くらのすけの映画日記

大阪の社会人サークル「映画マニアの映画倶楽部シネマラムール」管理人の映画鑑賞日記です。 あくまで忘備録としての個人BLOGであり、見た直後の感想を書き込んでいるので、ラストシーンまで書いています。ご了承ください

映画感想「おいしくて泣くとき」「終わりの鳥」

「おいしくて泣くとき」

なんとも雑な脚本だが、全体の構成はそれなりに工夫されているので、映画的な作りにはなっていた。まあ、當真あみを見に行っただけなので構わないけれど、演出はあまりに稚拙なので、前半は流石に見ていられない。ラストの数分だけに全てをかけたと言う感じの出来栄えですが、こう言う映画はこう言う感じでいいのではないかと思います。監督は横尾初喜

 

風間心也が営む一軒のカフェ、一人の青年がやって来る。その青年は、姉の行方はいまだにわからないが、もう三十年も経つから良いのではないかと心也に話す。このカフェは子ども食堂もやっていて、バター醤油焼きうどんを食べさせていた。風が強くなって来たので外の看板を片付けに出た心也のところへ車が暴走して来て店に突っ込んでしまう。心也は怪我はなかったが、父の代からのカフェが壊され、突然営業できなくなり、高校生の頃の心也の物語は始まる。

 

高校生の頃、足の怪我でサッカー部を休部していた心也は、クラスで学級新聞委員に指名されてしまう。同じくクラブに入っていない夕花も委員に選ばれ二人でひま部なるクラブを勝手に作って委員活動を始める。夕花の父は夕花にいつも暴力を振るっていて、夕花と弟は心也の子ども食堂にいつもご飯を食べに来ていて心也とも親しくなっていた。心也は学校で、心也の父が子ども食堂をしていることが偽善だと虐められていた。さらに心也の店にご飯を食べに来ていた一人のクラスメート石村もいじめにあっていて、いつの間にか心也と親しくなっていく。

 

店に顔を出さない夕花を心配して、父に和菓子屋へ使いに頼まれたついでに夕花の家にやって来た心也は、父親に暴力を振るわれている夕花に出くわす。たまたま出会った石村と共に心也は夕花を助け出し、心也は夕花を連れてかつて両親と言った海岸へ向かう。心也の母は病気で亡くなっていてそこは思い出の場所だった。心也はそこで四葉のクローバーを見つけて母にプレゼントし、母もまた心也に四葉にクローバーをしおりにしてプレゼントしていた。

 

心也は夕花と四葉のクローバーを探すが見つからず、夜が明けてしまい、心也は夕花に、母にもらった四葉のクローバーの栞をプレゼントする。駅で列車を待つ夕花は、隣で眠る心也を見て警察に電話をする。そして心也に口づけをする。そこへパトカーが来て夕花を保護して走り去る。心也はそれ以来夕花に会うことはなかったが、ある日手紙が届く。夕花と弟は父と離れて暮らしているのだと言う。

 

夕花はいつものように手紙を出しに行ったが、そこへ一台のワゴンがやって来る。中から夕花の父が現れ、夕花を殴るが、そのはずみで夕花は石に頭を打って気を失う。現代、店の改修に苦慮していた心也のところに一人の女性が現れ、無償で工事をすると提案する。修繕は完成したがその女性は心也に、自分の母のことを話す。その女性の母は、ある時間から過去の記憶がないのだと言う。たまたまニュースで心也の名前を知り、母が大事にしていたクローバーの栞に書かれている心也の名前で、この店のことを知ったのだと言う。

 

そして女性は自分の母を心也の店に連れて来る。心也はバター醤油焼きうどんをご馳走するが、連れてこられた女性はその匂いと味に、記憶を取り戻し、高校時代の心也とのさまざまな蘇って来る。そして涙しながら心也に笑顔を向ける。心也は記憶を取り戻した夕花に、高校時代夢だと言っていたバルコニーのある家に住んでいるかと訪ね、夕花がうなづく。こうして映画は終わる。

 

ラストのしつこいほどのフラッシュバックに向けて淡々と平凡かつ雑なストーリー展開が続くのだが、全体を振り返ったら、それなりに映画的な一本にまとまっていると思います。まあ凡作には変わりないですが、當真あみが見れたので全て良しです。

 

 

「終わりの時」

死を司るものを、自在に大きさを変えるオウムとして描くと言う独創的な発想でコメディとして描いた作品ですが、A24作品と聞けば納得の一本。一人の女性の未来への人生の再生を描く感動的なドラマなのですが、そこかしこに描かれるシュールな映像は深読みせざるを得ない難解さもないわけではない。それでも、にんまりとさせるコミカルな展開は、映画にオリジナリティを生み出す味のある映画でした。監督はダイナ・O・プスィッチ。

 

宇宙から地球を眺める映像からカメラが寄っていくと一羽のオウム、そのオウムが死を間近にしたさまざまな人の前に現れ、羽を被せて死に至らしめていく。しかも死んでいく人々は死を与えられることで幸福な顔を見せる。こうして映画は幕を開ける。ここに、半身不随なのかベッドで寝たままの少女チューズデー(原題はこれ)が居た。母のゾラは、仕事なのか外出し、自宅にあったさまざまなの物を骨董店に売りに行っている。この日も、チューズデーはヘルパーに世話をしてもらいながら庭にいた。

 

ヘルパーがお風呂の準備に家に入り、酸素を吸いながら深呼吸を繰り返していたチューズデーの前に巨大なオウムが現れる。チューズデーは死をもたらしに来たのかとオウムに訪ね、ペンギンのジョークをオウムに話す。それを聞いたオウムは大笑いをしてしまう。そしてしばし死をもたらし損ねてしまう。ゾラが帰って来てチューズデーの側にいるオウムを認め、チューズデーを殺さないでほしいと言うが、オウムはチューズデーは死ななければならないと譲らない。

 

ゾラは、チューズデーと二人で話したいとオウムを家の外に出してしまい、オウムが小さくなった隙に本で叩き潰し、さらにアルコールをかけて焼いてしまう。それでもオウムの声が聞こえるので、ゾラはオウムを食べてしまう。ところが、ゾラは突然巨大になってしまう。驚いたチューズデーはヘルパーを呼ぶ。世界が混沌とした姿になり、彼方の建物が煙を上げていたり、足を切断した男が喚きながら道路を横切っていたり、ゾンビの牛が現れたりする。ゾラは巨大になったり小さくなったりし、チューズデーはヘルパーにその姿を見せて帰らせる。

 

ゾラは、オウム同様にさまざまな人の声が聞こえるようになり、彼女が手をかざすと死を間近にした生き物は死を迎える。ゾラはチューズデーを背中に背負って様々なところへ出かけ、死を間近にしている人や動物に死をもたらして安らぎを与えて回る。海岸まできたゾラとチューズデーだが、ゾラが、岩陰で小用を足している際、オウムは口から外へ出て来る。そしてゾラと何やら言葉を交わしていたが、それをチューズデーは遠くから見ていた。

 

チューズデーは家に帰りたいと言い、ゾラはチューズデーを連れて自宅に戻って来る。ゾラはチューズデーに最後の言葉をかけてベッドで添い寝をする。ゾラから外に出たオウムがじっと見つめ、チューズデーは息を引き取る。娘を失い空虚になったゾラのところにオウムがやって来る。ゾラの様子を見にきたのだと言う。ゾラはオウムに「神は存在するのか、来世はあるのか」と問うが、オウムは「人間が考えるような神は存在しないが来世は心の中に存在する」と答え、チューズデーのモノマネで、ゾラを励ますが、ゾラは「最低だ」と冗談まじりに罵倒、オウムとゾラが窓の外、沈む夕陽を見つめる。階下にヘルパーがやって来てチーズを買って来たから一緒に食べようとゾラに声をかける。オウムの目に地球が見え、カメラが寄っていくと地球のアップになって映画は終わる。

 

娘の死を体験して、どん底に沈んだゾラが前に向かって立ち直って進んでいくまでを描いたシュールなドラマで、死の使いをオウムにすると言う発想に呆気に取られるが、なかなか面白い作品でした。