「ロボット・ドリームズ」
アカデミー賞長編アニメーション賞ノミネート作品。セリフを廃し、音楽とパフォーマンスだけで展開するほのぼのしたヒューマンドラマという一本。シンプルな絵で、淡々とファンタジックに進む工夫された物語は、終盤まではとってもいい感じなのですが、終盤になって、それまでの様々なエピソードが消えてしまい、ちょっともったいないラストになった。後一歩、工夫が欲しかった気がします。監督はパブロ・ベルヘル。
一人で暮らすドッグは、ある日、通販で友達ロボットを購入する。苦労して組み立て、ロボットは動き出す。ドッグとロボットはローラースケートをしたり散歩をしたり、お気に入りの曲で踊ってみたりして楽しい日々を過ごす。ある日、ビーチへ海水浴に行った二人だが、海に入ってはしゃいでいたロボットは帰り際錆びてしまって動かなくなってしまう。ドッグは連れ帰ろうとするが重くて動かせず、とりあえずその日はロボットを残して帰る。ところが翌日ビーチへ行くと閉鎖されていて入れなくなっていた。柵を乗り越えようとしたりするも結局叶わず、ドッグは来年の海開きを待たざるを得なくなる。
ロボットは一人ビーチで過ごしていたが、ボートを漕いでいた三匹のウサギがボートが穴が開いたためビーチに避難してロボットを見つける。ロボットにオイルを飲ませてくれたので、ロボットは動き出し、柵を飛び越えてドッグの家に戻ってくるが、それは夢だった。ウサギたちはロボットの片足を切ってボートの穴を埋めて帰っていく。季節が流れ、冬も超えてしまう。渡り鳥が一羽立ち寄り、ロボットの脇に巣を作って三匹の卵を産み、子供たちを育てて旅立っていく。
やがて海開きが近づいた日、ビーチのガラクタを集める男がロボットを発見し、連れ帰り、スクラップ屋に売ってしまう。ロボットはそこでスクラップの山に放り込まれ首と胴体がバラバラになってしまう。そんなスクラップ屋に、機械マニアのラスカルがパーツ探しに立ち寄ってロボットの頭や手足を発見して持ち帰る。家で、胴体にラジカセをセットしてロボットを甦らせ、仲良く暮らし始める。
一方、ドッグは海開きの日ビーチに行くが、ロボットの姿はなく、片足だけを発見して戻ってくる。あちこち穴を掘ってみるも見つからずとうとう諦めてしまう。仕方なくドッグは新しい友達ロボットを中古で購入した。そしてドッグは新しいロボットと楽しく暮らし始める。
ラスカルとアパートで暮らし始めたロボットは、毎日楽しく過ごしていたが、ふと道の向こうにドッグを見つける。ドッグは新しい友達ロボットと歩いていた。ロボットはドッグを追いかけ交差点で再会し抱き合うが、新しい友達ロボットの寂しい表情を感じる。しかもそれはロボットの夢だった。
ロボットはかつてドッグと踊った曲をかける。通りで曲を聴いたドッグは一緒に踊り始め、ロボットもアパートの部屋で踊る。踊り終わってドッグはアパートの窓を見上げるが、ロボットは隠れる。ドッグは新しいロボットと手を繋いで去っていく。ロボットはラスカルと楽しく屋上で踊る。こうして映画は終わる。
ほのぼのした中に、複雑な友情の機微、時の流れの残酷さを醸し出すストーリーはなかなかのものですが、せっかく前半エピソードで登場するウサギや渡り鳥を終盤何らかで生かせたらもっと胸を打つ映画になったかもしれません。でも、総合的に作品のクオリティはなかなかのものでした。
「動物界」
あのラストシーンまであそこまで引っ張らなくてもいいんじゃないかと思うほどに若干間延びが目立った脚本でしたが、確執を修復せんとする父と息子のドラマとしては、なかなか独創的で面白い作品だった。難を言うと、動物に変異するのはリアルすぎて気持ち悪いと言えばそうなのですが、ところどころに描く生き物としての心の交流がもう少し力を入れて描いていればもっと分厚い作品になった気がします。監督はトマ・カイエ。
車の中で、父フランソワと息子のエミールの相入れない言い合いのような場面から映画は幕を開ける。大渋滞で動かず、エミールは父といることの窮屈さから車を降りる。後を追う父だが、渋滞の先で救急車のトラブルを見る。救急車から現れたのは鳥の姿になりかけの男フィクスの姿だった。人間が突然別の生物に変異するという奇病が流行して二年が経ち、フランソワの妻ラナもその奇病で施設に隔離されていて二人はそこに向かっていた。
施設についたフランソワたちは医師に説明を受け、母と面会を許されるが、エミールは会うことができなかった。新しい隔離施設が南仏に完成するということで、ラナもそこに移送されることになり、エミールは母を治療する二週間だけ転校することになる。エミールは転校先で、ADSDの少女ニナと出会う。ところが、新生物と呼ばれるようになったラナたちのバスが嵐の後、大木が倒れてきて事故に遭い、患者たちは森に逃げてしまう。地元憲兵のジュリアたちが捜索を始めるが、フランソワもラナを探すために森を捜索し始める。その中で、フランソワは憲兵隊長のジュリアと親しくなる。
エミールは体育の授業で綱引きをし、尋常以上の力を発揮し、家に帰ると、爪が尖っているのを発見、自身も奇病に冒されたことを知る。エミールは奇病に冒されたことを隠してフランソワと森を捜索するようになるが、そこで、鳥に変異していくフィクスと再会する。エミールは次第に背中や歯などが変わっていくが顔貌に変異がなく、周囲では気づかれなかったが、人間としての動きに制限が出て、嗅覚や聴覚も鋭くなり、振る舞いもケモノ的になっていく。
エミールは森の奥の沼地で魚を取るようになり、空を飛ぶ練習をしているフィクスにその場所を教える。エミールの異変に気がついたフランソワは病気を隠すためにエミールに脱毛剤や爪を切ることなどを勧め、エミールも必死で隠すことに専念する。やがてこの村の祭りの夜、エミールは親しくしていたニナと畑の中で抱き合う。ニナはエミールの変化に気がついていた。ところが会場に戻ったエミールにクラスメートが、ニナとのことを見ていたと告げ、配布されていた新生物よけの超音波の器具を操作する。
エミールは思わずクラスメートを殴ってしまったことから騒ぎになり、会場の大人たちは銃を持って新生物狩りを始める。エミールは畑に逃げ込むが、そこへ空を飛べるようになったフィクスが駆けつける。しかしフィクスは銃で撃たれ、エミールの腕で亡くなってしまう。しかし結果的に襲われた新生物がフィクスだということでエミールは疑われずに済む。
エミールはさらに森の奥に進み、そこで獣の姿になったラナと再会、そこにはたくさんの新生物になった患者たちがいた。おりしも陸軍が森に迫り、次々と患者たちを捕獲していく。エミールはただ迷子になったということで保護されるが、フランソワと一緒に書類作成の場に来たエミールはサインができなかった。不審に思う職員をフランソワがジュリアに教えてもらった護身術で気絶させ、エミールを連れて車で逃走する。車の中で、自分を認めてくれたエミールはフランソワとようやく心が通じ合い笑い合う。そして、フランソワは追ってくる陸軍の車から逃れ、エミールを森に解き放ってやり映画は終わる。
奇病が蔓延しているという舞台設定は創造性に富むのですが、描く内容はそれほど大きなテーマではなく、父と息子の心の葛藤のドラマという収束がちょっとアンバランスに感じてしまいました。この流れなら果たしてあの舞台設定は必要だったのかという疑問が残る作品だった。