くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」「

kurawan2015-03-20

イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」
すばらしい傑作に久しぶりに出会いました。

切れのある演出、時代背景を見事に切り取ったエピソードをちりばめた脚本、実話とはいえ、登場人物それぞれが見事に存在感を見せる演技、そして、ベネディクト・カンパーバッチの寒気がする演技に、二時間足らず、すっかりスクリーンに釘付けになってしまいました。
監督はノルウェーのモルテン・ティルドムです。

映画は1951年、この物語の主人公アラン・チューリング教授が、刑事に「私が話すことをすべて信じるか?」という言葉から始まる。
そして、彼の家が泥棒に入られ、その捜査に刑事がやってくるところから本編へなだれ込んでいく。

しかし、盗まれたものがない。やってきた刑事に、訳の分からない悪態をつき追い返すアラン。

そして物語は1939年に戻ります。第二次大戦勃発に伴い、ドイツ軍は優勢を誇っている。それを支えているのが、解読不可能といわれるエニグマ暗号機の存在。その暗号機を解読するべく、イギリス政府は、優秀な人材を集めようとする。そこに呼ばれたのが数学者のアラン・チューリング教授など数名。

しかし、その最初の面接で、人を食った対話をし、危うく、不採用になるところを、エニグマ解読というキーワードで、採用させてしまう。

こうして、エニグマ解読のためのチームの波乱の二年間が描かれます。時に、アランの学生時代にさかのぼり、彼の素顔や、人格形成の物語を描写。さらに、同姓愛者にたいする法的な罰則や、まだまだ女性が仕事に就くことの偏見、など、様々な時代背景が見事に取り入れられていく。

一方で、エニグマのキーワードを見つけるための機械の動作状況が描かれ、緊迫感あふれるサスペンスも展開。

時に、1951年の現代のアランが、警察に逮捕され、面と向かって刑事と対峙する姿も挿入される。

アランの言動を良しとしない上層部の妨害を交わしながら、一方でMI6の情報機関のミンガスとも懇意になり、開発を進めていく。

そして、息詰まったとき、ふとしたきっかけで、エニグマ解読機が完成。しかし、アランは、さらにこの解読機の完成を極秘にし、別の偽情報を流しながら、解読を続けることを選ぶ。

二転三転のストーリー展開、もちろん事実とはいえ、この組立のうまさは見事。

特筆するのは、ベネディクト・カンパーバッチの恐ろしいほどの演技力です。ジョーンを引き留めるために、プロポーズしようとしますが、実はアランは同姓愛者。その微妙な姿をほんのわずかな仕草で見せる場面は、寒気がしました。

さらに周りを囲む登場人物、特にMI6のミンギスの存在感がすばらしい。きりっと、ストーリーを引き締めるし、どこか、アランにとって頼もしい存在として登場し、ストーリーを安心してみることができる。

軍の極秘情報もなにも得られない1951年の警察が、アランを逮捕するべく選んだのは、彼が同姓愛者であること。彼の真実を暴いて逮捕したいノック刑事は彼と対峙し、彼の求める問答を行うが、結局、機械か人間かの判断が付かない。しかし、第二次大戦に誰にも知られず勝利に導いた彼の存在を認めるラストが見事。そして、結局、同姓愛者として逮捕されるのです。

ホルモン療法で自宅待機になったアランに、ジョーンが会いに来る。アランには学生時代、愛した男性クリストファーの面影を、エニグマ解読機にも、そして、今自宅にある機械にも名付けて愛していた。クリストファーは学生時代結核で亡くなったというエピソードも挿入される。

終戦後、すべてのエニグマ解読の資料を薬用に命令され、燃やすチームのメンバー。そして彼らの存在さえも抹消されるのです。

暗転後、アランが作った解読機はチューリングマシンとして、現代のコンピューターの原理となったことが語られ、そして、彼は数年後自殺したことが流れる。

全く、気を抜けない、緻密なストーリー展開と緊張感ある演出、見事な演技に、堪能する傑作でした。


「ランダム 存在の確率」
典型的な体予算B級SF映画、という空気が漂う一本でした。

確かにシチュエーションも展開もおもしろいのですが、秀作や傑作となるには何かが足りない。その何かがわからないままにラストシーンを迎えます。監督はジェームズ・ウォード・パーケット。

映画は一人の女性エムが、車で彼氏ケヴィンとはなしている。これから友人のホームパーティに行く途中で、この日ミラー水星が地球にもっとも接近するという。

ホームパーティが始まってすぐ停電が繰り返され、近所の家が電気がついているからとメンバーの二人が見に行くと、そこでみたのは自分たちと同じメンバーのパーティの現場。

最初は疑っていたが、不審な人物が外にいたり、自分たちが準備したメモが張られていたりと奇妙な偶然が繰り返され始める。

そして、これは、外の一定の場所をくぐると、別のパラレルワールドにたどり着いているのではと考えはじめる。それは量子力学の「シュレディンガーの猫」の理論であると考える。

そこで、自分たちのグループだけ残るように画策を始めるが、その途中、エムはすでに様々な世界の同じ人物が入り交じっていることに気がつくのだ。

そして、彼女は一人夜の闇にでていき、いろんなパラレルワールドをみて、一番幸せそうなところを選び、自分と入れ替わろうと考える。

そしてその世界の自分を殴り殺し、浴室に隠し、入れ替わるが、ふと目覚めると朝。そして、外にでると、ケヴィンが近づいてくる。そこへ、ケヴィンにエムからの電話が入る。その電話を聞いて、目の前にいるエムを見つめて暗転。

SFであり、スリラーである。しかしほとんど舞台は一室の中で、メンバーも入れ替わりもなく、心理ドラマ的な展開で進む。まさに低予算映画の典型的な作り方である。

退屈ではないし、まぁまぁ面白かったから、いいとしようかという一本だった。


風に立つライオン
監督が三池崇史だからみるという感じの一本。近年のさだまさしは大きらいなので、彼の小説となればなおさらできれば見たくない作品。しかも、この手の映画も大嫌いなのでつらいところだ。

とはいえ、この手の美談は見ておくのもまったくマイナスではないとおもうし、これはこれで良かったと思う。

映画はいきなり東日本大震災の場面、そこに立つ一人の黒人、手からとうもろこしの種をとりだす。このオープニングからして、どうもいけない。こうしてこの映画は始まる。

主人公島田航一郎がアフリカのケニヤに医療斑として赴任するところから物語は始まる。よくある展開と、エピソードの数々、そしてラストシーンへと流れていく。もちろん実話なので、それほど改変も出来ないのだろうが、いかにもフィクションというエピソードが散りばめられているのがどうもうすっぺらい。しかも、担ぎ込まれてくる少年兵がどうしてそういう状況になったのかということはほとんどタッチしないために、ストーリー全体が非常に希薄になっている。

主人公航一郎の大学の同僚や、かつての恋人などを通じて、彼の人となりを描きながら、時に医療に翻弄する彼の行き方を描写。一方で、元恋人の人生にもかかわったストーリーを挿入していく。

ありきたりである。しかし、もう少し、深い内容を盛り込んでも良かったのではないか?いや、さだまさしにはそういう入り込みがまったくないのである。平和を享受している日本人の視点から抜け出せていないのである。いまや世界の大国になっているのだから、これではいけないのではと思わなくもないが、所詮映画、そこまで考えることもないかもしれない。しかし、その弱さが、この映画を見てアフリカの医療に携わりたいという思いを起こさせるほどの迫力がないのも確かである。

作品としては、真摯に主人公に視点を当てて、丁寧に描いていく様は、本当に生真面目な一本で、航一郎のそばにやってくる看護師のワカコもまた献身的な存在としてアピールした映像になっている。元恋人の秋島貴子も、孤島の医療に携わるという展開だし、まったく主人公の周りの人々は人格者ばかりという内容。

こういう、美辞麗句で彩られた美談話を、ストレートに見て感動するのも、また映画館に行く楽しみかもしれません。映画としてはいい映画だった気がする。