くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「リングの王者栄光の世界」「女の暦」「肉体女優殺し五人の犯罪者」

「リングの王者 栄光の世界」

たわいない娯楽映画と言えばそれまでですが、70分ほどの尺に見せ場を盛り込んで、クライマックスに徹底的なエンタメ演出を施した作りはまさに職人芸の世界。決して名作とかではないけれど、娯楽映画としてはよくできた一本でした。監督は石井輝男。デビュー作である。

 

市場で働く新一郎の姿から映画は幕を開ける。彼には京子という恋人と足の悪い妹がいた。新一郎は妹の手術の金を稼ぐために、兼ねてから畑という新聞記者に勧められていたボクシングの世界へ足を向ける。かつて実力のあるボクサーだったが、ふとしたことからボクシングを離れた岩崎を訪ね、トレーナーとして新一郎を育ててもらうことにする。

 

岩崎の頼みもあって、畑は新一郎から京子を遠ざけるべく、新一郎がチャンピオンになるまで身を引いて欲しいと頼む。やがて新一郎は連戦連勝し、ついにタイトルマッチ戦、チャンピオン三田村に臨むことになるが、新一郎に、モンテカルロというダンスホールのママルリ子が近づいてくる。すっかりルリ子の毒牙にハマってしまった新一郎は、深夜ルリ子に入り浸るようになる。そして三田村との試合で、コテンパンにやられ岩崎はタオルを投げる。

 

納得いかない新一郎はルリ子の元へ行くが、強くない男は嫌だとあっさりふられてしまう。ようやく目が覚めた新一郎は、再びチャンピオンを目指し猛練習を開始、妹の手術も成功し、畑は新一郎に京子を会わせる。そして再挑戦のタイトルマッチで新一郎は見事三田村を破りチャンピオンとなる。新一郎と京子、そして妹はどこまでも歩いて行って映画は終わる。

 

クライマックスの、三田村と新一郎の試合場面が、クローズアップと細かいカットのつなぎで迫真のシーンに仕上がっていて、シンプルながら全体としての位置付けも見事な出来栄えになっています。まず面白く飽きさせないことという単純な作りが完成された作品だったと思います。

 

「女の暦」

壷井栄原作の典型的な文芸作品という出立ちの一本で、脚本がうまくまとまっていないのか、若干物語の構成が良くないのは残念。終盤も無理矢理終わらせるために力が入っているという雰囲気が否めないけれど、小豆島を舞台にした姉妹のドラマとしてのんびりと楽しむのはいい作品だった。監督は久松静児

 

小豆島で教師をしているクニ子が、妹の実枝と二人暮らしをしている場面から映画は幕を開ける。十人姉妹だったが、五人亡くなって今は五人姉妹で、上の三人はそれぞれ小豆島を離れて嫁いでいる。クニ子にはいつも縁談話がくるがクニ子は結婚する気がない。二人は父の法事をしようと計画、外に嫁いだ姉たちを招待することにする。

 

実枝が手紙を書き、クニ子はたまたま東京へ仕事で出ることになったついでに姉たちを訪ねることにする。広島のミチは子沢山と年寄りの世話で右往左往、大阪のカヤノは後妻で、夫がケチで何かにつけて飛び出したいと思っている。東京の高子の夫は刑務所にいるらしい。そんな中、久しぶりに五人の姉妹が小豆島に集まる。実は実枝には農園に勤める石田という恋人がいた。姉たちがきた機会に告白しようとしたが、姉たちが笑い飛ばすばかりで、すっかり落ち込んでしまう。

 

石田は仕事で盛岡に行くことになり、やがて姉たちも帰っていく。夫や家庭の愚痴ばかり言う姉たちだが、やはり家庭を大事にする姿にどこか矛盾を感じながらも頼もしく見る実枝とクニ子だった。実枝はクニ子にも告白できないママ、一人高子を訪ねようと家を出ていくが結局途中で引き返してくる。そして仏壇の前で結婚することを間接的におどけてクニ子に宣言、自分も母と同じように十人子供を作ると言ってクニ子と笑って映画は終わる。

 

法事に姉たちが集まるくだり、実枝と石田の恋物語、村にいる少しおかしな老婆のエピソード、法事での懐かしい話、実枝の苦悩。それぞれが噛み合っていなくて、結局一つずつ描いて無理やり締め括った感じがする作品で、久松静児作品の中では、中レベル以下の出来栄えの一本だった。

 

「肉体女優殺し 五人の犯罪者」

典型的なプログラムピクチャーという作品で、エロとサスペンスを程よく混ぜ合わせて、ラストは全てを台詞で説明して、あっさり終わる。所々に監督のこだわりの映像が見られて、それなりの美女と男前の主人公が活躍する。なんのことはないけれど、肩が凝らないし、それなりに楽しめる。映画は娯楽、そんな時代の一本だった。監督は石井輝男

 

フランス座の新聞広告、踊り子が殺されるという宣伝文句から映画は幕を開ける。そしてストリップ劇場のステージ、所狭く踊る美女たち、やがてクライマックス、一人のダンサーベティがピストルを発射、撃たれる役は浜野千鳥というダンサーだったが、なんとピストルには実弾が入っていて、殺人事件となる。千鳥の夫徳島の指紋がピストルにあったことから徳島が容疑者となる。徳島はベティと愛人関係だった。どこか不審に思った新聞記者の西村は、徳島の妹かほるに事情を聞き始める。

 

かほるは隅田川のアパートに住んでいて、下の川を通る船からおかずを買っていた。同じアパートにベティも住んでいた。まもなくしてベティも舞台で事故を装って殺されてしまう。船でおかずを売っている森元が怪しいと考えた西村は、実はおかずを売っているのではなく麻薬をベティに届けて運び屋をしていたのではないかと考える。ところが森元も水死体で発見されてしまう。

 

西村は森元の家にあったカレンダーから関根という精肉店の男が怪しいと考える。関根はかほるを手籠にしようと狙っていてフランス座に侵入する。関根は精肉店の裏で麻薬密売をしていたのだ。全てを知った西村がフランス座に乗り込みかほるを助ける。そこへ警察が駆けつける。関根は下水道に逃げ、警察が追うが、放水の警告が聞こえ、警察や西村は避難するが関根は水にのまれてしまう。全てが終わり、かほるはトップダンサーとしてこれからも頑張ると西村に告げて映画は終わる。

 

今なら、テレビドラマレベルの作品ながら、スクリーンで見ると、少し味がついて楽しいから不思議ですね。面白い一本でした。

映画感想「フェーム」「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」

「フェーム」

初公開以来だから四十年近く前からの再見。確かロードショーの時は「フェイム」と言っていた気がするが、勘違いかもしれません。流石に全盛期のアラン・パーカー監督の才能が爆発した傑作ミュージカルだった。こんな映画誰も作れない。小さなエピソードに盛り込まれた様々な人間ドラマをしっかりと描き切りながら全編が音楽劇としてまとまっている完成度の高さ、そして主人公を定めない群像劇ながら、それぞれの登場人物がくっきりと見えてくる演出、楽曲の素晴らしさ一つ一つが唯一無二の仕上がりになっています。改めて見直してその真価を再発見した感じでした。

 

公立ながらトップクラスの音楽学院に、さまざまな生活がある若者たちが集まってくるところから映画は幕を開ける。満足に文字が読めない青年、今時の電子音楽にハマる若者、ステージママの言いなりでやってきたものの真剣に役者を目指す少女、裕福な家庭で育ったものの両親の愛情を受けずにトップのバレエダンサーを目指す少女、ハーレムで暮らしDVの父親に育てられたが幼い妹を可愛がる青年、ホモであることに悩む青年、黒人であることの偏見に必死であがなう少女、もちろんそれぞれの名前はあるものの、物語の中では必要なく、それぞれのこれまでの人生、そして夢見る栄光の舞台を目指す必死の姿が四年間の物語として展開していきます。そして、ラストの卒業式、散々悪態を付き合いながらも温かく見守る教師たちの前で大合唱、大演奏、そして踊る卒業生にの姿で映画は終わる。

 

言葉で語れない映像表現の一つの極致を見せてくれる作品で、見ないと語れない傑作だった。

 

「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」

もっと軽い映画かと思ったが、意外に真面目に作られたアメリカンコメディというタッチの映画だった。フィクションでありノンフィクションテイストも捨てない面白さが最後まで飽きさせないし、少々雑な演出も見られたものの、エンタメ映画としてまあまあ面白かった。監督はグレッグ・バーランティ。

 

米ソの宇宙進出計画の模様が語られた後、1969年アポロ11号による月面着陸の計画の年を迎えたところから映画は幕を開ける。国民の関心が薄れ、一部には予算を他に向けるべきという声も強くなってきた時期、ベトナム戦争も泥沼だった。NASAの発射責任者コールは、いよいよ月面着陸に向けての計画が進む一方、アポロ1号の事故への後悔から抜け出せていなかった。

 

ここに、PRマーケティングでカリスマ的な活動を続けるケリーは、この日も自動車メーカーの重役たちを煙に巻いてほくそ笑んでいた。夜、ケリーがバーでいると一人の男性コールと知り合う。お互い素性を話さず別れたままだったが、後日、ケリーはバーで一人飲んでいるとモーという男が近づいてくる。彼は大統領直轄の部下だという。彼は、ケリーにNASAのイメージ戦略を依頼する。

 

ケリーは持ち前の図々しさでNASAに乗り込み、役者をNASAの職員に扮して宣伝するなどメディア戦略を進めていくが、コールは反発する。しかし、予算が振り分けられず、次の発射が危うくなる中、ケリーの強引な宣伝戦略で、有力議員の気持ちを変え、アポロ11号が現実のものになっていく。そんな時、モーはケリーにある提案をしにくる。万が一アポロ11号の月面着陸が失敗した時に備え、フェイク映像を準備し、アポロ11号からの映像はカットしてフェイク映像を最初から流すというものだった。

 

最初は拒否したケリーだが、彼女には過去に犯罪歴があり、偽名を使ってここまで生きてきたのだった。それを全て白紙にしてやると言われ、コールにも内緒でフェイク撮影の準備が始まる。そしていよいよ発射の前日、ケリーは発射を待たず基地を後にしようとするが、助手にもらったスケッチを見て心を入れ替え、コールに真実を話し、ロケットに積んだ、映像を流せなくしたカメラを修理し、フェイク映像を流しているのを装って本当の映像を流す計画に変更する。もちろんモーには内緒だった。

 

やがてロケットが発射され月面着陸の様子が中継されるが、フェイク映像撮影のセットに猫が迷い込んでしまう。慌てたモーたちだが、本物が流れていることを知り、騙されたとはいえケリーを賞賛し、セットを後にしていく。やがてアポロ11号は帰還、成功したコールはケリーと抱き合って映画は終わる。

 

よくできた映画とは言い難いものの、無難に月面着陸の噂を巧みに遊んだストーリーはなかなか面白くできていたと思います。

映画感想「鞍馬天狗 大江戸異変」「鞍馬天狗 青銅鬼」

鞍馬天狗 大江戸異変」

名作でも傑作でもない作品ですが、映画全盛期の時代劇は今の時代劇と比べものにならないクオリティが備わっているからすごい。セット、演技、殺陣、物語の展開は、娯楽であることを大前提に一級品の職人芸を見せてくれる。それを楽しむだけでも見た甲斐がある映画でした。監督は並木鏡太郎。

 

京都から江戸にやってきた鞍馬天狗こと鞍田は、今は画家として仏画や寺院の絵などを嗜みながら、一膳飯屋の二階で暮らしている。この夜、この一膳飯屋に、役人崩れが立ち入り、飲み食いして姿を消してしまう。このところ、江戸では偽鞍馬天狗が辻斬り強盗などをしている事件が頻発していた。世の中は幕末で荒れていたのである。

 

いつものように寺で絵を描いていた鞍田は、盗みやひったくりをして暮らす子供達の集団と遭遇する。未来を担う子どもたちが食に苦労して落ちぶれている姿を見た鞍田は、自身の部屋に彼らを住まわせ、食事を与え、世話をするようになる。飯屋に逃げ込んできた一人の娘お妙は、身を粉にして仕事をするようになるが、ある日、偽鞍馬天狗の集団が一膳飯屋を襲う。それを救った鞍田は、柳生という侍と一騎討ちをし、柳生に手傷を負わせたため介抱してやる。

 

柳生は鞍田の志に感銘し、飯屋で働くようになるうちお妙と恋仲になる。一方鞍田は、山の麓に子供達で暮らせる土地を見つけそこに家を建てる計画を進める。ところが偽鞍馬天狗の森ら一味はお妙を誘拐し、かつての仲間柳生を亡き者にしようとしていた。窮地を知った鞍田は単身森一味に乗り込み、お妙らを救出、折下役人らが駆けつける。お妙と柳生は子供達の新しい家で家庭を持つことにし、子どもらと鞍田が旅立って行って映画は幕を閉じる。

 

ラストは駆け込むように若干唐突にエンディングになってしまうが、そこまでのドラマはなかなかしっかりと描けている。尺の関係か、終盤時間切れでいきなりラストシーンというのは残念だが、これもまた映画全盛期のなせる技といえば面白いと思える。しっかりした時代劇らしいセットやロケーションが今見てもスケール感が違うのがなかなか見応えのある作品でした。

 

鞍馬天狗 青銅鬼」

たわいない時代劇で、大河内伝次郎嵐寛寿郎が共演するという話題性だけの作品だった。お話も雑だし、見せ場も普通の作品でした。監督は並木鏡太郎。

 

ある日、鞍馬天狗の隠れ家で杉作と吉兵衛が新撰組沖田らによって連れ去られたが、天狗によって救出された。その際、新撰組近藤勇鞍馬天狗大覚寺での果し状を送る。一方で、倒幕派の白川卿を中心に西郷吉之助、桂小五郎らは鞍馬天狗と共に薩長合流を画策していた。薩長合流が長州藩の決意で固まりかけた頃、白川卿は幕府方高刀主膳らによって誘拐され、長持ちに入れられて紀州へ連れ去られる。

 

鞍馬天狗は、近藤勇との対決を保留にし、一路紀州を目指す。危うく仕掛けられた爆弾を逃れた天狗たちは、青銅の仮面をつけた怪人に襲われる。なんとか窮地を逃れ紀州へ向かう天狗たちの前に、青銅鬼を首領にした一団が襲いかかる。吉兵衛と杉作は先に紀州へ向かい、鞍馬天狗は青銅鬼らと戦い海に落ちる。

 

吉兵衛らは、白川卿らの一軍に追いつき、白浜の洞窟に幽閉された白川卿を救おうと算段するが、そこへ青銅鬼の仮面を被った鞍馬天狗が間に合い、高刀らを倒して白川卿を救出する。そして鞍馬天狗大覚寺へ赴き、再度近藤勇と対峙して映画は終わる。

 

今ならテレビドラマ程度の出来栄えですが、当時は映画しかなかったので、こういう小品がたくさん作られたのだと思います。オープニングのタイトルバックは「鞍馬天狗 大江戸異変」のクライマックスの映像がそのまま使われているし、大量生産時代の一本という感じの作品でした。

映画感想「化け猫あんずちゃん」「HOW TO HAVE SEX」

「化け猫あんずちゃん」

原作者が脚本を書いているせいか、ありこれとエピソードは連続するのだがラストへのまとまりがなく、脇の登場人物の役割が意味をなしていない出来栄えでだらだら感が否めない仕上がりだった。面白い題材なのにその面白い部分が全く見えない。淡々とした田舎の原風景の中で起こるかつては当たり前だった古き良き日本の物語が見えてこないのは勿体無い作品でした。ロトスコープのチウ撮影方法によるアニメの楽しさも今ひとつでした。監督は山下敦弘、久野遥子。

 

小学五年生のかりんが父哲也と実家の山深い街のお寺にやってくるところから映画は幕を開ける。そこへ当たり前のようにバイクに乗った化け猫のあんずちゃんが現れる。哲也は父に金の無心に来たが断られ、一人かりんを残して借金の方をつけるために東京へ戻る。かりんは三年前に亡くなった母への面影が忘れられず寂しい思いをしていて、田舎の街で何も面白いことはないと拗ねていた。

 

化け猫のあんずちゃんは、かつてこの寺の住職に拾われ、いつまでも死なないで三十年が経って化け猫になった。今は、街の人たちにマッサージをしにバイクで走り回っていた。猫だが、出来の悪い人間と同じでパチンコをし、かりんちゃんと稼いだバイトの金を使ってしまったりする。ある日、森でウズラの子供達を拾い、五日ほど一緒に暮らしたあんずちゃんが子供達を森に返しに行って、森の妖精カエルちゃんらと出会う。

 

森の妖精たちを寺に招待し、かりんちゃんらと飲み食いするが、かりんちゃんは母の命日にも戻ってこない父に辟易としていた。東京へ行きたいというかりんちゃんに住職はあんずちゃんを付き添わせて東京へ送り出す。ところが、貧乏神がかりんちゃんに取り憑く。あんずちゃんはなんとか引き離そうとするが、かりんちゃんは貧乏神も神なのだから母のところへ連れて行って欲しいと頼む。

 

あんずちゃん、かりんちゃん、貧乏神は、霊園のビルのトイレから地獄へ行き、そこでかりんちゃんは母と再会、かりんちゃんは母を連れて地獄を逃げ出す。閻魔大王や鬼たちがかりんちゃんを追ってくる。地上で、森の妖精たちが助けにくるがあっさりと鬼たちに倒され、母は地獄へ戻ることになる。最後にかりんちゃんは逆立ちができたと母に見せ、母は帰っていく。

 

寺に戻ると哲也が戻っていた。そしてかりんちゃんは哲也と列車に乗って帰ろうとするが。かりんちゃんは今しばらく寺で過ごしたいと一人お寺に戻っていき、あんずちゃんと叫んで映画は終わる。

 

物語の構成が非常に悪く、ラストへ向かって収束していかないだらだらした展開が、物語の魅力を全て打ち消して行った感じなのが本当に残念。もっと面白くなったろうにと思う映画でした。

 

「HOW TO HAVE SEX」

クオリティの高い映画ではあるけれど、どうもぼんやりとはっきりしない作品で、中盤からあとは、今一つ精彩にかけて、ラストシーンを語るために引き伸ばしたジメジメ感がしつこくなってくるのがちょっとしんどかった。でも、全体にバイタリティあふれる作りと、緩急をつけた構成はなかなかの作品だったと思います。監督はモリー・マリング・ウォーカー。

 

卒業旅行で、クレタ島のリゾート地マリアにやってきたタラ、スカイ、エムの三人の甲高い声から映画は幕を開ける。今回の旅行で目一杯羽目を外すこともあるが、まだバージンのタラが初体験できるかという目標もあった。早速プールの見える部屋に入った三人だが、気のはやるタラは早速プールへ行く。しかし慣れないタラは、すごすごと部屋に戻ってくる。遊び慣れたエムとスカイは慌てぜ、男を物色している。

 

朝、タラがベランダにいると隣の部屋のバジャという青年と出会う。好印象のバジャにタラは惹かれる。それをきっかけに、タラたちのグループとバジャたちのグループで一緒に遊ぶようになる。パジャたちのグループにはパディ、ペイジがいた。毎晩、ライブハウスで踊り、酒を飲む。次第にタラはパジャに視線を向けるようになるが、ある夜のパーティでバカ乗りしたバジャから少し離れた際、パディに声をかけられそのまま浜辺でSEXしてしまう。

 

望んだことか、無理矢理の行為か曖昧なまま、タラは、パディと離れて一人ライブハウスで踊っていて別のグループから声をかけられそのグループと朝まで過ごす。翌朝になっても帰らないタラに、エムやスカイは心配するが、まもなくしてタラが戻ってくる。どこか様子の変わったタラをエムたちは心配するが、そこに、試験結果が届く。エムやスカイはどうやら合格して進級できたようだが、タラはダメだったようである。

 

タラは、何かにつけて近づいてくるパディにやや嫌悪感を感じ始めるが、そんなタラにバジャは優しく接してくれる。それがまたタラの心をゆらせるのだった。やがて、帰る日が近づき、最後の日を大騒ぎしようとバジャたちが提案するが、タラは一人ホテルに戻る。心配なバジャが送ってくるが、タラを寝かせて部屋を出ていく。

 

翌日、バジャたちに別れを告げて空港へ来たタラ、エム、スカイだが、エムの問いかけに、タラは、パディとの関係は半ば強引だったことを告白する。慰めるエムに、タラは踏ん切りがついたかのように叫んで映画は幕を閉じる。

 

全編、踊りまくり、馬鹿騒ぎする映像が繰り返され、合間にタラの複雑な表情が挿入されて映画のメッセージが見えてくるのですが、いかんせん、後半やや湿っぽくなりすぎた感じで、一気にラストへなだれ込めばもっと描きたい部分が際立ったように思います。カンヌ映画祭ある視点部門グランプリらしい作品でした。

映画感想「墓泥棒と失われた女神「温泉シャーク」

「墓泥棒と失われた女神」

映画全体がシュールなファンタジーという感じで、フレームが次々と変化し、スタンダードの時は主人公アーサーの夢の世界であること、人物関係の描写がほとんどないこと、唐突にエピソードが展開すること、そしてラストの意味ありげなエンディング。全てが幻想の世界という映画だった。面白いといえば面白いがかなり独りよがり的なつくりなので、退屈に感じる瞬間もあった。監督はアリーチェ・ロルバケル。

 

アーサーが列車の中で夢を見ている。一人の忘れられない恋人の姿を見ているようである。彼は墓泥棒をしていて捕まり、ようやく出所して故郷の田舎町に向かっているらしい。列車の中では一緒に乗っている女性たちに嫌われ、靴下売りと喧嘩したりする。街についたがかつての仲間ピッロに迎えられたが、逃げ遅れた際に放っておかれた恨みで相手にしない。自宅はまるでホームレスの掘立て小屋で、歌の教師をしているフローラ夫人を尋ね、そこに最近習いにきているイタリアという女性と知り合うが彼女は他の生徒たちに嫌われていた。

 

ある日、イタリアが二人の子供を隠して住んでいるのを見つけてしまうが、アーサーは話さなかった。昔の仲間に誘われて、墓泥棒を再開するが、ある夜、飲み食いしての帰り、海岸のエトルリア人の遺跡で、アーサーは例によって墓を発見、仲間と中に入ると、美しい女神の彫像を見つける。仲間が首を壊して持ち出そうとするがパトカーのサイレンに気が付き、首だけ持って脱出する。ところが警官は追ってこない。

 

翌朝、遺跡発掘のバイヤー、スパルタコが首のない女神の彫像を掘り出す。彼女はアーサーが見つけるのを待っていたようだ。彼女はその彫像を船上でオークションにかけるが、それを知ったアーサーらはその船に乗り込みスパルタコに迫る。しかし、首を見せた後、アーサーはその首を海に捨ててしまう。

 

アーサーの家は取り壊され、イタリアも行方不明になるが、街で彼女の娘を見かけたアーサーが娘の後をつけていき、大勢の孤児を育てているイタリアと再会、一夜を共にする。しかし、恋人への想いが捨てられないアーサーはイタリアを残して出て行ってしまう。そして、建築現場で新たな墓を発見、アーサーが先に中に入るが、直後穴が塞がれてしまう。アーサーはライターの光を頼りに奥に進むと赤い糸を発見、それを引っ張ると地上の光が出て、アーサーは忘れられない恋人と再会して抱き合って映画は終わる。

 

忘れられない恋人はすでにこの世にいないらしく、それを伝えていないというセリフが前半に出るので、ラストでアーサーも死んでようやく再会したのかという理解でいいのだと思うが、間違えているのかもしれない。全体がアーサーの夢の中の世界なのではないかとも思え、列車の中で出会った人たちが、墓で盗んだ調度品を探しているなどというホラーチックなシーンもあることから、解釈は間違っていないかもしれない。ちょっと描写が曖昧で、勘違いしているかもしれないが、もう少しわかりやすいカットを挿入するなどの芸が欲しかった気もします。

 

「温泉シャーク」

いやあ楽しかった。期待を裏切らないチープな特撮と、完全に「ジョーズ」をパクったストーリー展開、やりたい放題の馬鹿馬鹿しいノリに終始面白くて仕方なかった。これが映画の醍醐味。映画ファンの醍醐味かもしれません。監督は井上森人。

 

温泉観光地で有名な厚海市、ここの若き市長万巻は、巨大リゾート施設を建設し、厚海市の発展を計画していた。しかし、温泉客が姿を消す難事件が頻発し始める。しかも、殺されたのは温泉に入っている時で、遺体の一部が海で発見され、その傷口からサメの仕業だと考えられるが、海岸沖のネットが破られた気配が無いことから謎が深まる。

 

調査のために派遣された海洋生物博士巨勢真弓は、リゾート施設建設により古代のサメが蘇り、そのサメは温泉の地下水脈を通って温泉から現れ人を襲っていると判断、温泉シャークと名づける。厚海市の警察署長束も、万巻市長も打つ手がなく、政府は米軍の協力で厚海市を街ごと完全破壊する計画を立て避難を始める。

 

厚海市を愛する万巻は、リゾート施設建設のための巨大3Dプリンターで深海艇を作り、サメを退治する計画を立てる。巨勢も参加し、謎のマッチョも同情して、深海艇をあつみ号は海に潜り、サメの本拠地を目指す。そして、大奮闘の末、リゾート施設を破壊してその瓦礫でなん百匹というサメを退治したが、そこにサメのキングが現れる。マッチョも食べられてしまうが、サメの体内で大暴れし、メタンガスを発生させ、深海艇からの最後の魚雷で爆破に成功する。厚海市破壊計画は中止になり、マッチョも無事海岸に戻ってきて、勇ましいエンディング曲と共に映画は終わる。エンドクレジットの後の、お決まりのお遊びでエンディング。

 

振り返れば馬鹿馬鹿しい映画なのだが楽しい。エンドクレジットの後のお決まりのシーンも嬉しくなってしまう。決してお勧めするものでは無いが、こういう映画を見に行ける映画ファンの醍醐味を味わわせてもらった。

映画感想「鋼鉄巨人 怪星人の魔城」「鋼鉄巨人 地球滅亡寸前」「青春怪談」(阿部豊監督版)「怪談かさねが淵」(怪談累ヶ淵改題縮尺版)

「鋼鉄巨人(スーパージャイアンツ)怪星人の魔城」

特撮は当然まだまだ稚拙だけれど、一生懸命面白く作った感が楽しい子供向け空想科学ドラマという感じです。監督は石井輝男

 

謎の空飛ぶ円盤目撃が相次ぐ所から映画は幕を開ける。米ソに核兵器開発中止を交渉に行ったスーパージャイアンツは、カピア星人の地球侵略の陰謀を知って日本へ戻ってくる。そして謎の円盤を撃破するが、今度は謎のウイルスを蔓延させてくるカピア星人。博士たちはカピア星人を倒すための新兵器開発を急ぐのだが、子供達ともどもカピア星人の魔城に拉致されてしまう。窮地を知ったスーパージャイアンツが博士たちを救出に向かうところでエンディング。

 

「鋼鉄巨人(スーパージャイアンツ)地球滅亡寸前」

前作「怪星人の魔城」の続きである。監督は石井輝男

 

カピア星人の魔城から博士たちを救出したスーパージャイアンツだが、カピア星人は、博士たちの新兵器製造工場を破壊すべく、博士たちに迫ってくる。地球の引力を操る魔術で人類を脅してくるが、スーパージャイアンツの活躍でカピア星人の策略を阻止、おりしも完成した新兵器で残ったカピア星人を倒してハッピーエンドである。

 

至る所にツッコミどころ満載の作品ですが、そんなリアリティや屁理屈はさておいても、とにかく空を飛ぶだけのスーパージャイアンツ、ただ殴り合いを繰り返すだけのアクションシーン、そんな合間にフィルム逆転やスローモーションを駆使したたわいない特撮が散りばめられて、幼稚ながらも今見れば微笑ましいほどに楽しい。古き良き昭和のノスタルジーも相まって、癒される時間を過ごすことができました。

 

「青春怪談」

同じ原作を市川崑阿部豊が同時に演出し同時に公開した作品で、以前市川崑監督版は見ていたが、やはり原作がいいのか脚本がいいのか、実にストーリー展開が見事で、しかも、今見ても遜色ないテーマも盛り込まれる先見の明の秀逸さは拍手ものである。淡々とコミカルにテンポよく物語が進んでいき、セリフの機関銃のような掛け合いのリズムに引き込まれていきます。市川崑版も良かったがこちらの作品も実に面白かった。監督は阿部豊

 

慎一が朝食の準備をテキパキこなしている場面から映画は幕を開ける。いかにも現代的な調理器具が並べられ手際よく朝食が出来上がっていく。奥から、母でだらしない性格の蝶子が現れる。慎一の恋人でバレリーナの千春もまた堅物の男寡鉄也と暮らしている。千春がバレエの公演に慎一と蝶子を招待し、そこで蝶子は千春の父鉄也と出会う。実は千春たちが計画した鉄也と蝶子の見合いだったが鉄也は全くその気にならない。しかし蝶子はすっかり気に入り、さらに千春から鉄也が夢中だと嘘を言われて舞い上がってしまう。

 

鉄也は娘の千春が慎一と結婚するまではという気持ちが強く煮え切らない。そこで慎一と千春は早々に結婚するべく式場の手配を始める。千春には彼女を慕う修繕というバレエ仲間がいた。同性愛で千春を慕う修繕は、千春と慎一の関係に嫉妬してしまう。一方慎一も、二枚目で、近所の芸者やマダムにモテ、パチンコ屋を経営しながら有閑マダム船越トミ子と親しくなり、彼女がバーを経営する後押しを手伝ったりする。

 

ところが、慎一と千春が結婚打ち合わせにトミ子のバーの二階で話している現場を見たトミ子は嫉妬し、千春と修繕が同性愛であることを新聞記事に書かせ、さらに慎一のパチンコ店に嫌がらせをする。結果、千春は初舞台の主演を下され、さらに慎一に、千春は実は男だという怪文書の手紙が届くにつけ、千春も混乱していく。

 

しかし、慎一と千春の想いは揺るがず、鉄也と蝶子がうまくいくように次の作戦を計画し、とうとう二人は結婚する運びとなる。千春は、怪文書の送り手が修繕だと知って迷い、慎一との結婚はとりあえず延期するとそれぞれの親に告げる。鉄也が仕事で香港へ行く前に蝶子と結婚することにし、二人を空港へ見送る慎一と千春の姿で映画は幕を閉じる。

 

ジメジメした展開を一切排除し、カラッと明るいタッチでぽんぽんと物語が語られる展開が心地よいほどに面白い。しかもセリフの応酬のリズムも抜群で、見終わって本当に気持ちのいい読後感のようなものを覚える面白い作品でした。

 

「怪談かさねが淵」(怪談累ヶ淵改題縮尺版)

オリジナル版は現存せず、本編のみが唯一見れる貴重作品。とはいえ、構図といいカメラワークといい、クライマックスに至るテンポ、そしてクライマックスに見せ方、さすがに傑作だった。監督は中川信夫。彼の作品では「東海道四谷怪談」が最高傑作ですが、あれに劣らずの名作でした。見て良かった。

 

雪の降るある日、あんまの宗悦が、悪天候の中借金を取り立てに出かけると行っている場面から映画は幕を開ける。娘のお累や、乳母のお鉄が心配する中、侍の深見家にやってきた宗悦は、もてなしを受けながら主人の深見に貸した金の催促をする。ところが主人の深見は、金はないと言った上、宗悦を罵倒して手打ちにしてしまう。宗悦の遺体は使用人の勘三に指示して近くのかさねが淵に捨てさせる。その際、魔除けに勘三は宗悦の遺骸に鎌を結びつける。その後、すっかり荒れてしまった深見は、宗悦の怨念か、乱心の末妻も斬り殺してしまう。生まれたばかりの赤ん坊新吉は勘三が引き取るが、自分では育てられないと、かつて世話をした羽生屋の軒先に捨てる。そして二十年の時が経つ。

 

江戸の小間物問屋として栄える羽生屋で新吉は手代として働いていた。娘のお久に気に入られ、この日も三味線の師匠のところへ共で行く。三味線の師匠こそ、宗悦の娘お累の今の姿だった。お久は新吉に思いを寄せていたが、お久の義母は、大店の山田屋の息子と婚礼の準備を進めていた。山田屋の息子の思いを叶えるために浪人の大村が不気味に立ち回っている。大村はお累に思いを寄せていた。

 

ある夜、謡の席でお累とお久が座敷を賑わしたが、新吉は近所の娘たちに言い寄られ、お久は拗ねて先に帰ってしまう。新吉は慌ててお久を追うが、三味線の教本を忘れたことに気がつき戻ってくる。そんな頃、お累に気のある大村がお累に迫っていた。そこへやってきた新吉のおかげでお累は助かったが、お累もまたお久についてくる新吉のことが好きだった。そして、二人はこの夜、体を合わせてしまう。

 

翌朝、羽生屋に戻った新吉だが、お久の義母から出ていくように言われ、結局、新吉はお累と暮らすようになる。この日、勘三は宗悦の墓参りに来ていた。そこでお鉄と出会う。そして新吉は深見家の息子であることを知る。お鉄はお累に新吉と別れるようにいうが、理由は話さなかった。ところがたまたま三味線のバチがお累の顔に当たりそれがきっかけで、お累は病に倒れてしまう。

 

新吉は献身的にお累の看病をするが、大村はお久をそそのかし、新吉との仲をとりもつようになる。それも皆、お久から金をせびるためだった。しかし、お累はまんまと大村の罠にハマっていき、新吉を恨み始める。顔の腫れが醜く広がり化け物のようになったお累は、船宿で密会している新吉とお久のところへ行き、諍いになった末階段から落ちてしまう。

 

新吉はお累を看病するが、大村が、婚礼の日取りが迫るお久を煽って、新吉と駆け落ちするように進め、五十両を準備させる。新吉はお累を一人にできず、とりあえず修理に出していた三味線だけ取りに行くとお累を残すが、そこへ大村が現れ、自分の顔を鏡で見てみれば良いと告げる。お累が水瓶に自分の姿を映してその醜さに恐れ慄き、さらにお鉄に新吉が深見の息子だと知らされ、お累は狂ったようにもがき悶え死んでしまう。

 

新吉は三味線屋で三味線を受け取っていたが、そこへお累が現れる。家に帰すためお累を籠に乗せた直後、お鉄がお累の死を知らせに来る。籠の中には三味線のバチだけがあった。新吉はお久と駆け落ちをし、途中かさねが淵にやってくるが、そこで、おぶったお久がお累に変わり、さらに落ちていた鎌でお久を斬り殺してしまう。そこへ五十両を目当てに大村が現れ、新吉を斬り殺すが、大村はお累や宗悦の亡霊に殺される。勘三やお鉄がお累らの霊を収めるべく精霊流しをしている場面で映画は終わる。

 

完成度の高さは見事なもので、日本的な抒情的な構図、流れるカメラワーク、クライマックスのハイテンポな切り返しと、流石に中川信夫の演出は見事。素直に面白い怪談話でした。

映画感想「ある一生」「キンギダム 大将軍の帰還」

「ある一生」

淡々と一人の男の人生を描いていくというなんの変哲もない作品で、凝った演出もなく、山々の絶景の中で展開するドラマを鑑賞する作品という感じだった。監督はハンス・シュタインビッヒラー。

 

馬車がクランツシュトッカーの農場を目指している場面から映画は幕を開ける。乗っているのはクランツシュトッカーの義妹が私生児として産んだ少年アンドレアスだった。金を持たせてもらいクランツシュトッカーの農場で引き取られたアンドレアスだが、実子と明らかに差別されながら馬車馬のようにこき使われ始める。少しでも失敗をするとクランツシュトッカーに尻を棒で叩かれる日々だった。そしてとうとう骨折して、以来びっこを引くようになる。

 

そんなアンドレアスは祖母のアーンルだけが優しく接してくれた。やがて青年になったアンドレアスだが、ある日アーンルが亡くなってしまう。アンドレアスは農場を出ていくことを決意し、クランツシュトッカーに啖呵を切った上で家を出ていく。そしてさまざまな労役をこなしながら、金を貯めて小屋を借りる。

 

いつもいく居酒屋でマリーという女性と出会い、やがて付き合い始めて結婚する。そんな頃、村にロープウェイが建設されることになり、アンドレアスはその建設現場で働くようになる。しばらくしてマリーが妊娠したことがわかるが、突然の雪崩で、マリーは亡くなってしまう。アンドレアスも両足を負傷するが、完治してからロープウェイの会社でまた働き始める。アンドレアスはマリーの墓に手紙を出すようになる。

 

やがて第二次大戦が勃発し、アンドレアスも兵に志願し戦地へ行くが、まもなくしてドイツはロシアに敗れ、シベリアに幽閉される。そんな間にも、亡くなったマリーに手紙を出すことを欠かさなかった。ドイツに戻ったアンドレアスは、故郷に戻り、小屋を借りて生活を始めるが、借りた小屋の二階で教師をしている婦人と恋に落ちる。しかし、すでに年老いたアンドレアスに体力は残っていなかった。

 

世界は大きく進歩していき、村はリゾート地として賑やかになる。アポロ11号が月面着陸を果たす。アンドレアスは、かつてのクランツシュトッカーの農場を訪ね、年老いたクランツシュトッカーと再会する。そして農夫として働きながら、やがて老年を迎える。開発された村に走るバスに乗り、終点を目指す。その中で過去が蘇って来る。終点まで行き、かつての思い出を回想した後、自宅に戻ったアンドレアスは、マリーへの手紙を書いていて力尽きて亡くなってしまう。アンドレアスが埋葬される場面で映画は終わる。

 

なんのことはない作品で、素直に物語を追っていくだけの作品だった。

 

「キンギダム 大将軍の帰還」

物語としてはこの先まで知っているので、あとは見せ方の面白さを楽しみにいった感じですが、CGを使った大スペクタクルは今更いうまでもなく面白いのですが、ドラマ部分が今回は弱い。流石に全体に息切れ感が目立って、前半のクライマックス王騎将軍の死に向かっていく割には妙にスケールが小さいのは、ここで一旦収束させる感が全体のバイタリティを下げた感じでした。それでもラストは胸が熱くなりましたけれど、エンタメはこれで良いのかもしれません。監督は佐藤信介。

 

信が趙国の総大将ほうけんに対峙してる前作のラストから映画は幕を開ける。信、姜かいが全く及ばず、必死で飛進隊が窮地を脱出するが、瀕死の重症の信がなんとか生き残るまでが物語の構成としてやや長い。李牧率いる趙軍と迎え撃つ王騎将軍率いる秦軍との戦いがその後のクライマックスとなり、大軍同士の激突から、ほうけん、王騎将軍の因縁の過去が語られ、やがて李牧と激突した王騎将軍らの軍は、王騎とほうけんの一騎打ちから王騎の死へと物語は雪崩落ちていく。こうして映画はキングダム前半のクライマックスで幕を閉じる。

 

てんこ盛りの内容を手際よく見せるべく演出された感が強く、これまでの三作ほどの迫力に欠けるのは残念でしたが、ひと区切りとしては面白く見ることはできました。