くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「戸田家の兄妹」「一人息子」「お茶漬の味」「突貫小僧」「

戸田家の兄妹

「戸田家の兄妹」
これはいい映画でした。第二次大戦直前、大家族が次第に分裂していく様を実に世相を的確に感じ取って描いた映像が実にすばらしい。

大邸宅でしょうか、土塀、そして植木のショット、記念写真のカメラ、そしてそのカメラの前に集まる家族たち。この家の節子が嫁にいく話が決まり、還暦を迎えた母のお祝いの席でもある。一見仲むつまじくまとまった戸田家。

ところが、この日、父が急死。いったん帰っていた姉夫婦や兄夫婦もやってきて葬儀の場面になる。そして、残された借金のために家を売却し、母と末娘節子は兄弟の家に引き取られることになる。独身の次男は天津へと旅立つ。

ところが、最初に言った長男進一郎のところでは妻和子とぎくしゃく、長女千鶴のところでは孫の良吉のことでぎくしゃくし、母と節子がいく先々で疎まれ、次第に肩身が狭くなっていく様子がローアングルのカメラアングルと、人物を廃したインサートカットを繰り返しながら、どこかもの寂しい感情を観客に伝えてくるのです。

そして、一周忌。いたたまれなくなった母と節子はぼろぼろの別荘で暮らしていて、それを知った次男昌二郎は兄や姉を前に母や節子を疎んじたことを非難。この場面が圧倒的な迫力あるシーンになっています。そして結局自分が天津に引き取ることにする。

その直後、節子が昌二郎の嫁の世話をするからと、友人の時子を世話。やってきた時子に昌二郎を引き合わせようとすると、今まで威勢の良かった昌二郎が、そそくさと逃げて浜辺に走り去るシーンでエンディング。このラストが実にほほえましいのだが一方で、爽快でもある。

導入部で、遅れてやってくる昌二郎のエピソードがクライマックスの一周忌でも遅れてやってくるという繰り返しの組み立てと、動きのあるストーリー展開、じっくりとらえるローアングル、さらにさりげないせりふやカットの数々が実に美しく決まっている。非常に優れた小津安二郎作品の一本だと思います。


「一人息子」
これもまた、非常にシンプルながら落ち着いた作品でとっても良かった。

親子になったときに人生の悲劇が始まるなどというテロップの後に1923年の信州で物語が始まる。ランプのカットから女たちが街道をゆくシーン、蚕の工場で働く女たち、そして母野々宮つねが石臼ををひくカット、無効に一人息子の良助が配置される場面に続く。

小学生の良助が、中学へみんな行くが俺はやめたというと、それがいいとつねが同意。ところが直後に学校の大久保先生がきて、良助が学校で中学に行くことを決めたことへの励ましの言葉を継げる。うそをついた良助をつねはしかるが翌日、考えを改めたつねは良助に中学に行けという。

そして1935年となる。息子の良助が東京で学校を出て生活をしていると同僚に話すつね。翌1936年東京。でてきたつねを良助は出迎える。結婚もし、子供もできたと報告する良助の姿を見つめるつねの目には、決して生活が楽ではない様子の良助の姿が映るのである。良助は夜間中学の先生である。かつて、東京へ勉学のために出て行った恩師の大久保先生もトンカツ屋になっている現実を見せる良助。

東京はそんなところだからしょうがないという良助に、つねは家も田圃も売っておまえを学校に行かせた。もっと頑張れという。そして、再度考えた末に良助もさらにがんばってみると告げるのだ。

翌日、良助はつねと東京見物に出ようとしたとき、近所の子供が馬に蹴られ、病院へ行った。良助は病院で子供の母になけなしの金をやる。その姿につねは良助が立派になったと喜んで信州へ帰る。仕事の途中でぼんやり外を見る。カメラは閉ざされた門をとらえエンディング。

終盤がちょっともたついた展開になるのがもったいないものの、東京へ出てきた母を活動写真などに案内する息子のショットから、複雑な表情の母の姿と、息子のショットが非常に丁寧。

淡々と語る小津の演出は、母と子供のどこか切るに切れない暖かいものを見せる一方で、田舎と都会の現実をさりげなく描写する。絵作りの美しさもさすがに見事。いい映画だった。


「お茶漬けの味」
なるほどとうなってしまう名作、いや傑作の一本ですね。すばらしかった。このあたりになると小津安二郎のスタイルがほぼ完成されてきますね。ミディアムで人物をとらえて、真正面からのせりふをカットとカットでつないでいく。ほんの少しの間がカットの間に挿入されるテンポはまさに芸術的です。

さらに、ローアングルで部屋をとらえるショットから、手前から向こう、向こうから手前とゆっくりと移動した後に始まるシーンの動きの妙味にはうっとりするような流れを映像から感じてしまう。

この作品ではそんな卓越した芸術性もさることながら、冒頭で妙子と節子がタクシーの中で掛け合いのようにしゃべるシーンで幕を開け、そして、小気味良い展開で夫茂吉をだまして雨宮アヤ、妙子と節子が修善寺へ旅行に行く展開へ流れていく。その後、節子の見合いからのトラブルで妙子が茂吉に一言も口を利かなくなるという緊張感のあるシーンへ転換、一方で茂吉は突然の海外勤務で妙子以外に見送られて飛行機で立つ。

一人、遅れて戻ってきた妙子は、複雑な気持ちで眠っていると故障で戻ってきた茂吉が帰ってきて、夜中にお茶漬けを食べる。そのシーンが淡々と語られ、それまでの緊張感が一気にゆるむリズムに天才的な感性を感じてしまいます。女中がしているので、ご飯の場所さえ二人で探し回るシーンがほほえましいが、さらに二人で茶漬けを食べ、その後のことは妙子が叔母たちに語るシーンへと続く巧妙な組み立てには舌を巻きます。そこで本人はのろけたことをいうのですが、それがまた涙を誘うというこの演出というか脚本はまさに教科書というべき素晴らしさ。

散々のろけた後、節子はのんちゃんこと岡田登と二人で再度そのいきさつを語り彼方へ歩いていってエンディング。

シーンの展開の構成のうまさ、映像の美しさ、流れるような詩的なリズム感、これこそ小津安二郎の芸術の一つの頂点かと思える見事さに息をのんでしまう。これが名作。そしてこの後「東京物語」へと進む、まさに絶頂期の小津芸術である。木暮実千代のコミカルからシリアス、そしておのろけと豹変する演技も絶品の一本だった。こんな映画を今まで見逃していたなんて情けない。そう思えるほどの名作でした。


「突貫小僧」
散逸していたフィルムの一部を発見し、紛失部分を再現して部分的な柄小津作品としてまとめた、いわば研究映画である。

物語は、人攫いがはやりそうな日和というなんともとぼけたテロップに始まり、主人公鐵坊を誘拐しようとした人買いの文吉。ところがこの鐵坊がくせもので、お菓子やらおもちゃやらを買わせる。さらに文吉の親分のところでも、好き勝手にいたづら放題をやらかし、あきれてしまった親分は鐵坊をまた捨ててこいと文吉に命ずる。ところが、連れて行ったものの、今度は鐵坊の友達に追い掛け回されて走り去ってエンディング。

いわゆるドタバタ劇で、軽快なテンポで実に楽しい一本でした。鐵坊にからかわれて変顔やしぐさをする文吉や親分のしぐさも絶品の映画でした。


「その夜の妻」
こちらは、いわゆるフィルムノワール的なシリアスなサスペンス映画です。

まるでヨーロッパ映画を思わせる夜の街の壁に映る影。どこかの大きな建物の周りに警備する警官たち。カメラがゆっくりと這うように彼らを捕らえ、とある路地に一人の男がしゃがんでいる。彼はこの建物に強盗に入り金を盗んで夜の街へ逃走。追いかける警官を振り切ってタクシーへ。

一方ここに、一人の女の子がベッドに寝ている。病気らしい彼女を医師が見ている。傍らに母。医師は今夜が山だと告げて変える。女の子はお父さんに合いたいと泣くが、母は父さんは治療代を稼ぐために出かけているとなだめる。そこへ帰ってくる父。冒頭の犯人は実はこの少女の父だった。

期せずして、一人の男がやってくる。彼は刑事で犯人が逃げるのを追ってきたのだという。タクシーの運転手に変装していたから間違いなくここに入ったというのだ。父は娘が今夜が山なので治ったら自首するという。母は隙を見て父の持っていたピストルを刑事に突きつけ、刑事を拘束する。しかし、居眠りした隙に立場が逆転。それでも刑事は今夜一晩待つという態度をする。

結局、娘は助かり、いったんは見逃して逃げるようにしてやる刑事だが、父が自ら戻ってきて刑事に捕まり、街角を去っていってエンディング。

壁に貼られたアルファベットのロゴのあるポスターや落書きが無国籍な異国情緒を生み出す小津安二郎の画面作りはこの時代の作品の特徴でもありますね。これも研究作品の一本ですが、こういうサスペンスも作っていたのかと興味深々に見ることができました。