くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ミス・マルクス」「アイダよ、何処へ?」「君は永遠にそいつらより若い」

「ミス・マルクス

ロック調の音楽やモダンに編曲したクラシックを挿入する演出が個性的なのですが、映像とうまくマッチさせるだけの感性が整っていないので、とってつけたように音楽が入るのはちょっとどうかと思えた。また、核となる話が見えないので、主人公の家庭の話か、父の意思を継いだ活動家としての姿を見せるのかがどっちつかずになってぼやけてしまった気がします。ただ、映画全体としてはそれなりにまとまって仕上がっているので、駄作というわけではありませんでした。監督はスザンナ・ニッキャレッリ。

 

ロック調の曲に乗せたタイトルの後、1883年、カール・マルクスの葬儀の場面、娘エリノアの挨拶のシーンから映画は始まる。やがて彼女は劇作家エドワードと恋に落ちるが、本妻と離婚する気のないエドワードとは内縁の関係となる。金銭的な感覚に乏しいエドワードと生活を始めたエリノアは、一方で非難するも愛することをやめない。ドイツ労働党からの依頼で、イギリスの労働者の労働環境問題に積極的に取り組み始める。

 

家庭でのギクシャクと、労働党での仕事との物語が約10年余り交互に描かれていく。子供の労働の規制や女性労働の問題などを糾弾していく彼女の姿とともに、不義を続けるエドワードとの家庭における妻としての女性の在り方にも労働という視点から語る姿も描かれていく。

 

やがてエドワードは胸の病に犯され、さらに生活費も苦しくなる中、友人で裕福なエンゲルスの助けもありなんとか日々を過ごしていくが、エンゲルスの死の床で、エンゲルスが使用人に産ませたとされていた子供が実は父カール・マルクスの子供であったことなども判明し、エリノアは落ち込んでしまう。療養に海辺の街に行った夫エドワードも帰って来ず、追い詰められていくエリノア。

 

ところが、二ヶ月以上経って突然エドワードが帰ってくる。エリノアは、使用人の女中にある薬を頼む。老犬の最後のためにという毒薬だったが、女中が薬局に受け取りのファイルを届けて戻ってみると、老犬が居間にいて、奥に行く場面で映画は終わっていく。エリノアは自殺していた。テロップが流れエンドクレジットの中エリノアの活動が語られていく。

 

あまりに巨大なカール・マルクスを父に持ったエリノアら三姉妹の中で、エリノアが父の意思を継いで労働問題を糾弾していく物語なのか、夫エドワードとのヒューマンドラマなのかがはっきり見えない展開な上に、奇抜な演出を目指したのか、仰々しいほどの音楽が突然挿入される演出が映画全体としてまとまりに欠けていて、どうものめり込んでいかない作品でした。

 

「アイダよ、何処へ?」

1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で起きた大量虐殺事件「スレブレニツァの虐殺」の実話をもとにした作品で、正直、重い内容ということもあり映像表現の秀逸さを褒めるだけでいいのか複雑な一本だった。監督はヤスミラ・ジュバニッチ。

 

オランダ軍を中心のNATO国連軍の男たちとその通訳のアイダの姿を捉える映像から物語が始まる。国連の管轄下のスレプレニツァの町に進出してきたスルプスカ共和国セルビア軍に、最後通牒を連絡して空爆依頼をする作戦を詰めているカレマン大佐と町長らの姿に場面は移る。町長が反対するも空爆は決定、しかし、いざとなったら本軍から空爆機がやって来ない。やがてセルビア軍が町に入ってきて町長らは銃殺される。逃げた町民たちは国連軍の基地へ殺到する。しかしその多さに全員を収容できないまま膠着状態となる。

 

国連軍の通訳をしているアイダは、夫と息子が柵の外に残されたと聞き、大佐に頼んで、セルビア軍との交渉役として、元校長をしていた夫ニハドを無理やり柵の中に入れ、そのドサクサに息子二人も柵の中に収容する。そしてセリビア軍のムラディッチ将軍との交渉となるが、ムラディッチ将軍は、国連基地内にいる人たちの中に軍人がいないか確認のため無理矢理セルビア軍の武装兵士を基地内に送り込む。さらに、脱出計画を立てるというカレマン大佐の意見を無視するようにバスをチャーターしてきて次々と柵の外の町民を独自に移そうとし始める。男性と女性と分けて強引に進めるセルビア軍の姿を見て危機感を持ったアイダは、夫や息子たちを、オランダ軍と一緒に脱出させるべく、柵内に残そうと奔走する。しかし、結局、夫と息子らはセルビア軍が用意したバスに乗せられ何処かへ連れ去られる。

 

男たちを乗せたバスはとある建物に到着し、その中で銃殺されてしまう。そして時が経ち、平和に戻った街、アイダは夫と息子たちの遺体を探すが見つからない。アイダは、小学校の教師として復帰し子供たちを教えている姿で映画は終わっていく。

 

オープニングから緊張感あふれる展開と映像で、片時も画面から目を背けられない。アイダが家族を守るために奔走する姿、国連本軍が動こうとせず、焦燥感が募る大佐の姿、そして、どうしようも無く、セルビア軍の行動するままに市民たちに危険が及んでいく流れに胸が張り裂ける思いになっていきます。訴えかけるメッセージは圧倒的なものがあり、映像作品として相当なクオリティの一本ですが、映画を褒めるというわけには単純にいかないものがあることも確かです。じっくりと考えさせられる作品でした。

 

「君は永遠にそいつらより若い」

小説としてはあり得るが映像作品にして脚本にする段階で昇華すべきところはそうすべきだろうと思いますが、脚本力がないのか、薄っぺらい台詞と演出に仕上がってしまったのはちょっと残念。もっと奥の深い物語のように思えるのに通りいっぺんの上滑りの物語に見えてしまいました。監督は吉野竜平。

 

居酒屋で主人公堀貝の就職内定決定で盛り上がるゼミ生たちの会から映画は幕を開ける。この場面のセリフがまず貧相で情けない。原作通りなのかもしれないがここは映像として作るために工夫すべきだろう。遅れて吉崎という同級生がサークル仲間で、住んでいる下の階の子供を勝手に保護していて警察沙汰になった穂峰を引き取りに行ってきて参加、堀貝と話し始めて物語は本編へ。

 

児童福祉士として働くことになる堀貝は穂峰との帰り道、今度会ったら、何故その仕事を選んだかを話すからと別れる。ところが間も無くして、穂峰は死んでしまったと吉崎に聞かされる。堀貝は卒論のアンケートを友人に頼んで回っていて、回収してくれたアンケートをもらう代わりに、授業のノートを写してくることになったが、寝過ごして間に合わなかった。たまたまいた初対面の猪乃木という三回生になんとかノートを借りそこから猪乃木と親しくなる。

 

一方、穂峰の葬儀に行った吉崎は、実は穂峰は自殺だったと聞かされ、前日穂峰と飲んだ吉崎は何も気付けなかったと落ち込んでしまう。堀貝はバイト先の後輩から、自分の性器が大きすぎたので彼女とうまくできなかったと悩みを打ち明けられたりする。堀貝に部屋でしこたま飲んだ猪乃木は、堀貝に下宿まで送ってもらった帰り、耳にある怪我を見せる。

 

色々なことで悩む堀貝は卒業式の後、猪乃木の下宿で飲み明かし、その時、猪乃木が中学時代乱暴され耳の怪我をしたことを話し、いつのまにか猪乃木と堀貝は体を合わせる。そして、堀貝は、吉崎から頼まれていた穂峰の部屋の片付けに向かう。既に片付けられていた部屋で、吉崎は、穂峰の遺言を聞かされる。その言葉の最後に。下の階の少年をよろしくと書かれていたので、堀貝がベランダから入ってみるとネグレクトされた少年がいた。

 

そして三ヶ月が経つ。最後に会ってから猪乃木に会えていない堀貝は、猪乃木の故郷小豆島へ向かっていた。堀貝は和歌山で児童福祉士の仕事をしていた。小豆島へ向かうフェリーの中で猪乃木と電話連絡がつく。カットが変わり、堀貝が仕事で訪問した家のインタフォンを鳴らして映画は終わっていく。

 

とにかく脚本が悪い。エピソードを何もかも羅列していくので、中心の話が完全にぼやけてしまい、だらだら感が漂う上に、脇役への演技付けも力が入りすぎて、ともすると堀貝の存在がぼやけてしまっている。作りようによっては面白い物語なのでいい映画になりそうなのだがちょっと残念な一本だった。