「海にかかる霧」
「殺人の追憶」の脚本家ジム・ソンボが監督をした作品なので、見に行った。
しっかりと組み立てられた物語は、なかなか見応えのある出来映えで、全編ゆるむところなくラストシーンまでぐいぐいと引きつける迫力は、それなりの完成品でした。
映画は2001年に実際に起こった「テチャン号事件」というものを題材にした舞台劇の映画化らしい。実話の迫力にプラスして、韓国映画独特の陰湿さをクライマックスに配置して、オリジナリティのあるサスペンスに仕上げられています。
映画は、老朽化した漁船チョンジン号の姿から始まる。船長のチョルジュは、その船を愛し、何とか持ちこたえて、次につなごうと必死だが、思うように漁は進まず、この日も芳しくない状態で港に帰る。
給料を先借りし、家に戻れば妻はほかの男と抱き合っている。どうしようもなくなったチョルジュは、中国人の密航者を乗船させるという違法な仕事に手を出す。
こうして本編が幕を開けるが、船員それぞれの個性の描き分けがしっかりしている。そして、中国人の密航者を乗船させるが、どこかぎくしゃくした状況になっていく。
そんなとき、監視船から隠すために魚艘に隠した密航者が、ガスによって死んでしまう。チョルジュはその死体を海に投げ捨てるが、その課程で、機関長は気が触れてしまう。
ここに若い船員のドンシクは密航者を船に乗せるときに海に落ちたホヨンを助けた関係で、ホヨンを機関室に隠していた。ここから物語がチョルジュからドンシクへ移っていくのが、ちょっと、展開ミスだろうか。
結局、狂ったように、殺戮が繰り返され、最後は船が沈むが、間一髪でドンシクとホヨンは助かり、やがて6年後、子供と食事をするホヨンの後ろ姿を見つけたドンシクのカットでエンディング。
前半と後半が、完全に分離したちぐはぐさが気になるのだが、全体にはそれなりによくできた韓国映画だったと思います。
「あの日の声を探して」
これはすばらしい映画だった。画面全体から、まるで優れた報道写真のようにメッセージが訴えかけられてくる。そして、それが、見ている私たちに、ドキドキするほどの問題意識を語りかけ、さらに、何ともいえない感動を呼び起こし、映画としての充実感も味あわせてくれる。ミシェル・アザナビシウス監督作品である。
映画がはじまると、水たまりに死んだ子牛をビデオカメラでとらえているカット、そして、そのカメラはロシア兵が民間人の男と口論し、撃ち殺すまでをとらえて、暗転、タイトル。
画面が変わるとフルスクリーンで、今の様子を二階の窓から見下ろす主人公の少年ハジと赤ん坊の弟の姿。ロシア兵がこちらに向かってくるので、赤ん坊をおいて、隠れ、去った後でていって、逃げる。
そして、ある一軒の家に赤ん坊をおくと自分一人道を歩き始める。途中、トラックに乗せられる。
時は第二次チェチェン紛争。ロシアはチェチェンの領土に侵攻し殺戮を繰り返している。ここに、ロシアの町で軽い会話をする若者二人。一人の青年コーリャが警察に捕まり、そのまま兵士にされてしまう。
映画は冒頭のハジという少年が、EUの派遣委員のキャロルに拾われ、一緒に住むようになってからの物語と、兵隊になるも、執拗ないじめにあいながら必死で生活するコーリャの話が交互に描かれる。
やがて、ハジの姉が赤ん坊を見つけ、孤児院の施設で働き始める。一方、ハジも次第にキャロルと打ち解け、言葉を話すようになる。そして、終盤、映画的な展開でハジは姉と再会する。
一方、コーリャは前線に送られ、次第に兵士としてたくましくなってくる。ある町で、殺された兵士の懐からビデオカメラを見つけ、早速撮影を始める。水たまりの子牛をとらえ、やがて、何かを見つけたようにカメラを向けて暗転、エンディング。
つまり、冒頭のカメラを回していたのがコーリャだったというラストシーンである。
最初、キャロルがハジを一緒に住まわすようになるときに周囲の事務的な反応や、国連の公聴会での各国の無関心さ、さらに彼女の助手の女性たちの事務的な対応など、非常に冷酷なシーンを挟み、一方で、ハジが逃げるときに彼方から無音で迫る戦車の恐怖感や、弟を置き去りにしたことを思い出しては涙するカット、燃え上がる建物を背景にしたコーリャのシーンなど、映画的な演出も非常に優れていてすばらしい。
切々と訴えかけてくるチェチェン紛争の悲劇が、見るものに否応なく問題意識を生み出し、胸にたまらない熱さを呼び起こす展開のうまさは絶品。ただ難をいうと、完全に反ロシアの視点であることである。ここは誤ってはいけない点ではないかと思う。しかし映画としてはすばらしい一本だった。