くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ワン・セカンド 永遠の24フレーム」

「ワン・セカンド永遠の24フレーム」

さすがにカメラアングルが抜群に美しいし、映像としては一級品ですが、ストーリー構成や脚本が弱いために、登場人物の心理描写が希薄になってしまい普通の映画に仕上がったという感じの一本でした。監督はチャン・イーモウ

 

1969年文化大革命下の中国、一人の男が砂漠を彷徨って来る場面から映画が幕を開ける。どうやら強制労働所を逃げてきたらしく、たどり着いた村で干し野菜を盗む。フィルムを配達しているバイクを認めた彼はそのバイクの運転手らが入ったレストランを覗いていたが、そこへ一人の見窄らしい姿の少女が現れ、フィルムの缶を盗んで逃げるのを目撃する。男は彼女を追い、フィルムを取り返すが、戻ってみるとバイクがなかった。

 

仕方なく、砂漠を歩き始める。そこへトラックが通りかかったので乗せてもらうが、目の前に少女を見つける。男はその少女もトラックに乗せる。途中フィルム配達のバイクを見つけたのでフィルムを返そうと降りたら、その隙に少女がまたフィルムを盗んでトラックに乗る。男は再度トラックを追い、取り返して、映画が上映される村にたどり着く。映画は、この少女と男のフィルムの奪い合いを前半にして展開。やがて、男がなぜ映画にこだわるのか、少女がなぜフィルムにこだわるのかが説明されるが、この部分がとにかく弱い。

 

男には娘がいて、ほんの1秒ほどニュース映像に映っていると知らされ、その映像を見たくて逃亡したのだ。村ではファンという男が上映の準備をしていたが、そこへフィルムの一巻を引きずったまま荷車が到着する。配達のバイクが壊れ、通りかかった荷車にフィルムを乗せてもらったが、一巻だけ開いてフォルムが外に流れたのだ。しかもそのフィルムこそが男が見たかったニュースのフィルムだった。

 

ファンのアイデアで、村中でフィルムを洗い、何とか上映できるようにする。ニュース映像を食い入るようにみる男の目に、ワンカットだけ娘の姿を認める。一方、フィルムを盗んだ少女はリウの娘という呼び名で、彼女は、弟が勉強するために借りた電気の傘に使っていたフィルムが燃えてしまい、いじめっ子らに責められていて、フィルムでもう一度傘を作ろうとしていたのだ。さらにファンの息子が幼い頃にフィルムの洗浄液を飲んでしまい、その時に脳に損傷が出たエピソードも挿入されるが、これも今ひとつ映画に深みをもたらしていない。

 

こうして二転三転の末に、ファンの工夫で何百回でもニュース場面を見られるようにしてもらった男がニュースを見るが、ファンは男を保安員に引き渡すように通報していた。この辺りに心理ドラマの展開に無理が出る。しかし、保安員は男を殴り蹴るをした挙げ句、柱に縛ってしまう。哀れに思ったファンは男に、娘が映っているフォルムの切れ端をプレゼントする。男はファンに、映写室にあるフィルムの傘のスタンドからフィルムの傘をリウの娘にやってほしいと頼む。

 

砂漠をひきづられていく男に、傘をもらって喜ぶリウの娘の姿が遥か後方に見える。しかし、保安員は男がファンにもらった包みを取り上げ捨てる。リウの娘が、捨てられたものが何かわからないままに包み紙だけ拾って男に示す。そして二年が経つ。

 

大学の合格発表に男はやってきた。そこにはあの娘が来ていた。父と娘の再会の後、娘は自宅に大事にとってある包紙を男に見せる。しかしフィルムは無い。父と娘は砂漠に行くが、フィルムがあるはずもなく映画は終わっていく。

 

エピローグ場面があるものの、既にリウの娘の姿やファンのことは触れていないままだし、フィルムにまつわるせっかくのクライマックスが実に残念にエンディングを迎えるのが何とも勿体無い。映像は一級品なので、もうちょっとストーリーにこだわりが欲しかったし、終盤、保安員が見る「英雄子女」の映画がちょっとくどいのも鼻につきます。張芸謀作品としては普通以下の一本でした。

 

映画感想「おれの行く道」「ノロワ」「デュエル」

「おれの行く道」

たわいにないプログラムピクチャーで、なんの変哲もないストーリーと、気楽に仕上げた演出という感じの一本でした。監督は山根成之田中絹代の遺作である。

 

信州で大学に通う耕三が、父の一周忌で、成田で旅館をしている兄の家に帰ってくるところから映画は幕を開ける。北海道に住む祖母のキクも戻ってきたが、子供らは、キクの遺産を我が物にすべく積極的に老後の世話を申し出る。物語は三軒の子供たちの家をたらい回しにされながら暮らすキクの姿と、子供たちとのコミカルな展開が中心となる。

 

ところが、そんな子供たちにキクは、土地を売った金は全て老人ホームに寄付したと言ったことで態度が一変、邪魔者扱いされ始めたキクは北海道へ逃亡するが、末の子供の梅子が迎えにきたことでもう一度成田に帰ってくる。折しも、信州から耕三も帰って来るが、兄貴たちの態度が変わったことに腹をたて、自分がキクの面倒を見ると連れ帰る。途中、キクは、別に持っていた二億円の大金を耕三に預けると告白して映画は終わる。

 

なんのことはない、シンプルで普通のプログラムピクチャーで、当時大量生産されていた一本という感じの映画でした。

 

ノロワ」

これは参りました。アングラ劇のような演出で展開する復讐劇という感じなのですが、なぜ、どういう経緯かが全て削除されて、おそらく深い意味があるだろうセリフの数々とシュールな動きで表現されていく。赤、青の色彩演出と月の光、画面に赤く色付けしたりモノクロにしたりして描写する映像演出も非常に抽象的で、まさに芸術。凡作とは言わないが難解そのものだった。監督はジャック・リヴェット

 

本土から離れた島の海岸、モラグと弟のシェーンが打ち上げられている。シェーンは死んだいるようで、モラグはある復讐のための十三人のターゲットを求めてやってきたらしい。エリカという女性に推薦されて、海賊団だろうかのリーダーのボディガードとなる。

 

復讐の機会を探りながら一人また一人と殺していくモラグ。そして最後の最後、リーダー?もモラグと同士討ちで殺して映画は終わるのだが、果たしてこの理解で正しいのか。終盤はモノクロになったり、赤い画面になったりと、より複雑になって来るので何とも言えない感覚に囚われていく。しかも、演技が全て舞踏演劇の如く展開するし、第何幕の何場等のテロップを繰り返していくので、まさに舞台劇である。独特の映像体験になる一本でした。

 

「デュエル」

これは傑作でした。ファンタジーなのですが、赤と黒を基調にした空間の色彩演出が抜群に美しいし、鏡を利用した幻覚的な画面も秀逸、物語がちょっと不思議な話なので、惑わされる感がありますが、サスペンスタッチの出だしから次第にファンタジーに変化していく様に引き込まれました。監督はジャック・リヴェット

 

ホテルの受付の夜のバイトをしているリュシが玉乗りの練習をしている場面から映画は始まる。そこへレニという女性が現れ、一人の男性の写真を見せて調査してほしいという。リュシは早速、調査を始めるが、そこに自分の兄ピエールの存在を突き止める。ピエールはヴィヴァという女性と懇意にしていたが、レニによればヴィヴァは危険な女なのだという。一方のヴィヴァもレニのことを危険な女だとリュシに教える。実は二人は月と太陽の女王で、地上に生を受けるためのお互い魔法の石を探していた。

 

リュシの周りで、シルビアという女性が殺され、彼女の首に丸い石のアザがあった。さらに、エルサも殺される。ピエールは、リュシに魔法の石を隠してあるコインロッカーの鍵を託し、レニと対決しに向かうが、反撃され殺されてしまう。一方、石を手にしたリュシにヴィヴァが迫って来るが、リュシの手首の血が石に光を与え、ヴィヴァは消えてしまう。最後にリュシはレニと対決するが、リュシは自らの血を石にかぶせ光を放ってレナを倒してしまう。こうして映画は終わる。

 

物語自体はファンタジーですが、前半のサスペンスタッチの出だしと、男と女の話を絡ませたストーリーが深みを生み出しています。逆に、そのアンバランスがちょっと煩雑な話にしたという欠点もあるかもしれません。いずれにせよ、光と影、赤と黒を見事に画面に生かした色彩映像が実に美しい。見事な作品でした。

 

 

映画感想「生きててよかった」「チェルノブイリ1986」

「生きててよかった」

非常に荒削りな映画ですが、映画作りのセンスを感じさせる演出とストーリー展開がとっても良い作品で、ラストはどこか不思議な感動に胸が熱くなってしまいました。掘り出し物発見という一本でした。監督は鈴木太一。

 

暗闇にスパーリングのミットを打つパンチの音から、ジムで練習をする主人公創太の場面になって映画は幕を開ける。窓越しにとらえるこのオープニングが実にうまい。長年試合をしてきてボクシングしかない創太だが、ドクターストップもかかり限界がきていて、次の試合が最後だった。恋人の幸子に見にきてほしいとジムの会長が頼むが、幸子は創太の試合を見に行ったことがなかった。

 

そして試合に臨んだ創太だが、今回も負けてしまう。引退し、会長のコネで仕事についた創太だがうまくいかない。幸子との結婚生活もどこかギクシャクしたままだった。一方、創太と幸子の幼馴染で役者を目指している健児も、エキストラまがいの役ばかりで悩んでいた。創太のことで一人公園で飲んでいた幸子は健児を誘う。ひとしきり酔っ払った時、健児に映画のオーディション合格の連絡が入る。嬉々として帰る健児。

 

一方、創太は最初の会社を首になり、現場仕事をしていたがそこでも喧嘩をしてしまう。そんな彼に地下格闘技を仕切る新堂が近づいてくる。最初は相手にしなかった創太だが、行き場を失い、格闘技場を訪ねていく。そこで、素人相手に負けてしまう。自暴自棄に帰ってきた創太だが、幸子は体を求めてきた。しかし、うまく幸子を抱けない創太だった。そんな創太に幸子は、創太の試合の日はいつもセフレとSEXをしていたと白状する。

 

そんな時、一生懸命役作りをしていた健児に、映画中止の連絡が入る。そんな健児の前に、離婚してきたという創太が現れる。そして散々に殴りあった後、創太は、練習に付き合えと健児に言う。そして、創太は地下格闘技で再度チャレンジするべく健児と練習をし、そして、ついに勝つ。そのまま創太は地下格闘技で連戦全勝を続け、健児もトレーナーとして傍に立つようになる。ところが、ある時、新堂から、次の試合に負けるようにと申し出が入る。了解した創太だが健児は大反対する。

 

そして試合の日、健児は幸子の家を訪ね、創太の試合を見に来てほしいという。最初は拒否したが、考えてみると自分には創太しかないことに気がついた幸子は試合を見にいく。創太は、幸子の姿を認めて最後は試合に勝ってしまう。最初は嫌な顔をしていた新堂の顔にも笑みが浮かぶ。

 

カットが変わり、子供の時から遊びに来ていた創太の母の家で幸子はカレーを食べていた。そんな幸子に母は誕生日のプレゼントを渡す。それは、創太の部屋にあったのだという。創太は幸子と付き合っていた時、毎回誕生日に趣味の悪いネックレスを渡していたのだ。カメラがパンすると、そばには創太の遺影が立てられていた。そして、幸子は実はカレーが嫌いだったと母に話して笑いながら映画は終わる。

 

太夫妻、健児夫妻の二組の家族を描きながら、生きていくこと、本当に生きることを問い詰めていく。脇役の心理描写にも配慮した演出も丁寧で、映画全体が真摯に作られています。少々突拍子もない流れがないわけではないけれどその荒削りさが映画にバイタリティを与えた感じがします。面白い作品でした。

 

チェルノブイリ1986」

無駄にダラダラと長い感じがしますが、普通のパニックドラマでした。チェルノブイリ原発の事故を題材にしたフィクションならもうちょっとコンパクトに仕上げた方が良かったように思います。監督はダニーラ・コズロフスキー。

 

チェルノブイリ原発のすぐそばの街、美容院に勤めるオリガは消防士の元恋人アレクセイと十年ぶりに再会する。アレクセイは、執拗にオリガに迫り、家まで押しかけていくがそこで同じ名前の男の子と出会う。どうやらオリガと別れた時にできていた子供らしい。アレクセイは翌日のデートを強引に約束して帰るが、翌日現れず二週間が経つ。二週間ぶりに息子のアレクセイに会ったアレクセイは、8ミリカメラをプレゼントする。アレクセイはキエフに転勤が決まっていた。

 

オリガの息子アレクセイは友達と夜の原発の撮影に行くが、アレクセイの目の前で原発が爆発する。夜が明けて、酒を飲んだ帰りの消防士のアレクセイは、原発から異様な光が出ているのを発見し、通りかかった消防車に乗って現場に急行、そこでかつての同僚たちが事故に巻き込まれているのに遭遇する。その場の活動に参加した後、被曝した可能性があるので病院へ行ったアレクセイだが、街は緊急避難の対象となっていた。さらに原発内の排水弁を開かないと大惨事になるということで、作業に参加するメンバーを募るがアレクセイは躊躇する。

 

オリガの家に行ったアレクセイは、オリガの息子の体調が悪くなっているのを見る。そして街を脱出する途中のバスの中で、アレクセイは、作業員として参加し、作業員への報酬としてのスイスでの治療に息子のアレクセイを選んでもらうことを考える。

 

アレクセイは、原発内のチームと現場へ向かうが、電気システムによる排水弁稼働は失敗に終わる。とりあえず、息子のアレクセイはスイスへ旅立つ。外に出て、治療を受けるアレクセイは、オリガにことの次第を説明して、オリガの元を訪れる。しかし復縁を希望するアレクセイにオリガは冷たかった。アレクセイは、再度手動による排水弁操作のチームに参加することを決意しオリガの元を去る。

 

作業は難航、なんとか排水弁は開き、任務は成功するが水中から脱出できないままに気を失ってしまう。アレクセイが発見されたと聞いたオリガがアレクセイのベッドに行くと、全身火傷を負って横たわるアレクセイがいた。そっと添い寝をするオリガ。まもなくして、回復したオリガの息子アレクセイが帰ってくる。こうして映画は終わる。

 

同じ展開を何度も繰り返すという間延びしたストーリー展開ですが、不謹慎ながら退屈はしませんでした。

 

 

映画感想「グロリアス 世界を動かした女たち」「スージーQ」

グロリアス 世界を動かした女たち」

アメリカのフェミニズム革命家グロリア・スタイネムの物語。非常に面白いスタイルの作品で、幼女時代、少女時代、女学生時代、大人の女性の時代のグロリアを四人のそれぞれの役者が演じ、時に同じバスでお互いに会話したり、SFまがいのシーンがあったり、時間や空間を吹っ飛ばして前後に交錯させて展開したり、見ていて映画としてとても面白い。しかも、女性活動家として女性蔑視の問題に熱意を持って運動する姿が描かれていく迫力も圧倒的で、関係を持った女性たちの存在や関係理解できなかったものの、それを差し置いてもラストは胸が熱くなっていきました。私はこの映画好きです。監督はジュリー・テイモア

 

道路のアップからバスの中、幼女のグロリアが外を見ている。カットが変わり、父の車に乗せられている幼女のグロリア、さらに、女学生時代、インドに留学中のグロリアが三等列車の中でインドの女性たちと話している。さらに変わると、大人の姿のグロリアがとあるカフェに入り、そこで、Ms.誌のグロリア・スタイネムさんですねと声をかけられて賛辞をもらうカットへ続く。

 

幼い頃にグロリアは何事にも前向きで楽観的な大好きな父といつも一緒だった。物語は、幼いグロリアが父や母と幸せに暮らす日々、女学生時代にインドに渡ったグロリア、そして間も無く同じバスに乗り合わせて大人になったグロリアが登場して物語が本編に進んでいく。

 

インド留学前に妊娠していたグロリアは中絶をする。それは当時違法行為だった。やがて2年の留学が終わり、父の連絡もあってニューヨークに戻ってきたグロリアは出版社に就職するも、男性社会で満足な仕事を与えてもらえず、その会社を退社し、自らバニーガールになって、職場の舞台裏をスクープした記事で一躍ジャーナリストとして認められる。そして、何かにつけて女性が蔑まれていることに反感を持ち、女性の地位向上と、妊娠中絶禁止に反旗を翻し、女性活動家として表舞台に出ていく。そんな彼女を世の中の男性は一斉に攻撃するが時代の流れは変わり始めていた。そして、その運動の旗印の雑誌「Ms.」を出版して大反響となる。そんな頃最愛の父が事故で亡くなる。

 

中絶を擁護する運動はローマ法王からも反対されるが、アメリカ先住民の中にも男女平等論は広がり、グロリアの存在と運動はますます広がりを見せていく。そんなグロリアの姿を、時に女学生時代のグロリアと対話したり、幼い頃のグロリアが登場したり、少女時代のグロリアら四人で同じバスに乗っていたりと、様々な映像表現で描いていく。

 

大統領選でヒラリー候補が敗れたものの、いずれ来る女性大統領時代を訴え、先住民族の中でも女性の首長の誕生を実現させ、さらにインドでに活動を続ける様子を描いて映画は終わっていきますが、バイタリティある彼女の行動する姿が、どんどん見ているわたしたちに訴えかけてくるクライマックスは圧巻です。

 

映像表現を駆使した絵作りの面白さと、実在の人物の伝記映画ながら、奇抜な表現も厭わない描写がとっても面白い作品で、それでいて、メッセージの迫力は半端ではない映画でした。好きな一本です。

 

「スージーQ」

一世を風靡したスージー・クワトロの半生を描いたドキュメンタリーですが、ちょっと構成が平凡なので中盤しんどかった。でも懐かしい映像を楽しめたのは良かった。監督はリーアム・ファーメイジャー。

 

スージー・クワトロの幼い時代から、やがて姉妹と一緒に音楽界に登場、人気を博していくが間も無く独り立ちしてロック界の寵児として存在感をアピール、そして現在に至るまでが関係者のインタビューと本人の言葉で描かれていきます。そして、最近出したアルバムの場面で映画は終わります。

 

中盤、少しだれてしまいますがドキュメンタリーとして、スージー・クワトロの懐かしい映像を楽しめました。

映画感想「流浪の月」

「流浪の月」

相当にクオリティの高い作品でした。今どきのDV、ネットの暴力、性虐待を描きながら、その奥にある本当を描き出していく脚本が見事。ただ、やや技巧的に走りすぎた部分があり、細かくフラッシュバックを繰り返してジグソーパズルのように交錯させるストーリー展開、美しい画面を挿入するものの映画全体は美しくならないカメラ、が本来描くべきテーマをともするとぼやけさせてしまわなくもないのは少し残念。もっと真正面からこちらに映像をぶつけて来ればもっと圧倒されたかもしれません。でも、松坂桃李広瀬すずの圧巻とも言える演技、横浜流星の熱演には拍手したいです。監督は李相日。


公園、一人の少女が赤毛のアンを読んでいる。しばらくすると雨が降り出すが、無心で本を読む。傍に一人の青年が傘を差し掛ける。幼い頃の更紗と若き日の文である。帰りたくないという更紗を文は自宅に連れ帰る。


画面がかわると、2007年のロリコン青年が少女を誘拐した事件をファミレスで見る学生たち。どうやら、文と更紗の過去の事件らしい。傍を大人になった更紗が通り過ぎる。このオープニングの人物紹介は見事です。更紗はこのレストランで働きながら同僚の安西らと普通に暮らしていた。更紗の父は亡くなり、母は男と出ていき、引き取られた先にいた中学生の男の子に毎晩悪戯された過去があった。更紗は恋人の亮と同棲していて、亮は更紗を両親に引き合わせて結婚を考えていた。


ある時、店の同僚らと飲んだ帰り、安西に誘われて、一階がアンティークショップになっているカフェにつれていかれる。ところがそのカフェのオーナーは文だった。更紗は運命的な再会をするが文は気がついていない風である。それから更紗は一人でカフェに立ち寄るようになるが、最近の行動がおかしいと感じた亮に責められる。そんな時、亮の祖母が倒れ、更紗は亮の実家に行く。そこで亮の妹に、兄は暴力を振るうのだと知らされる。


戻ってから、次第に亮の行動が異常になっていき、文のカフェまで押しかけてくる。しかも、文の過去を調べた亮は、カフェの写真をアップしたりし始める。映画は、更紗と文の過去の物語を細かく散りばめながら現在を展開させていく。


更紗は、ある雨の夜、文を待ち伏せるが、文の傍には恋人らしい大人の女性あゆみを認め、普通の暮らしをしていることに安心する。しかし、文はあゆみを抱くことが出来なかった。更紗は、過去の自分の警察での行実の悪さから文を悪人にしたことに罪の意識があった。


次第にエスカレートしていく亮の行動は、爆発して更紗は血だらけになって家を飛び出す。街を彷徨い歩き、道端にしゃがみ込んでいるところへ文が現れる。そして更紗は文のカフェで一晩過ごし、文の隣の部屋に住むようになる。一方、安西は娘の梨花を更紗に預けて男と沖縄に旅行に行く。更紗は梨花、文と三人で遊ぶことが多くなる。安西は数日しても戻って来ず、連絡もつかなくなる。更紗の母と同じことが繰り返される。


ネットでは文のプライバシーが暴かれ、更紗とのツーショット写真までアップされるようになり、マンションにも中傷のチラシが撒かれ、更紗も店をクビになり、カフェにも落書きされる。あゆみは、文に、ロリコン趣味ゆえに自分を抱けないこと、過去の事件を隠していたことをなじり去っていく。文が孤独になるにつれ、更紗は文に寄り添い、梨花との暮らしも続いていく。


文への誹謗中傷のエスカレートに剛を煮やした更紗は亮の部屋にいくが、亮は仕事もせず、すっかりすさんで荒れた生活をしていた。そんな亮に謝り部屋をでた更紗だが、亮が自らナイフを自分に刺して追いかけてくる。救急車に乗せられる亮は、ついて来る更紗に、もういいからと押し返す。この事件で警察に呼ばれた更紗だが、刑事たちは文の事を聞き始め、一緒に暮らしている少女についても言及してくる。そして、過去の更紗と同じく、警察は文を逮捕、梨花を連れて行ってしまう。


どこまで行っても、過去の過ちから逃れられない絶望感の中、更紗は、荒れ果てた文のカフェにやってくる。文はそこで全裸になり、この病気のために女性を抱けないと更紗に告白する。文のペニスは成長せず幼い姿のままだった。自分といたら不幸なことしか起こらないという文に、更紗は、何かあればまた次に移れば良いと言ってお互い手を繋いで映画は終わる。


細かいフラッシュバックの繰り返しで過去と現代、そしてそれぞれの登場人物のこれまでの不幸を描き出していく脚本、演出が素晴らしく、一級品に近いが、デジタルゆえの映像美を繰り返すカメラがやや浮いている。粗も散見される作品ですが、オープニングから徐々に盛り上がっていくストーリー作りは見事です。良い映画でした。

映画感想「乳房よ永遠なれ」「恋文」「月は上りぬ」

「乳房よ永遠なれ」

贔屓目に見ていたわけではないですが、なかなかの佳作でした。この時代にこう言う女性の描き方も見事ですが、クライマックスの映像の組み立ての美味さはやはり才能でしょうね。いわゆる難病ものですが、非常に中身の濃い映画でした。監督は田中絹代

 

札幌で牧場を営む家に嫁いでいるふみ子だが、夫の横暴で辛い日々を送っているところから映画は幕を開ける。地元の詩の同好会に参加して詩を発表しているふみ子だが、ある時、遅く帰ってみると夫が別の女を引き入れていた。まもなくしてふみ子は離婚する。

 

やがて弟の義夫が結婚するが、その頃から胸に痛みを覚え始める。彼女は学生時代から慕っている森卓という詩人仲間がいた。すでに友人きぬ子の夫となっていたが今も彼のことを思っていた。しかし、病弱な森は、病で亡くなってしまう。

 

程なくして、ふみ子は突然倒れ、緊急手術で乳房は切除される。その後放射線治療を受けながら闘病を続けるが、すでに肺に転移していた。そんな彼女は、生前森が東京の出版社に送っていた詩が認められる。東京から大月という記者がやってくるが、頑なに面会を拒むふみ子だったが、大月の熱意にとうとう面会を許可する。そして、大月は泊まりがけでふみ子について詩を書いてもらい始める。

 

やがてふみ子は大月に恋心を抱いていくが、それが病魔に侵されたためによるものか、これまでの苦労からの解放の気持ちによるものか、この微妙な心の描写が実に素晴らしい。

 

そんなふみ子に大月も心を寄せ、ついに寄り添って眠ることになる。しかし、東京からの連絡で、大月は東京へ戻ることになる。間も無く、ふみ子の容体はどんどん悪くなり、面会謝絶となる。そして義夫らが見守る中死んでいく。枕元に大月からの激励の電報が届いて映画は終わっていく。

 

終盤の、霊安室に連れていかれる隣室の患者の描写、それを追いかけていくふみ子の絶望に倒れる場面が恐ろしくすごいのだが、生に固執し始めた彼女の心が見事に映像になっている。直後、大月と寄り添う場面に変わっていく流れは一級品である。本当に映画としても完成度の高い作品だったと思います。

 

「恋文」

脚本が木下恵介ということもありますが、ストーリー構成のうまさが絶品。さらに、カメラの構図が一級品でとっても美しい。これは映像感性が磨かれている名優ならではの力量だと思います。戦後の混乱と男女の考え方の世相を辛辣に描き出していくなかなかの秀作でした。監督は田中絹代

 

一人の男礼吉が、様々な駅に立っているカットから映画は幕を開ける。彼は弟の弘と暮らしているが洋は古本のせどりのような仕事で稼いでいる。ある時、礼吉は渋谷で旧友の山路と出会う。彼は、娼婦たちの外人の愛人宛の手紙を代筆する仕事をしていて礼吉もその仕事に誘う。礼吉は底辺で生きる女たちの恋文らしきものを描きながら生活を始め、洋も近くで古本屋を始める。

 

礼吉には出征前に好きだった幼馴染の道子がいた。礼吉は出征直後に道子が別の男性と結婚したことを知り死ぬつもりだったが、帰国。その後、道子のことを五年探していた。そんなある時、道子が山路の店で代筆を頼んで帰っていく現場に出会う。礼吉は必死で彼女を追い、そして、道子が外人に身を任せたことを非難して、罵倒してしまう。

 

酒に溺れる礼吉を見かねた洋は、道子の家を探し当て、礼吉ともう一度会ってほしいというが道子は、就職活動中なので、仕事が決まったら会うと約束する。まもなくして就職が決まった道子は洋の段取りで礼吉と会おうとするが、礼吉は頑なに約束の場所に向かおうとしない。そんな礼吉に山路は説教し説得する。

 

一方、洋は道子と礼吉を待っていたが現れないので帰り始めるが、公園で道子を知る娼婦たちが道子を呼び止めて執拗に絡んでくる。なんとかいなした洋と道子だが、道子は娼婦として外人と関係を持ったわけではなく、勤め先のレストランで知り合ってそこに出入りしていたさっきの娼婦たちと顔馴染みになっただけだと説明する。しかし洋の言葉はどこか道子を蔑んでいるふうに見えてしまう。その視線にショックを受けた道子は一人車道に飛び出して事故に遭う。

 

そんな頃、山路の説得で心が変わった礼吉は、二人で待ち合わせのレストランに行ったが、すでに道子らがいず、二人は道子の家に向かっていた。しかし、そこで道子が事故に遭ったことを知る。山路と礼吉は病院へ向かう。一方、手術を終えた道子は洋の傍で目を覚ます。こうして映画は終わる。

 

木下恵介らしいストーリー展開ですが、映像センスの良さもあってそれなりの作品に仕上がっているのはさすがで、田中絹代デビュー作ということで、名優たちがチラチラと画面に登場するのも楽しい一本でした。

 

「月は上りぬ」

これは面白かった。小津安二郎が脚本参加していることもあり、小津安二郎の映画という空気感が漂ってはいますが、前半のコミカルな展開と後半のしんみりしたドラマ展開で、最後まで楽しめる仕上がりになっています。しかも、カメラのアングルの美しさもなかなかの仕上がりの映画でした。監督は田中絹代

 

奈良の街のショットから、ある寺の一室で唄でしょうか稽古をしている場面へカメラが進む。この寺に居候している昌二のところに雨宮という友人が東京からやってくる。電波会社に勤める雨宮はしばらく昌二の部屋に泊まることになる。昌二の部屋には恋人の節子が出入りしていた。節子の姉の綾子はかつて雨宮と知り合いだった。お互い学生時代惹かれ合ったようだと知った節子は二人をくっつけようと昌二らと躍起になり始める。前半、節子のコミカルな行動がテンポ良く展開する。長女の千鶴の夫はすでに亡くなり千鶴は未亡人となっている。

 

なかなか煮え切らない綾子と雨宮に、節子は嘘の電話で無理やり十五夜に二人きりで会わせる。そして、雨宮は東京へ旅立つが、後日謎の電報が綾子に届く。それは万葉集による恋の歌の応酬だった。また、かつての千鶴らの父浅井茂吉の知人でもある高須教授も大阪から奈良に来たついでに立ち寄る。

 

綾子が東京へ旅立って後、昌二に仕事の話が出るが、友人の田中にその仕事を譲ってやる。そのことで節子と喧嘩になる。なかなか二人の仲直りが進まない中、昌二は、居候している寺の和尚から、東京で英語の教師をしてみないかと提案され、昌二は東京へ行くことになる。節子は仲直りできず泣くだけだったが千鶴の機転で、昌二が旅立つ前の夜に昌二と節子が会い、仲直りする。

 

一人父と残った千鶴だが、父は、再婚しても良いのではないかと言い、高須の事を仄めかす。千鶴も悪い気がしない風のカットで映画は終わっていく。

 

まさに小津安二郎の世界であるが、カメラアングルや構図が実に美しく、なかなかの作品に仕上がっていると思います。楽しい映画でした。

映画感想「シン・ウルトラマン」

「シン・ウルトラマン

出だしは非常にスピーディで面白い。かつて「ウルトラQ」を見て育った人たちには一気に引き込まれる。それに続く怪獣、この映画では禍威獣登場からウルトラマン登場までがなかなかと思えるのですが、いかんせん、美術が良くない。禍特対のオフィスが、にわか造りのまま。次々と禍威獣が現れるのに対処して設立されたにも関わらず、あまりにも雑。「シン・ゴジラ」なら、にわか造りのスペースでよかったが、今回は根本的に背景が違うのだからその辺きっちりして欲しかった。前半のハイテンポから後半から終盤のゆるゆる感と理屈っぽさがなんとも弱い。もっとリアリティのあるぶっ飛んだ展開を期待しすぎたのかもしれません。元々が連続ドラマだという難しさもあるのでしょう。私のような世代には散りばめられたノスタルジーをそれなりに楽しめましたが、そこまでという感じでした。つまらなかったというより期待が大きすぎた感じですね。庵野秀明脚本、監督は樋口真嗣

 

ウルトラQ」の怪獣たちが、過去の自衛隊らによって退治されてきた経緯を映像で見せ、現在、禍威獣という名称に変えて現れる生物を退治する流れとなる。最初が透明怪獣ネロンガ、電気を食い、その送電を止めたら、怒って送電所を破壊する下りが実に微笑ましくて可愛い。逃げ遅れた子供を助けるために禍特対の神永が飛び出して行く。この展開がいかにも適当感丸出しで、そこへ、宇宙から飛来する巨人が地上に激突、その衝撃で神永は命を失う。スペシウム光線で一瞬でネロンガを倒した巨人は宇宙へ消える。

 

何事もなく戻ってきた神永、続いて現れたのが地底怪獣ガボラで、放射性廃棄物を狙ってくる。巨人はウルトラマンと名付けられるが、何者か不明。ところが神永は作戦室を飛び出して、ベーターカプセルでウルトラマンとなりガボラと対峙。いやいや、急ぎすぎやろ。そして放射能をばら撒かないように戦うことでウルトラマンは人類の味方だと示す。

 

一段落して現れたのはザラブ星人で、ザラブ星人ウルトラマンこそ地球の敵だから一緒に倒そうと、政府に働きかける。この頃にはウルトラマンを我が物にしようと世界各国が画策してくるとセリフには出てくるがほとんどその辺りのスケールが見えてこない。神永はザラブ星人に拉致されるが、相棒の浅見の機転で助かるのだが、なんともザラブ星人の神永のしょぼい拉致手段に笑ってしまう。

 

ウルトラマンに変身したザラブ星人が大暴れする中、浅見が届けたベータカプセルで神永はウルトラマンに変身し、ザラブ星人を倒す。続いてやってきたのはメフィラス星人で、彼は、ウルトラマンが来る前から地球に来ていて、地球人を観察していたのだという。そして、浅見を拉致して巨大化させることでベータカプセルの仕組みを人類に証明する。浅見が巨大化するエピソードも「ウルトラQ」ネタである。

 

ベータカプセルの仕組みの装置を日本政府に渡す代わりに、自分を統治者にしてもらいたいと持ちかけ、神永にも自分と一緒に地球を治めようと提案するが、神永は拒否。そして、日本政府とメフィラス星人の契約日に、メフィラス星人が隠していたベータカプセル装置をウルトラマンが奪取し、巨大化したメフィラス星人と対決という流れになる。しかし、ウルトラマンの背後にゾフィーの姿を見つけたメフィラス星人は、ベータカプセル装置を返してもらいそのまま宇宙に帰る。あっさり。

 

ゾフィはウルトラマンに、人類は後々脅威になる可能性があるから、抹殺するようにという光の国の指示が来たと告げ、ゼットンという最終兵器を持参したと言う。どんだけ傲慢な宇宙人や。ウルトラマンは、反対するが、光の国の指示だからとゼットンが宇宙に放たれ、最終兵器として組み立てが始まる。ウルトラマンは一旦はゼットンに戦いを挑むが敗れ入院。ベータカプセルの理論を入れたUSBを禍特対に提示していたので、禍特対の滝はそれを解析し世界中の科学者と協力して、ゼットンを倒す方法を見つける。間も無くして神永は目が覚め、倒す方法を実行するため自らの命と引き換えにゼットンに再度臨んでいく。って、最初にやればよかった気がする。

 

ゼットンは破壊され、あわやウルトラマンも藻屑と消えるかと思われたがゾフィーに助けられ、光の国に帰ろうと言われるが、神永をそのままにできないと言ったので、ゾフィーウルトラマンと神永を分離、神永が目覚めたカットでエンディング。

 

期待が大きすぎたこともあるし、脚本は頑張っているとはいえ、後半、失速感と理屈っぽさが前面に出てきたのが残念。リアリティも大事だがそれなら思い切りスケールの大きなリアリティと映像を見たかった。あちこちにノスタルジーを盛り込もうとした中途半端感が見え隠れしたのが、失敗の原因かもしれません。