くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「日々ロック」「インターステラー」

kurawan2014-11-26

「日々ロック」
二階堂ふみ目当てだけの作品だったので、ほとんど期待もなく、もっとクソ映画かと思っていたのだが、意外とふつうに最後まで見終わってしまった。

とにかく突っ走るようにロックミュージックを追い求める主人公日々沼たち。いつもわめいてばかりで、なんの芯のある行動も、迫力も見えないキャラクターなのだが、そのひたすら叫びまくり、前かがみに暴れるだけのへたくそなキャラクターが、映画の中で絵になってくる。

前半はとにかくうざいし、ストーリーの根幹になる二階堂ふみ扮するスーパーアイドル宇田川咲とのからみの場面が、どうも惰性に見えてくるのだが、そのどたばた展開が終盤に絵になって、クライマックス、ガンで寝たきりになる咲の病室の外の屋上で、大雨の中歌いまくる日々沼たちの激唱との対比の中、美しく青春ドラマとして燃え上がっていく。

クライマックス、窓を開けてみる咲に反射する稲妻の光のフラッシュの使い方もうまい。個人的に好きな物語ではないので、一歩引きながらみていたが、最後の最後の一瞬に胸が熱くなる。この迫力は、決して凡作ではなかったかとも思える。

二階堂ふみに負け時と暴れる野村周平もがんばっていたと思う。監督は入江悠である。


インターステラー
けっして、アカデミー賞ねらいになるような作品ではないが、SFカルト映画として、傑作である。クリストファー・ノーラン監督のずば抜けた感性を見せ付けられる映画でした。

この手のSF作品といえば「2001年宇宙の旅」が比較される。そして、ある意味、あまりに大きな存在ゆえに、果敢に挑戦しても、呑まれてしまうのだが、この「インターステラー」は似ていて、さにあらず。独自の世界観をぶつけながらも、越えられないところはあっさりと模倣している。その割り切った映像作りが、見ている私たちをうならせるのです。

2時間50分ほどある長尺作品ですが、いつの間にか時間を忘れるほど引き込まれる。ストーリーをここで書いたところで、この映画の良さは決して伝わらない。これが、映像としての完成品と呼べるのである。ストーリーの組み立て、伏線の配置、それぞれを映像としてみせる絵作り、そのあたりが上手く絡み合っているからこそ、この作品は優れている。

敢えて、物語を書けば、要するに、砂漠化現象か何かで、砂嵐のようなものが襲ってくる近未来。農作物も病気の影響か育たず、襲ってくる砂嵐に人々は気管をやられているようである。とある農家の主人公クーパーは、たまたま政府が計画している、地球脱出計画の基地にたどり着き、移住地探索という計画に参加することになる。当然、二度と家族の元に戻れないほどの長い期間を要するプロジェクトで、愛する娘マーフィや息子のトムとも別れ、人類のために旅立つ。

幼いマーフィは、いつも幽霊がいるといっては、本棚の本が落ちていたりする現象を父に訴えるが聞き入れられない。実はこれがクライマックスに伏線になる。

すでに、40年近く前から計画は実施されていて、何人かが、その探索のためにブラックホールを抜けて、候補地の惑星で待っている。クーパーは数名のクルーとそんな人々の惑星を回り、移住先を決定して、戻るはずなのだが、計画は狂い、じつは、ブランド博士ら学者たちの理論は最初からダメだとわかっていた等の真相が明らかになってくる。

地球に戻っても未来がないとわかったクーパーとアン・ハサウェイ扮するブランド博士の娘は、人類を残すべく、ステーションに保存した受精卵とブランド博士の娘を最後の惑星へ移ることにする。その際、クーパーは彼女だけを、彼女の恋人エドワードが先に探査に行っているという惑星に送り出す。そしてクーパーは、ブラックホールに飲み込まれ、宇宙船を離れ、五次元の世界に入り込む。まさに「2001年宇宙の旅の」ボーマン船長である。しかしそこで、人類が解ききれなかった生き残りの方程式の後半部分を発見し、五次元通って、再び戻り、すでに大人になったマーフィに本棚の後ろから訴える。そして、時計の病身の動きをモールス信号にして地球を救う方法を伝えて、未来が救われる。

やがて目覚めたクーパーは129歳。いまや人類は土星のそばにクーパー記念ステーションを作り、まもなく命を終える年老いたマーフィ、その子孫たちがクーパーを迎える。そして、クーパーは、一人旅だったブランドの元へと宇宙船で旅立つ。ブランドの恋人はすでに亡くなっていて、一人ぼっちなのだと万能コンピューターTARSが教えたからである。

荒く書けば、こういうことだが、登場する万能コンピューターTARSの形がモノリスとHALを組み合わせた姿だったり、宇宙のカットの構図がいかにもどこかで見たようなと、「2001年宇宙の旅」へのオマージュもふんだんにある。

しかし、それでも、根幹にあるストーリーに張り付けられた、様々なエピソードも非常に念入りな計算の上はめ込まれているし、登場人物の存在それぞれも、無駄のない伏線となっている。この辺りの作り込みが見事なのです。

ラストシーンまでここに書いたところで、この映画の良さは伝わらないと最初に書いたが、実際、物語の行く先はだいたい途中で見える。それでも、映画として、映像として見事に仕上がっている。これがクリストファー・ノーランの才能である。

名作という言葉は当てはまらないが、カルトSF映画としてエポックメイキングな一本として語る継がれるべき傑作が登場したと思います。