くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「悪魔の眼」「鏡の中にある如く」

悪魔の眼

イングマール・ベルイマン監督特集で本日この二本を見た。
「悪魔の眼」日本未公開作品である。
舞台をカメラで撮ったような画面でスタートする。
書斎風の部屋でスーツを着た男が鏡を見ている。この男、実はサタンで、ものもらいができたのを鏡に映しているのである。

何でものもらいができたかというと、人間界でまもなく結婚する一人の女性がまだ処女であるということで、地獄に対する挑戦を受けたためだというのである。このあたりから、宗教観の違う私にはちょっと理解しがたい。

困ったサタンは人間界にドン・ファンを送り込んで、彼女の処女を奪い地獄界に引き入れようと画策することが物語の本編なのだが、地獄の場面は窓の外にもやもやと煙(いわゆる地獄の炎)が見えている一室を舞台にしている。このあたり、舞台装置をそのまま撮ったような演出である。

人間界の場面になると、一見の牧師の家とその周辺をロケーション撮影する形をとる。
この作品を見て気が付いたのだが、先日見た作品といい、ベルイマン監督作品には鏡がよく出てくる。この映画でも最初の手鏡に始まって、神父の家での鏡に映る姿のシーンなど、巧妙な意図を持ってしばしば俳優が鏡に映り、その鏡と会話しているような演出がなされているのがわかる。

得意の流れるような長回し、クローズアップとバストショットの繰り返しなどベルイマン風の画面が展開していくが、はっきり言って、内容が内容で、体調も悪かったためかかなり眠かった。
結局、使わされたドン・ファンが逆に女性に惚れてしまって、サタンの思惑は失敗に終わるが、現世ではその女性が将来の夫に、「夫とが初めてのキスである」とウソをつくことで、結局サタンのものもらいは治るという結末である。

神や宗教の不存在を徹底的にパロディ化したベルイマンの演出はこうしたコメディにも発揮されている。しかしながら、やはり眠い。
鏡の中にある如くさて、二本目は名作「鏡の中にある如く」
アメリアカデミー賞等を撮った傑作でベルイマンの沈黙三部作の第一作である。初めて見たのは26年前であるから、はっきり言ってほとんど覚えていない。

娘と息子を連れて別荘にやってきた作家(グンナール・ビョーンストランド)が娘のの夫(マックス・フォン・シドー)に娘が精神異常であることを聞かされ、落胆する。
たまたま、娘(ハリエット・アンデション)は父の日記を盗み見て自分が精神異常であることを知り、一気に発病、夫と父が外出したときに弟と情事を交わしてしまう。

全くイングマール・ベルイマンという人は少しゆがんでいるのではないかと思える。この数日の間に五本見て、さらにイングマール・ベルイマンの生い立ちなどを改めて読んでみると、ふつうの精神ではこうした作品は作れないと思えてきたのである。

とはいってもこの「鏡の中にある如く」はすばらしい作品であることは確かだ。定番となった流麗な長回しに大きな鏡を使った会話シーン、さらには姉が弟と交わるきっかけになる浜辺にうち上げられた船のシーン、特にこの船のシーンが本当にすばらしい。やや斜めに撮った構図で弟が入ってくる。船底にうずくまる姉、打ち上げられた船のゆがんだ斜面の構図、背後に流れる霧笛の音、そして雨。この組み立てはまさに芸術と呼ぶにふさわしい名シーンである。

大きく俯瞰で撮った入り江のシーンや、隅々にまで計算されたような位置に立つ木々、家、などなど、見事といわざるを得ませんね。美しいモノクロームが最大限に発揮されて、ベルイマンとはこれだと言わんばかりである。

先日見た「サラバンド」でもベルイマンが、画面の展開の中で音の挿入にこだわっているとの解説もあったが、この「鏡の中にある如く」はその点は本当にすごい。
何気ない効果音が完全に意図されて挿入してあるのだ。ここまで作り上げられるとイングマール・ベルイマンの熱狂的なファンが存在するのはうなずける。

クライマックス、ヘリコプターが発病した姉を病院に連れて行くためにやってくる。今まで、完全に文明から離れたシーンを展開させてきた物語に突然機械が登場し、恐ろしいまでの音で飛び去っていく。そしてラストシーン、弟が父から声をかけられ、「初めて声をかけられた」と振り返るアップで映画が終わる。そうか、そういえば一度も話しかけられたシーンはなかったのかと思い返してしまいました。

この映画はもう一度ゆっくりDVDで見てみたいと思いました。さすが名作。