「フェーム」
初公開以来だから四十年近く前からの再見。確かロードショーの時は「フェイム」と言っていた気がするが、勘違いかもしれません。流石に全盛期のアラン・パーカー監督の才能が爆発した傑作ミュージカルだった。こんな映画誰も作れない。小さなエピソードに盛り込まれた様々な人間ドラマをしっかりと描き切りながら全編が音楽劇としてまとまっている完成度の高さ、そして主人公を定めない群像劇ながら、それぞれの登場人物がくっきりと見えてくる演出、楽曲の素晴らしさ一つ一つが唯一無二の仕上がりになっています。改めて見直してその真価を再発見した感じでした。
公立ながらトップクラスの音楽学院に、さまざまな生活がある若者たちが集まってくるところから映画は幕を開ける。満足に文字が読めない青年、今時の電子音楽にハマる若者、ステージママの言いなりでやってきたものの真剣に役者を目指す少女、裕福な家庭で育ったものの両親の愛情を受けずにトップのバレエダンサーを目指す少女、ハーレムで暮らしDVの父親に育てられたが幼い妹を可愛がる青年、ホモであることに悩む青年、黒人であることの偏見に必死であがなう少女、もちろんそれぞれの名前はあるものの、物語の中では必要なく、それぞれのこれまでの人生、そして夢見る栄光の舞台を目指す必死の姿が四年間の物語として展開していきます。そして、ラストの卒業式、散々悪態を付き合いながらも温かく見守る教師たちの前で大合唱、大演奏、そして踊る卒業生にの姿で映画は終わる。
言葉で語れない映像表現の一つの極致を見せてくれる作品で、見ないと語れない傑作だった。
「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」
もっと軽い映画かと思ったが、意外に真面目に作られたアメリカンコメディというタッチの映画だった。フィクションでありノンフィクションテイストも捨てない面白さが最後まで飽きさせないし、少々雑な演出も見られたものの、エンタメ映画としてまあまあ面白かった。監督はグレッグ・バーランティ。
米ソの宇宙進出計画の模様が語られた後、1969年アポロ11号による月面着陸の計画の年を迎えたところから映画は幕を開ける。国民の関心が薄れ、一部には予算を他に向けるべきという声も強くなってきた時期、ベトナム戦争も泥沼だった。NASAの発射責任者コールは、いよいよ月面着陸に向けての計画が進む一方、アポロ1号の事故への後悔から抜け出せていなかった。
ここに、PRマーケティングでカリスマ的な活動を続けるケリーは、この日も自動車メーカーの重役たちを煙に巻いてほくそ笑んでいた。夜、ケリーがバーでいると一人の男性コールと知り合う。お互い素性を話さず別れたままだったが、後日、ケリーはバーで一人飲んでいるとモーという男が近づいてくる。彼は大統領直轄の部下だという。彼は、ケリーにNASAのイメージ戦略を依頼する。
ケリーは持ち前の図々しさでNASAに乗り込み、役者をNASAの職員に扮して宣伝するなどメディア戦略を進めていくが、コールは反発する。しかし、予算が振り分けられず、次の発射が危うくなる中、ケリーの強引な宣伝戦略で、有力議員の気持ちを変え、アポロ11号が現実のものになっていく。そんな時、モーはケリーにある提案をしにくる。万が一アポロ11号の月面着陸が失敗した時に備え、フェイク映像を準備し、アポロ11号からの映像はカットしてフェイク映像を最初から流すというものだった。
最初は拒否したケリーだが、彼女には過去に犯罪歴があり、偽名を使ってここまで生きてきたのだった。それを全て白紙にしてやると言われ、コールにも内緒でフェイク撮影の準備が始まる。そしていよいよ発射の前日、ケリーは発射を待たず基地を後にしようとするが、助手にもらったスケッチを見て心を入れ替え、コールに真実を話し、ロケットに積んだ、映像を流せなくしたカメラを修理し、フェイク映像を流しているのを装って本当の映像を流す計画に変更する。もちろんモーには内緒だった。
やがてロケットが発射され月面着陸の様子が中継されるが、フェイク映像撮影のセットに猫が迷い込んでしまう。慌てたモーたちだが、本物が流れていることを知り、騙されたとはいえケリーを賞賛し、セットを後にしていく。やがてアポロ11号は帰還、成功したコールはケリーと抱き合って映画は終わる。
よくできた映画とは言い難いものの、無難に月面着陸の噂を巧みに遊んだストーリーはなかなか面白くできていたと思います。