「メカゴジラの逆襲」
ワイヤーワークを使ったバトルシーンで怪獣達が吹っ飛び、スクリーンプロセスの迫力で怪獣達が迫る。まさに昭和ミニチュア特撮全開の展開に心が躍ります。ストーリーはかなり唐突に展開するとは言え、怪獣映画を楽しむという根本的な面白さは堪能できました。でも、二代目のメカゴジラなのに、一作目の方が大活躍した気がしたのはちょっと物足りなかった。監督は本多猪四郎。
海辺で一人の女性桂が佇んでいる。ゴジラに破壊されたメカゴジラの部品を回収するため調査船が向かっていたが部品が見つからず、突然目の前に巨大恐竜チタノザウルスが現れ調査船は破壊されてしまう。恐竜研究の第一人者真舟博士を訪ねて一之瀬らがやってくるが、出迎えたのは娘の桂で、博士は亡くなったと言われる。
ブラックホール第三惑星の宇宙人は、自分たちの星が滅亡寸前なので地球を征服して移住する計画を立てて潜入していた。宇宙人はメカゴジラを回収して新たに作り直し、その技術協力に真舟博士の知識を頼っていた。実は真舟博士の娘桂は、かつて実験の途中で亡くなり、その際宇宙人が命を助けた経緯があり恩に来ていたのだ。学会で真舟博士の学説を認めず追放した人々に真舟博士は恨みを持っていて、チタノザウルスを甦らせ、桂によってコントロールするようにしていた。チタノザウルスは東京を襲うが折しもゴジラが現れ対峙する。
新しい調査船がチタノザウルスを調査しに行き、そこでたまたま発した超音波にチタノザウルスが苦しんだことから、超音波に弱いことが判明する。超音波でチタノザウルスを倒すため装置が準備されたが何者かに破壊される。どうやら桂の仕業だと考えたが、桂を信じる一之瀬は、独自に桂の後をつけ宇宙人に捕まる。やがて二代目のメカゴジラが完成し、真舟博士によって桂と接続されて最強となる。そしてメカゴジラが出動する。
メカゴジラとチタノザウルスを迎え撃つゴジラは苦戦するが、超音波装置を修理したインナーポールの村越らがチタノザウルスを攻撃、一之瀬は脱出し、宇宙人と撃ち合い、そこに村越らも駆けつける。その中で桂も真舟博士も撃たれてしまう。桂が撃たれ、瀕死の中、一之瀬の腕の中で自ら命を絶つ。桂が死んだことでメカゴジラは無力となりゴジラによって破壊される。チタノザウルスも超音波とゴジラの攻撃で破壊されてしまう。宇宙人のボスは逃亡を図るが宇宙船がゴジラに破壊される。ゴジラはまた海に帰っていって映画は終わる。
映画は大人の鑑賞にも耐えられるようにという工夫もあるものの、子供心を楽しませるサービス精神満載で、すでに正義の味方になったゴジラの存在がなんとも微笑ましい。実に単純で雑な物語ですが、昭和特撮を楽しむには十分な作品だった。
「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」
一編の抒情的な詩を映像として鑑賞しているような淡々と綴るドラマ。左右対称のシンメトリーな画面と青、黄、赤を基調にした映像演出、静かに流れる死をテーマにしたその先の物語を描く手腕は流石に見事。雪景色から雪景色という時間的な作りも素晴らしい。地味な映画なのですが、描かれるドラマは実に分厚くて重厚的、しかも無駄がない。これが一つのクオリティだと思いました。監督はペドロ・アルモドバル。
書店を真正面から捉えるカットから人物が動き始めると、書店の中、真上からサイン会をしているテーブルにアングルが変わって映画は幕を開ける。新刊のイベントでサイン会をしているイングリッドの前に、長らく会っていなかった友人ステラが現れサインを求める。快く応じたが、ステラは、旧友のマーサが入院していると告げる。
久しく会っていなかったマーサの病院に行ったイングリッドはマーサから、子宮頸癌の3期だと告白され、新薬の効果で落ち着いていると明るく答えられるが、次に行った時、薬の効果が全くなく、余命わずかなのだと言われる。そして、最後の命は自分で選びたいからと安楽死の薬をネットで手に入れたと言われる。さらに、最後の日に一人は嫌なので隣にいてほしいと頼まれる。友人達に頼んだが断られ、イングリッドを最後に頼むと言われ、イングリッドは一旦は病室を後にするが、直ぐに引き受ける返事をする。
ウッドストックのそばの森の中の家を買ったマーサはイングリッドとやってくる。マーサは二階で暮らし、イングリッドは一階で生活することになる。もし二階のドアが閉まっていたら、安楽死を実行したと思ってほしいと頼まれ、イングリッドは毎朝、階段下から二階の赤いドアを確認するようになる。万が一の時に問題が起こるといけないので友人のディミアンに頼んで弁護士を準備してもらう。
マーサは、疎遠になっているミシェルという娘の話をする。ミシェルが出来た経緯は、かつてマーサは十代の頃フレッドという恋人がいた。しかしフレッドは直ぐにベトナム戦争に行き、帰ってきた時は別人になっていた。彼を慰めるためのキスがそのまま身体を合わせ、ミシェルが生まれたのだという。ミシェルは父のことを聞いてきたが、曖昧な返事しかせず、以来マーサと疎遠なままなのだという。
イングリッドは近くのジムに通い、大学の講演に来ていたデイミアンと話をするが、世の中をひたすら憂い、学者的に非難するディミアンの考え方には賛同できなかった。その後森の家に戻ってきたイングリッドは、テラスで亡くなっているマーサの姿を発見する。マーサの部屋にはイングリッドとミシェル宛の手紙が置かれていた。
イングリッドは警察の取り調べを受け、ステラが同じ頼み事をされていたことを話し、イングリッドも、自殺を知っていたのではないかと問い詰められる。イングリッドはデイミアンを通じて弁護士のサラを呼んでもらい、ことの収拾を頼む。森の家に戻ると、ミシェルが訪ねてくる。ミシェルはマーサの部屋で一夜を明かし、翌日、一階のテラスでイングリッドと一緒に目を瞑って横たわる。雪が深々と降ってきて映画は終わる。
シンプルそのものの話ですが、描かれるドラマは分厚くて重曹的、終盤の警察のくだりは宗教的なものが絡むので理解しづらいものの、男女の物語、親子の物語、友情の物語が死を通じて描かれる様は二層三層にさりげなく描かれていて、非常に面白い。さすがアルモドバルと言われるとそうだが、逆にいつもの変態感は少なかった気がします。
「ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた」
家族のドラマとして非常によく練られた作品で、実話をもとにしているとはいえ、胸に迫る厚みのある映画でした。時間を前後させた細かい構成で、少々凝った演出がなされていますが、決して混乱することはなくどんどん物語の中に引き込まれていきました。もちろん主人公のミュージシャンの話ですが、父の思い、兄の思いが切々と伝わる展開に胸が熱くなってしまいました。いい映画だった。監督はビル・ポーラッド。
夜、広い農場の一角の小屋、農場の一部が競売されたという立て看板の後、小屋の中でギターを弾く少年の姿から映画は幕を開ける。少年は十五歳頃のドニー、彼が小屋の扉を開けると大勢の観客の姿から、兄ジョーと一緒に演奏するステージに移る。今は結婚して子供もいるドニーはその夢で目を覚ます。妻のナンシーと今は近くのスタジオで演奏して細々と生活をしている。子供を起こして仕事に向かうドニー。そんな彼に、父から連絡が入る。いい話が来ているという。
ドニーが久しぶりに農場を経営している実家に戻ってきたが、そこにマットという音楽プロデューサーが待っていた。三十年ほど前にドニーとジョーが作ったアルバム「ドリーミン・ワイルド」がネット上で話題になっていて、ぜひ再盤を作成して売り出したいというのである。ドニーは話半分に乗り気はなかったが、費用が全くいらないということで、とりあえず受ける事にする。
兄のジョーも父のドンも嬉々として喜ぶが、ドニーは、半信半疑だった。三十年近く見向きもされなかった曲が今更という気持ちもあった。まだ少年だった頃、兄のジョーと音楽を始めたが、父はドニーの才能を認め、農場の片隅にスタジオを建ててやり応援する。間も無くして兄弟の曲は音楽プロデューサーの目に留まるが、ドニーのソロでという依頼だった。ジョーは弟の背中を押してやり、父も資金を提供してドニーは音楽で成功するべく旅立つが、結局芽が出ることはなく、その間に父は農場を手放すほどの援助をしていった。
今回、再盤の話で盛り上がる一方で、ドニーは、これまで父にかけた迷惑を取り返すべく焦り始める。再盤のアルバムはみるみるネットで広がり、ニューヨークタイムズなどの取材も入る。ジョーも再びドラムを叩くがドニーはジョーのドラムに満足できなかった。ドニーは、ドラムをしているナンシーらを呼んで脇を固める。そんな時、マットはシアトルのショウボックスでのライブを提案してくる。それは十代に頃のドニーとジョーの夢の舞台でもあった。しかしドニーはさらにプレッシャーを感じていく。日々の練習でつい厳しい言い方でジョーを責めたが、ナンシーがドニーを慰める。
やがてショウボックスでの舞台も無事終わり両親も大喜びするが、演奏後の楽屋でドニーはジョーを罵倒する程にきつい言葉を浴びせてしまう。後日、ドニーは実家にやってくる。あの後の父の姿を見るためだったが、十代の頃は、次々と曲が浮かんだのに今は全く浮かばないと父に話し、父はどんな時も味方だからと励ます。ドニーはジョーのところへ行き謝るが、ジョーは、ドニーに言われたことも素直に受けていること、十代のあの頃がとにかく楽しかったと抱き合う。そして時が流れ、今はジョーの頭もすっかり髪の毛がなくなりそれでもドニーとステージで演奏する姿があった。すっかり年老いた両親はこの日も客席で二人の息子の姿を微笑んで見ていた。こうして映画は終わり。
実話をもとにした人間ドラマですが、主役から脇役に至るまで温かい人間味に溢れていて映画に温もりを感じます。十代の頃と現代を何度も交錯させ、時にオーバーラップした映像などを盛り込んで凝った作りになっているのですが、細かいシーンの連続がいつのまにか心の中で一つにつながっていく感覚がとにかく心地よくて胸に迫ります。いい映画だったなあとため息してしまう作品だった。