くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「月光ノ仮面」「テトロ 過去を殺した男」

月光ノ仮面

月光ノ仮面
板尾創路監督第二弾である。前作「板尾創路の脱獄王」は結局見ることができなかったが、今回の作品は一部で評判がいいこともあって見に行きました。

非常に個性的な感性で描く映像世界はいわゆる素人の映画作家が作り出す作品独特のシュールな世界となっています。自ら脚本も手がけています。

富士山が遙かに見える荒涼とした大地。そこに一人の顔面を包帯で覆った復員兵(板尾創路)が歩いている。色彩を極力抑え、時にモノクロにさえ見える映像はふつうの映像にしたくないといわんばかりの自己主張でしょうか。

そしてこの復員兵がたどり着いたのはとある寄席。そこで勝手に高座に上がってじっと観客を見つめる。当然、追い出されるのですが、玄関先で石原さとみ扮する弥生に助けられ、その復員兵が持っていたお守り袋から、彼が戦死したと思われていた気鋭の落語家森之屋うさぎとわかる。しかし、彼には記憶がなかった。

森之屋一門は彼を快く迎え、その快復のために奮闘し始める。許嫁でもあった弥生は彼と神社の境内で体を会わせる。時折、戦闘ジーンがフラッシュバックし、彼がいかにして記憶をなくして帰ってきたかの様子が語られ、時折、池に写る満月をバックに「月光」の曲がしみわたる。

ところが、時を経ずしてもう一人の森之屋うさぎ(浅野忠信)が現れる。彼も、最初の男同様、肩に本人とわかる痣があるが、爆弾の破片での度にけがをしていて言葉をしゃべれない。しかし、どうやらこの男が本物であるらしい。

二人は戦友で、一緒に戦地をかけ巡った仲だったようで、本物のうさぎは最初の男を森之屋うさぎとして高座に上がらしてほしいと師匠にたのむのである。複雑な思いながら師匠は最初の男を高座に上げることにし、そのお披露目の寄席がクライマックスとなる。

そこで、かれは突然機関銃を取り出し、笑い転げる客や一門の弟子、師匠、弥生等を撃ち殺してしまう。
そして、人力車に乗って走っていく姿を映すが、車の中にいるのは本物である。

にせものが女郎屋で太った女郎と床下を掘っていくエピソードや突然ドクター中松が池の側に白衣で現れたりと、何の脈絡になるか不明なショットも多々あるが、全く欠けていかない満月というイメージや、その題材となっている「粗忽長屋」という古典落語のお話から推察し、死を自覚できなくなったうさぎが実は戦地で死んだことに気がつかず、それぞれに中途半端な形で現世に現れたというイメージなのではないだろうか。

ぶつぶつと「粗忽長屋」をつぶやく偽物の姿、それをじっと見つめる本物の姿がどこか意味ありげなのです。

粗忽長屋」というのは死んだことに気がつかない主人公が自分の死体を取りに行く話です。つまりこの映画でいう偽物はいわゆる死体であって、その死体を取りに本物が帰ってきたという展開なのだと思うのです。間違っているかもしれませんが、そう解釈するのが自然な気がします。

ラストで寄席から走り去る人力車の中が本物のうさぎになり、ほほえんでいる姿から、結局来世へと帰っていく姿なのではないかと思うのです。
全体に色彩を押さえた映像はつまりはこの物語が現実ではなくうたかたの夢のごとき世界の一部であることを物語っているのではないかと思います。

ある意味、その独創的な映像はおもしろいのですが、果たしてこのシュールな世界が秀逸な作品かと問われるとはっきりほめられないところがあるのはどこか不明瞭な未完成が存在するためではないかと思うのです。

大好きな石原さとみさんがみれたのでそれで十分ですが、それはさておいてもちょっとおもしろい作品だった気がします。

「テトロ 過去を殺した男」
フランシス・フォード・コッポラ監督作品ということが最大の売りであるが、さすがにかつてのようなスケールの大きな映像に出会うことはありませんでした。決して凡作とは思いませんが、彼にしてこの程度ではちょっと寂しいかなというのが正直な感想です。

物語の舞台は南米、モノトーンで描かれる現在の物語と、カラーのやや画面を小さくした映像で描かれる過去、あるいは舞台シーンなどの交錯でストーリーが進んでいく。もちろん、出だしの斜めにとらえたシーンの数々にかぶるタイトルバックは美しいが、こういうテクニカルな映像は新進の若手監督ならまだしも、コッポラにしてこんな小手先はなぁというのが私のような映画ファンとしての思いでした。

主人公の青年ベニーが士官学校練習船が修理のため寄港したために兄であるアンジーのところへやってくるところから映画が始まります。アンジーは忘れてしまいたい過去があるために今はテトロと名乗っている。二人の父は著名な音楽家であるが、兄アンジーは作家になりたく家を飛び出し、弟もまた家を離れている。

ある日ベニーはトランクの中に兄が書いた戯曲の原稿を見つける。反転文字でかかれたその文章はどうやらベニーをモデルにした内容のようで、ベニーは兄に隠れて翻訳し始めるのです。

南米独特の景色や芸術的な画面の構図を多用したコッポラの映像はさすがに美しい。

そして、ベニーが翻訳した戯曲をもとに南米屈指のコンクールで上演された舞台が見事に最優秀に選ばれる下りになる展開の中で、実はこの物語の本当の真実がテトロから語られる。

アンジーの恋人は父に奪われるが、その後生まれたベニーは実はアンジーと恋人の間に生まれたものであるという真実である。周辺の人々もこの真実を隠そうとし、アベルはこの忌まわしい事実を隠蔽すべくベニーを弟としてかわいがっていたのだ。

この事実をベニーが知るラストシーンとなるのですが、途中でこのネタはだいたいわかってしまうし、エンディングも今一つ平凡であった気がする。

デジタルカメラでとらえた映像は独特のシャープさがありますがどこか深みのない画面で、せっかくの美しいショットもまるでネットの写真を見ているような安っぽく見える。なぜ南米を舞台にしているのかが最後まで不明だった。どうやらその風土に惚れ込んだコッポラのこだわりに寄るらしいのですが。交通事故のシーンの演出や室内シーンの構図などはすばらしいものがありますが、途中の様々な映像テクニックもかつてのコッポラ映画ほどの格調の高さを感じないのが何とも残念です。

もちろん、作品のレベルは決して低くないと思うし、充実感とか物語の奥行きはしっかりと描かれていたように思えるのですが、やはりフランシス・フォード・コッポラにたいする期待はこの程度ではすまないということなのだと思います。