くらのすけの映画日記

大阪の社会人サークル「映画マニアの映画倶楽部シネマラムール」管理人の映画鑑賞日記です。 あくまで忘備録としての個人BLOGであり、見た直後の感想を書き込んでいるので、ラストシーンまで書いています。ご了承ください

映画感想「浮き雲」「名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN」

「浮き雲」

青、赤、黄色、を基調にした美しい画面作りで描く人生讃歌。不幸のどん底に落ちていくものの、やがて起死回生してハッピーエンドになる物語を軽いタッチと抜群のセンスの音楽、そしてユーモラスな映像演出で描いていく様がとにかく楽しい。こう言う作りができるのは才能としか言いようがありませんが、まるで監督がスクリーンの裏からニンマリ笑っているような感覚になってしまいます。監督はアキ・カウリスマキ。やっぱり素敵な映画だった。

 

秋の美しい黄色い景色、高級レストランの給仕長イロナは、厨房でシェフが酒を飲んでいると言う連絡で厨房へ行くと、シェフがビンから酒を飲み、イロナに対し包丁を向けてくる。給仕の男が抑えようとするが切り付けられ、イロナにビンタをされて包丁を離す。一段落ついて、怪我をした給仕は病院へ行く。

 

家に帰ると、夫のラウリがテレビを買ったとイロナにサプライズする。ローンで買ったが、ローンなんかすぐに終わるからと二人でテレビを見る。ところが翌日、ラウリは、会社でリストラされてしまう。誰をリストラするかをカードで決めたが、一番少ないカードを引いてしまったのだ。さらに、イロナの働くレストランが経営難でチェーン店に売却されることが決まる。いきなり夫婦共々職を無くし、あちこちに仕事探しに回るも、決まったかと思えばダメになる事を繰り返し、せっかく買ったテレビも、ソファも持って行かれてしまう。

 

イロナが働いていたレストランの元給仕やシェフも働き場所がなく酒に溺れる日々だった。元レストランは、すっかりファミリー向けになって品がなくなったのだと言う。イロナはやっと寂れたバーに仕事を得るが、その店主は売り上げを博打に使ってしまうようなチンピラで、ラウリが妻の給料を払わせようとしたら、逆にリンチにあってしまう。生活に追い詰められたラウリは、生命保険も解約、車も売ってしまう。

 

イロナは、自分でレストランを始める事を考え、資金計画を立てて物件も見つける。開業資金のために、夫の解約した生命保険金と車の金を元手に銀行から借りようとするがうまくいかない。そこで、生命保険金で一か八かラウリは賭博ルーレットに手を出してみる。しかし、結局負けてしまい全ての金を失ってしまう。さらに住んでいるアパートが売却されるらしいと言う噂も耳にする。

 

ところがそんなイロナの前に元支配人が現れる。レストランを売却してからゆっくりしていたが、やはり暇なのでもう一度レストランを始めないかとイロナに提案、金は自分が出すと言う。二人で酒を飲んでいて、次々とお代わりを頼む元支配人にイロナが「もう四杯目ですよ」と言うと「人生は一回限りよ」と答えるセリフが絶妙。

 

イロナは、レストラン開業に向けて動き出し、やがて開店の日が来る。なかなか客がやって来なくて不安になっていたが、みるみる席が埋まり、夜には大口の予約が入る。やっと一息ついたイロナとラウリが店の外に出て空を仰いで映画は終わる。

 

人生なんてなんとかなるさと笑い飛ばしていく陽気さに包まれた作品で、次々と苦境に陥る主人公達が悲痛な顔一つせずに淡々と生きていく姿に勇気をもらってしまいます。路面電車や犬、公園のさりげない景色、アパート、そして素朴な人たち、それぞれが映画として至極の味わいを見せ、たった一度の人生を思い切り楽しみなさいと鼓舞して来ている気がします。素敵な映画だった。

 

浮き雲 (字幕版)

浮き雲 (字幕版)

  • カティ・オウティネン
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「名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN」

この手の音楽映画は苦手なのですが、二時間半あっという間に終わった。ティモシー・シャラメ以下俳優陣の圧倒的な歌唱力に脱帽してしまうのですが、次々と繰り返されるステージシーンと、合間のドラマシーンとの交錯のバランスが絶妙で、時間を感じさせないし、飽きさせない。主人公はボブ・ディランですが、1960年代の社会の様相に自由と反骨精神で臨んだミュージシャンたちの群像劇でもあるし、一人のミュージシャンの存在は歌う歌ではなく、一人の人間であると言うメッセージでもある。全編スクリーンから溢れるスピード感に圧倒される映画だった。難を言えば、シルヴィとウディ・ガスリーの立ち位置が音楽シーンに埋もれてしまったのは少しもったいなかった。監督はジェームズ・マンゴールド

 

わずかな荷物とギターだけ持って憧れのウディ・ガスリーに会いたくてニューヨークにやって来たボブ・ディランの姿から映画は幕を開ける。ところがカフェで、ウディが入院していると言う記事を見て病院へ向かう。一方、ウディの友人でもあるピート・シーガーは、社会活動の歌で世間から非難され裁判で問い詰められたりしていたが、記者の前で歌を披露するなどする。

 

ボブはウディの病院へやってくるが、そこでピートと出会う。ウディはほとんど言葉が喋れなかったが、ボブにギターを弾けという。ウディの申し出を受けて、その場でボブはギターを弾き、ウディ・ガスリーのために作った歌を歌うが、ウディに拍手される。その夜はボブはピートの家に泊まる。そこにピートの妻トシがいた。

 

クラブではジョーン・バエズが歌っていたが、ピートについていったボブはそこでジョーンに紹介される。そしてピートの紹介でボブも歌うことになる。ギターとハーモニカを使って歌うボブ・ディランの歌は絶賛を買い、その場にいたジョーン・バエズのマネージャーアルバートボブ・ディランに目をつける。そしてボブのアルバムの制作を開始する。しかし、最初はカバー曲ばかりでボブは気乗りしない上、実際売れなかった。

 

ある日、教会で演奏した際、その場にいたシルヴィという女性に声をかけられ、親しくなったボブは彼女と住むようになる。次第にボブ・ディランの歌は大衆に受け入れられるようになっていく。人気が沸騰していくボブ・ディランだったが、いく先々でファンに囲まれる自分に戸惑いを感じ始める。そしてファンに囲まれるボブの姿を見るシルヴィは次第に自分から遠くなるボブの姿を追うようになり、さらにボブがジョーンと親しくなるにつけとうとう別れてしまう。

 

ボブ・ディランは、アコースティックギターからエレキギターを取り入れ、それまでのフォークソングの常識を覆していく。ボブ・ディランはボビー・ニューマンやジョニー・キャッシュらと交わる中で自身の活動をますます自由に変化させていくが、それはボブをプロデュースしてきたピート達を戸惑わせ、いつの間にか社会への問題意識を歌ってきたピート達が保守派としてボブと逆転していく形になる。

 

ボブ・ディランは自身の主張を全面に出していき、ジョーンとも険悪なムードになる。そして、1965年ニューポート・フォーク・フェスティバル、駆けつけたファンが望むのはボブの過去のヒット曲だったが、ボブはそれを無視して自身の反骨精神を露骨に見せ、ロック調の歌を披露して大ブーイングに会う。しかし一方でボブを支持するファンもしっかりいた。そのフェスで、ピートやアルバート達は右往左往する事になるが、ボブ・ディランは一通り歌ったあと、アコースティックギターを持って静かな曲で締めくくりその場を収める。しかし、そのフェスに招待したシルヴィはボブとジョーンの歌う姿を見て、途中で会場を抜け出して帰ってしまう。

 

打ち上げの後、シルヴィが帰った事を知ったボブはバイクでシルヴィが乗る船の港へ駆けつけるが、シルヴィは戻ることはなかった。すでにボブ・ディランはシルヴィ一人のものではなく彼を待つ大勢のものだとわかったからだった。ボブ・ディランウディ・ガスリーの病室に行き、もらったハーモニカを返すが、ウディはそれを押し返す。ボブはハーモニカをポケットに収め、バイクに乗って疾走する姿で映画は幕を閉じる。

 

当時の社会世相を俯瞰で捉えて、あくまで一人のミュージシャンの伝奇映画に止めない作りを徹底し、非常に深みのある作品に仕上げている。実在の恋人の名前をシルヴィに変更して架空の女性を登場させたのはいいが、かえって中途半端になった部分は残念ですが、ジョーン・バエズを演じたモニカ・バルバロや、エドワード・ノートンらの恐ろしいほどの名演で、映画に隙がなくなってしまった。映像も美しいし、繰り返されるバイクの疾走シーンも映画にスピード感を与えた。ケネディ暗殺やキューバ危機など当時の世界の情勢をさりげなく盛り込んで、当時のミュージシャン達が訴えたメッセージを俯瞰で見せていく造りは舌を巻きました。いい映画でした。