くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜」「J・エドガー」

麒麟の翼

麒麟の翼 〜劇場版・新参者〜」
東野圭吾さんの小説の大ファンでもある私としては見に行かざるを得ない一本です。なんといっても東野さんの小説は二重三重に積み重ねられた人間ドラマを背景にしたなんとも人間くさい事件をあつかうミステリーの面白さにあるのです。

今回も、その東野圭吾さんの原作のエッセンスを損なうことなく、胸に迫る人間ドラマのミステリーとして楽しむことができました。悪く言えば無難な映画だったということですが、映画は娯楽なのですから、映画館に行って期待通りを裏切らないできばえであればそれで十分だと思うのです。

監督は土井裕泰、泣かせる映画を撮らせるとなかなかのことをしてくれるテレビ出身の監督さんですが、私は個人的に「いま、会いにゆきます」以来とっても好みの監督さんなのです。テレビ版の「新参者」も見ていましたし、スペシャルで放映された「赤い指」はほんとうにもう涙が止まらないくらいに感動してしまいました。

そんなミーハー的な見方をした今回の映画ですが、テレビ版の劇場版ということで、それ以上でも以下でもありませんでした。テレビで見ても特に遜色のない一本だったと思います。

一人の警官が若者をいさめている。背後に一人の男、中井貴一扮する青柳武明が瀕死の重傷で日本橋麒麟像のしたへよろよろと近づいてくるところから映画が始まる。それに気がつく警官、男は原にナイフが刺さっていてその場に崩れる。その直前、血に染まった白い折鶴が手元から散る。

不信人物を探していた警官が三浦貴大ふんする八島冬樹を見つけるが、逃げた八島は車に引かれ住所となる。手には青柳のかばんと財布。彼が最重要容疑者となる。

子の青柳武明の家族の物語、そして八島冬樹とその恋人中原香織(新垣結衣)の物語が平行して語られていき、一方で主人公加賀恭一郎(阿部寛)の父との物語も語られ、父と子の物語として全体がつづられていくのである。父は子の本当を知らず、子も父の本当を知らない。誰もが一度は経験したことがあるような親子の心のドラマが根底に流れる奥の深さはさすがに原作の見せ所だと思う。

そんな話をややひょうきんめいた阿部寛のキャストで描いていく映像としての物語は一見、軽いタッチであるが、ふと立ち止まるとその深遠が垣間見られるようで微妙な魅力があるのです。
次第に事件の真相が明らかになっていくにつれて明かされる3年前の学校での水難事件。青柳武明がなぜ日本橋七福神に折鶴を備えて回ったか?なぜ、八島冬樹が青柳のかばんを持っていたか?なぜ?なぜ?が絡んだ糸が解けるようにラストシーンへ流れていく。

中原香織と八島冬樹の物語にせよ、青柳家の家族の物語、特に妹の自殺未遂などの部分はかなりうわべだけのような演出しかされていないし、青柳悠人の先生の人柄の描写が弱いような気がしますが、おそらくこのあたりは原作の文字による描写が卓越しているために映像化仕切れなかったのではないかと思う。小説を映像化するときの最大の難しさがこの部分だといつも思うのですが、あくまでテレビシリーズの劇場版にこだわったために思い切った映像演出がしにくかったのでしょう。だからこの映画はこれで十分だと思います。

見終わって、ああ面白かったと呼べる一本としてとっても楽しいひと時を過ごしました。

「J・エドガー」
見終わって、今見た作品を思い起こしてみるとじわりと胸にしみこんでくるような感動を味わう。そんないぶし銀のような迫力があるのが近年のクリント・イーストウッドの作品である。

今回取り上げたのが、アメリFBIを今日の強大な組織に築き上げ、自ら八人の大統領に仕えてそのトップに君臨した初代FBI長官J・エドガー・フーバーの物語である。
すでに年老いエドガーが部下を呼び寄せ、自らの回顧録をしたためるべく過去を回想していく場面から映画が始まる。頭ははげ、顔はやつれた老人のごとく化粧したレオナルド・ディカプリオの風貌にまず引き込まれてしまう。
老いた現在のエドガーの行動と過去の行動が交錯しオーバーラップさせながらの映像スタイルはなかなかの見ごたえがあります。

若きエドガーは科学捜査とまだまだ国中に統一的な犯罪捜査の仕組みができていなかったことからFBIの力を強大化し、犯罪の撲滅をする必要性を訴える。しかし、ことあるごとに飛び出してくるのは反共産主義の言葉であり、それに絡めての黒人差別的な意見の数々である。にもかかわらず、一方で無法化してくる犯罪に対しては執拗なほどに憎悪の感情をあらわにする。そして、次々と組織的な捜査を進めるべく没頭していく姿が描かれる。

一方で、ひと目で惹かれたヘレンに対しプロポーズするも断られ、それでも彼女を終生の秘書として迎えるなどの熱い感情がほとばしる人間性も描写されている。そんな彼の姿を描く一方で、「強くあれ」とひたすら息子に呼びかける母に対するどこかマザーコンプレックスのような複雑な性格描写もなされ、さらには副長官に任命し、生涯のパートナーとして仕事をするトルソンに言い寄られてホモセクシャルな一面もしっかりと描いていく。

J・エドガーという人物をストレートにとらえ、その英雄的な面も人間的な面もやや偏執的な面もすべて取り込んだ脚本は実にこと細かく性格描写されているが、クリント・イーストウッドはそれを淡々と抑揚のない演出で表現していく。それがかえってこの人物の人間ドラマとしての抑揚を生み出すことができなかったようにも思えるのです。

さまざまな人物の裏の資料を大量に極秘文書として保管し、それを武器にあらゆる提案も次々と成立させていくJ・エドガーという一人の怪物的な人物の姿を描きながら、裏にある複雑繊細な人物像にも焦点を当ててているのですが、そのウェイトがほぼ同レベルであるためにあまりにもストレートに表も裏もないさらけ出されてしまった人物に見えてしまうのです。

パートナーとなるトルソンを迎え、ヘレンを秘書にして自らの帝国の礎を築いたエドガーの物語の序盤は静かにストーリーをつむいでいきます。しかし、リンドバーグの子供の誘拐事件で、映画は動き始めます。州警察の頼りなさ、私的に解決しようとするリンドバーグの行動による国民の警察への不信感。そして、この事件に執拗にこだわって、組織的科学的な捜査の仕組みを構築していくエドガーの姿がいまひとつ力強さを感じない。そして、細かく挿入される、手柄を独り占めにしたかのような彼の行動による人間性の演出も非常に細やかでさえあります。

非常に多方面からJ・エドガーという人物に迫り、すべてを描いていきますが、全体が分散されているようになったのが今回の作品の欠点かもしれません。

そして終盤、ニクソン大統領が就任し、自らの体力の衰えを注射で補い、トルソンが倒れても、弱気になるなと叱咤する。
ある日、自宅に戻ったエドガーは自室で半裸のまま息を引き取る。極秘文書は生前の指示のとおりへレンがシュレッダーに処理する様子が映され、トルソンがエドガーにシーツをかけてやるシーンを描き、極秘書類を手に入れるべくあわてるニクソン大統領の行動が捉えられ、暗転エンディングとなります。

作品の質は非常に高いのですが、クリント・イーストウッドであることへのかなりの期待があるので、この程度では満足できなかったというのが正直な感想です。いい映画でしたが、レオナルド・ディカプリオハワード・ヒューズを演じた「アビエイター」ほどの鬼気迫るものを感じませんでした。