くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「許されざる者」(李相日監督)「ウルヴァリン:SAMUR

許されざる者

許されざる者
絵作りがまず最高にすばらしい。どの場面をとってもうっとりするほどに計算された構図と色彩設計の美しさに目を奪われる。

映画が始まって、真っ白な雪原。時は明治二年である。残党を追いつめる政府の官軍たち。一人また一人と殺されていくシーンの背後に、当時の明治政府の政策がナレーションされる。

殺された兵士たちの傍らに光る刀の輝きのショットにまず目を奪われる。真っ白な景色と真っ黒な兵士たちの体、その傍らに光る銀色の刀。並の感性を越えた絵作りに引き込まれるのがここからである。

クリント・イーストウッド監督主演の傑作のリメイク版で、監督は李相日。リメイクとはいえ、久しぶりに日本映画の傑作に出会った瞬間である。

そして時は明治十三年。北海道の村で官吏をつとめる大石のところに駆け込んでくる一人の男。女郎屋で女の顔を切った男二人を捕まえたからきてほしいという。行ってみれば二人の男が縛られている。切られた女なつめは瀕死の状態。馬をつれてくれば許してやるという大石の裁きに不満の女郎のお梶は「人間でいきることができないのか」とつぶやいてタイトル。

クリント・イーストウッド版もカメラが実に美しい作品だったが、このリメイク版も決して劣らない。なつめが寝ている部屋に集まる女郎たちの着物は赤から茶色に近い色をしていて、部屋の壁がくすんだ茶色から黒の色調。このバランスが実に美しい。

画面が変わると、かつて人斬り十兵衛と恐れられた幕末の武士が、寒々とした北海道の田舎の海辺で百姓をしている。三年前に妻を亡くし、二人の子供と暮らす彼のところにかつての盟友金吾が現れ、女郎を傷つけて、お梶から賞金のついた男をいっしょに殺しに行って、金を手に入れ、その金で石炭を掘って一攫千金を目指そうとやってくるのだ。

剣を捨てた十兵衛だが、生活のままならない中でこの話を受け入れ、子供を残して旅立つ。途中アイヌの若者五郎を従えて、目的の村を目指す。

背後に広がる北海道の景色が実に美しくとらえられているのだが、それ以上に、その景色に任せきりにせず、枯れ木の配置、山の位置、人の立ち位置など徹底的にこだわった絵作りが見事なのである。

ストーリーはオリジナル版とほとんど同じであるが、舞台を日本に移した事による利点を最大限に生かした映画作りに引き込まれていく。

大石の村にやってくる北大路正春による古き武士と、時代の変遷を描写したエピソードも、作品全体から決して逸脱しないバランスで配置され、國村隼の見事な演技でこのエピソードをしっかりと生かしきるあたりもすばらしいのである。

やがて、目的の村に着いたものの、大石ににらまれ、見つけられた十兵衛は、大石に顔を傷つけられ瀕死の状態になる。一瞬で変わるカメラアングルで、斜めに構えたアングルが、再び人殺しになる恐怖にふるえる十兵衛の心が、徐々に変化するきっかけになっていく転換のシーンの役割になる。

やがて傷が癒えた十兵衛は、五郎と金吾とで、二人の男のうち弟をまずしとめる。しかし、いざとどめを刺すときに金吾は躊躇し、十兵衛がとどめを刺すが、その直後、金吾は石炭のことも嘘で、身の置き場がなくて今回の仕事を考えたのだと嘆き告白。そして自分はここで去ると十兵衛に語るのである。人間ドラマの真骨頂ともいうべき、馬上で交わされるこの迫真のシーンもまたすばらしい。

そして二人目の兄貴を五郎が殺すのだが、実は人殺しは初めての五郎は、直後から後悔の念にさいなまれてしまうのだ。その姿を見て、自らの業に打ちひしがれる十兵衛の表情が実にすばらしい。

美しい景色や構図が徹底されているのだが、カメラは単焦点で、常に人や物にピントを絞り、背景をぼかす演出が施されている。ともすると、美しい北海道の景色に視点が移るのを避け、人間ドラマに観客の心を集中させるためでしょうか。

大石等の執拗な追跡の中で、すでに離脱していた金吾がつかまり、拷問の末に死んでしまうにつけ、その復讐に立ち上がる十兵衛は、金を五郎に預け、妻の形見の首飾りをなつめに託して一人大石のところに乗り込む。

大石や、追っ手たちが酒を飲んでいる女郎屋のセットが実に豪壮で、その迫力のみでなく、周囲に配置された松明、囲んでいる板塀に至るまで計算され尽くされた美術には目を奪われる。そしてここがクライマックスの舞台になっている。

乗り込んだ十兵衛が店の主人を撃ち殺す。倒れた主人のそばのろうそくが燃えて、店に火が回り始める。その中で大石に迫る十兵衛。すでにさびてしまった懐刀で一瞬で大石を刺し殺し、刀は折れてしまう。その後は大殺陣のシーンへとなだれ込んでいくが、明かりの配置、床におかれた机などの調度品に至るまで、徹底的に絵になっているのだ。全く、このこだわりには頭が下がるという物である。

そして、すべてが終わる頃に火は店全体に回っている。外には女郎たちが、さらし者になっている金吾を抱き抱えている。一人去る十兵衛の背後に轟々と燃え盛る女郎屋。左に枯れ木が配置され、馬に乗る十兵衛が俯瞰で浮かび上がるシーンはスペクタクルでさえある。

再び、人殺しに落ちてしまった十兵衛はなつめと五郎に子供たちを託し、いずこかへ消える。燃え盛る女郎屋を見つめる五郎となつめ。そして、二人は十兵衛を待つ子供たちのところへやってくる。

いずこかを放浪する十兵衛のクローズアップで暗転、エンディング。そしてクレジット。ため息のでるすばらしいラストシーンに完全に酔ってしまう。

もちろん、クリント・イーストウッドの作品もすばらしい傑作であったし、アカデミー作品賞がふさわしい見事な映画だったが、何度も書くが、このリメイク版も世界に誇れる出来映えである。すばらしかった。


ウルヴァリン:SAMURAI」
いったい、どういう方向でこの映画を作りたかったのかよくわからない作品だった。アクションの切れがないというか、何とももたついた展開が歯がゆい。一昔前のSFアクション映画という感じで、まるで「東京物語」にスーパーマンがでてきた感じの映画だった。

いきなり日本軍が、アメリカの爆撃で原爆を落とされるシーンに始まる。それも舞台は長崎。そのときにたまたまローガンが捕虜で捕まっていて、日本人矢志田を助けるのだが、物語は近未来の現代へ移り、矢志田がガンで今にも死ぬという事で、最後にあいたいとローガンを呼ぶところからが本編。

行ってみれば、ローガンの永遠の命を自分が求め、ローガンには臨んでいた限りある命を好感に授けるという矢志田の妙な独りよがりの目的が明かされる。

別に今更、日本をどう描こうがかまわないが、ただ、パチンコ店、ラブホテル、東京タワー、神社、新幹線、などなど羅列するだけという展開はちょっと雑すぎませんかね。

それに、矢志田の家を守っているのが忍者で、なぜかヤクザがマリコをさらいにきたりと、お話が一貫していない。そこへ、ローガンがかつて誤って殺したジーンという女性を悪夢にみて、それにやたらうなされるというエピソードがしつこくでてくる。

結局、ローガンの人間ドラマの部分を全面に出したかったのだろうけれども、あくまでジャンルとしてはアクションであり、アクションシーンもふんだんにあるのに、それが非常に切れが悪い。

新幹線の屋根の上のシーンも、どうもスピード感にかけるし、社内のマリコとのコミカルな展開も力不足。シンゲンとの対決シーンも今ひっつの上に、クライマックスは、なぜか鎧のロボットが登場。しかも、いい人のはずの矢志田が自分の命を長らえるためにローガンの能力を奪おうとする、これがどんでん返しというより、とってつけた展開としか見えない。

怪しい女医の不気味なミュータントぶりもあっけなく死んでしまうし、結局、なんなのという感じでエンディング。

エンドタイトルのところで、なぜかマグニートーとエグゼビアがでてきて、再びXMEN再スタートの予感をさせて終わるのだが、じゃあ、今回のお話はおついで映画かい!とつっこみたくなるのです。

ハイクオリティな「許されざる者」をみた直後にこの映画を見たので、その低レベルに一瞬戸惑ったが、アクションだからと我慢してみていたものの、だんだんそのもたつきにしんどくなってしまった。ジェームズ・マンゴールド監督なので、期待できるはずなのに、残念な一本だった。