くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「友だちのうちはどこ?」「越後つついし親不知」

友だちのうちはどこ

「友だちのうちはどこ?」
アッバス・キアロスタミ監督が描いたイラン映画である。さすがにここまで研ぎすまされた感性で映画を撮られると、私のような凡人には受け入れられないほどのしんどさがないでもないのだが、見終わってこうして感想を書いていると、ほんのさっきまで見ていた一本の作品がまるで一遍の詩を読み終えたかのような不思議な感動としてよみがえってくるから不思議なものである。これが秀作というものなのだろうか。

映画は教室に始まって教室に終わる。物語は単純で、主人公アハマッド少年の隣に座る友人モハマッドはいつも宿題をノートに書いてこないので先生にしかられる。この朝も先生にしかられ、今度ちゃんとしてこなかったら退学だと言われている。

授業が終わって二人で外でふざけているときにモハマッドがけつまずいて転び、散らかったノートなどを拾ってあげたアハマッドは誤って彼のノートを家に持ち帰ってしまう。さっきの先生の言葉もあり、もしこのまま明日になれば友達が退学になってしまうとおそれたアハマッドはモハマッドの家にノートを届けることにする。ただ遊びたいだけだと母親は彼を外へ出さないが、ちょっとした隙にそとへ。モハマッドの家はポシュチ村にあってかなり遠い。何とかたどり着いたものの、家がわからず、引き返してくる。そして再度、たまたまモハマッドの性を口にした男についてとでかけるが、わからず、家を知っているという老人に教えられていくが間違いで、結局夕方になってもわからず渋々家に帰る。

動揺を隠せないままに自分の宿題をしているときに風でドアが開き、外は雹が降ってきたりして、アハマッドの揺れる気持ちが一気に噴出するクライマックスはなかなかのものである。

翌朝、遅れたアハマッド。となりのモハマッドに「君の分も宿題をしてあるから」とノートを渡す。なにも気づかずに先生はそのノートにサインをする。ノートのアップの後エンドタイトルとなる。

アハマッドがノートを返しにいくシーンで、ジグザグに続く道を駆け上って丘を越え、木々を越え、村にたどり着くというシーンが繰り返され、リズム感ある音楽で語られていくシーンはある意味ファンタジックでさえあるが、単調なシーンでもあり、正直、私はしんどかった。

しかし、この少年の心の動きが独特のメロディで奏でられ、映像がそのメロディに同調するように広がっていく。素朴な景色と人々の姿だけであるがその素朴さがかえって純粋な一人の少年の物語として見事に結実しています。
そのあたりが秀作と呼ぶにふさわしい一本でもあることなのだと思います。

「越後つついし親不知」
とんでもない傑作に出会いました。水上勉の原作を完全に昇華し見事な映像作品として完成させた今井正の演出の力量はまさに天敷の才能と言うほかありません。

伏見の町並みがとらえられるファーストショットからこの作品はただ者ではないという予感が走ります。
老舗の作り酒屋が並ぶ町並み、杜氏たちが働く仕込み小屋などのシーン、あるいは越後の昔ながらの農村風景、庄屋の屋敷の荘厳なたたずまい。雪景色に彩られた山々の景色、怒濤のように押し寄せる日本海の荒々しい海の姿、それぞれがその一番見事に祖の姿を見せるショットをとらえていくカメラアングルの演出はまさしく芸術のごとくである。

シネスコの横長の画面に右半分、左半分にとらえる人物の配置。そこには市川崑が作り上げる構図の美しさとは違って今井正独特の配置が行われる。人物のアップの反対側にはなにもないのである。にもかかわらず無駄がない配分は息をのんでしまう迫力が感じられる。

冬の農閑期に伏見へ杜氏にで稼ぎにきている越後の農民、権助三国連太郎)と留吉(小沢昭一)、二人は同じ親不知村の出身である。ある日権助の母親が危篤という電報が入りそそくさと村に帰ることになる権助。一方留吉は仕事が認められて格が上がるらしいと聞かされる。留吉には結婚したばかりの妻おしん佐久間良子)がいる。

村に帰る途中、雪深い道でゴン助はたまたま仕事帰りの尾心に出会う。留吉の出世にむしゃくしゃしている上に、その前に、駅前でよった居酒屋でさんざん女の話を聞かされむらむらしていた権助は思わずうつくしいおしんを手込めにしてしまう。
しかし、この時の過ちでおしんは妊娠してしまうのです。

権助は伏見に帰るとよった勢いで留吉におしんに男がいるとうそを言ってしまう。
やがて春が来て、杜氏たちはそれぞれの村に帰ることになり、少しでも早く帰りたい権助は留吉を伴って村に帰る。日に日につわりがひどくなってくるおしん。石臼を抱いてみたり、冷たい川に入ってみたりしたが流産する気配がない。佐久間良子のけなげなまでのひたむきさはどこかいとおしくもあるが、妙に艶やかであるところが本当に魅力的です。

時々、彼女の少女時代、あるいは庄屋屋敷に奉公に出たときそこの息子との淡い恋物語などもフラッシュバックで挿入。徐々に女としての情念を描写していく今井正の演出がどんどん迫力を増してくるのです。
村に帰った留吉はおしん権助から聞かされたことを正すが、おしんはそれは権助自身のことだとは決してかたらない。見ている私たちは、なぜ白状しないのか、すでに妊娠していてどうしようもないのだからいずれわかることなのにと思うが、かたくなに沈黙するシーンが続く。

そして、産婆のところで診察を受けたおしんは留吉のいないときに子供が宿ったことをはっきりと知り、どうしようもなく窮地に立たされる。そしてかつて父が足を踏み外して落ちたがけから自分も飛び込もうとするが思い切れない。
ところが、このことがふとしたことで留吉にばれる。水田でおしんを泥田の中に押し付けて問いただす留吉であるが、おしんは決して権助と交わったと白状しない。ここでおしん権助に抱かれながら恍惚とした表情を浮かべている所とが一瞬挿入される。つまり、権助のことを言葉にして留吉に話さないのはこころなしか、権助との瞬間をおしん本人も悪くはなかったというなんとも複雑な女心を表現したのであろうか。
しかし、留吉は力余って、おしんは泥田に顔をうずめたまま死んでしまうのである。

悲しみにくれる留吉はおしんを全裸にして担ぎ上げ川を横切って炭焼き小屋へ向かう。もちろん佐久間良子本人の裸体ではないと思いますが、このシーンがはっとするほどに美しい上にどきどきするほどの艶やかなのです。
そして、炭焼き小屋で死んだおしんと添い寝する留吉。自宅からおしんに着せるきれいな着物を取りに戻ったとき、母や権助赤紙が来たことを知らせる。
おしんのあしもとにありが這い上が利、それを払う留吉のショットが不気味なほどに男と女の物悲しさを映し出してぐいぐいと画面に引き込んでくれます。

やがて腐乱の始まったおしんを炭焼き釜に入れて火を入れるときの留吉のやるせない表情がなんとも悲しい。大きく俯瞰で山間にぽつんとある炭焼き小屋を捉えたショットが絵画を思わせるほどに芸術的で、こんな美しいシーンはそう何度もお目にかかれないほどなのである。

そして山を降りてきた留吉はこれから出生していく権助に出会う。留吉はその後をつけ、おしんの父親が落ちたがけのところへ差し掛かると、駆け寄って、おしんを殺した旨を伝え、一気に自分もろとも権助とがけ下へ。そしてエンディング。

映画が始まってからラストシーンまで一時も気の抜けないほどに見事な画面作り、さらにワンショットも無駄にしないで作品の追い求めるテーマに向かって描かれていく演出力のすばらしさ、何度書いても、なんどくりかえしてもこれほどの傑作にそぅ何度もお目にかからないと思える。それほどすばらしい一本でした