くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「不気味なものの肌に触れる」「天国はまだ遠い」「オードリー・ヘプバーン」

「不気味なものの肌に触れる」

のちに制作される「FLOODS」につながるパイロット版的な中編で、エピソードを断片的に繋いだような作品でした。監督は濱口竜介

 

二人の青年千尋と直也が演劇の稽古をして体を動かしている場面から始まる。カットが変わり、千尋が道路の真ん中で寝転がっていて傍に兄斗吾その恋人里美が乗る車が止まっている。千尋と斗吾さっきの演劇稽古のようにふざけ合って千尋が彼方に走り去る。

 

千尋、直也、梓の三人は高校の同級生らしく、いつも一緒に遊んでいるが、梓は直也に別れを告げる。そして、梓は千尋に近づくが、千尋は相手にせず、シュールな展開の後、梓は死体で発見される。千尋と直也が稽古しているところへ刑事がやってくる。直也は自分が梓を殺したと告白し刑事に連れていかれて映画は一旦終わる。

 

まあ「FLOODS」の前日譚的な色合いなので、わかりにくいところもある一本でした。

 

「天国はまだ遠い」

中編ですが、ちょっと面白い作品で、霊となって現れる女子高生の姿と二人の若者の会話劇的な展開を楽しめる一本でした。監督は濱口竜介

 

雲の上のカットから、AVのモザイクを作ることを仕事にしている主人公雄三の部屋の場面となる。傍に女子高生の姿の三月がいるがどうやら姿は見えていない風である。三月は雄三に取り憑いていつも傍にいた。

 

ある時、三月の妹だという五月から連絡が入る。三月が殺され、三月の周辺の人をドキュメンタリーにまとめたいのだという。雄三は気が進まないものの五月の取材に応じることになるが、雄三は、傍に三月がいるからと五月に語る。そして五月の希望により、三月は雄三に憑依して、五月との思い出を語りはじめる。半信半疑だった五月はとうとう涙ながらに三月が憑依した雄三を抱きしめる。雲の上、三月の言葉が流れて映画は終わる。

 

ちょっと切ない感じの漂う短編作品で、凝縮されたストーリーが面白い一本でした。

 

オードリー・ヘプバーン

オードリーが亡くなって30年、特に彼女のファンだったわけではないですが、彼女の出た作品はどれも大好きです。そんな彼女のドキュメンタリーですが、涙ぐんで見終わりました。監督はヘレナ・コーン。

 

オードリー・ヘプバーンが「ローマの休日」で大成功する場面から、物語は幼少期に戻り、「ティファニーで朝食を」「麗しのサブリナ」などの名作の数々を振り返りながら、彼女のスター人生、さらには結婚生活を語っていきます。終盤はユニセフ大使としての活躍の中で、愛することを最後の目標にして行く彼女の笑顔に引き込まれていきました。いつの間にか涙ぐんでいる自分が居ました。いいドキュメンタリーだったと思います。

映画感想「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」「マイスモールランド」

「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」

とっても素敵な映画でした。ファッションが抜群に素晴らしいし、ニューヨークの景色を切り取った映像が洒落ている。しかもセンスのいい音楽で映画全体がリズミカルにかつ心地よく展開していきます。手紙の書き手が観客に向かって語りかける手法や、自然と挿入されるダンスシーンなども素敵、質の高い大人の映画でした。監督はフィリップ・ファラルドー。

 

黄色いステンドグラスの前でこちらに語りかける主人公ジョアンナのショットから映画は幕を開ける。詩人として作家デビューを夢みるジョアンナは勉強もがんばり、相当な成績で卒業、憧れのニューヨークへやってくる。時は1995年。しかし、出版社に勤めようとするが、出版エージェントの会社がいいのではと、ある会社を紹介される。

 

そこのボスマーガレットに気に入られ入社したが、新しいことを拒むマーガレットはパソコンより古臭いタイプライターでの仕事を推奨していた。この会社が扱う作家にサリンジャーがいた。マーガレットはジョアンナに、サリンジャー宛のファンレターの返事というか、サリンジャーがファンレターを受け取らないという手紙を送る仕事を与える。

 

何か違和感を持ちながらも、タイプライターでひたすら返事を書くジョアンナ。ファンレターの送り主が観客に語りかける演出と洒落た景色と登場人物のファッションにどんどん映画に惹かれて行く。そんな頃、サリンジャーから、30年ぶりかの新刊の出版の話が持ち上がる。マーガレットの代理人として電話で話すようになっていたジョアンナは、その出版にマーガレットに代わって奔走する。一方、ニューヨークでできた恋人ドンとの間にはいつの間にか溝ができ始めていた。

 

声しか知らないサリンジャーの仕事に一生懸命になるジョアンナだが、時折電話で話をするサリンジャーに、書き続けなければいけないとアドバイスされる。いつのまにかジョアンナは、サリンジャーに代わってファンレターの返事を描き始めるが、一人のファンから会社に怒鳴り込まれ明るみに出る。それでも首にしないマーガレットはジョアンナの才能を見抜いていた。

 

そんな頃、マーガレットの愛人で、ジョアンナも可愛がってもらっていた職場のダニエルがピストル自殺をする。落ち込むマーガレットをジョアンナは見舞う。

 

やがて、ジョアンナの努力が報いられ、エージェントとして独り立ちできるようになったが、兼ねてから、夢は作家になることと決めていたジョアンナは、これを機に会社をやめる決心をする。ドンとも別れ、自分が書いた詩集をかつてパーティで知り合ったニューヨーカー誌の友人に届け、自分の後任が決まるまではとマーガレットの元で働くジョアンナに、来客の知らせが届く。それは、旧友マーガレットに会いにきたサリンジャーだった。ようやく顔を見ることができて嬉々とするジョアンナの表情のアップで映画は終わる。

 

レストランで、かつての恋人カールとダンスをする場面に周りの人たちも踊る演出など、おしゃれな場面も散りばめられ、美しく切り取った景色に引き込まれながら、趣味の良い音楽に乗せられて行く。あっさりとしたストーリーで少々描き込み足りなく見えるところもありますが、全編、とっても詩的な綺麗な映画でした。

 

「マイスモールランド」

何を描きたいのかわからない薄っぺらい脚本と演出で、ダラダラとやたら長く感じる映画でした。主演の嵐莉奈がやたら可愛いのがかえって浮いてしまった感じのチグハグな映画で、脇役も適当な配置で全く本気が見られない一本でした。監督は川和田恵真。

 

クルド人の結婚式の場面から映画は始まる。サーリャとその家族も参列していて、風習として手に真っ赤な色をサーリャは入れている。埼玉県の普通の高校に通うサーリャは、将来小学校の先生になり夢を持ち、コンビニでバイトをしながら普通の生活を送っていた。バイト先で同じ高校生の聡太と出会いほのかな恋心も芽生え始めていた。

 

そんな時、難民申請の更新ができず、許可が却下されてしまう。仕事につけなくなった父は、以前の勤め先で警官に職質され逮捕されてしまう。東京のコンビニでバイトしていたサーリャも首になり、難民ビザが降りないことで進学も取りやめになり、友達の誘いでパパ活までしてしまう。そんな彼女を聡太は河原に連れ出し励ましたりする。

 

父は、本国に送り返されることを了解した。それは、父が日本を出ることで残った家族にビザが降りたことがあると知ったためだった。そんな父に最後の面会をするサーリャ。家に帰ってきたサーリャが見たのは弟や妹たちが紙で作った故郷だった。サーリャはそれを見て、新たな未来に行く決意を擦り。

 

何を言いたいのか。難民申請の不具合を訴えたいのか、難民たちの生活の窮状を訴えたいのか、苦境の中での主人公たちの物語を描きたいのか、なんともいえなく視点が見えない上に、ありきたりのセリフと展開にとにかく長く感じてしまった。難民申請の仕組みを全く説明していない適当な脚本も素人レベルで、普通の映画以下というレベルの一本でした。

映画感想「親密さ」「PASSION」(濱口竜介監督版)

「親密さ」

決して贔屓目で見ているわけではないけれど、この監督の演出力は半端じゃない気がします。一見、淡々と映像を繋いでいるようですが、いつの間にか訴えるべきメッセージが見えてきて全体が一つの作品にまとまってくる姿を作り出す力量は半端ではない気がしました。この作品は「親密さ」という舞台劇を作り上げる過程とその本番舞台の二部構成ですがちゃんと映画になっているのはすごい。ただ、一本の映画として見ると、後半がやたら長くて、前半と重なる部分がうまく噛み合っていない気がして、相当にしんどくなるのはちょっと残念な気がします。監督は濱口竜介

 

電車の中から風景を捉える映像から映画は幕を開ける。何度か出てくる列車のシーンが、次第に見えてくるメッセージに近づけるためのリズム作りになっています。場面が変わり、大学の演劇部の本読みの映像。脚本を描いた良平と演出担当の令子のアップに、役者たちへのダメでしが繰り返される。

 

令子と良平はどうやら同棲しているみたいで。お互いに深夜のバイトをしながらの日々であるようです。そして今回この二人がキャストで出ないと決めたところから物語が始まる。しかし、そんな頃、韓国に北朝鮮の攻撃が行われる事件がニュースで流れます。その事件を背景に、令子は、講義や説明会など、まるで演劇の稽古そっちのけのような毎日が続く。

 

そんな時、韓国に友人がいるメンバーの一人が、その友人からの連絡が途絶えたことから韓国の市民軍に入ることを決意し、日本を離れると言い出す。良平は怒るが、令子は、脚本を改編し良平に出てくれるように頼む。そしていよいよ迫ってきた日、令子と良平は延々と深夜の街を歩きお互いの気持ちを通わせる。夜が明け前半が終わる。この終盤の長セリフと長回しが恐ろしいほどに迫ってきます。

 

後半は舞台を映す展開となるが、さすがに長い。最初はそれなりに舞台上の物語に惹かれていくのですが、次第にしんどさが表に出てきてしまう。会話劇という形式もあり、その会話の応酬がくどくどと聞こえ始める。そしてようやく舞台は終わる。2年後、夜の列車に乗っていた令子は駅で降りる時に、韓国の軍服を着た良平と再会する。韓国の義勇軍で楽隊に入っているのだという。少し会話し、再び列車に乗りお互いに列車の中でいつまでも手を振って映画は終わっていく。

 

とにかく、後半が長い。全体のバランスを考えたら、ちょっとしんどい映画でしたが、それぞれのシーンの細かな演出が光っているのも確かです。

 

「PASSION」

これは恐ろしいほどの傑作でした。ちょっと頭が良すぎる脚本が鼻につく部分もありますが、ここまで知的な台詞の会話劇とストーリー展開を見せられるとなんのコメントもできなくなります。舞台劇を繋ぎ合わせた感じの構成ですが、それでも登場人物の細かい動きへの演出も見事で、本当に脱帽してしまいました。監督は濱口竜介

 

猫が死んで、その死骸を埋めている貴子と賢一郎のシーンから、タクシーの中、授業の補習で遅くなった教師をしている果歩と恋人で大学の講師らしいフィアンセの智也が乗っている。今日は果歩の誕生日会で、かつての友達が集まることになっていた。目的のレストランに着くと、毅と鞠江夫婦、賢一郎、らとパーティが始まるが、智也の視線は妙に泳いでいる。彼は女たらしで通っていた。鞠江のお腹には赤ん坊がいた。

 

やがてパーティは終わり、女性たちは先に帰り、智也、毅、賢一郎らは飲みにいくが、賢一郎の電話に友人の貴子から、久しぶりに会いたいからと連絡が入る。貴子のマンションへ行ったものの、智也の視線は微妙に貴子に注がれる。実は貴子と智也は関係があった。今日は貴子の叔母で作家のハナの飼っていた猫が亡くなったのだ。

 

そこへ突然ハナがやってくる。微妙な空気に中、通夜のように飲み始めるが、智也は貴子に視線を送るし、毅はハナに惹かれていた。賢一郎は果歩のことが好きだったが、貴子と付き合っている。物語はそれぞれパートナーがいながらも別の女性に惹かれる男たち、さらに本音を表に出せない不器用さの中で女たちに翻弄されながらも混沌としていく人間関係を見事に描いていきます。

 

毅はハナと懇ろになるも、ハナは仕事に戻ってしまう。智也は貴子にもう一度復縁したいと迫っていく。一方、果歩は学校でいじめによる自殺があり、その話を突き詰めていて、クラス全員がいじめに加担していたことがわかり、追いつめられる。この問い詰めていくホームルームのシーンがまず恐ろしいほどにすごい。

 

賢一郎が貴子のところにやってきたら、先約で智也が来ていて、賢一郎は帰るが、入れ替わりに毅がハナの連絡先を聞こうとやってきて智也と鉢合わせする。智也は貴子に迫るつもりはなく、自分の本心を探り出してほしいと毅を交えて真実の暴露ゲームを始める。結局、それぞれが心の内を暴露していくうちに取り止めもなくなり、毅は浴室へ貴子を押し込めてしまい、それを見た智也は出て行く。一方、賢一郎は果歩を誘い出して散歩に出て、自分の思いの丈を話すが結局果歩は離れて行く。

 

果歩が家に帰ると智也が帰っていて、別れようと言い出す。そして一旦出て行くが戻ってきてもう一度やり直したいと泣き崩れる。貴子は夜明けのバスに乗るが後ろの席に賢一郎が乗っている。こうして映画は終わって行く。ラストはやや収拾がつかなくなった感じです。

 

クオリティに圧倒されますが、舞台劇を並べたストーリー構成と、鼻につくほどに知的な台詞の数々に引き込まれてしまいます。若い頃の映画なので若干独りよがりに見えなくもないですが、見事な作品と言える映画でした。

 

 

映画感想「メイド・イン・バングラデシュ」「インフル病みのペトロフ家」「湖のランスロ」

「メイド・イン・バングラデシュ

これはちょっとした映画でした。まず、サビーヌ・ランスランのカメラが抜群に美しく、色とりどりのヒジャブを纏った女性たちの赤と黄色とブルーの衣装が映えるし、縫製工場での色彩演出も素晴らしい。ダリア・アクター・ドリという労働闘争を行っている実在の人物の実話を元にしていますが、ストーリーの組み立てや展開も実に面白くできているので飽きさせずにラストまで見入ってしまいました。監督はルバイヤット・ホセイン。

 

バングラデシュの首都ダッカの街の縫製工場の場面から映画は始まる。安価な賃金で働かされている女性たちの姿をとらえた直後突然警報が鳴る。火事だということで全員が避難、主人公シムも仕方なく帰宅する。翌日、給料をもらいに行って工場の前で追い返される。その帰り道、労働運動に組織の仕事をしている女性ナシマと出会い、組合を作るべきだとアドバイスされる。

 

シムはナシマの指示を受けながら、工場内で組合設立のための署名を集め、工場内の写真を撮るが、工場長やマネージャーらの圧力がかかり始める。しかも無職の夫さえもシムの味方になってくれない。男尊女卑の極端な社会と低レベルの教育水準の女性たちの姿を淡々と描く一方、マネージャーのレジと不倫関係にあるダリアの姿を描いていく。

 

結婚に逃げようとする同僚たちを鼓舞しながらシムは署名を増やしていくが、ダリアの不倫がバレて彼女は解雇されていく。さらに、署名の書類を見つけられた同僚も解雇される。間も無くして十分な署名があつまってシムは自ら組合長となり、労務省に組合設立の申請に行くが、事務はなかなか進まず、シムは追い詰められていく。

 

組合参加を承諾した同僚たちに解雇の危機が迫る中、シムは身を張って労務省に乗り込み、ようやく上司に設立許可への署名を得ることとなる。その書類を手に労務省を出てくるシムのアップで映画は終わる。

 

作劇のうまさ、映像の美しさ、バングラデシュという国の現実を見事に凝縮して切り取った作品で、映画としても見応えがあるし、メッセージもしっかりと伝わってきるなかなかの佳作でした。

 

「インフル病みのペトロフ家」

これはハマってしまうくらいに面白い独特の映画でした。主人公と一緒に高熱にうなされて幻覚を見る映画で、出てくる人物とか物語を繋ごうとすると頭の中が混乱してしまいます。結局、ほんのひとときの幻です。なかなかシュールながら楽しかったけれど、さすがに前半物語の構成がわからなくて疲れてしまった。監督はキリル・セレブレンニコフ。

 

ソ連崩壊後のロシア、エカテリンブルグの街、バスの中、派手な衣装の車掌が運賃を集めている。咳をしてインフルエンザの高熱に見舞われている主人公ペトロフの姿がある。バスが止まり、ペトロフが降りるが、突然銃を渡され、連れてこられた何人かをみんなで銃殺して、またバスに乗る。しばらくいくと、バスが止まり、友人のイーゴリがペトロフを引き摺り下ろし、自分の運転してきた霊柩車にペトロフを乗せる。中には棺に入った遺体もあった。熱でぼんやりするペトロフは意識を失いかけながら乗っている。

 

ペトロフは図書館に勤める妻マリーナとSEXをするが、マリーナはペトロフのインフルエンザがうつってしまう。家に帰って息子と接していたので、息子もインフルエンザの高熱が出る。帰ってきたペトロフは、息子が次の日に控えている学校でのパーティに出れるように看病をする。ペトロフのコートに入っていたアスピリンを息子に飲ませると翌朝は熱が下がったので、ペトロフは息子を学校へ連れていく。

 

ペトロフ旧ソ連時代の少年時代、同じくクリスマスのパーティで熱があったけれど出席していた。母との思い出や、雪娘に手を握られた思い出がスタンダードサイズで描かれる。一方、ペトロフは漫画を描いていて、空飛ぶ円盤なども出てくる。友人の自殺を手伝ったり、マリーナも熱に浮かされて息子の首を包丁で切ったり、公園で殺人を犯したりする。

 

少年の頃のペトロフの場面がモノクロで展開した後、現在のイーゴリは死体がなくなったと大慌て、そこで彼は死体が蘇ってバスに乗っていったと証言する。一方、イーゴリの悪戯で、棺の中に入れられていたペトロフは、棺を出てフラフラと彷徨い、やってきたバスに乗る。すると、派手な服装の車掌が運賃を払ってくださいとやってきてエンディング。要するに、悪友のイーゴリに霊柩車に乗せられたインフルエンザで高熱のペトロフの幻覚のお話であった。

 

ペトロフが見る幻覚の中で、突然全裸になる人物が次の瞬間元に戻っていたり、カメラが俯瞰で真上からペトロフらを捉えたり、辻褄の合わないシーンの連続に最初は翻弄されるがラストの処理で全てが幻覚だと判明して、なるほどという終わりがなんとも面白い作品。もう一度見るともっと面白さを堪能できそうな映画でした。

 

湖のランスロ

ずば抜けた傑作というわけでもない作品ですが、人物名が混乱する上に、ほとんど全員鎧を着ているので敵味方がよく見えないままに終盤の展開になった感じの映画でした。ラストの演出はなかなか面白かった。監督はロベール・ブレッソン

 

円卓の騎士が、王の命令で聖杯を探しにいくが結局見つからず戻ってきたというナレーションから映画は始まる。騎士の一人ランスロは、王妃グニエーヴルと許されざる恋に落ちていた。その証拠を掴み権力を得ようとするモルドレッドは、仲間を集め、ランスロを亡き者にしようと暗躍するが、ランスロは、隠れて試合に出て、自分を亡き者にしようとするモルドレッドに挑む。

 

しかし、ランスロはグニエーヴルへの恋を諦め、王妃を王の元に帰すが、時を同じくしてモルドレッドが反旗を上げて反乱を起こす。ランスロらはモルドレッド征伐に向かうが返り討ちに遭い、ランスロらは全員殺されてしまい映画は終わっていく。

 

ラストの、馬だけが戻ってくる演出でランスロらが敗れた流れを映像で見せる下りはなかなかのものですが、全体には普通の作品に思える一本でした。

 

映画感想「死刑にいたる病」「ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス」

「死刑にいたる病」

怖い、ひたすらに怖い恐ろしいほどの心理サスペンスの傑作。しかも、カメラワークが圧倒的に素晴らしい。映像で語るというテクニックを可能な限り駆使した画面に翻弄され引き込まれ、片時も目を離せない。それゆえに、物凄くしんどい。くたくたになるまで疲弊させられる鬼気迫る展開に、全く息もつけず、いつのまにか犯人榛村大和のマインドコントロールの中に引き込まれていました。なんとも言えない傑作。これが映画ですね。めちゃくちゃに楽しめました。監督は白石和彌

 

連続殺人鬼榛村大和が桜の花びらのようなものを水路に撒いている。実は被害者から剥がした爪なのだがそれは終盤までわからない。その映像に被って、大学生の筧井雅也は、祖母の葬儀の場にいた。彼は三流大学しか入れずエリート主義の父に疎まれていた。しかも母もそんな父に逆らえず家政婦のような境遇だった。祖母はかつて校長をしていたこともある地元の名士でもあった。

 

この冒頭の、音楽に合わせながら流れるように左右にパンされるカメラが素晴らしい。葬儀が終わった夜、雅也は一通の手紙に目が止まる。それは連続殺人鬼榛村大和から面会にきてほしいという内容の手紙だった。実は大和は、雅也が中学の頃通っていたパン屋の主人だったのだ。

 

意味もわからず雅也が面会に行くが、待合室で髪の長い不気味な青年とすれ違う。終盤、彼は金山という、大和の裁判で証人になった男だった。雅也が大和に面会すると、大和は、自分が殺人を起こした被害者のうち九番目の根津かおるだけは自分以外が犯人なのだと告白、真犯人を捕まえてほしいと頼んでくる。面会の帰り、交差点で髪の長い男と再度出会う。一方、大学では雅也の中学時代の同級生だという一人の女子大生加納灯里が声をかけてくる。

 

雅也は事件に興味を持ち、大和の弁護士である佐村の事務所に行き事件の資料を調べ始める。そして、大和が殺した被害者は全員爪が剥がされていること、年齢が十五歳から十八歳であるという範囲から根津かおるだけ外れていることを見つけ、別の殺人鬼がいると確信する。雅也は次第に事件の核心に近づいていくが、ある時、祖母の遺品を整理していて、ボランティア活動をしていた頃の大和の写真を見つける。しかも側に母玲子も映っていた。しかも玲子は、大和と同じく榛村家に養子にされたが、玲子は突然妊娠をしたことで責められ追い出されたのだという。雅也はその時の玲子が産んだ子供が自分で、玲子と大和は親しかったことから、自分は大和の子供なのではないかと疑い始める。しかも大和もそれらしい態度を取る。

 

さらに事件を追い続ける雅也は、根津かおるの勤め先に仕事で出入りしていた金山の存在を見つけ確信する。そんな雅也に大和は殺人犯だからと警告する。ある時、やや自暴自棄になった雅也はすれ違いざまにぶつかった中年男性を殺そうとしてしまい、思いとどまったものの、この時、自分は大和の子供ではないと確信する。

 

そんな時、金山の同僚だった相馬から金山の写真が見つかったと連絡をもらう。やはり金山は、以前雅也が出会った長髪の男だった。雅也は根津かおるが発見された現場に戻り、その時に、いつも根津かおるの現場におとづれていた長髪の女が金山であると確認する。その直後、金山は雅也に迫っていた。そして金山に捕まった雅也に金山はあることを話す。ここではっきり金山の台詞がないのがまたいい。

 

全ての真相を知った雅也は大和に会いにいく。そして、根津かおるを殺したのは大和であることがはっきりしたと話す。大和が若い頃に手名付けていた二人の少年のうちの一人が金山であり、金山の罪の意識を利用して、根津かおるを殺したかのように思わせ、さらに罪の意識を植え付けたことを話す。大和は玲子が産んだ子供は死産で大和と一緒に焼いたことと、雅也は大和の子供ではないことなど全てを大和に話す。大和の思惑は最後の最後で崩れたかに思われた。雅也は全てを終え、灯里とベッドを共にするが、なんと灯里のカバンから大和の被害者の写真、さらに大和からの手紙がこぼれ落ちる。灯里も大和に操られていたのだ。こうして映画は終わる。

 

まさに圧巻の心理サスペンスで、大和と雅也が対峙するときの透明ガラスに大和と雅也が重なる演出や、金山の姿や、少年を操る大和の姿の映像が映ったり、壁一面に被害者が映し出されたり、映像テクニックも駆使されて画面が物語を語っていく演出になっているのも見応え十分。拷問シーンは相当にエグいものの、ストレートに画面に出していない節度感は良い。欠点もあるものの相当なクオリティの作品に仕上がっていました。

 

ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス」

まあ、いつも通りのアベンジャーズ映画で、これと言って真新しいこともなく、CG満載で、次々出てくるキャラクターは全くわからないまま終わりました。でも監督はサム・ライミなので、やはりゾンビが出てきたのは笑った。

 

ドクター・ストレンジが、何やら不気味な空間で一人の少女アメリカと戦っている場面から映画が始まり、その少女を犠牲にして神聖な書を手に入れようとして夢から覚めて映画は始まる。そして、ドクター・ストレンジがクリスティンの結婚式に参列していると、突然外で轟音がし、見てみると巨大な化け物がマルチバースの扉を抜けてきて暴れている。側にアメリカがいるのを発見し、ドクター・ストレンジは、早速救出に飛び出す。そこへ、ウォンも参戦し怪物を倒す。

 

アメリカという少女は無意識にマルチバースの扉を開くことができる能力があり、何者かに狙われているという。ストレンジはワンダの元をおとづれて助けを求めるが彼女はダークホールズの力で邪悪な姿となり、全てのマルチバースで、自分の息子たちと幸せに暮らすためにアメリカの持つ能力を狙っていた。ストレンジらはアメリカをウォンの寺院に匿いワンダを迎え撃とうとするがワンダに負けてしまう。

 

別の空間に逃げたストレンジは、ワンダに倒されたもう一人のストレンジの死体を目にし、煉瓦の中に埋める。一方ワンダは、さらに強大になり、ウォンを脅して聖なる書によってさらに強大になりスカーレット・ウィッチとなっていた。そして最大の宿敵ストレンジに挑んでくる。ストレンジは、死体として埋めたもう一人のストレンジを操りスカーレットと最後の戦いに臨む。死体が蘇り、ゾンビのようになったストレンジはアメリカと協力してスカーレットを元の姿に返して物語は終わる。というような流れだった気がします。正直、よくわかっていません。

 

目新しいのは、ゾンビ演出の部分だけで、あとはいつものように、アベンジャーズの人物相関図や他のシリーズのネタを使った展開をCG満載で楽しむという感じでした。CGがなければなんの変哲もない映画だった気がします。。

映画感想「何食わぬ顔」(long version)「ツユクサ」

「何食わぬ顔」

東京大学映画研究会によって全編8ミリフィルムにて撮影された作品。画面が荒いのは仕方ないけれど、映画イン映画という形式とセリフのテンポで見せる面白さは、ちょっとしたものでした。監督は濱口竜介

 

競馬場で三人の青年が馬券を買って見ている場面。中の一人が勝ち、夜まで騒いで公園でサッカーをしている。彼らは自主映画を作っていたが、監督をしていた野村が亡くなり、頓挫していた。しかし、野村の弟は亡き兄の意志を継いで映画を完成させようということになって、かつての仲間に連絡を取り撮影を再開する。やがて完成した映画は上映され、主要メンバー五人のその後を淡々と描いて映画は終わっていく。

 

商業映画ではないので、ちょっと人物関係とかストーリー展開がわかりづらいところもあるけれど、後の濱口竜介監督の色合いがよく出ている作品でした。

 

ツユクサ

小ネタのエピソードや台詞を散りばめて展開する作品ですが、まとまりがないので、せっかくの物語が綺麗に締め括れなかった感じです。平山秀幸監督の得意な作品ではなかった感が目立つ仕上がりで、筋の通った中心の話がボヤけた仕上がりの映画でした。

 

間も無く50代という主人公芙美さん、彼女の友達の息子で仲の良い少年航平の一人台詞で映画は幕を開ける。航平は天体望遠鏡で夜空を見るのが好きで、隕石についてのうんちくを語っている。一人車を運転している芙美さん、突然、空が光り、何やら落下してきて、次の瞬間芙美さんの車は横転する。航平の母に助けを呼んだ芙美さんからも物語が始まる。

 

晒し工場でしょうか、芙美さんは同僚の妙子さんらと女子トークをしながらの日々。航平は芙美さんを連れて海岸に行き、先日落下した隕石を探し見つける。大学で調べてもらったら月の石だという。芙美さんは断酒会に参加している。芙美さんが酒に溺れるようになったのは息子を事故で亡くしたかららしく、それを忘れるためにこの街に来たらしい。

 

芙美さんは毎日ジョギングをするが、一人の警備の仕事をしている中年男性と出会う。彼は篠田吾郎と言って、元歯医者だったが、妻を自殺され、忘れるためにこの街に来た。さまざまな小さなエピソードが語られるが、中心の話は芙美さんと篠田吾郎さんの新しい恋に話である。

 

航平の父は母の再婚相手で、まもなくして新潟に転勤する話が出ている。芙美さんの行きつけのバーのマスターはかつて捕鯨船に乗っていたという。芙美さんの断酒会の会長は、実は酒を飲んでしまい芙美さんらに見つかる。そんな色々が次々と語られるので、芙美さんと篠田吾郎さんの話が完全に埋もれる。しかも航平の初恋のエピソードまで登場する。もう、ただのネタ帳的な展開である。篠田吾郎は、草笛が得意というのがあるのだがこの中心のエピソードが完全についで話になる。

 

やがて航平は家族と新潟へ旅立ち、芙美さんと篠田吾郎さんは恋に落ち、お互い未来へ進めるようになる。東京へ帰った篠田吾郎さんを

芙美さんは訪ねていく。そして、元の街に戻ってきた芙美さんを篠田吾郎さんが迎えにきて映画は終わる。

 

なんとも、まとまりのない映画です。ほのぼの癒し映画なのですが、できは非常に悪い一本でした。

映画感想「不都合な理想の夫婦」「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ」(監督自己検閲版)

「不都合な理想の夫婦」

ちょっと面白い映画なのですが、今ひとつインパクトに欠けるのは、淡々と作りすぎたのでしょうか。それが意図したものなのはわかるのですが、その中に力を感じさせないと映画が弱くなる。いわゆる不条理劇という感じの心理サスペンスで、結局全員がふりをしていたというエンディングは面白いのに、その面白さに迫力がなかった感じです。監督はショーン・ダーキン

 

ニューヨークで裕福に暮らすローニーと妻のアリソン、息子のベン、娘のサムと四人で暮らしている。毎朝、コーヒーを妻のベッドの脇に運ぶローリーの場面が繰り返される。ある時、ローニーは、ロンドンで会社を経営しているかつての上司アーサーの誘いがあったのでロンドンへ移ろうという。

 

家族がやってきたのは豪邸ともいえる大邸宅。アリソンが飼っている馬を六頭でも飼えるような土地を買って、分不相応という家に移り住む。アリソンは、調教しているリッチモンドという馬と何不自由なく暮らし始めたが、何か微妙ばギクシャクを感じ始める。娘のサムは何かにつけ反抗するし、ベンもどこかおどおどしている。ローニーは、アーサーに会社を売って合弁企業になるように提案その手続きに奔走する。

 

ある時、アリソンは、いつまでたっても馬小屋が出来上がらないのに不審を持ち業者に尋ねると、支払いがされていないという。銀行の貯金もほとんどなく、全てローニーの仕業だとわかる。一方、ローニーはアーサーから、会社売却の契約を破棄した旨を告げられる。リッチモンドが突然病気で死んでしまう。サムはすっかりアリソンに反抗してしまう。何もかもが崩れ落ち始める中でもローニーは必死で裕福であろうと努めているが、その勢いも次第に崩れ、アリソンもそんなローニーから心が離れていく。

 

ローニーとアリソンが、取引先と食事に行った夜、ベンは埋めてあったリッチモンドの体が表に出ているのを見つける。サムは友達を集めて、ドラッグパーティを始める。アリソンは、食事の席で裕福なふりをするのをやめる。そして、ローニーを放っておいて一人帰ってくる。ローニーは、乗ったタクシーに途中で降ろされ歩いて戻ってくる。

 

夜明けに家に戻ったアリソンは、殺伐となった家の中を見る。そしてベンに、馬の遺体が表に出てしまっている現場に連れていかれ泣き崩れる。サムはベンと朝食を作る。そこへローニーが歩いて帰ってくる。話があるというローニーにアリソンは子供たちの前で話そうという。サムはローニーを食卓へ誘う。ローニーが次の事業の話をやりかけるので、アリソンは、もうやめましょうと言って暗転してエンディング。ああそうなのかというラストでした。

 

多分ですが、この家族全員が裕福なふりをしてきたのでしょうか。それがどんどんエスカレートしていって結局破綻して、元に戻ろうという締めくくりかと解釈したのですが、前半の必死でふりをする流れがやや弱いので後半の展開とメリハリがつかなかったのが残念。面白い映画でしたけど、もう一歩もの足りませんでした。

 

「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ」

映画は娯楽であって遊びでもあるのだからこういう作品があって然るべきだと思いますし、面白い作品としての位置付けは構わないと思います。ただ、これはノリで見る作品であって、ベルリン映画祭で金熊賞を取らせる作品ではないし、そういう選択肢をした審査員の悪ノリ感はちょっと認められない。監督はラドゥ・ジューデ。

 

主人公で名門校の教師をしているエミが夫と大胆なSEXをしている場面をまともに写しているところから映画は始まる。と言っても、完全に画面を隠していてわからないのですが。そしてこの動画がネットに広まり、学校で保護者の前で聴聞会が開かれることになる。

 

第一部はエミがひたすら街を歩き続ける場面を捉え、第二部は、風刺コメントを入れていくカット映像の繰り返しを延々と見せ、第三部は、延々と聴聞会でのやりとりが描かれる。正直、奇を衒った映画ではあるが、それを狙っただけにしか見えなくもない。

 

結局、論点があちこちに飛んでいく皮肉な流れをあざ笑う流れでラストを迎える。そして、エミが教師として残る、退職させられる、さらにエミがヒーローコスチュームで変身して男たちに大人のおもちゃを咥えさせるという三つのエンディングで映画は終わる。

 

コロナ禍ということを正面にして、全員がマスクをしているし、言いたい放題の差別セリフが飛び出すのだが、爽快感よりも、呆れ感の方が前面に出る。映像表現としてはこれはこれで面白いのですが、果たして、最高賞をとらせて然るべきなのだろうかと思わなくもなかった。