くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ひめゆりの塔」(’53)「米」

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔
今井正反戦映画としての代表作であるが、正直やや長い。繰り返し繰り返し避難しては攻撃され、また避難しては攻撃されるというストーリーになってしまうので仕方ないのであるが、唯一、民家に避難した先で、女学生たちが川で水浴びをしたりするひとときの明るいシーンの場面が唯一今井正的であり、映画的なムードが漂う。

制作された当時はまだ沖縄も返還されていないし、戦後間もないと言う時代である。当然、そこには何もかもをストレートに描き得ない制約もあるだろうし、人々の感情もまだ素直にこの悲劇を娯楽として鑑賞する訳にもいかなかったと思う。

そんな時代の中で、丁寧かつまじめに一つの戦争の悲劇をつづり、映像として歌いあげ、時に目を覆いたくなるようなシーンも押さえ気味ながら描かざるを得ない今井正の視点はどこか冷ややかでさえもある。しかし、淡々と描くストーリーの中にはただひたすら繰り返してはいけないという作家の声が響きわたってくるようであり、それが、クライマックスの兵士が女学生を撃ち殺してしまうところから一気にそれぞれの女学生たちが壮絶な死を選んでいくエンディングまでのジーンの短さに見事に描かれていると思う。70年たった今になってこの映画を作品の完成度の高さも含めてまじめに心に刻むべき一本なのではないかと思います。

「米」
とにかく映像が抜群に美しい。特に後半部分の農村の風景をとらえたショットはその均整のとれた構図で配置された画面がみごとで、アップでとらえるかかしのショット、抜かるんだ水田のショットなど目を見張る物がある。

村祭りのシーンから映画が始まる。中心の人物次男と仙吉が対岸の娘千代たちとのかかわりの中でストーリーは展開していくが、物語は前半と後半に一つにまとまった物がなく、千代と母米のものがたりと次男と仙吉の物語に交互に飛び交いながら進んでいくように見えるのがこの作品の欠点かもしれない。しかし、これをドキュメントタッチで貧しい農村の若者たちの姿としてとらえている理解すればこの作品の長所となって作品の質を上げるものだとおもう。

水田に光る空のシーンから村祭りのシーンに続くこの映画は、一方で近代化が進む日本の片田舎の貧しい現実を浮き彫りにしたテーマでストーリーが進んでいく。木村功ら扮する仙吉ら農家の若ものたちは、湖の向こうの村へ遊びに行っては若い女たちにちょっかいを出そうとするし、なんとか金儲けをしようと法律破りの漁などにもでて、その日の糧を必死で稼ごうとする。

その物語の中盤でこの映画の後半部分の主人公となる千代とよねらとすれ違う仙吉等のシーンが、次第に後半へと流れて行く中で徐々に視点がこの千代らの話へと重点が移る。

どうしようもなく禁じられた漁にでたためにとがめられ、必死で逆らったもののどうしようもない立場になる母よね。そして、警察へ出頭する場面で、警察署の玄関でうなぎをばらまいてしまい、自分が笑われたような思いで帰ってくるあたりの内気さというか、農民の卑屈な心理がまざまざと画面に描写される。

いままで、のどかな田園風景に終始していた画面が、突然町のシーンになってどんどん近代化している日本の姿にとまどう母のシーンは秀逸である。
ある意味、ちょっと冷たすぎるような視線だと思えるものの、この極端な演出がこの映画のテーマを背負っている気がするのである。

さらに、この冷酷な視点はクライマックス。月夜にさし当たっての食べる米を刈り取り、自ら死を選んでいく母よねの何ともやるせない行動にその頂点を迎える。

葬式の列にでくわす次男と母。言葉もなくその葬式の列の後ろに並んで歩き去るシーンで映画が終わる。

おとなしい物語で、しかも美しい画面がともすると貧しい農村の姿の現実を見据えたこの映画のテーマを覆い隠すかに見えるが、しっかりとした画面演出はそんな戸惑いを許さずにきっちりと私たちに訴えかけて終わるのである。これこそ名作と呼べるものなのかもしれない。そんな思いの映画でした。

どうもうまく語れないのが歯がゆいですが、本当にいい映画だったと思います。