くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「CUTカット」「マジック&ロス」

CUT

「CUTカット」
この映画は現代の映画人にたいするメッセージであると私は感じました。

イランの監督アミール・ナデリはアメリカへ渡り作品を発表する。しかし、今のアメリカ映画は知名度のある作品のリメイクや続編に終始し目先の利益を追うばかりである。

日本映画にしても、若い監督たちは失敗をおそれあえて冒険しようとした映画を作らない。たまに発表する作品はまさに自主映画の程度で、うちにこもった内面を描き、自主映画を作るお互いでなめあって見ている始末である。
メジャーな映画会社も作るものはテレビのヒット作品の知名度で客を呼ぼうとする。

韓国映画がもてはやされるにしても、いったん売れたと見るや同じパターンばかりでそれ以上がない。ヨーロッパ映画はたまに異色の作品が登場するが、かつてのような巨匠と呼ばれる監督が登場する土壌はなくなってしまった。

かつて、映画産業が誰からも娯楽として受け入れられ、そこに芸術を見いだせる鑑賞眼を持った評論家たちが評価していた時代、失敗をおそれず果敢に新しい映像表現にチャレンジし、それで失敗したら自宅を捨ててまでもさらに次の作品へ望む気概があった。

そういった映画人の迫力は失われてしまったのか。この映画の主人公秀二はそんな現実に悲観し、訴え、自主上映を繰り返し、街頭で叫ぶ。
古き名作の中には本物の娯楽、芸術があったという。

そして、彼は兄の残した借金を自ら殴られることで金を作り返済しようとする。自ら殴られる、次のステップ映画製作へ立ち向かう、という行動こそが今の映画人に訴えたいテーマなのではないだろうか。

殴られることで、死ぬかもしれない。しかしそれでも次に映画を作るために自らの体が滅ぶこともいとわない迫力と気概を持てと訴えたいのである。

一回殴られるごとに一本の映画が紹介されるクライマックスにそのテーマが叙述に語られる。映画を作り、失敗で打ちのめされ、また次の映画を作る。その勢いを呼び戻すべきなのだと言いたいのではないかと思うのです。

そして、すべての借金が白紙になった後、彼はもう一度借金をさせてほしいと3500万円を依頼する。これこそ低予算映画のぎりぎりの予算である。

そして暗転、「ヨーイスタート」の声でエンドクレジットが流れる。

街頭を走るシーンは完全にぶっつけの手持ちカメラで遠方から主人公を追いかける。ロングで望遠撮影をすると極端なスピード感が出る。かつて黒澤明が多用した撮影方法だ。そして、陽子とヒロシがいるBarのシーンは横長の画面をほぼ全景でとらえるショットが多い。一方、秀二が殴られるトイレの中はその限られた空間にカメラが入り込んで狭苦しい映像を見せる。そこには限られた中での主人公の戦いという姿によって、映画製作のためのスタート地点にたつ自分の姿を投影しているのであろうか。

クローズアップやバストショットを多用した殴られるシーンと広く開放的なBarのシーン、さらにやくざの幹部正木の部屋のシーンは妙に落ち着いたシンメトリーな画面が対比でとらえられる。

この繰り返しの編集が実に良い。
そして、秀二が自宅で映画を投影しながら眠る自分の姿、街頭の宣伝に集まってきた若者の姿。くたくたになる秀二はそれでも若者に真の映画を語ろうとする。
黒澤明溝口健二小津安二らの墓を訪れ、わびるかのように手を合わせる秀二。

あまりにも大量の名作が登場するがそのすべてを理解し得ない。選んだ作品に意味があるのかどうかはわからないが、最後に見せる「市民ケーン」のラストシーンは見事である。いまだ、この作品を越えるオリジナリティのある傑作が生まれないといわんばかりにクローズアップの「ローズバッド」と転がるガラス小物、そして被さるスノーボードが燃えるショット。ありきたりに見えるのにこのショットは唯一無二なのだ。

殴られるシーンが妙に目立ちすぎて受け入れられないと感想する人がいると思います。それはそれで本当にそうだと思うし、この映画がストレートに映画作品として評価して感動を与えられたかというと正直?なのですが、明確なメッセージを込めた映像表現として凡作ではないと私は思いました。

「マジック&ロス」
大阪アジアン映画祭で話題になったリム・カーウァイ監督作品をようやく見ることができました。

香港のムイウォの地にたつホテルで一人の日本人少女キキと韓国人少女コッペが出会う。そして起こる不思議なそしてどこかミステリアスで怖さも交えたファンタジーなドラマが起こります。

少女、白い彫像、景色が短いカットで写されて暗転、メインタイトルと続く。そして、浜辺にたつ一軒のホテル、とても客がいるように見えないが満室の看板。そこへ一人の少女コッペがやってくる。続いて日本人の少女キキもやってくる。最初は別々の部屋で過ごし、知り合って仲良くなる。出るときキキは祖母にもらったネックレスをなくしていることの気がつく。次の日いったん出かけ、次にホテルにきたときはなぜかダブルベッドの部屋しかないというベルボーイ。

こうしてめくるめくような不思議ワールドへ足を踏み入れていく導入部がなんとなく寓話的でわくわくしてきます。

ベッドの上でさりげなくヨガのような体操をするキキ、バスタオルで歩き回る少女たちの姿にどこか思春期の女性の独特の危険な色香が漂うのが不思議な世界への入り口といえるのでしょうか。

ある日、コッペが森の中にある滝を見に行く。ところがなぜかそこにはキキが。ときおり、山肌や海のさざ波、木々の揺れなどが微妙なハイスピードで挿入されてどこか非現実的なムードが漂う。この演出がデジタルビデオのシャープなカメラ映像で不思議なムードを増幅していきます。

二人の美少女に気のあるベルボーイは近くのバーへ誘うが自分はそこで酔いつぶれてしまう。この男だけが妙に俗っぽいために二人の少女の存在がさらにミステリアスに思えてくるから不思議ですね。

夜、帰ってくる二人の少女の影がどこか透き通るように光のなかで見える最初のあたりのシーンがこれもミラクルである。

そして、ある夜、二人はとある部屋へ。たくさんの人がいて入れ替わり彼女たちが行き交うと突然、部屋の人たちが消える。壁にムイウォの森の奥の滝で一人の女性が行方不明の記事。はっとしたところへもう一人が現れる。そのまま浜辺に飛び出すが、真っ暗な浜辺に人気がない。ところがここもまた突然、たくさんの人が現れる。

そして、部屋に戻った二人はいつのまにか求め合い、抱き合う。
朝、めざめたキキ、傍らにコッペの姿はなく初日になくしたネックレスが残っている。裸でネックレスをつけるキキ。ホテルのエントランスが真っ青な空をバックに写されエンドタイトル。そしてエンドタイトルが終わるとバスタオルのキキがベッドの上でコッペが残した携帯を見つけ開いて耳に当てる。・・・いったいなにが?先に発ちますという意味?借りていたネックレスは返しますというメッセージ?

異国の地にたどり着いた思春期の少女のある意味ミステリアスで不安定な感情をどちらが主人公というわけでもなく、お互いにお互いを幻影のような存在として映し出した幻想的な物語はメジャーな映像としての存在感には欠けますが監督の心の心象をそのまま映像に映し出したようなイメージがあり、自主映画のような面とプライベートな面をあわせ持つ非常に魅力的な一遍の映像作品として完成していたと思います。

もちろん、具体的な解釈が正しいかどうかは私も確信できないのですが、映画が始まってからエンディング、エピローグまでを写されるままに感じ取ってみると、なぜか心に残ってしまう映画だった気がします。愛くるしい二人の少女が髪を託しあげたりすると見分けられないときもあったのはさすがに私の鈍い感性故でしょうね。