くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「アーティスト」

アーティスト

一つ一つ数え上げていられないほど緻密なディテールにこだわったせりふ、シーン、そして演出。その細やか過ぎるほどの徹底した映像作りがひとつのストーリーを積み上げていく様はまさにこれがアメリカ映画ではなくヨーロッパ映画であるという息吹を感じさせる。そして、その独特な芸術性がアカデミー会員をして作品賞、監督賞をもたらす結果になったのだろうと伺える見事な秀作でした。

全編モノクロームスタンダード、しかもほとんどサイレントである。しかし、その映像作りは過去への回帰ではなく明らかに最先端の演出テクニックとして使っているのがこの映画のモダンさ、斬新さであろうと思う。視点を変えればシュールな技巧であるともいえなくもない。その最たるシーンがジョージが夢の中で、ふと楽屋で手元に置いたグラスがポンと音を立て、周りの人々の声が聞こえる。スタジオの外に出ると女性たちの笑い声が聞こえ、その笑い声はまるでジョージをあざけるように聞こえるというシーン。それまでのまったく声のなかった映像に夢の中だけで声を出させるというあたかもヒッチコックのサスペンスのような演出を行っている。そして、その背景には昼間、相棒のプロデューサーからトーキー映画の話を聞かされて直後の話なのだ。このまま映画は声を出していくのかと思いきや、その後もエンディングまでせりふに声は聞こえないまま貫き通す。つまり、この作品はサイレントの大スタージョージの没落と再起の物語であるからである。

サイレント映画の画面、題名は「ロシアの陰謀」、フリッツ・ラングの映画に見られるような影のショットから犬が主人公に駆け寄る場面から始まる。大勢の観客がまるでコンサートのような正装でスクリーンを見つめ喝采を送っている。スクリーンの後ろでは主人公を演じたジョージ・ヴァレンティンが映像を後ろから見つめている。やがてエンディング。舞台に出た彼はまるで舞台の幕が終わったかのようにスポットライトを浴びて挨拶をし、ヒロインの紹介よりまず共演した自分の愛犬を紹介する。まさにすべてが自分の周りに回っていることを子簿するようなファーストシーンである。時は1927年。1920年代はサイレント映画の頂点の時期で芸術的にも完成された時期である。チャップリンが「街の灯」を発表し、アベル・ガンスが「ナポレオン」を発表する。

こうして幕を開けるこの作品、古き懐かしい映画のスタイルでメインタイトルが流れ、スタンダード、モノクロ、サイレントでストーリーがつづられていく。

表に出たところでたまたま一人の女性に突き飛ばされたことでジョージはその女性ぺピーと知り合う。突き飛ばしたにもかかわらず笑顔で迎えたジョージに思わず頬にキスをしてしまう。そして彼に惹かれたぺピーは後日キノグラフ社のエキストラに募集のためスタジオをおとづれる。オーデションを待っているところで声をかけてくれる老人、なんとマルコム・マクダウェルである。さすがにおじいさんになったものだ。

何とかエキストラに選ばれた彼女、スタジオでセットのスクリーンの後ろでダンスをしていてその足だけが見えているのを興味を持ったジョージが一緒に踊る。スクリーンがどけられると彼女が以前自分の頬にキスしたぺピーであると知る。とんとん拍子で役をつかんでいくぺピー。次々と役がついていくさまをクレジットで描きながらスピーディに時間の流れを語っていく。

ある日、ジョージはキノグラフ社の社長に呼ばれ、トーキーのシステムを紹介される。しかしジョージはトーキーは所詮お遊びであると一笑。そしてトーキーに未来があると信じる社長ジョンと袂を分かち自分は自分で映画を作ると会社を辞める。
事務所を出たところでぺピーに会う。画面は真正面から三階まで続く階段のショット。まるで映画のセットのような美術セットである。ぺピーは下から上に、ジョージは上から下に降りてくる。まさにこれからの二人を暗示するようなシーンである。しかも、去りかけたジョージにぺピーは指笛で再度振り向かせるのだ。音が人を動かせる時代になるということを見せた徹底したこだわりの演出である。

やがて、ぺピーはトーキーの波に乗ってどんどん人気を博し、一方のジョージのサイレント映画は大コケしてしまう。さらに世界大恐慌も彼に打撃を与えるのだ。
酒びたりになり、運転手のクリフトンの給料も払えなくなるジョージ。ベッドが壁に埋め込みのタイプになり、こじんまりした部屋になっていくジョージの周辺の演出へのこだわりも見事である。クリフトンを演じたジェームズ・クロムウェル。さすがにその存在感は作品を一気に引き締めてくれます。

日々の生活にも困りジョージは自宅の調度品などをオークションに出す。一人の男がそのすべてを見事に落札していく。手際よく処分されたのだが実はぺピーに頼まれたクリフトンだった。

トーキーへの転換を受け入れなければと思いながらもかたくなに再起を拒むジョージは、ある日ぺピーの映画を見に行き、トーキーの面白さにさらに自分のふがいなさ、惨めさを実感する。この場面での観客はその誰もが実にラフないでたちである。映画が大衆の娯楽へとどんどん拡大していく様子が見事に演出されている。

どん底に落ち込んでいくジョージは自宅で自分のフィルムに火をつける。しかし火が広がり、あわや焼死かと思われたとき、助けを求めに飛び出した愛犬がすんでのところで警官を連れて戻りジョージは助かる。愛犬がとおりを走る走るシーンを移動カメラで捉え、警官に必死で訴えるショットはまさにどこかで見たサイレント映画のワンシーンである。ぺピーとダンスをしたシーンのある映画のフィルムだけをしっかりと抱きながら助けられたジョージ。入院したことを知ったぺピーは病院に駆けつけジョージを自宅に引き取る。さらにぺピーはジョージとの共演を強行にプロデューサーに認めさせる。

いまはぺピーの運転手をしているクロムウェルが脚本をジョージに届けるが、哀れみにしか受け取られず自暴自棄になるジョージ。そしてぺピーの家の一室で自分がオークションに出した調度品が陳列されているのを発見するのである。結局自分は誰からも忘れられた存在だったと思い知らされたジョージは自宅に戻り、棚の上に隠していたピストルを取り出し口に当てる。

調度品が見つかったことを知ったぺピーがジョージの家に向かう。クロムウェルが間に合わず、乗りなれない車を必死で運転していくぺピー。右に左によろよろと走る車のシーン、これもまたどこかで見たようなサイレント映画のワンシーンである。

あわやジョージが引き金を引いたかと思われたとき「BANG!」のテロップ。それはぺピーが植木に車をぶつけた音だった。そして駆けいるぺピー。抱き合った彼女はジョージ復活のひとつの妙案を思いつく。銃を撃つのをやめたジョージのピストルが暴発した音に愛犬が死んだふりをするユーモアあるシーンが挿入される。まだまだこれはサイレント映画だよといわんばかりだ。

場面が変わる。まるでフレッド・アステアジンジャー・ロジャースのごとく軽快なタップダンスで踊るぺピーとジョージ。それを満足げに見つめるキノグラフ社社長と監督。見事なタップシーンが終わる。社長が「すばらしい、最高だ!、でももうワンカット撮っておこう」と声をかける。了解の返事をするジョージとぺピー。せりふに音はない。しかし快く再度ダンスを踊る準備をする二人。エンドタイトル。

終盤に唯一ジョージとぺピーが頬を寄せるクローズアップのシーンが登場する。トーキー映画ならではの口元のアップなのだが、それまでバストショット以上を中心にしていたアングルから一気に主人公にカメラが寄るカットはインパクトが非常に強く抜群の効果を生み出していました。

ストーリーは実にシンプルである。しかし、冒頭にも書いたようにせりふのみならず、さまざまなシーンにどこかで見たような懐かしいサイレント映画のショットを挿入したり、ストーリー展開を画面の中で見せるようにカメラの構図や調度品、さりげない新聞記事や壁の落書きにいたるまで作りこまれたこだわりの演出が徹底されている。ここまで細やか過ぎると一度や二度見た程度ではその映画の真の値打ちは記憶できないほどである。しかし一方でそのこだわりすぎが娯楽としての映画に肩を凝らせるような生真面目さを生み出して欠点になっていることも確かである。もう少し気を抜いたところがあってもいいくらいに全編がまったく無駄がなさ過ぎる。だからこの映画はアメリカ映画ではなくヨーロッパ映画だと感じ入るのです。

とはいえ、非常に個性的な作品であることは確かで、その独創性と完成度の高さゆえのアカデミー賞は納得の一本でした。ただ、アカデミー賞作品賞にしてはちょっと華やかさが足りない。それが残念です。