた閉鎖空間の空気感がシュールな中に時の流れを感じさせるなかなかの秀作でした。ラストの解釈がポイントなのかも知れません。監督は柳町光男

 

熊野の山林、木こりの達男、弟分のような良太らが仕事をしている場面から映画は始まる。山の上から見下ろしていると一艘の船に達男の古い愛人基視子がやってくる。基視子はその独特の色気で村の男たちを取り込んでいく。物語は基視子に翻弄されていく男たちの姿、良太が仕掛けた罠を作るのに神の木を使った描写から、次第に、何か得体の知れないものの存在を感じ始める達男と基視子の描写へ移っていく。

 

神が宿るという神聖な入江に仲間と飛び込んでみたり、何かにつけ、神聖なものへの反抗を繰り返す達男。どこかモヤモヤとする物を抱かえながら女と関係を持ち、妻と家族を大切にしている達男。そんな達男に憧れの視線を送る良太。港では、何度も重油を撒かれる事件が起こり養殖の魚が被害を受ける。水中公園建設の計画があり、村の不動産屋が奔走する。若者がバイクでやってくる。達男の子供時代に紀勢本線が開通したというシーンが挿入される。

 

ある時、山で作業をしていて大雨が襲いかかる。仲間は皆山を降りるが、達男は何かに呼ばれるように山に残る。そして、至上の存在が達男に何かを伝える。基視子は、男たちに貢がせた金を持って新宮へ帰っていく。

 

まもなくして、火まつりが行われ、達男は皆の静止を振り切って大暴れする。そして場面が変わると、達男は正装をしている。子供たちが学校から帰ってくる。達男はこどもらにジュースを買いに行かせる。子供らを送ってきた先生が子供に声をかける。銃声が聞こえる。慌てて子供らは家に向かう。先生も子供らの家へ向かう。銃を撃っていたのは達男だった。達男の家族が皆死んでいる。中に入った子供たちも撃たれ、達男は最後に自分を撃って果てる。いつもやってくるパン屋や刃物の行商人らが何事もなかったかのように帰っていく。海では、最近頻繁に起こっている重油がどこからともなく広がってくる。夕陽に染まる海が黄金に輝くようになって映画は終わる。

 

感性のみで見る作品で、画面から伝わってくる何かを感じ取りながら、作品全体の空気感を楽しむ映画という感じでした。ラストシーンの惨殺場面まで淡々と田舎の閉鎖的な日常を描いていきながら、何かの存在を映し出す演出がなかなか見事です。いい映画でした。

 

 

映画感想「カモン カモン」「マリー・ミー」

「カモン カモン」

ちょっと、自己主張が見え隠れするところがあるけれど、美しいモノクロ映像で素朴な画面の中でのシンプルな物語の中にピュアなメッセージを織り交ぜていく作りはそれはそれで、洒落た作品になっていたと思います。監督はマイク・ミルズ

 

デトロイト、子供たちに、これからの未来についてどう考えるかをインタビューして録音する仕事をしている主人公ジョニーの姿から映画は幕を開ける。子供たちは、未来に何を求めたり、未来に何が起こるかなどを語っていく。ある時、妹のヴィヴから電話があり、夫のポールの症状が良くないので、見に行きたいという。ポールは偏執症のような症状で苦しんでいた。ヴィヴには一人息子のジェシーがいるが、連れて行けないので、しばらく見てくれないかと言われる。ジョニーは、ロサンゼルスへ行って、ジェシーの面倒を見ることにする。

 

ジョニーは、子供の扱いに翻弄されながらもジェシーと生活を共にし始める。ジェシーは、ジョニーの録音機材に興味を持ち、ジョニーの手伝いを始める。ところが、ポールの状態があまり良くなくて、今しばらく預かってほしいとヴィヴから連絡があったが、ジョニーはニューヨークでの次の仕事に向かわなければいけない。ジェシーに聞いてみると一緒に行きたいということなので、一緒に行くことになり、ジョニーの仕事仲間と一緒にジェシーも行動を共にするようになる。

 

物語は、ジョニーがインタビューしていく子供たちの言葉とジェシーの生身の行動とを重ね合わせながら、子供たちの、社会に向けている視点や、両親などに持っている感情などを綴っていく。時に、大騒ぎになったりしながらジェシーとジョニーはなんとかうまく過ごしていく。さらに、ジョニーは、ニューオーリンズに移ることになり、ジェシーも一緒についていくことになる。やがてポールの容態も快復に向かい始めたことで、ヴィヴはジェシーを迎えにいくからとジョニーに連絡が来る。

 

強がっていながらも、母と会える喜びをなかなか出さないジェシーにジョニーは素直になるようにと行動で示していく。やがて、ジョニーのスタッフたちとも別れを告げてジェシーはヴィヴの元へ帰っていく。ジェシーが、ジョニーの録音機に、ジョニーへの想いを録音した言葉をジョニーが再生して聴いている。「カモン カモン 先へ、先へ進む」その言葉を聞きながら、ヴィヴと暮らし始めたジェシーはジョニーと電話で話をして映画は終わっていく。エンドクレジットには延々と子供たちへのインタビューの声がかぶる。

 

少々、自己主張的な演出がしつこく感じられなくもないけれど、美しいモノクロ映像でそのしつこさを素直な作品に昇華させていく手腕はうまいなと思います。ここがこうというわかりやすい作品とはいえませんが、何か伝わってくるものを感じ取ることができる素敵な映画だったと思います。

 

「マリー・ミー」

これまでも何度も使い古されてきたシンデレララブストーリー的な作品ですが、劇中で流れる歌がどれも素敵なので、最後まで退屈せずに楽しめました。監督はカット・コイロ。

 

ポップスターのキャットが、間も無く結婚式で歌う「マリー・ミー」の曲に乗せて体を動かしている場面から映画は始まる。相手は音楽界の新星バスティアンだった。一方、ここに数学教師で、娘のルーと同じ学校へ赴任してきたチャーリーは、数学クラブを顧問する数学オタクで、ルーも数学の才能があった。しかし、ルーにはかつて数学の大会であがってしまって敗北したトラウマがあった。チャーリーの同僚のパーカーは、そんな二人のために、キャットの結婚披露ステージへ一緒に行こうと誘う。

 

出番を待つキャットだが、突然、バスティアンの浮気現場を撮った動画が配信され広まってしまう。キャットは、ステージに上がる直前にその動画を見てしまい、そのままステージに立つが、動揺を隠せず、バスティアンとの結婚ソングの予定の「マリー・ミー」を歌えず、たまたま会場に来ていたチャーリーが持っていた「マリー・ミー」のプラカードを見つけて、「あの人と結婚する」と叫んでしまう。訳もわからずステージに迎えられるチャーリーだが、余興程度のことだろうと話を合わせる。

 

しかし、バスティアンとの仲も冷めてしまった今、キャットのマネージャーらはチャーリーとの結婚をたとえ数ヶ月でも実現してこの場を収めようとする。あとは、キャットとチャーリーの物語が、例によっての流れで展開、次第にキャットは真面目にチャーリーに惹かれ始める。さらに、あがり症のルーのために、発表の場でダンスをすればいいなどとアドバイスする。また、自作の曲に歌詞がつけられないとルーに悩みを打ち明けたりする。

 

キャットとチャーリーの仲が深まっていき、遂に一晩を共にした翌日、プエルトリコに帰っていたバスティアンが急遽戻って来る。二人の曲「マリー・ミー」がグラミー賞ノミネートされたのだという。大喜びするキャットたちを見てチャーリーは身を引く決意をする。賞の受賞で盛り上がるキャットたちのパーティに顔を出したチャーリーは、さりげなく別れを告げる。

 

チャーリーと疎遠になったキャットは、かつて詩が書けなかった曲に詩をつける。それはチャーリーへの想いだった。そしてその曲はみるみるヒットチャートに上がっていく。バスティアンと出たテレビ番組で、キャットとバスティアンの仲が戻ったかのように紹介する司会者に、キャットは、変わらなければいけないとその場を立ち去り、ルーの出場している数学大会の会場へ向かう。そして、ルー、チャーリーと本当の恋を確かめたキャットが抱き合うシーンで映画は終わる。

 

よくあるお話で、今更というほど使い古された展開ですが、とにかく、キャットのジェニファー・ロペスバスティアン役のバルーマの歌う曲が素晴らしいので、飽きずに最後まで見ていられました。流れのテンポもいいし、楽しい作品でした。

映画感想「フラッシュダンス」(4Kデジタルリマスター版)

フラッシュダンス

三十数年ぶり、いろいろ思い出のある映画です。初めて見た当時は、曲に視点が向いていて、ドラマ部分は退屈だった感想でしたが、今見ると、なかなかよく練られた作品だったなと見直してしまいました。ラブストーリーの王道という感じで、少々古臭さはあるものの、素直に感動してしまった。こんないい映画だったかなというのが再見しての感想でした。見て良かった。監督はエイドリアン・ライン

 

アイリーン・キャラのテーマ曲から画面は夜明け、主人公アレックスがバイト先の鉄工所へ自転車で向かうところから映画は始まります。ベタなオープニングですが、曲を知るものとしてはここからワクワクしてくる。そして右から左に流れるタイトル。鉄工所で働くアレックスは夜はダンサーとしてステージに立っています。物語は昼のバイトシーンと夜のステージシーンを交互に描きながら、彼女の周りの人たちのドラマと、鉄工所の経営者ニックとのラブストーリーが描かれていく。

 

一方で、バレエ学校のオーディションに申し込むのが怖くて悩むアレックスは、かつてのバレリーナだった憧れの婦人ハナとの交流を通じて、自分を見つめていく。そして、意を決してオーディションに申し込むが、文化委員会に知り合いがいるニックが裏から手を回し、アレックスはオーディションに受けられるようになる。

 

大喜びでハナに知らせるが、のちにニックが手を回していたことを知り、ニックと喧嘩別れ同然になり、オーディションを受けにいくか悩む。そんな時、ハナが死んでしまう。アレックスは覚悟を決めてオーディションに行き、モダンなダンスで審査員を唸らせて、見事合格し、ニックへの確執も解かれて抱き合ってエンディング。

 

今となってはそれほど斬新なダンスシーンではないし、クオリティもそこそこですが、なんと言っても流れる曲それぞれが実に素晴らしいので最後まで飽きません。背後からの照明を多用した絵作りも美しく、決して傑作というレベルではないのですが、爽やかな青春映画として心に残すべき一本でした。