「円卓こっこ、ひと夏のイマジン」
映画を見る前に、まず、自分を小学生の頃に戻してみよう。そうすると、見えてくるもの、聞こえてくるものがある。そして、その見えてくるもの、聞こえてくるものを、自分のまだまだ少ない経験と知識の中から想像する世界、それがこの映画の物語である。
映画は、主人公こっこのクラスメートの女の子が、ものもらいになったと先生が話すシーンから始まる。ものもらい?主人公こっこにはその知識がない。自分のジャポニカ学習帳にその言葉を書き、先生が話す断片的な説明を書き留める。ぞして、自分も眼帯をして、体育を休む。
人間は大人になり、経験と知識を蓄えることで、一つのことを想像する、当てはめる範囲がいつの間にかせばまってくる。外を歩く足音さえも、こっこの友達のほっさんにとっては、七福神のおじいさんの歩く音に聞こえるのだから。
物語は、こっこが学習帳を家に忘れ、それを三つ子の姉の一人が、おばあちゃんの誕生日プレゼントにあげる帽子の刺繍の題材のために隠したところから本編に入る。
こっこにとって、起こる出来事のすべてが、今、なのである。だから、その先がない。友達が不整脈で倒れても、それがかっこいいと、あこがれる。その先にある死への恐怖はまだ見えていない。
淡々と展開する物語は、いつの間にか、見ている私たちを小学校低学年の一瞬へ引き戻す。そこには、まだまだ未完成の知識が生み出す、無限の想像の世界が広がっているのです。
こっこのクラスメートが在日韓国人であることを知り、それもまた自分と違うことでかっこいいと思う。しかし、その子の家が金持ちであるかのことにはそれほどのあこがれを見せない。
前の席の友達が、ノートのはしに書いた「しね」という言葉。そしてその切れ端が机の中にあふれている。それが床にばらまかれ、こっこは雪みたいだという。そこに、大人の知識が生み出す、いじめという感覚はない。そして、その子の家にいっても、別にその女の子は、つまらないから学校に行かないだけだというのだ。
あまりにも、知識の範囲が限られた幼すぎる子供たちの視点がとにかく、だんだん、不思議と楽しくなってくる。
そして、やっと学校にでてきたその女の子の机には、また折り畳まれた紙の山。開くと、こっこがジャポニカに書いていた様々な言葉や感じたフレーズが畳まれている。これが、無限の感動、無限の知識の始まり。これがイマジンなのである。
窓からそれをばらまく。
家に帰ると、こっこは、以前うれしくないといった母親の妊娠について、素直におなかに耳を当てる。また一つ彼女に知識が増えた気がする。こうして大人になるのだろうか?
映画としては、もう一歩、抑揚の効いた演出がなされ、せりふにリズムがあればもっといい作品に仕上がったかもしれないが、かなり自然なままに演技するに任せた演出を施している。デジタルの映像も、ファンタジックな非現実感が漂う。意識的とはいえ、この映画の色、個性かもしれないと思うと、妙に楽しんだ自分が見えるのである。
「300スリーハンドレッド 帝国の進撃」
フランク・ミラーのグラフィックノベルの映画化第二段。
今回は、ザック・スナイダーは制作、脚本に回っているが、墨を流したような黒い映像と、飛び散る血しぶき、はじけ飛ぶ首、ちぎれる手足と、グロテスクなアクションシーン満載の世界である。わるくいえば、芸のない作品といえなくもない。
物語は英雄テミストクレス率いるギリシャ軍と、アルテミシア率いるペリシャ軍の戦いをひたすら描いていく。特に秀でた演出も見られないし、前作と同じ映像なのだから、見分けがつかないといえなくもない。
ただ、冒頭シーンから、延々と繰り返されるバトルシーンばかりなので、飽きることはない。人間ドラマや男と女のドラマなども全く適当にすませ、次々と、血しぶきの赤、斬りとばされた首の数々、スローモーション、CG特撮満載の画面である。
ストーリーの描き方は、さすがに、前作の法が一本筋が通り、内容もそれなりに形になっていた気がするが、今回は、ストーリーは冒頭部分でひたすらナレーションでかたずけてしまうから、前半がややくどく感じる。
ただ、バトルシーンになれば、ミュージックビデオのごとくで、延々と、今や普通になったCGの世界、その映像を楽しむ分には不満のない後半部分である。
これという作品ではないが、軽く見るには適当な映画といえる一本でした。