くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「沈黙のパレード」「アナザー・カントリー」HDニューマスター版「ブロークン・ジェネレーション」

「沈黙のパレード」

この手の映画にクオリティを求めてはいけないけれど、このシリーズのお決まりシーンと展開を無視したために、平凡なサスペンスドラマになってしまった。そもそも、ミステリーが破綻した出だしから、あとはひたすら、物語を語るだけになっていて、登場人物の心の機微も、湯川教授の推理ドラマの面白さも全くない出来栄えでした。監督は西谷弘。

 

町内のお祭りでしょうか、今からのど自慢大会が始まるということで一人の女子高生佐織が歌うところから映画は始まる。彼女の歌声を聞く審査員の新倉夫婦の目を惹き、まもなくして佐織は新倉の指導で歌手を目指す。ところが、佐織が行方不明となり三年後、蓮沼という男の実家の火事現場から遺体が発見される。かつて一人の幼い女の子が殺害される事件で、蓮沼という男が逮捕されるが、終始沈黙を守ったために結局無罪にしてしまった草薙刑事は、再び、蓮沼を逮捕しようとするが、今回も釈放せざるを得なくなる。

 

ところが、しばらくして蓮沼の遺体が発見される。内海刑事は湯川に助けを求める。一方、佐織の両親の食堂の常連だった湯川は、佐織の両親に嫌疑がかかるのが目に見えていることから、蓮沼殺害事件の謎に首を突っ込み始める。そして、湯川の立てた仮説は、蓮沼が寝ている物置の部屋を密閉して液体窒素で酸欠を起こさせるというものだった。全く今回は無理矢理感満載で本編がスタートする。

 

やがて、佐織の両親並木夫婦だけでなく、彼らの友人ら全てが建てた計画だというのが見えて来るが、そこで、新倉直紀が、自分が液体窒素を使って殺害したと自首して来る。しかし、湯川は、新倉直紀の妻留美が、歌手を辞めるという佐織と言い争いになり、つい佐織を殺してしまった真相を見つけ出す。しかし、実は留美は佐織を殺していなくて、その事件を隠して後々揺すろうとした蓮沼が、佐織の体を実家に連れ去る際に、目を覚ました佐織を殺害したことが判明する。こうして事件は収束へ向かう。

 

ほとんどが湯川が語る物語のみという絵作りなのでかなり退屈だし、物理学を使ったSF的奇抜なシーンが今回はない上に、お決まりの計算式を書く場面もないので全体が普通のサスペンスドラマで終始してしまった。犯人たちの人間ドラマも、過去の少女殺害事件についてもエピソードのみで、嫌なジャーナリストの登場も、佐織の恋人の存在も無意味、とにかくキレの悪い雑な映画でした。

 

「アナザー・カントリー」

とってもクオリティの高いいい映画なのですが、ストーリーがあまり知識のない分野ゆえ、なかなか入り込めませんでした。特に冒頭のモスクワのシーンの意味が映画を見ているだけでは理解しにくかった。監督はマレク・カニエフスカ。

 

1983年モスクワ、一人の女性がある建物にやって来る。出迎えたのは車椅子の老人で、彼は祖国イギリスを裏切りロシアに亡命しているスパイだった。そして老人は、なぜスパイになったのかを語り始め1930年のイギリスの話となる。

 

大学の寮だろうか、ベネットは、共産主義の勉強をしているジャドと親しく付き合っていた。ジャドはブルジョア主義を貫くベネットと考え方は違ったがなぜか気が合っていた。最終学年を迎え、寮の中では、幹事や最終的に寮の代表となることが将来の出世につながる中、権力争いが行われていた。

 

ベネットは寮では目立つ存在だったが、追悼礼拝式で、別寮のハーコートという美少年に恋してしまう。そんな頃、ベネットの寮の学生が同性愛の現場を見つかり自殺してしまう事件が起こる。この事件で寮内は不穏な空気が漂い、寮の責任者バークレイ、さらにデラヘイは与えられた特権で横柄な態度が目立ち始める。軍国主義者のファウラーは、ジャドやベネットのような異端者が許せず、とうとうベネットの同性愛の証拠を掴んでしまう。

 

プライドを傷つけられ、将来の出世も無くなったベネットは、スパイ活動への道を進んだという流れなのだろう。再度モスクワのシーンになって、ジャドは、戦地で亡くなったと言って映画は終わる。

 

映画は非常にクオリティの高い美しい作品で、全体から漂う英国の気品と対する学生たちの俗っぽい権力争いが対照的で、なかなかの映画でした。

 

「ブロークン・ジェネレーション」

完全なB級の青春映画という感じで、映画の出来栄えは普通という感じの一本。若き日のチャーリー・シーンの作品です。監督はペネロープ・スフィーリス。

 

さまざまな殺人鬼の説明が描かれて、映画はロイとびボーの高校の卒業式の日、ボーが地面に寝転がり、死体の跡を示す白い枠取りをロイがしている場面から始まる。二人は親友だが、そのやることは周囲の学生たちから嫌われ、卒業式の後のジョーらのパーティにも招待されなかった。それでも勝手にパーティに行ったボーとロイは結局追い出される。

 

二人は車でロサンゼルスへ向かう事にするが、途中のガソリンスタンドで、気に入らない店員をリンチにしてしまう。その事件に刑事が乗り出す。続いて、ゲイバーで誘われたゲイを殺してしまい、そのまま逃走。続いて誘われた女の部屋で、ロイはまたその女を殺すが、車が警察に発見されショッピングセンターへ逃げ込む。ロイはますます異常になってきて、そんなロイをボーはとうとう撃ち殺して警察に捕まってエンディング。

 

なんとも言えない、普通の、切れた若者たちのメチャクチャ映画でした。

映画感想「レインマン」

レインマン

約四十年ぶりくらいに見直した。初めて見た時の印象は薄かったけれど、この歳になってみると、本当に染み入って来る感動がありました。しかも、フィルム時代の画面は何故こんなに綺麗なんだろうと改めて引き込まれてしまいました。やはり名作ですね。監督はバリー・レビンソン

 

真っ赤なスーパーカーが港に下されるところから映画は始まる。受け取っているのは車の輸入販売しているチャーリーだったが、仕入れた車の検査が通らず、四苦八苦していた。恋人のスザンナと車で走っている時に、シンシナティの父の弁護士から、父が亡くなったと連絡が入る。チャーリーが実家に着くと、弁護士は、チャーリーの乗っていたクラシックカー一台と庭の薔薇を相続させるという内容と、自宅他の300万ドル相当の資産は信託に託された旨を説明される。納得のいかないチャーリーは、信託銀行へ行き、とある施設にいるらしいもう一人の相続人に会いにいく。

 

そこでブルーナー医師と出会う。彼はチャーリーの父の友人でチャーリーの父に委託されて財産を管理する事になったと告げる。相続する人物を聞き出せないまま諦めて外に出たチャーリーだが、車の運転席に乗っている一人の男を見かける。彼はレイモンドと言って、チャーリーの兄だとブルーナー医師に説明される。兄弟がいないと思っていたチャーリーは驚く。

 

チャーリーは、レイモンドを使って弁護士と交渉して遺産を手に入れるべく、レイモンドを勝手に連れ出す。一方、車の販売がなかなかうまくいかず、チャーリーは至急ロサンゼルスへ戻らざるを得なくなるが、飛行機も高速道路も嫌うレイモンドのために、一般道を車で戻る事になる。映画は、チャーリーが四苦八苦して自閉症のレイモンドを伴ってロサンゼルスを目指す姿を描いていく。

 

途中のモーテルで、実はチャーリーが幼い頃、架空の友達だと思っていたレインマンが、レイモンドであること、チャーリーが怪我をしてはいけないからとレイモンドが施設に移された事を知る。

 

とある街で精神科を探していて立ち寄った際、その医師にレイモンドを診察してもらった時に、レイモンドは天才的な記憶力があることがわかる。たまたまラスベガスを通り抜けた直後だったので、チャーリーは、一攫千金得るためにチャーリーを利用することを考える。そして、カードで大金を得たチャーリーのところへ、スザンナが訪ねて来る。スザンナは、エレベーターの中でレイモンドとダンスをし、キスをしてあげる。

 

ブルーナー医師立ち合いの元、裁判所へ持ち込む診断資料のためレイモンドは医師の面談を受ける。結局、レイモンドはブルーナー医師の元へ戻る事になるが、最後の最後に、レイモンドはチャーリーのことを、メインマン=親友だと認める。列車に乗るレイモンドをチャーリーが見送り、二週間後に会いにいくからと約束して映画は終わる。

 

とにかく画面が抜群に美しいし、ダスティン・ホフマンの圧倒的な演技力と、その向こうを張ってのトム・クルーズの演技が映画を引っ張っていきます。淡々とした静かなストーリーながら、不思議な何かか胸に残ってしまう素晴らしい映画でした。改めて、やはり名作です。

映画感想「3つの鍵」「靴ひものロンド」

「3つの鍵」

身勝手極まりない人物たちの群像劇の如き不条理劇。導入部から一気に本編に持っていく展開は鮮やかと言えますが、いかんせん登場人物誰にも共感できない。それを狙ったかのような不気味なカラスの描写がなんともブラックユーモアのような空気感を生み出すというイタリア映画らしい作品でした。監督はナンニ・モレッティ

 

あるアパート、一人の女性が子供が産まれそうになって飛び出して来る。彼方から猛スピードの車が走ってきて、一人の女性を轢いて建物に飛び込む。車を運転していたのは裁判官の仕事をしているジョバンニとドーラの息子アンドレアだった。酒に酔って突っ込んだアンドレアを執拗に心配する母のドーラだが、まず被害者の女性を心配しろよ。というオープニング。

 

お腹の大きかった女性はモニカで、夫ジョルジュは仕事で不在がちの中、ベアトリーチェを産む。ジョルジュの兄ロベルトは不動産で成功しているが、ジョルジュは近づいてほしくないほど嫌いである。そんなロベルトから出産のお祝いが届くが、ジョルジュは返してしまう。

 

同じアパートのルーチャとサラの夫婦、そして娘のフランチェスカが住んでいる。仕事のトラブルなど自宅を開けざるを得なくなり、七歳のフランチェスカを向かいの老夫婦に預けるのが日常になっている。この日も、フランチェスカを預けて仕事に出たが、フランチェスカと遊んでいた老人が行方不明になったという。必死で探したルーチャは、公園で二人を見つけるが、ルーチャは、フランチェスカが何かされたのではないかと心配になる。検査して異常はなかったにも関わらず執拗に老人に食ってかかるルーチャ。

 

そんな頃、老夫婦の孫のシャルロットがやって来る。幼い頃からよく知っていたルーチャは、シャルロットを通じて、フランチェスカと老人の真相を探ろうとするが、シャルロットは突然服を脱いでルーチャを誘惑して来る。最初は拒否したが、つい体を重ねてしまう。それからも近づいて来るシャルロットをルーチャは遠ざけようとするが、シャルロットは告訴する。そんな頃老人も病院で亡くなり未亡人の老婦人はルーチャを憎み始める。

 

アンドレアは、両親が裁判官だから助けてくれと無理難題を言い、拒否すると、父のジョバンニを殴る蹴るの暴行をする。結局5年の刑を言い渡される。当たり前やという展開。

 

モニカは、子育てが不安で、時々室内に黒い鳥を見るようになる。そんな頃、夫の兄ロベルトが詐欺の罪で訴えられる。逃げ周るロベルトは、ある夜、モニカの家にやってきて匿ってほしいという。ロベルトとジョルジュがなんで険悪な関係になったかを聞くモニカ。モニカはベアトリーチェを学校に送っていくと、ジョルジュが待っていた。モニカはロベルトが来たことを話し家に戻るがロベルトはすでにいなかった。

 

5年が経つ。アンドレアは出所して来る。しかし両親の元に戻ることはない。両親に恨みがありのだ。シャルロットに訴えられたルーチャは無罪という判決が降りるが、シャルロットは控訴する。ルーチャは直談判して抗議しにいくが、シャルロットの祖母や母親はけんもほろろにルーチャを追い返す。

 

そして5年が経つ。ドーラの夫ジョバンニは、病気で亡くなったらしい。アンドレアの居どころがわからず連絡もできない。ジョバンニの遺品などをボランティアに持っていくが、そこでルイジという男性と知り合う。ドーラは家を売る段取りをしていたが突然ルイジが現れ、一緒に行ってほしいところがあるという。ドーラがルイジの車で向かうと、そこにはルイジの娘と結婚したアンドレアがいた。しかし、今更母の元に戻る気はないと突っぱねる。

 

モニカは二人目の子供を出産する。しかし相変わらず部屋の中に黒い鳥が見えるモニカ。ある朝ジョルジュが出張に出ようと準備していると、モニカの姿が消えてしまう。ジョルジュは娘のベアトリーチェと息子と三人の子育てが始まる。

 

ドーラはかつてジョバンニが吹き込んだ留守電の電話に今までの色々を吹き込むことを繰り返していたが、やがてそれも録音できなくなる。

 

ベアトリーチェは留学の計画がありが不安だった。シャルロットは、ルーチャと再会、控訴は取り下げたが、昔から好きだったと告げる。そして恋人と暮らすため出ていくのだという。

 

通りで賑やかな曲が溢れて生きて、大勢の人たちが踊っている。それを見て車に乗るベアトリーチェの背後にモニカの姿が見える。ドーラの元にアンドレアも赤ん坊を連れてやって来る。こうして映画は終わっていきます。

 

とにかくてんこ盛りのエピソードが満載の作品で、誰も彼もが好き勝手な身勝手人間ばかり。人間ドラマとして胸に迫る何かを描かんとしている風に見えるのですが、登場人物への感情移入が出来きれず、ラストのハッピーエンドも素直に受け入れられませんでした。前半と後半のバランスの悪さかもしれません。面白い映画なのですがね。

 

「靴ひものロンド」

もっと胸に迫るものかと思っていたのですが、意外に冷めたブラックユーモアかと思わせる皮肉たっぷりの人間ドラマでした。時間を前後させたり、これでもかという憎まれ口を叩く妻ヴァンダを描写したり、身勝手すぎる夫アルドの存在は映画に唐辛子のようなスパイスをもたらし、ラストの真実を浮き上がらせたのは面白かった。監督はダニエレ、ルケッティ。

 

ジェンカを踊る人たちに陽気な場面から映画は幕を開けますが、これが陽気ではなくて嫌味である、皮肉であることが次第に見えてきます。アンナとサンドロの二人の子供をお風呂に入れている良き父アルド。妻のヴァンダと二人きりになったアルドは、別の女と関係を持ったとしゃあしゃあと告白する。当然ヴァンダは切れてしまうが、アルドは一向に動じない。なんて男やと思うオープニングである。ヴァンダの言葉は何かにつけて辛辣で嫌味が混じっている。偏執的な女というイメージです。

 

アルドはラジオドラマの語りをしているようで、アンナとサンドロも大好きだった。アルドの浮気相手は同じ職場のリディアという美しい女性だった。ヴァンダはアルドを追い出し、アルドは時々子供たちと会うという別居生活が始まる。悔しくてたまらないヴァンダは、狂ったようにアルドに当たったり、リディアを殴ったりしてどんどん神経的にエスカレートし、とうとう窓から飛び降りて自殺未遂をしてしまう。

 

アルドは子供たちの世話をすることになるが、やがてヴァンダの怪我も回復、この日も車で子供がアルドと過ごす日のためにやって来る。アンナは大きくなり、反抗期の年齢のようである。アンナとサンドロはアルドと歩いていくがそれを見届けたヴァンダは意気揚々と路地を駆け抜ける。背後にジェンカが流れる。

 

カットが変わると、年老いたヴァンダとアルド、一匹の飼い猫がいる。アルドが宅配の品物を受け取り、配達の女の子に騙されて余計な金を払ってしまう。玄関にあかずの箱という細工をした箱がある。余計に金を払ったアルドを責めるヴァンダ。ここから、老年となったアルドたちと、若き日のアルドたちの映像が交錯し始める。

 

アルドはリディアとローマで暮らし始め、ナポリのヴァンダたち家族と行き来する日々を送る。アルドはリディアのヌード写真を撮り、実はリディアにもらった細工の箱に隠している。老年となったアルドとヴァンダは、一週間ヴァカンスで家を開けるが、戻ってみると家の中は泥棒が入ったように荒らされていて、飼い猫が行方不明になっていた。アルドは、細工の箱を見つけるが中身がないため、整理している風にあちこち探し始める。ヴァンダも自分の身の回りを整理しながら何やらしている。タンスの後ろに何か見つけたとヴァンダが言う。

 

すでに成人になったアンナとサンドロが会っている。サンドロの靴紐の結び方がおかしいとアンナは言うが、アルドに教えられたのだという。若き日に戻るとアルドが教えたつもりはなく見よう見まねで覚えたのだという。成人したアンナとサンドロはヴァカンスで不在の両親の家にいた。サンドロは、突然この家には秘密がたくさんあるのだという。アルドは、リディア以外にも浮気をしていたし、ヴァンダも浮気をしていた。アンナは、何かにつけて執拗に説教するヴァンダが嫌いで、リディアのような綺麗な人に憧れていたのだと告白する。

 

サンドロは、細工の箱からリディアのヌード写真を出す。そして二人で、アルドとヴァンダの秘密の証拠を探そうと決めて部屋中ひっくり返し、さまざまなレシートや写真をばら撒く。最後に、リディアの写真をタンスの隅に隠し、アンナは飼い猫を抱いてその家を出る。こうして映画は終わっていきます。

 

全体が、人間は誰しも嫌味と嘘の塊なのだと見せつけるブラックユーモア的な作品で、面白いのですが、イタリアならではの気質が生み出す空気感には同感できず、一歩のめり込めない作品という感じの一本でした。

映画感想「地獄」(ロミー・シュナイダードキュメンタリー)「LOVE LIFE」

「地獄」

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の未完成の映画「地獄」を描いたドキュメンタリーです。結局、残されたフィルムを中心にした作品ですが、完成していたらどうなっていたかなんとも奇妙な作品になったであろうという感覚は掴めるドキュメンタリーでした。

 

妻の浮気を疑う夫の悪夢のような妄想を、テクニックを駆使した映像と編集で見せる作品らしく、ライティングで遊んでいるかのような映像や、不気味な構図を交えて作って行ったフィルムの断片が綴られ、一方で、偏執的な演出で役者を動かすクルーゾー監督の狂気についての証言も語られていきます。クルーゾー監督の突然の心臓発作で映画は未完成に終わり、ロミー・シュナイダーが、これで良かったというようなセリフで映画は終わる。貴重なドキュメンタリーという一本でした。

 

「LOVE LIFE」

木村文乃が新境地にチャレンジするというので期待もしましたが、なんとも居心地の悪い映画でした。登場人物の背景を一切ぼかしてしまって描かないことを徹底した脚本がこの心地悪さを生み出した気がします。それと、考え過ぎかもしれませんが、韓国人や韓国シーンを無理やり入れた物語と聾唖者であるキャラクターの挿入が肝心の子供の事故から動き出す物語のテーマをぼかした気もしますし、賞狙いがあざとく見えてしまった。監督は深田晃司

 

とあるアパート、下の広場を見下ろすと、二郎の職場の同僚が何やらプラカードを出している。二郎の父の誕生日のお祝いメッセージらしく、リハーサルを終えて休憩に行く同僚たちを送り出す二郎。なぜか二郎の元カノで、職場の同僚の山崎が来ている。その設定がまず疑問かつ説明が弱い。妙子は連れ子の敬太とオセロをしている。敬太はオセロで優勝したほどの腕前らしい。二郎の父は妙子との結婚を許していない風で、この日、父の誕生祝いをすることで、関係を和らげようとしている。

 

間も無く二郎の両親がくるが、父は相変わらずそっけないし、冷たい言葉を妙子に浴びせる。険悪なムードの中、広場でにプラカードイベントが成功、和やかな雰囲気になって同僚たちを交えてのパーティーが始まる。父も気を良くしてカラオケを始める。そんな時、おもちゃで遊んでいた敬太が風呂に落ちて死んでしまう。絶望の中、葬儀が執り行われるが、そこへやってきたのは妙子の元夫のパクだった。パクは聾唖者で、妙子を殴って泣き崩れる。

 

妙子は福祉の仕事をしていて、公園で暮らしているパクを訪ね、実家から送ってきたパスポートなどを届けるが、しばらくしてパクは生活保護の申請にやって来る。韓国語の手話ができる人がいないため妙子が担当することになる。パクは敬太が生まれてすぐに行方をくらましたらしいが、なぜか敬太の手話も堪能だし、まず矛盾、しかもなぜ失踪したかの説明は結局最後までなかった。

 

二郎の両親は同じ団地の向かいの棟に住んでいたが、いい物件が見つかったと引っ越すことになる。その手伝いに二郎はついて行くがその先に、山崎の実家があり、会って話をする。二郎と山崎の経緯もセリフで説明されるが、実に薄っぺらい。一方、妙子は二郎の両親が住んでいた部屋にパクを住まわせる。妙子は執拗にパクを一人にしておくことが不安だった。まもなくして二郎が帰ってくる。両親のかつての部屋のベランダにパクと妙子がいるのを見かけて、その部屋に行く。パクはこの部屋を出て行くというが、妙子は一人にできないからと引き止める。そこへパク宛の手紙が届く。パクの父が危篤なのだという。

 

慌てて韓国に戻ろうとするパクだが、港で、妙子はパクを一人にして置けないと同行してしまう。妙子の執拗なこだわりが全く伝わってきません。そんな妙子を見つめる二郎の心はかなり複雑なのだろうがそこもあっさりである。韓国についたものの、実はパクの父が危篤というのは嘘で、パクの前妻との息子の結婚式の案内だったことがわかる。なんともお粗末な展開である。パーティで騒ぐパクたちを見つめる妙子。雨が降ってきて、一人踊る妙子。

 

妙子は自宅に戻ってくる。そこへ二郎が帰ってくる。二人は何事もなかったかのように散歩に出て映画は終わるが、この静かなラストに秘められたメッセージが全く伝わってこない。

 

極端な言い方をすれば不条理劇である。誰一人、まともな人間はいないし、まともな展開もない。二郎や妙子ら人物の背景を一切描写しないので、台詞の端々だけで何かを感じざるを得ない作劇になっている。しかも、妙にだらだらしたテンポで展開する。二時間で描く映画ではない気がしました。

 

映画感想「サン・スーシの女」「夕なぎ」

「サン・スーシの女」

ロミー・シュナイダーの遺作。正直なところ、ちょっとしんどい作品でした。第二次大戦下の過去の物語と現代の裁判シーンとのバランスが悪いのか、いまひとつ物語にのめりこめないところがあって、結局、ナチス反対映画というテーマなのか、一人の男性にかけた強い女性のドラマなのか纏まりきらない感じの作品でした。監督はジャック・ルーフィオ。

 

一人の女性リナが空港へやってきて、この日、夫のマックスを出迎えるところから映画は始まる。マックスは足が悪く、いつもびっこをひいている。マックスは人権擁護団体を設立しその代表として講演を行いホテルに帰って来るが、そこへ封書が届く。中を開けてみると、パラグアイ大使の写真が同封されているが、それを見たマックスは突然出かけ、パラグアイ大使の元へ行く。そして大使の本名を確認すると銃で撃ち殺してしまう。大使はドイツ人でマックスが幼い日、パリのドイツ大使だった。

 

逮捕されたマックスは裁判において第二次対戦中の物語を語り始める。ユダヤ人だったマックスは父と散歩していて突撃隊に襲われ、父は殺され、マックスは足を怪我をさせられる。そんな彼を養子に迎えて保護したのが、ドイツ人のエルザと夫ミシェルだった。ミシェルは、反ナチスの記事を載せる新聞を発行していて、目をつけられていた。エルザは、マックスを育てながら、ミシェルの解放を画策する。

 

たまたまパリへ行く汽車にのっていてモーリスは、一人の男に金をパリのエルザに届けてほしいと頼まれる。その男はミシェルで間も無くゲシュタポに逮捕される。モーリスはエルザに金を届けた後もエルザのそばにいて、エルザはモーリスに支えられながら、ミシェル解放の方法を考える。やがて、ドイツ大使と親しくなったエルザは、大使と寝ることでミシェルを解放するように求める。

 

まもなくしてミシェルは収容所から解放されエルザの元へ戻って来るが、ドイツ大使は、その日ミシェルを街頭で撃ち殺してしまう。そして舞台は最後の裁判シーンへ。結局、マックスは執行猶予となって釈放されるが、傍聴人の一部はリナに罵声を浴びせる。テロップが流れ六ヶ月後二人は自宅前で銃で撃たれて死亡すると出てエンディング。

 

非常に組み立ての悪い作品で、しんどい。殺人を堂々とやった男が、理由がどうあれ、執行猶予となる下はさすがにラストシーンとしては納得できないし、六ヶ月後に亡くなったというテロップで救われるとはいえ、反ナチス映画であるのか、人間ドラマなのか、恋愛ドラマなのか、どこか焦点がぼやけた映画でした。

 

「夕なぎ」

これは面白かった。というか、とっても良い映画でした。フランス映画らしい、倫理観も何もない自由奔放なストーリーといえばそれまでですが、物語に勢いがあるし映画のテンポもいい。さらにイヴ・モンタンの存在感ゆえに映画が破綻せずに最後まで走れるからいい。ラストシーンは不思議と感動してしまう。名作という表現はおかしいですが、秀作でした。少女時代のイザベル・ユベールが出ています。監督はクロード・ソーテ

 

漫画雑誌を作っているダヴィッドが、友人の画家のアントワーヌのアトリエにやって来るところから映画は始まる。解体業で成功を収めたセザールはこの日恋人のロザリーを伴ってロザリーの母シュリーの三度目の結婚式に向かっていた。そこへ招待されたのがロザリーのかつての恋人ダヴィッドで、彼がいると知ってセザールも動揺する。式の後の披露宴に向かう途中で、セザールはダヴィッドの車と競争して事故寸前になってしまう。パーティ会場でもセザールは何かにつけてロザリーは自分のものだとダヴィッドに主張するが、そんなセザールの姿を疎ましく思うロザリーだった。

 

パーティの後、自宅で深夜までポーカーをしていたセザールは、ロザリーの姿がないことに気がつく。一心不乱にロザリーを探すセザール。実はロザリーはダヴィッドの仕事場に来ていた。セザールのダヴィッドへの嫉妬はどんどん高まり、陽気なセザールに惹かれる一方、若さに溢れるダヴィッドにも惹かれるロザリーの心も揺れ動く。

 

セザールは次第に憔悴し始め、とうとうダヴィッドのところへ行って、ロザリーと近々結婚すること、ロザリーは妊娠していると嘘を言ってしまう。そのことを知ったロザリーはセザールの元を去ろうとするが暴力的に必死で止めるセザール。それでもロザリーは出て行ってしまい、セザールはダヴィッドの仕事場に行って部屋を無茶苦茶にしてしまう。それを見たロザリーとダヴィッドはセザールの事務所へ行き損害金を取る。

 

ロザリーとダヴィッドは娘のカトリーヌと三人で暮らすが、居場所を突き止めたセザールがやってきて、海辺にアトリエを買ったから一緒に住もうと提案する。ロザリーとカトリーヌ、セザールは海辺で暮らし始める。しかしロザリーの心は空だった。そんなロザリーを見かねたセザールはダヴィッドの事務所を訪ねて、ダヴィッドを無理やりアトリエに連れてきて、一緒の生活が始まる。次第にセザールとダヴィッドも友人同士のように心が通い始める。そんな姿を見たロザリーは、二人を残してカトリーヌを連れて去ってしまう。

 

時が流れ、海のアトリエも閉めて、セザールはパリに戻ってくる。ダヴィッドは、新しいアトリエで仕事を続ける。ある時、セザールはダヴィッドを訪ね、二人がセザールの自宅で食事をしていると、表にロザリーが現れる。ロザリーは、ゆっくりと門をくぐってきて映画は終わる。

 

よく考えると倫理観が破綻している気がしますが、そこがフランス映画という感じで突っ走ります。二人の男性に揺れ動く一人の女性、一人の女性を愛した二人の男の心の葛藤、そして男同士のドラマ、全てがラストシーンで心地よく締めくくる。映画の作りを徹底的に利用した作劇が見事な一本です。面白い秀作という作品でした。

 

 

 

 

映画感想「マックスとリリー」「離愁」

「マックスとリリー」

面白いといえば面白いのですが、相当に無理のあるストーリーと唐突なラストは流石にフィクションのレベルを超えている感じです。まあ、ロミー・シュナイダーを見にきているのでそれでよしとする映画でした。日本初公開です。監督はクロード・ソーテ

 

一人の刑事が何やら意味ありげに上司の元へやってきる所から映画は幕を開ける。マックス刑事が何か起こしたかのようなセリフが交わされ映画は始まる。強盗事件が起こり、マックス刑事が駆けつけるが時すでに遅く犯人を取り逃す。捜査の中で、マックスは中古屋へ持ち込まれた強盗に使われたと思われる車を持ってきた男を調べるためやってきたが、その男をに泳がせて尾行することを考える。しかし、その男はマックスのかつての兵隊仲間のアベルだった。アベルが金属やスクラップを盗んでは売っているコソ泥みたいな仕事をしていることを知ったマックスは、大きな犯罪を犯すように仕向けることで現行犯逮捕する計画を立てる。なんとも、あり得ない流れである。

 

アベルの愛人で娼婦をしているリリーに近づいたマックスは、自らを銀行員だと称し、何度も会う中で、小さな銀行の一支店に大金が持ち込まれる日があることを仄めかす。一方で、アベルには、いつまでもコソ泥みたいな仕事をしていても先がないかのように思わせるように持って行く。しかし、マックスとリリーはお互いに心を惹かれ始める。

 

アベルたちがその気になったらしいことを知ったマックスは決行日を決めるための情報を流す。やがてアベルたちは、自分達の計画通り銀行へやって来る。しかしマックスたちは完璧に待ち伏せをする。心配になったリリーは遅れて現場に向かう。あっという間にアベルたちはマックスらに逮捕されてしまい、駆けつけたリリーにマックスは真相を話す。

 

しかし、地元の管轄の署長はアベルたちも当然だが、共犯になるリリーたちも逮捕すると言い出す。マックスが取りなそうとするが全く受け入れない署長にマックスは銃を向け所長を撃ち殺してしまう。冒頭の場面になりこうして映画は終わって行く。

 

さすがに警察が犯罪を誘発するという根幹があり得なさすぎやし、ラストでいきなり署長を撃ち殺す刑事っていくらリリーが好きになったからと言ってという動機付けがちょっと破綻しています。それをそっちのけにしたら、まあ見ていられるかなという映画でした

 

「離愁」

さすがに名作です。列車の中だけというシンプルなストーリーですが、きっちりと人間ドラマを描き、ラストをしっかりと締めくくる。練り込まれた脚本とはこういう作品を言います。監督はピエール・グラニエ=ドフェール。

 

ベルギーに近い村、時は1940年、ドイツの侵攻が近づき、ジュリアンは、不安げに空を見上げて映画は幕を開ける。妻は妊娠していて、七歳の娘が一人いる。ジュリアンの家族は疎開を決め列車に乗り込む。女性と子供は客車に、男性は貨物車に乗る。やがて汽車は出発するが、貨物車の中でジュリアンは美しいアンナという女性と知り合う。

 

疎開地へ向かう汽車は途中の駅で客車を切り離し、ジュリアンと妻子は別々に目的地へ向かうことになる。ジュリアンは、次第にアンナと心を通わせ、とうとう体を重ねる。アンナはユダヤ人だった。途中、ドイツ軍の爆撃に遭い、貨車の中の人々が亡くなったりしながらも、なんとか終着駅に到着、ジュリアンは、妻が男の子を産んだという病院へアンナと向かう。ジュリアンは病室へ向かうが、しばらく待っていたアンナは、意を結してその場を離れ、一人バスで去って行く。

 

それから3年が経つ。ジュリアンは妻と子供たちと穏やかに暮らしていたが、突然、憲兵に呼び出される。そこで見せられたのはスパイ容疑で捕まったアンナの身分証だった。疎開で終着駅に着いた際、ユダヤ人であることを隠すためにジュリアンはアンナに妻の名前を使わせて、仮の身分証を発行していたのだ。一旦は知らないふりをするジュリアンだが、捜査官はアンナをその場に呼び寄せる。ジュリアンとアンナは最初は目を合わせず他人の振りをするが、ジュリアンは去り際に耐えられなくなり思わずアンナの頬に手を添える。アンナも堰を切ったようにジュリアンに顔を埋める。こうして映画は終わります。

 

他人のフリをして別れるエンディングもあったかもしれませんが、こういうラストもある。汽車で向かう途中、長閑な郊外で突然爆撃機が襲ってきて一瞬で人々が死ぬ場面や、さりげない悲劇を繰り返す描写が実に良くできています。悲恋ドラマでもあり、戦争映画でもあり、人間ドラマも垣間見られる。これが名作ですね。

映画感想「華麗なる女銀行家」「太陽が知っている」

「華麗なる女銀行家」

ロミー・シュナイダー特集。フランスの女性銀行家マルト・アノーをモデルに描いた作品。後編に向かうに連れてみるみる面白くなってくる秀作。主人公エンマが世話をしている元恋人(女性)の子供の描写が映画に深みと温かさを与え、前半の実業家として成功して行く下から後半、巨大権力に翻弄されながらも立ち向かう力強い生き様の描写に移る展開が実にうまい。サスペンスフルでさえある良い映画でした。監督はフランシス・ジロー。

 

サイレント映画のようなモノクロコマ落としのハイテンポな映像で、主人公エンマが生きている時代背景を描いていき、カラー映像になって、帽子屋の母の元で働きながら、ある裕福な家に帽子を届けチップをもらう。女性とベッドにいるところを見つけられ、噂になったエンマは母の店をやめる。恋人が裕福な男性と結婚したことから、エンマは、モイーズと結婚し、財力を得て、今や銀行の頭取となったエンマの姿へ繋がって物語は本編へ向かう。

 

大銀行のように裕福な人たちだけを相手にせず、市民の金を集め、持ち前の才覚で株などに投資して、大きな利息を約束して、市民の信頼を得て行くエンマ。一方で、政界、財界にもコネを広げ、権力を固めて行く。そんな彼女は、女性だけしか愛せないと思っていたが、フラン擁護委員会にルクードレと不倫関係になる。そんな彼女を大銀行の大立者バニステールや首相は疎ましく思い始める。

 

まもなくして、政府の画策で無実の詐欺罪をかけられたエンマは、銀行の支払いを無理やり止められ、収監されてしまう。しかし、一貫して支払いは必ずできることを約束するエンマは、絶大な人気を失うことはなかった。収監された刑務所で、断食抗議をし、死の直前で病院に移され、そこを脱出して、着々と反撃に出る。彼女を助けたのは、絶対にルクードレに罪を被せず自分だけを逮捕するように突っぱねたことで信頼したルクードレの妻コレットだった。

 

フラン委員会の力を借りながら、反撃しようと運動するが、新聞はルクードレを攻撃し、とうとうルクードレは自殺してしまう。落ち込むコレットを励ますエンマはフラン委員会とのつながりを緊密にする。パリの病院へ転院させてもらったエンマは左翼のブレオーが首相となった事で仮釈放となり、委員会のメンバーの前で、支払いの約束の演説をする。しかし、バニステールや元首相プレファイユ、政府上層部は、暗殺者を雇う。演説に立つエンマは銃で撃たれ、命を失う。こうして映画は終わる。

 

サスペンスフルなストーリーが実にテンポが良くて、前半から中盤、後半、クライマックスときっちりと区分けされた演出が実にうまい。大傑作とは言わないまでもなかなか良くできた作品だったと思います。

 

「太陽が知っている」

当時アラン・ドロンの婚約者だったロミー・シュナイダーが出演。淡々とした男と女の心理ドラマなので、アラン・ドロンロミー・シュナイダーモーリス・ロネなどスターのカリスマ性でストーリーを牽引して行く感じの映画でした。監督はジャック・ドレー。

 

プールサイド、ジャン=ポールが寝ているところから映画は始まる。突然プールに飛び込んだのは、まだ結婚はしていない恋人マリアンヌだった。二人はラブラブで、ことあるごとに抱き合い、口づけをしている。そこへ、旧友のハリーから電話が入る。ミラノへ行く途中、立ち寄りたいという連絡だった。ハリーはマリアンヌのかつての恋人だった。どこかソワソワするマリアンヌに嫉妬するジャン=ポール。

 

間も無く、ペネロープという娘を連れて高級スポーツカーに乗ってハリーがやってくる。ペネロープは18歳で、自然とジャン=ポールの視線が彼女に向けられる。そんな些細な変化をマリアンヌも勘づいてしまう。ジャン=ポールは、何かにつけマリアンヌに、遠慮せずハリーと一緒に過ごせと促すが、気持ちは正反対である一方、ペネロープに惹かれて行く自分を誤魔化すようでもあった。

 

ある夜、ハリーは街に行って大勢の友達を連れて戻ってくる。夜を徹してのパーティになるが、ジャン=ポールとペネロープは急速に接近する。ハリーとマリアンヌが街へ買い物に行って戻ってくると、ジャン=ポールとペネロープは海に行ったと言って遅くに戻ってくる。そんな娘の様子を見ていたハリーは、深夜街から戻ってきて、出迎えたジャン=ポールに、明日ここを立つと告げる。ジャン=ポールはハリーにさまざまなことで嫉妬していて、それを知っているハリーはジャン=ポールを責め、酔っ払った勢いで殴りかかりプールに落ちてしまう。上がるのに手を貸せというハリーにジャン=ポールは、逆に何度もプールに押し返し、まもなくしてハリーは溺れて死んでしまう。

 

ジャン=ポールは、ハリーの服を脱がせ、新しい服をプールサイドに並べ、さも、泳いでいて溺れたかを装う。ハリーの葬儀が終わるが、しばらくして一人の刑事がやって来る。不審な点があるのだという。刑事の説明を聞いたマリアンヌは、ジャン=ポールが殺したと確信する。マリアンヌは、ジャン=ポールの犯罪を隠すことを決意し、まずペネロープを帰し、刑事の元を訪れる。刑事は、このまま隠したままにするのはきっと後悔するとマリアンヌを帰す。旅立とうとするジャン=ポールだが、マリアンヌは、一人で汽車で帰るという。そんなマリアンヌを優しく抱くジャン=ポール。最初は拒んだものの、その胸に顔を埋めるマリアンヌの姿でエンディング。

 

ジャン=ポールがハリーを殺してしまいたいほどになる動機づけが弱いために、映画全体が平坦に仕上がってしまい、ちょっと退屈気味な映画になった感じです。キャストが当時の人気俳優ゆえに最後まで見ていられますが、それがければしんどかったかもしれません。