くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「カメラを止めるな!」「追想」

kurawan2018-08-15

カメラを止めるな!
社会現象になって、連日の終日完売、シネコンからミニシアターまで公開された話題の映画を見に行く。果たしてどれほどのものかと半信半疑だったが、正直面白かった。シンプルな物語と何と言ってもテンポが抜群にい。これは監督の編集と演出の才能だろう。ただ、強いて残念なのは完全オリジナルではなくて原案があるということぐらいか。監督は上田慎一郎

ゾンビ映画を撮影している場面から物語が始まる。女優に厳しく迫る監督、すでに40回以上もテイクしているが思うようなシーンにならないと喚く監督。疲弊した女優の姿に助監督らは休憩を提案。監督は外に出てしまう。間も無くして助監督に大量の血糊を持ってくるように指示が来る。待っている間主演の女優と男優、さらに脇役らが都市伝説の話などをしている。かつてこの建物は人体実験に使われていたなどというよくある話。

気さくな話をしましょうという男優の提案で脇役の年配の女優は、最近の趣味は護身術だといい、襲われたときの対処法を教えるコミカルなカット。外でドンという不気味な音、そして間も無くして、音響担当の若者が腕を切り落とされて転がり込んでくる。しかもあまりのリアルで、作り物に見えない。なんと外にフラフラと中年男のゾンビが現れ、本物のゾンビが現れたことに気がついた主演の男女、さらに年配の女優がゾンビから逃れるサバイバルゲームへと物語が展開。そのリアルさを監督自らカメラで追いかける。

しかし、おかしいのは彼らを撮っているカメラの存在である。冒頭から完全にワンシーンワンカット長回しの末に、とうとうヒロインがサバイバルに成功、ひとり生き残って映画が終わる。クレジット。そしてこれが完成した一本のドラマだったことがわかり物語は一ヶ月前に戻る。

常に日和見的にプロデューサーの言いなりで映画を撮っている男日暮隆之の家族が映る。娘の真央は監督志望だが、リアルにこだわりすぎてトラブルばかり。妻の晴美は元女優だが、つい役にのめり込んんで我を失うのでとうとう追い出されている。

そんな隆之に一つにピロジェクトの監督依頼が来る。全編ワンカットの生放送のゾンビ映画を撮りたいので演出してほしいという。要するに誰も引き受けなかったということなのだが、隆之はこの仕事を請け負う。

妻の晴美は最近暇を持て余し、護身術の番組など見て時間を潰している。娘の真央も仕事にあぶれて家を出て一人暮らししようと思っている。

そして間も無く、撮影練習が始まるが、わがままなヒロインの女優、自意識過剰な男優、アル中の俳優などなどに辟易とした毎日が続く。しかし、ようやく段取りも稽古もすみ、いよいよ本番の日が来る。ところが監督役が事故で来れなくなり、その車に同乗していた女性キャストも来れなくなる。本番が迫る中、隆之が監督役で入ることに。さらに女優役も見に来ていた晴美がはいり、いよいよ撮影が映画始まる。

冒頭の映像シーンで不自然に思われたところの裏話ネタが次々と明らかになり、晴美ののめり込みキャラなどコミカルで楽しい笑いの映画に変貌。これまで張り巡らされた伏線が笑いとなって次々と展開していく面白さだけでなく、映画撮影の面白さもまざまざと見せていく。

映画ってこんなに面白いものなのだというのを表裏から見せていく後半が特に秀逸。さらに、色々なトラブルが発生しあわや中断かと思われるところに真央が登場、持前のこだわりと熱さでどんどんスタッフ側をサポートしていく下りも最高。

そして放映が無事終わり、笑いとどこかほのぼのした空気の中で本当のエンドクレジットが流れて映画が終わります。

確かに面白いし、練り込まれた脚本とテンポの良い編集、演出のコラボレーションが見事な映画で、小品ながら、完成度の高い自主映画という素朴さが光る作品でした。ただ、社会現象になる程かというと、それまでは行かないと思うし、このレベルならミニシアターの作品に時々見られるレベルであることも確かです。でも、これが話題になり、映画ってこんなに面白いのだよと、日頃見ない人が関心を持ってくれたことは大成功なんじゃないかと思います。


追想
美しい構図と流麗なカメラワークにまず引き込まれる。下手をすると、カマトトな女と不器用な男の恋愛の成れの果てになりそうな話を、二人のキャストの抜群の演技力と、大人の視点でしっかりとブレずに演出された画面作りで、まるで一編の詩篇を読み解くような映像表現として仕上げられた映画。素晴らしかった。監督はドミニク・クック

時は1962年、結婚したばかりのエドワードとフローレンスが新婚旅行先のチェジル・ビーチをさりげない話をしながら歩いている。小粒の石が敷き詰められたような海岸を、しっかりと歩く二人の足元を捉えるカット。しかし、どこかまだぎこちない。

部屋に戻りと、少し早いディナーが運ばれ、二人の給仕が新婚カップルだと興味津々な目つきで見つめる。エドワードたちは二人きりになり、当然ながらエドワードの欲望は次第に高まってくるが、どこかぎこちないままにフローレンスに触れる。この展開に交互して二人の馴れ初め、それぞれの家庭の姿がフラッシュバックして挿入される。

エドワードの家庭はどちらかというと労働者階級的な庶民家庭で、父は校長をしていて、母は駅で列車に接触して以来脳に損傷を受けてどこかおかしい。双子の妹がいる。

一方のフローレンスの家庭は、実業家の父を持ち、どちらかというと裕福な家庭のようで、彼女自身、バイオリン奏者で楽団を組んでいる。そしていつか憧れのホールで演奏することを夢見ている。その五人の楽団のチェロ奏者の男性はフローレンスに気がある風である。

フローレンスはエドワードの家で歓迎され、妹たちや母にも好かれ、父も是非結婚してくれとエドワードに望む。そしてなるべくして結婚することになるが、フローレンスはエドワードにキスや手を握ることは許すがそれ以上は拒み続ける。

結婚が決まり、フローレンスは男性とのSEXに関する本なども読みふける。この辺り、ろくに性教育もなかった中で、こういう時代だったのかもしれず、また母とはそういう心の交流はない家庭だったのかもしれない。

そして、ホテルの部屋、フローレンスの服を脱がすことにも手間取る。この下りがとにかくしつこいほどにくどくどと描かれる。そしてとにかくベッドに横たわり、エドワードはフローレンスに体を重ね、いざということになるが、お互い初めてのことで、エドワードはすぐに果ててしまう。一方フローレンスも舞い上がった上に戸惑い、その場を飛び出し、海岸まで逃げてしまう。

ようやく追いついたエドワードだが、自分の不甲斐なさと苛立ちも重なり、思わずフローレンスをなじってしまう。一方のフローレンスも、愛しているが、どうしても上手くいかないから、結婚後は別の女性と寝てもいいとさえ言ってしまう。

それぞれがそれぞれに愛しているのに相手を思うあまり、ぎこちない罵りになってしまう。そして、エドワードは、一人ホテルを去る。

時は1975年、エドワードはレコード店を経営していた。そこに一人の少女がやって来て、母の誕生日のお祝いのレコードを注文する。それはかつてフローレンスが好んだ曲のレコードで、その少女がフローレンスの娘だと確信したエドワードは彼女に名前を尋ねると、クロエだという。それはかつてフローレンスが娘ができたらつけると言っていた名前だった。そして名字は、フローレンスの楽団のチェロ奏者の男性の名字だった。

そして時は流れ2007年、今や年老いエドワードはクリケットをしている。部屋に戻りラジオから、音楽ホールである楽団が最後の演奏をするというニュースが流れる。その楽団はフローレンスが所属していたものだった。

演奏会の夜、すでに年老いたフローレンスは舞台上で演奏を始める。前から三列目の中央で聞いているのは年老いエドワードだ。若き頃、いずれこのホールでフローレンスが演奏する時は必ずここで聞くからとエドワードが言っていた席だった。

エドワードを見つけたフローレンスは、いつの間にか涙が頬を伝う。エドワードも涙が伝う。

画面は、海岸に飛び出したフローレンスを追って来たエドワードのシーンへ。二人で戻りましょうというフローレンスの言葉に背を向けるエドワード。カメラがゆっくりと引いていく。エドワードから離れていくフローレンス、二人の距離がみるみるひろがっていくのを横長の画面の構図で捉えながら引いていくカメラが素晴らしい。そして映画が終わる。

ため息が出るエンディングである。労働階級のエドワードと資産家階級のフローレンスの話なのだが、その部分は必要以上に触れず、あくまで、若すぎる二人の不器用すぎる愛の顛末として描いた視点が実に素晴らしいのです。背後に被るクラシックの音楽とロック調の音楽の組み合わせのセンスのうまさにも頭が下がります。

大人の映画、そんな言葉がぴったりの秀作でした。