くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「父ありき」「長屋紳士録」「鏡獅子」「淑女は何を忘れたか

父ありき

「父ありき」
さりげないインサートカットを巧みに挿入しながら、作品の流れにリズムを生んでいく小津芸術の傑作の一本だと思います。すばらしい。

ラストシーンを見てもこの映画のすばらしさが見えてくるかなと思います。父を亡くし、遺骨を持って秋田に帰る息子。在りし日の父を思いながら窓の外を眺める。汽車が手前から向こうへ走っていく。普通ならここでエンディングであるが、もう一度汽車の中の息子の物思いのシーンが入って、再度汽車のシーン。すでに遠くに走り去っている。エンディング。これが名作たるゆえんではないでしょうか。

映画は、二人の少年のカットから町中の路地、そして中学教師の父堀川周平とまだ小学生の息子良平の会話から始まる。右に木や建物、ふすまの大きな文字など、画面の配置に非常に心配った小津安二郎のこだわりのあるシーンが冒頭から伝わってくる。

周平は中学の数学教師、良平はまだ小学生だろうか。繰り返される二人の会話と日常の場面が淡々と描かれるのだが、周平は修学旅行で教え子をボートの転覆で死なせた責任から、退職、良平を残して東京へ働きに出る。良平は父と離れたくないものの、父の凛とした態度にうなずかざるを得ない。

この映画はひたすらに、この父親の存在感の大きさを画面全体から訴えてくる。しかもそれだけのテーマなのに、細かいインサートカットと、小津映画得意のフィックスで平坦に構えるローアングルの長回し映像のリズムでぐいぐいと描いていく迫力に圧倒される。

時間をジャンプカットする展開も見られ、唐突でもあるのだが、果たしてフィルムが紛失しているのかと思えるようなところもあるから、実はもう少しスムーズな転換ができていたのかもしれない。

離れ離れのまま、やがて良平は25歳に。東京の父はそこで、かつての同僚の先生と再会、その先生の娘を自分の息子の嫁にと思う。一週間の休暇で秋田からやってきた良平とひとときの団らんの生活の最後に、父周平は体調を崩しそのまま他界する。最後まで一緒に暮らせなかった父と子であるが、父の息子への限りない愛情と影ながら支えた大きさがひしひしと伝わってくる。もちろん、映像の組立、画面のこだわりは今更いうまでもない。これが小津映画の名作たるゆえんであろう。すばらしかった。


「長屋紳士録」
これまた、驚くほどの人情コメディの傑作。飯田蝶子のせりふの名調子に引き込まれてしまいます。

長屋のカットから画面が始まるととある家の軒先、誰もいないが人の声だけが聞こえる。なにやら芝居のせりふを練習しているような声、しばらくしてようやく画面に人間が登場。そこへ笠智衆扮する占い師の田代がやってくるが、どうやら一人の男の子がついてきたので面倒を見てくれという。ここから物語が始まる。まるで落語のような導入部にどんどん取り込まれてしまう感じである。

みんな面倒を見るのがいやで、くちやかましいおたねというおばさんのところへつれていき一晩預けるが、おねしょをしてしまいさんざんに怒られる少年。

たわいのない物語なのですが、決して画面作りに手を抜かない小津安二郎の映画作りはまさに才能のなせるものというほかありません。さらに飯田蝶子はじめ登場する俳優のせりふの掛け合いのおもしろさに、ウィットの聞いた少年のほんのわずかなせりふが何ともあいくるしいほどにおもしろい。

そして、だんだん情が移ったおたねさんはとうとう少年を自分の子供にしようと動物園につれていき、写真を撮り、服を買ってあげる。ところが帰ってくると、少年を捜していた父親が少年を連れて帰ってしまう。いい父親だったと涙ぐむ母さん、そして自分にも子供がほしいと田代に行うと、西郷さんの銅像のあたりの方角がよいと答え、西郷像の周辺のシーンへ。そこでは戦後の浮浪児たちがたむろしているシーンでエンディング。

終盤で飯田蝶子が言うせりふがいい「いつのまにかせかせかしていたのは大人だったね。子供に教えられた。もっとゆったりしないといけないね」

ここまできたコミカルな展開のラストで、戦後のあくせくする大人たちの姿をぴりっと風刺する小津安二郎の視点が実にシリアス。制作当時に見ていたらこの作品の本当の値打ちがわかったかもしれないけれど、今見ても、映画としての作品のレベルの高さにうなってしまいます。


「鏡獅子」
六代目尾上菊五郎の舞台を撮影させた海外宣伝用のドキュメント映画である。
小津安二郎唯一の記録映画という事で見ることができたのは運が良かった。




「淑女は何を忘れたか」
とっても粋なモダンコメディの秀作。とてもこんな映画を今では作ることはできないと思う。それはこういう感性を持った人がいないことと、こういう舞台設定は不可能に近いこともある。

作られたのは1937年。日本は帝国主義であり、貴族に相当する富裕層が当然のように存在した時代。物語の舞台は大学教授の邸宅でのお話である。

ここに大阪からしっかり者で物事をずけずけという姪がやってくる。そして、ここで起こす一騒動を小気味良いタッチの演出と、ハイテンポな映像でリズムよく見せていく。ちょっとした喜劇の舞台を見ているような感覚が何とも心地よい。

いつも妻に尻に敷かれるように扱われている大学教授小宮。そんな姿がふがいない姪節子。ある日、ゴルフにいけといわれ渋々でたものの書生の下宿に逃げた大学教授を追いかけ節子がやってきて、東京の芸者が見たいという。仕方なく小宮は節子を連れて茶屋へ。そこでしこたま飲んだ節子はふらふらで深夜に自宅へ戻ると、教授の妻時子がキンキン声でしかる。

こうしてちょっと愛らしいような展開が楽しく、節子を演じた桑野通子のテンションの高いせりふ回しが実に大学教授小宮のとぼけたようなせりふ回しと絶妙に絡まって、終始にこにこさせてくれるのです。このあたり、脚本の面白さも絶品であると思います。どこかアメリカンコメディを思わせるしゃれた感覚が最高です。

結局、節子は小宮に説教して、もっと夫としてしっかりしないと言い、小宮はうるさく言う時子を平手打ち。決して謝ってはいけないというと節子に言われるも小宮はあっさり時子に謝り、これも大人としてのテクニックだよと節子に教えるやがて、節子は大阪に帰る。

一方の時子は夫の態度になぜかうれしさをかくせず、ラストは少しずつ電気が消える廊下のショット、なんども往復する小宮の影、さらにそれを追う時子ショットで、夫婦のほのぼのしたシーンへ続くのを予感させてエンディング。

ラストシーン、低く構えたカメラのむこうで展開するどこかなまめかしいような夫婦のムードが実に日本離れしていて粋でモダン。とってもしゃれたコメディ作品でした。さすがに小津安二郎は素晴らしいですね。