くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「トリコロール/白の愛」「上意討ち 拝領妻始末」「日本の

トリコロール白の愛

トリコロール白の愛」
このシリーズ三部作の中では一番地味な映像の作品でした。ほかの二作品ほど意図的に凝った美しいショットはみられません。強いて共通点というと、音楽の使い方でしょうか。

物語の舞台はパリに始まります。腕のいい美容師のカロルが性的な不満から妻ドミニクから離婚訴訟を起こされ、トランク一つで追い出されてしみます。タイトルとこのシーンと交互に空港手荷物がベルトコンベアに流れるシーンが写される。

失意のカロルは地下道で櫛を笛にしてしゃがんでいると一人の男ミコライが近寄ってきて、人間を一人殺してみないかと誘われる。もちろん断ったカロルだが、ただ者ではないと知りミコライに頼んでトランクの中に忍び込んで祖国ポーランドに帰ることにする。このトランクがファーストショットのトランクである。

盗まれたとはいえ、何とかポーランドに戻ったカロル。雪景色の中、兄が経営する美容院へたどり着く。基本的な色調は白を多用しているが、うらさみしいポーランドの景色なのでそれも目立たないといえる。

美容院の客の紹介でついた両替の仕事をする中で偶然聞いた土地の開発の話を逆手にとって、土地を買い占め転売して大金を手にしたカロルはミコライのいっていた殺しの話に再度乗ることにする。しかし殺す相手はミコライ本人で、空砲でたくみにニコライと仲がよくなったカロルは手にした資金で会社を興し金持ちになる。
そして、自分を死んだことにして遺言でドミニクに遺産を残す計画を立てミコライに助力してもらう。

カロルの葬儀にきたドミニクをみつけたカロルはパリで彼女を待ちベッドイン。不能だったカロルはドミニクを満足させ、その絶頂で画面が真っ白。とまぁ、これが白の愛ですね。

不法行為で死んだことにしたカロルはドミニクの元を去るがドミニクは逮捕され、その獄中の姿をカロルが双眼鏡で見つめる。ドミニクは窓からもう一度よりを戻すかのような仕草をする。それを見つめ涙をながすカロルのショットで映画が終わります。

淡々とした物語ですが、時にウエディングドレスのドミニクのシーンを挿入したり、真っ白なカーテンなど、もちろん題名にふさわしい色彩演出は施されていますが、全体にはかなり地味な映像です。しかし、三部作の真ん中に位置するこの作品は最後を飾る「赤の愛」への序章としての位置づけでみるなら非常に意図的な一本であったかと思います。

三部作制覇してみて、やはり昨日の「赤の愛」が最高ですね。

「上意討ち 拝領後始末」
これこそ、世界に通用する見事な日本時代劇の傑作。特に徹底的に幾何学な美術にこだわった村木与四郎のセットが全くすばらしい。主人公笹原家の庭が直線で描かれたように形作られた石畳、さらに横一線に曳いたような壁の石垣、出だしのまるで定規を曳いたような瓦の線や石垣の並びを見せるお城のシーンは偶然かと思われたが、それに続く画面をみればすべて計算され尽くされたものであることがわかります。

そして、数カットに一度かならず挿入される完璧な左右対称の構図。形式と見栄だけにこだわる武家社会の姿をあざ笑うかのような画面演出の見事さは、さすがに2時間を超えると肩が凝ってきますが、そこにご娯楽色を盛り込むのが橋本忍の脚本の妙味と名人と呼ばれた殺陣師久世竜先生のクライマックスのチャンバラシーンである。

さて、映像について書いてみたい。

映画が始まるときらきらとまぶしいほどの日本刀。そのショットからピントがぼやけて背後に映る笹原伊三郎(三船敏郎)、そして刀、この繰り返しが数カットののち一気に巻き藁を斬る。そして仲代達矢扮する浅野帯刀との談笑シーンから、一気にお側用人が訪ねてきて物語はお市の方が伊三郎の息子与五郎に嫁がれてくる下りへ入っていく。この展開にどういう対応をするのかという伊三郎らの行動がスリリングに展開。そして、いったんは与五郎の妻となりとみという娘もできたところへ、殿様の嫡男が死んだために、次の世継ぎの母であったお市の方が再び大奥へ呼ばれる。

これに対する笹原家の抵抗、父伊三郎、夫与五郎、母、弟の確執。そして城の老中たちの計略が渦巻き、無理矢理お市の方は城に戻されてしまう。

ここから物語はどんどんクライマックスへなだれ込んでいくのですが、徹底したシンメトリーな画面づくりの形式ばった演出が絶対に平凡なエンターテインメントに流れることを許さない。しかも、俳優たちの仰々しいほどの武士然としたたたづまいがさらに格調ある画面を作り出していきます。

こうしてクライマックスは笹原家での大チャンバラシーン、さらに続く草原での伊三郎、帯刀の一騎打ちのシーン、そして鉄砲で撃たれ無念の中死んでいく三船のショットへつづく。このクライマックスで今まで真横の画面が一気に斜めの構図に変わる展開がみごとである。

何度も書きますが、小林正樹の全く寸分の遊びもない完璧な演出のすばらしさは今更ですが、村木与四郎のすばらしい美術セット、名人久世竜先生の殺陣の妙味、俳優たちの鬼気迫る演技、武満徹の音楽、なにもかも見事に結実しコラボレーションできた傑作だと思います。

もちろん、娯楽時代劇として楽しむたぐいの一本ではありませんが、その芸術的に完成された映像と徹底的にその主題を見せつけた小林正樹監督のきまじめさ、その意味で必見の時代劇の傑作と呼べるのではないでしょうか。

「日本の青春」
戦争の時に青春を過ごし、戦地で上官のしごきで耳が不自由になった主人公向坂善作が戦後23年たって、そのときの上官鈴木武則に再会、さらにその鈴木の娘真理子と善作の息子廉二が恋仲になる一方、かつて学生時代に下宿していた先の娘で恋仲にもなりかけた女性英芳子とも再会し、戦争への疑問、人間のモラルに対する問題意識などを交え、本当にきまじめな物語をややコミカルな演出も含めて描いた傑作である。

手前に一台の列車が着く。背後にとぼけたナレーションが入り、蟻のようなサラリーマンがあふれてくる。その中に向坂善作がいる。平凡な生活で、愚痴ばかりこぼす妻と大学受験勉強中の浪人の息子廉二、高校生の娘がいる。

仕事は特許事務所、その日も妙な発明品を持って顧客がやってくる。背後にとぼけたナレーションを挟み、時折そのナレーションと善作が会話を交わしながらストーリーは展開していくが、小林正樹独特の重厚な画面演出がそこかしこに見受けられる。そして、時折疑問を投げかけてくるのが戦争への問題意識である。

横長の半分に人の顔をクローズアップで配置、その背後で人物がせりふを語るという構図、あるいは俯瞰で善作の自宅の階段をとらえるショットなど、小林正樹らしい演出の中、語られるのは、繰り返し繰り返し人間が生きていくひとときとしての青春のあり方である。

善作には戦時中が、そして廉二には戦争に対する意識がやや変化した現代にいきる青春が存在する。その根底に在る人間としての共通するモラルについて善作が受けた体罰を通し、また英芳子の夫の発明品が防衛庁へ納める武器の一部になる下り、あるいは防衛大学校のあり方などを通して不変であるはずの本質的な物を私たちに語りかけてくる姿勢がみられるのだ。

とぼけたナレーションでしがないサラリーマンの物語のごとく装うが根底に流れる社会的な問題意識の重さはこれこそきまじめな作風の小林正樹ならではといえるかもしれない。だから、ナレーションにも笑えないのである。

ラスト、廉二と真理子が楽しそうに語り合いながらそれでも真理子は「防衛大学は絶対だめ」と廉二に迫るせりふはまさに小林正樹の代弁ではないだろうか。
再度、電車がこちらに入ってきて蟻のようなサラリーマンが放出されるファーストシーンの繰り返しで映画は終わる。青春は繰り返すけれどもその根底で忘れてはならない物は常い不変なのだといいたいかのようだ。