くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ハーメルン」「エリジウム」

ハーメルン

ハーメルン
非常に地味で、まじめすぎるくらいな映画である。残念なのは、もう少し優秀なカメラマンが丁寧に撮影すれば、実に趣のある美しい作品になったのではないかと思うと、ちょっともったいない気がした。

物語の舞台は福島県会津、廃校になった小学校。
モノクロームに近い画面に一人の女先生が教壇に座り、ベルを鳴らすと、一昔前の教室に、子供たちが集まってくる。先生が教壇の周りにくるように手招きをすると、生徒たちは先生を取り囲む。教壇の上に古めかしいからくり時計がおかれていて、その針を先生が12時にあわせると、ハーメルンの笛吹の人形がでてくるという仕掛けになっている。

目を輝かせる生徒たちだっが、一人教壇へよってこずに窓の外を見つめる少年が一人いる。

画面が変わる。人形劇を見つめる子供たち。なにやら笛を吹く女の子を操る人形士。そして冬の景色。葬式の列が写る。先頭の遺影には一人の老人の姿。実は後にこの遺影が廃校に住んでいる校長先生だとわかる。

雪深い鉄橋を走る列車。一人の青年野田が廃校にやってくる。校舎の中には打ち捨てられた柱時計などが散らばる。じっと見つめる野田。タイトルと共に画面は秋景色。廃校の校舎の前に、巨大な銀杏の木がまっ黄色に色づいている。背後の山々も紅葉に色づいているのだが、今一つその美しさが迫ってこない。デジタルカメラの限界というよりカメラマンの腕か、それとも、撮影にゆっくり時間がとれなかったのか。本当にもったいない。

この作品、ほとんどのシーンがこの秋景色をバックにしているんだが、今一つカメラアングルや絵作りが不十分で、せっかくの景色が生きていない。しかも、レトロなムードの廃校で繰り広げられる物語なのに、その趣が漂ってこないのは、本当にもったいないと思う。

こういう絵はさすがに感性がものをいうので、そのあたりの才能は監督の坪川拓史の限界だろうか。

野田が、この小学校の遺跡出土品を整理するためにやってくるが、ここにはこの小学校の元校長先生が住んでいる。

校長先生、そしてかつての恩師で今は老人施設にいる綾子先生、その娘で飲み屋をしているリツコ、そして綾子先生の夫で映画館を経営していた校長先生の友人の老人、そして、綾子先生のからくり時計がなくなってしまったこと。閉校が決まった日に埋めたタイムカプセルのエピソードなどが、時間と空間を前後しながら淡々と語られていく。

からくり時計は野田が盗み、タイムカプセルに入れたということが、会話の中で語られる。この物語がストーリーの根幹のはずなのだが、廃校に住んでいる校長先生の哀愁、綾子先生とリツコ、そして父である映画館の老人とのなにやら意味ありげな過去、祭りに備えて学校の音楽室で練習する老人たちなどの様々な人間模様が錯綜しすぎて、肝心の根幹がすっかりぼやけてしまっている。

やがて、綾子先生は町の病院に移ることになり、最後にリツコにつれられて、小学校へ。そこでベルを校長先生から譲り受けて教室で鳴らす。綾子はなぜか施設ではいつも折り鶴をおっている。そして「あの子供たちはどこへ行ったんでしょうね」とつぶやく。このせりふもキーワードなのだが、生きていない。

冬景色の中で、かつて埋めたと思われる場所をスコップで掘る野田。そこへリツコが校長先生から託された封筒を渡す。開くと8ミリカメラがあり、一緒に入っていたフィルムを写すと、あの人形劇が写され、人形の少女があのからくり時計を操作する。それを見つめる綾子先生。野田が8ミリカメラを窓の外に向けると、なんと冬のはずなのに銀杏の木からまっ黄色な落ち葉が、いやまっ黄色な折り鶴が舞い落ちて地面を覆う。

どこか、切ないような懐かしいような、ファンタジックな映画であるが、時の流れのはかなさ、小さな村でいきる人々の優しさをノスタルジーを込めて描いた感じの作品というイメージは伝わるのだが、後一歩物足りなさが残る映画だった。


エリジウム
「第9地区」のニール・ブロムカンブ監督が描くSF超大作。

2154年、人口増加と環境破壊で荒廃した地球、一部の富裕層は地球上空にある巨大ステーションコロニーエリジウムで最先端の科学の元に病気さえもない生活をしていた。当然、貧困層は地球の荒廃地で労働をしているという最近よくある設定である。そして、当然主人公マックスは貧困層である。まるで「2001年宇宙の旅」の宇宙ステーションを思わせるエリジウムのデザインがなんとも巨大で壮大である。

かなり荒っぽい脚本とストーリー展開であるものの、肉弾戦のようなアクションシーンをふんだんに取り入れ、SFの醍醐味を満喫させてくれる。しかも、エリジウムには女防衛長官として、冷酷で野心のあるデラコート長官がいる。しかも演じるのはジョディ・フォスターとくれば期待度大である。地球からエリジウムの最新医療ポッドに入って不治の病から抜け出そうと密入国してくる人々を、地球に潜ませたクルーガーという荒くれの傭兵に、情け容赦なく撃墜させるデラコートの極端ぶりもすっきりしていて小気味良い。

このまったく無関係の二人だが、マックスは雇われている工場で放射線を浴びてしまい、余命5日になり、どうしてもエリジウムの医療ポッドに入る必要が出てきて、密入国の手助けをしているスパイダーに依頼。スパイダーは地球で莫大な利益を上げている力のある男のデータを脳にコピーしてくるという交換条件をつける。そのターゲットになったのが、マックスの雇い主の社長のカーライルだった。

一方デラコートは、エリジウムでの政治家たちの要求にうんざりし、クーデターによってエリジウムの総裁の地位につくために、エリジウムのシステムを再起動させて、自分を新総裁にするべく、そのプログラムを片腕であるカーライルに依頼。そのプログラムを自分の脳にコピーしてエリジウムに出発したところでマックスたちに攻撃され、データだけマックスは自分の脳にコピーする。

ところが、デラコートがクルーガーにマックスを攻撃させて、データを自分の基に取り寄せようとする。こうして物語はどんどんエスカレートし、エリジウムと地球との壮大な物語へと発展して行く。

ここに、マックスの幼馴染のフレイが登場。大人になったフレイとマックスが再会、フレイには白血病の一人娘がいて、医療ポッドに行きたいという望みがある。こうしてどんどんストーリーが構築されていくあたりは、さすがにオリジナル脚本の醍醐味である。

大リーグボール養成ギブスのようなものを装着したマックス、さらに、エリジウムでも似たような装備をつけたクルーガーとの対決。エリジウムでの兵隊は忍者の格好をしていたりと、なんとも日本趣味満載のところがまた楽しい。クルーガーが手榴弾で顔を破壊されても、医療ポッドで再生されるくだりは恐ろしいほどの技術だなと感心してしまう。それに、そのときからクルーガーに野心が目覚め、デラコートを殺してしまう。

クルーガーはフレアを拉致して自分の妻にしようとしたり、かなり荒っぽい展開の中で、そのままエリジウムへと飛び立つところへ、自分の脳にあるデータを渡す代わりにフレアを助けるべくわざとつかまるマックス。そしてクルーガーたちがエリジウムに乗り込む一方で、なぜかエリジウムと地球という現代の社会を正すために、スパイダーがエリジウムに乗り込む。

マックスのデータはダウンロードしたとたんにマックスの命がなくなることがわかり、それでも現代のシステムを壊し、より良い社会にし、フレアの娘も助けたいとして、マックスはスパイダーに最後の処置を頼み、死んで行く。このあたりの浪花節的な展開は明らかに日本的な物語展開ですね。

こうして書いて行くと、かなり展開が荒い。細かい説明はほとんどそっちのけになっているのがわかる。さらに、途中までかなりの悪であるかに描かれているスパイダーが、終盤、突然革命の戦士になっていたり、クルーガーが野心に目覚める展開がかなり雑ではある。デラコートが死んで行くのもあっさりしすぎていたりと、ちょっと人間ドラマが不十分であるかもしれないが、それはそれで、勢いに乗せられてしまうから作品としてはなかなかのできばえかと思います。

ただ、システムがリセットされ、誰もが市民として認められ、医療ポッドが地球に繰り出されて、集まってくる人々が全部黒人の少年たちであったり、ちょっと、メッセージ性が表立って見えるクライマックスは、いただけませんね。しかし、このシーンを見ると、ただの娯楽映画と評価した「第9地区」も実はニール・ブロムカンブ監督のメッセージが入っていたと読み直すべきかもしれません。

しかし、この夏に公開されたSF大作として