くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「家族の肖像」「ザ・ディープ・ハウス」

「家族の肖像」

ほぼ五年ぶりの再見。何度見ても根底にある知性が溢れ出すセリフの数々と、完璧すぎる映像に魅了されますが、まだまだ凡人のわたしにはこの映画の真価は計り知れないものかもしれません。素晴らしい傑作ですね。監督はルキノ・ヴィスコンティ

 

老教授の元に一枚の絵画が画商から持ち込まれ、購入を依頼して来るが、かつて裕福な貴族であったとは言え、さまざまな費用の出費に、今回は見送るという旨の話をしている。画商が去った後残っていたブルモンティ夫人が二階を間借りしたいと言い出し、傍若無人とも言える態度で部屋を見学する。間も無くして、コンラッドというブルモンティ夫人の愛人だという男性と、息子ステファーノ、娘リアッタの男女がやって来る。

 

突然二階の改装が始まり、破壊するほどの衝撃に老教授が慌てて二階に行くと、コンラッドが好き放題に壁を壊している。ブルモンティ夫人から、二階を購入したから好きにしていいと言われたという。こうして物語が始まる。

 

孤独ながら平穏な日々を送っていた老教授は来訪者によって、日常がかき乱され、混乱していくものの、彼らを家族として受け入れる事で、自分の残る人生を受け入れようと考えていく。老教授は、時折、かつて愛した妻の姿を思い出しながら、コンラッドらに接するようになっていく。

 

コンラッドは過激派の要員で、何かにつけ危険な匂いがしていた。そしてとうとう教授の部屋の二階で事故を装って殺されてしまう。息子のように可愛がった教授はすっかり体調を崩しベッドに横たわる。ブルモンティ夫人らが別れを言いに来る。誰もいないはずの二階に靴の音が響く。ベッドの脇にいつも置いている孤独な男のエピソードの本の一節が蘇ってきて映画は終わる。

 

画面の隅々、台詞の隅々まで生半可なものが一つもない傑作で、それ故にクライマックスあたりまで来ると見ている私の体力がもたなくなって来ている。それでもこの映画の凄さを堪能できる。これこそ映画史に残る一本だと思います。

 

ザ・ディープ・ハウス」

屋敷女」の監督作品という事で急遽見にいく。シンプルな話ですが、工夫で見せるホラー設定がとにかく怖い。水中なので亡霊がゆっくり歩いて来る恐怖、水の中という閉鎖空間、酸素ボンベの時間制限の設定など、見ているこちらが息苦しくなる中で恐怖が迫って来る。しかも、使い古された呪いの館というオーソドックスさも単純で面白い。アイデアの勝利というB級ホラー映画でした。。監督はジュリアン・モーリー&アレクサンドロ・バスティロ。

 

YouTuberのティナとベンのカップルが、この日も看護師が子供たちを惨殺したという病院へ潜入していた。いつものように撮影が終わって、次は湖の底の探検が計画されていて、ティナは浴槽で息を止める練習をしているが、今一つ目標に届かない。一ヶ月後、ベンとティナは目的の湖にやって来るが、賑やかに遊ぶ人たちしか見られずがっかりする。

 

ところがベンが知り合ったピエールという老人が湖の奥にある、湖底に沈んだ邸宅があるという。ベンたちはピエールに案内されるままに、森の奥地の湖にやって来る。水中ドローンを伴ってベンとティナは湖の底に潜ると、そこに見えて来たのは、蔦で覆われたような邸宅だった。

 

入り口を何とか見つけて中に潜入、どんどん奥に向かった二人は、行方不明になった子供たちの写真、さらに大量の8ミリフィルムなどを発見。ここの家族が子供を誘拐して拷問していたらしいとわかる。さらにキッチンの奥には鎖に繋がれた二体の死体を発見する。怪しいと判断し、とりあえず脱出しようとしたが入って来た穴はなぜか壁になっていた。出られなくなった二人は、窓や玄関などさまざまな場所から脱出しようとするが出られない。さっきまで鎖で繋がれていた遺体が突然消え、二人に亡霊のごとく迫って来る。

 

二人は逃げ道を探し回るが、ベンは寝室でこの家の家族の写真を発見、そこにはピエールが写っていた。ピエールはこの家の子供だった。ベンたちは何とか煙突から脱出しようとするが、突然上からレンガが降って来て二人は離れ離れに。ベンにはこの家の亡霊の一人サラが迫って来る。

 

何とか気がついたティナはベンを探しようやく出会うが、ベンは亡霊に洗脳されていた。酸素が少なくなる中、ベンはティナをシアタールームらしいところへ連れて行く。そこで、ここの家族が村の子供たちを誘拐して殺していたが村人たちに襲われ、ここの主人と妻は鎖に繋がれ、サラも惨殺された映像が映される。ピエールはその時に何とか逃げたのである。

 

亡霊たちが迫る中、ベンの意識を正常にしたティナは、蔦に覆われた穴からの脱出を試みるが、ベンは途中で亡霊に引き戻される。酸素ボンベの酸素はなくなり、何とか一人亡霊から逃れたティナは必死で水面を目指すが、あと一歩というところで息が続かず死んでしまう。エピローグとして、ピエールに案内されて二人の女性が湖にやって来た場面で映画は終わる。

 

非常にシンプルですが、アイデアを盛り込みホラーテイストの常道だけで突っ走る演出が実に面白く仕上がっています。所詮B級映画かもしれないけれど、こういう作品の映画づくりの基本が盛り込まれている気がします。

映画感想「秘密の森の、その向こう」「LAMBラム」

「秘密に森の、その向こう」

とにかく映像が抜群に綺麗。森の緑、紅葉、小屋の佇まいがまるでファンタジー、確かに物語はファンタジーなのですが、双子でしょうか、主人公の少女二人もキュートで可愛い。一人の少女の心の動きの一瞬を描いたとっても素敵な映画でした。監督はセリーヌ・シアマ

 

一人の少女ネリーが老人施設で一人の老人とクロスワードパズルをしていて、さようならの言葉と共に隣に部屋に行く、そこでもさようならと言って次の部屋、ネリーの祖母が亡くなったらしく、母が片付けている。ネリーの祖母は足が悪かったらしく、杖をネリーが欲しいと言って持って帰る。ネリーは祖母に最後のさようならは言えていなくて後悔していた。

 

ネリーは、森の奥、祖母が暮らしていた家にやって来る。母はさまざまな思い出に耐えられないと家を出て行ってしまい、ネリーは父と一緒にかたずけをはじめる。ネリーは、森に遊びにいき、かつて母が作ったと言っていた森の中の小屋を見つける。そこで一人の少女が小屋を作っていた。彼女の名前はマリオンと言ってネリーの母と同じ名前だった。

 

ネリーはマリオンと小屋を作り始める。マリオンに誘われマリオンの家に行ったが、ネリーの家と全く同じ作りだった。ある部屋を開けると女性が寝ていたので慌ててその家を後にする。後日、ネリーが二人で作っていた小屋に行き、飾り付けをしているとマリオンがやって来る。マリオンの家に行くと、足の悪い母親が出て来る。マリオンは三日後に手術をするのだという。

 

ネリーは、母がなぜ出て行ったのかわからないし、寂しい思いをしている。ネリーは一緒に遊んでいるマリオンに、あなたは私の母だと告げる。二人はクレープを作ったりボート遊びをしたりして過ごす。手術の出発が明日になった日、父はネリーにこの家を離れる準備ができたと告げるがネリーはもう一日マリオンと過ごしたいと頼む。

 

ネリーはマリオンの家に行き、その夜、マリオンの誕生会をする。翌朝、マリオンは手術のためにマリオンの母と車で出かける。マリオンの母に、ネリーはさよならと告げる。祖母が亡くなる時唯一さよならが言えなかったのがここで叶う。ネリーが家に戻ると、母が戻っていた。こうして映画は終わります。

 

映像が抜群に美しいし、双子でしょうか、マリオンとネリーがとっても可愛らしく、余計な描写を一切排除して、二人の無邪気な姿の中にメッセージを織り交ぜていく演出がとっても素敵で、さりげないテーマなのかもしれないけれど、見終わって清々しくなるような心地よさを感じさせてくれました。いい映画でした。

 

「LAMB ラム」

勘違いしているのかもしれないが、非常に俗っぽいテーマを、いかにもシュールな映像で作りましたという感じの映画に見えました。壮大な山々の広がりと羊の群れ、どこか意味ありげな夫婦、そこに生まれる異形の生き物。その異形の生き物を生み出した何者か、そのそれぞれが、人知を超えた至上のものであるかのような荘厳さは全く見えない。いかにも俗っぽく見える。悪く言えば、監督の独りよがりの作品だったのではないかと思えなくもない映画でした。監督はバルディミール・ヨハンソン。

 

吹雪の中、何やら獣のような息遣い、馬の群れが走り去り、羊の小屋にカメラが入っていく。羊たちが騒ぐ中、一匹の羊がぐったりとその場に倒れてタイトル。そして第一章が始まる。

 

イングヴァルとマリアの夫婦は羊の放牧をして暮らしているようで、この日も、生まれて来る羊を取り上げていた。一段落して、新たな羊を取り出そうとしたが、なんと生まれてきたのは首から上が羊で胴体は人間の異形の生き物だった。しかし、二人はごく自然に受け入れ、アダという名をつけ、ごく自然に一緒に暮らしはじめる。人間の赤ん坊のようにベッドに寝かせ、ミルクをやる。成長してくると、服を着せる。二本足で普通に歩くのだが顔は羊である。アダの母羊が何かにつけ窓の下にやって来る。

 

しばらくして、イングヴァルの弟ペートゥルがやって来る。マリアは、うるさいように付き纏うアダの母羊を銃で撃ち殺す。ペートゥルは、異形の生き物を普通に扱っているイングヴァルらを奇妙な視点で見つめるが、問いただしてもイングヴァルは、幸せがやってきたのだと答える。実はアダという名はイングヴァルとマリアの亡くなった子供であるらしいことがわかる。

 

最初は戸惑っていたペートゥルだが、撃ち殺そうとしてアダの目を見つめたあたりから情が移り、次第にアダと仲良くなって、何かにつけて一緒に行動するようになる。ある時、ペートゥルとアダは湖まで魚を釣りに行くが、帰り道トラクターが故障して歩いて戻って来る。ペートゥル、イングヴァル、マリアはハンドボールの試合で盛り上がり、イングヴァルは酔って寝てしまう。兼ねてからマリアに気が合ったペートゥルはマリアに迫るがそっけなくされてしまう。牧羊犬が何者かに殺される。

 

マリアはペートゥルをバス道まで送り、この地を去らせる。イングヴァルとアダはトラクターを直しにいくが、そこでイングヴァルは羊の顔、人間の体の獣に銃で撃ち殺される。それはアダの父だった。その獣はアダを連れ去ってしまう。異変を感じたマリアがイングヴァルの遺体を見つけ泣き崩れる。アダもいない。ペートゥルも去ってしまった。一人になり、号泣するマリアのシーンで映画は終わる。

 

幼い子供を亡くして、人生のどん底に落ちた夫婦、必死で毎日を送っていたがいつ壊れるともわからない危うさの中で、目の前に異形ながらも、人間のような生き物が現れる。ごく自然に受け入れ、ごく自然に幸せが舞い戻ってきたと自分達に言い聞かせる事でもう一度人生をやり直そうとする。しかし、結局現実は、自分達の子供はいない。それを再度目の当たりにするためには、イングヴァルが命を捨てざるを得ない。マリアは孤独のどん底に再度突き落とされるしかない。そんなメッセージなのかと思わなくもない。羊の獣は、悪魔なのか神なのか、いずれにせよイングヴァル夫婦に試練を与えたのか。しかし、この作品に宗教色は全く見えないので、勘違いしているのかもしれません。そんな映画でした。

映画感想「あなたと過ごした日に」「ぼくのエリ 200歳の少女」

「あなたと過ごした日に」

公衆衛生専門家エクトル・アバド・ゴメス博士の半生を描くのですが、なんとも物語の構成にメリハリがないのと、今何が起こっているのか全く説明しない脚本で、とにかくダラダラと長い。映画自体は誠実に丁寧に描かれているし、一見平穏で幸せな家族の姿とその背後の不穏な政治情勢が描けていないわけではないのですが、映画全体から緊張感が今ひとつ見えないために、余計に映画が長く感じた。監督はフェルナンド・トルエバ

 

1983年トリノ、映画を見ていたカップルの姿、青年エクトルが自宅に帰ると、コロンビアの実家から父アバド・ゴメス博士の講演があるから戻ってきてはどうかという連絡が入っていた。父アバド・ゴメス博士は、コロンビアのメンジスの街に向かう。ここまでモノクロ映像がカラーに変わり、時は1971年、エクトルの少年時代に戻る。

 

公衆衛生の重要性を訴える一方で、政治活動にも参加するエクトルの父アバド・ゴメス博士は、ともすると共産主義者であるとかの非難を浴びていた。大学を追われたのちパリへ移り仕事をすることになるが、エクトルは、そんな父が大好きだった。大勢の姉たちに囲まれ、エクトルの家族は一見平穏でし幸せな家庭だった。映画は、エクトルの家族の日々を中心に、周囲で起こる様々な出来事を交えて展開していく。姉のマルタが皮膚病になりアメリカで治療するも結局命を失う。クララは結婚して子供が生まれる。時は経ち、1983年となりモノクロ映像になる。

 

アバド・ゴメス博士は、とうとう大学を追われ、1987年となる。彼はメンジスの市長に立候補を決めていた。そんな頃、過激派がアバド・ゴメス博士ら急進派を暗殺するというリストが出回る。同僚の教授の葬儀に参列するために一人向かったアバド・ゴメス博士は、二人の暗殺者によって銃弾に倒れる。悲しみに打ちひしがれる家族たちの姿、父の思い出を噛み締めるエクトルの姿で映画は終わるのですが、暗殺されてからの映像も結構長いので映画が完全に間伸びしてしまいます。

 

全体には良質の作品だと思いますが、人物への思い入れが強すぎるのか、カットすべきをカットせずに淡々と進むわりには肝心の世相の描写が弱く、やたら長い映画に仕上がった感じです。

 

「ぼくのエリ 200歳の少女」

ほぼ13年ぶりの再見。テアトル梅田閉館に伴うさよなら公演の一本で見にきた。何回見ても本当に綺麗なヴァンパイア映画です。しかも、散りばめられた伏線に全く無駄がないし、北欧独特の寂寥感が映画全体を研ぎ澄まして透明感を生み出していく。Blu-ray版の上映だったのので、股間のぼかしはないのかと思っていたけど、やはり劇場上映用だからぼかされていた。でも、スタイリッシュな映像と、たまらない切なさ、そして、見終わった後に振り返ると見えて来る様々がたまらない感動を呼び起こしてくれます。本当に名作です。監督はトーマス・アルフレッドソン

 

深々と降る雪の場面から、夜、一人の少年オスカーが窓辺でナイフを手にして「お前は豚だ」などと呟いている。一台のタクシーが着いて、中から何やら人と荷物が下ろされる。窓に段ボールを貼っていく男。何かを感じてオスカーはベッドにはいる。こうして映画が始まります。

 

学校ではいつもいじめられているオスカー、なんとかやり返そうと家で鬱憤を晴らすも結局何もできない。一人の男が何やら荷物を持って夜の公園に出かける。通りかかった男を襲って木に吊るし、血を手に入れようとするが、散歩に来ていた犬にみつかり方法の丁で逃げる。家に帰った男は何者かに罵倒されている。

 

夜の公園で一人佇んでいたオスカーの背後に一人の少女が現れる。エリだと名乗る少女に一目で惹かれてしまうオスカーは、自分の持っているルービックキューブを渡す。翌朝、いつもの公園に全て色が揃ったルービックキューブが置かれていた。こうしてオスカーとエリはどんどん仲良くなっていく。エリは言う「私が女の子でなくても好きか?」と。意味がわからずオスカーはうなづく。至る所に散りばめられた台詞の伏線が、エリがヴァンパイアであることを示唆するのですが、実はさらにもう一つ意味がある。この見事な脚本が素晴らしい。

 

エリに言われて夜のトレーニングを始めるオスカー。一方、エリと同居している男は、別のターゲットを捕まえるが今度も失敗。限界を感じた彼は顔から硫酸をかぶり病院へ搬送される。病室にやってきたエリは男の首に噛みつき血を啜る。男はそのまま地面に落ちていく。男の最後の奉仕だった。

 

エリは何度かオスカーの家に行くが、招き入れられないと入れない。無理やり入ると身体中から血液が滲み出て来る。オスカーはエリのその姿を見て、シャワーを浴びさせ、母の服を与えるが、一瞬エリの股間を見てしまう。ぼかしているのでわからないが、男性を切り落とした跡がある。女の子になる事で自分を擁護してもらう庇護者を見つけやすいためなのだが映画ではここは説明していない。これもまたこの映画の優れているところです。

 

スケートの時間にオスカーはエリに言われたようにいじめっ子に反抗して、棒で殴り耳を怪我させる。そんな頃、自分を支えてくれた男が死んで自分で血を求めなければならなくなり、エリは一人の女性を襲うが、すんでのところで夫が追いかけてきたために中途半端のままエリは逃げる。翌朝、入院した女は日の光を浴びて燃えてしまう。夫は、妻を襲ったのはヴァンパイアだと確信し、エリの部屋に忍びこむ。しかしそこにはエリに呼び出されたオスカーもいた。エリは忍び込んできた夫を噛み殺す。そして、もうここにはおられないからと、タクシーで旅立っていく。それを見送るオスカー。

 

翌日、いつものトレーニングに呼び出されたオスカーは、そこでかつて耳を殴ったいじめっ子の兄貴と会う。待ち伏せされていたのだ。プールに沈められ息苦しくなったオスカーの目の前を何やら手や首が沈んでいく。本当に美しい殺戮シーンである。プールから出たオスカーの前にエリがいた。列車の中、オスカーが乗っている。傍らのトランクからエリと決めたモールス信号の音が聞こえる。こうして映画は終わります。

 

やはり、本当にいい映画ですね。何回見ても、当初見た印象は全く揺るぎませんでした。

映画感想「親愛なる日記」「手」「渇きと偽り」

「親愛なる日記」

「ベスパに乗って」「島めぐり」「医者めぐり」の三本のオムニバス形式の作品で、ナンニ・モレッティ自身が語っていくドキュメンタリーのようなユーモアあふれる展開の作品でした。監督はナンニ・モレッティ

 

自分の日記に様々を綴り始めるオープニングから、ベスパに乗ってローマの街を走り回るナンニは、建物を見て回ったり、好みの映画の話をしたり、「フラッシュダンス」が好きだと、ダンスをしてみたり、ジェニファー・ビールズに実際に会ってしまったりしながら、自分の思いの様々を映像にしていく。

 

続いての「島めぐり」は、友人とエオリオ諸島を巡りながら、様々な島の個性をユーモア満点に語っていく映像と展開がとっても楽しい。一人っ子ばかりで、電話を代わってくれなかったり、友人が大のテレビドラマ好きで、次の展開をアメリカ人観光客に聞いてみたり、奇妙な祭りがあるからと聞いて慌ててフェリーに戻ったり、最後の島で、電気がないと知らされて、テレビの見れない友人は叫びながらフェリーに飛び乗る。

 

最後にナンニは、身体中痒みに襲われるようになり、様々な医者巡りをするのを面白おかしく綴っていく。結局、アレルギーでも皮膚病でもなく、リンパ腫の一種で、薬で治る癌の一種だったというオチで映画は終わっていく。

 

全体がコミカルなテンポでくるくる展開していく様が楽しい一本で、小品ながら、退屈しない作品でした。

 

「手」

ROMAN PORNO NOWの一本。ラストで、何を描きたいかが一気に見える作品なのですが、だったら、中盤ももう少し見え隠れしてくれる方が物語としては見やすかった気がします。決して駄作ではないのですが、SEXシーンをもう少し効果的に使ってほしかった気もします。監督は松居大悟。

 

主人公さわ子がバーで飲んでいると、隣のおじさんがカクテルをご馳走してくれる。わざとらしすぎるおじさんトークから映画は幕を開ける。さわ子は、街中のおじさんたちを写真に収めては、アルバムにして様々なおじさんの姿を観察する趣味を持っている。会社では、それなりにおじさんの上司とも何げなく接している。同僚の森が、さわ子に近づいてきて、まもなくして彼が転職することがはっきりしたあたりから付き合うようになる。

 

そんなさわ子だが、父親とはうまくいっていなくて、家ではもっぱら妹と会話をする日々。女子高生の妹は彼氏ができ、初体験もすませ、さわ子と普通の姉妹の関係だが、父親は妹には普通に接するがさわ子とはほとんど口をきかない、かのように見える。それは耳が悪くなっているせいだとさわ子は思っている。

 

さわ子と森は急接近し、二人は事あるごとにSEXを繰り返しながら、普通の恋愛関係を重ねていくが、さわ子の心は少しづつ何か変化してきているのを感じている。それは、上司とのさりげない不倫関係からも何某かの影響を受けていた。やがて、森は仕事の関係で、さわ子と別れる旨の話を切り出し、最後のデートの後、二人は離れ離れになる。

 

そんな頃、母に頼まれて父が病院に行くのに付き添ったさわ子は、次第に弱っていく父を見、また旅行に連れて行ってほしいと声をかけたりするようになって、さわ子の心は徐々にほぐれてきていた。上司との関係も断ち切れ、森と再会して、またSEXしてしまうものの、さわ子の心はすっきりとし始めていた。

 

家に帰り、一人食事を食べる父に、さわ子は旅行に連れて行ってと素直に声をかける。父も普通にさわ子に返事をする。さわ子の姿に父は自然と笑みが漏れていた。こうして映画は終わっていきます。

 

ある意味、大人として微妙な年頃の女性と、思春期の微妙な年頃の妹、そして、これもまた微妙な年頃の中年のおじさんと、若者。このどこか不安定になる瞬間の男女を、その心の成長と転換をさりげなく描写して見せていく展開は、あまりに繊細すぎて、難しい表現になってしまったのではないでしょうか。振り返ってみると、非常に危ういけれど、それなりに感じ入る物が見える作品だった気がします。

 

「渇きと偽り」

原作がいいのでしょう、面白いストーリーなのですが、いかんせん映画としてストーリーテリングがうまく処理されていないので、エッセンスだけを淡々と語るだけになって、物語がリズムを生み出していないのが残念。もっとラストは鮮やかに終わるべきところ、もうちょっと工夫が欲しかった。。監督はロバート・コノリー。

 

メルボルンの連邦警察の警察官フォークは、幼馴染のルークが亡くなったという連絡で、その葬儀のために故郷へ戻って来る。ルークは妻のカレンを含め家族を惨殺した後自殺をしたのだという。故郷に戻ったフォークだが、若き日にガールフレンドのエリーが川で溺死する事件があり、たまたま、フォークがエリーを川に呼び出していたメモが見つかって、フォークに疑いがかかったまま住民たちに追い出されるように街を出たのだった。故郷は一年近くの旱魃で枯れていた。

 

故郷へ戻ったものの、エリーの父や町の人たちから冷たい視線を浴びるフォークだが、ルークらの死に不審を持ったフォークは独自に捜査を始める。地元の巡査も彼に協力するようになる。この地の学校の校長スコットは他所の町から来ていて、フォークの過去はほとんど知らなかった。映画は、フォークらの若き日と現代を交互に描きながら二つの事件の真相を明るみにしていく流れとなる。

 

カレンの持っていたメモにグラントという名前があり、街の住人グラントが土地の問題などからルーク一家の殺害に関与したのではとフォークは考えるが、グッチェンが調べていた、かつてカレンが関わっていた書類から、グラントは奨学義援金(グラント)のことである事がわかる。しかも、フォークが泊まっているホテルの一階のバーにはスロットマシンがあり、スコットが入り浸っているのを思い出す。

 

スコットは、ここに来る以前の街で借金が膨らみ、この街に逃げてきたのである。スコットはカレンに不正受給を発見され、その口封じに一家惨殺をしたのだ。フォークと巡査はスコットの勤め先の学校へ向かうが時を同じくして奨学義援金の団体からスコットに連絡が入り、スコットは枯れた森へ逃げていった後だった。フォークたちがスコットを見つけて問い詰めると、スコットは全てを白状して体にガソリンをかぶって火をつける。すんでのところで森が火事になるのを食い止めたフォークナーと巡査が病院にいる場面へと変わる。

 

事件が終わり、街の人たちもフォークの勇敢な行動に賛辞を送り、フォークは街を出ていくが、途中、若き日にルークやエリーらと遊んだ川辺に行く。そこで、古ぼけたリュックを見つける。その袋の中でエリーの日記が見つけ、エリーは、父親に虐待されていたことを知る。エリーは父親に殺されていたのだ。フォークはその証拠を持って立ち去って映画は終わる。

 

サスペンスミステリーとしてのお話は面白いのですが、映画としておもしろくなりきれていない。脚本が悪いのか演出が弱いのか原因がどこにあるかわかりませんが、この話ならもっと面白くなりべき内容のような気がします。ラストの過去の事件の真相が出るところがかなり唐突で、無理やり原作に合わせた感が満載。その意味でちょっと勿体無い仕上がりの作品でした。

 

 

 

映画感想「犬も食わねどチャーリーは笑う」「ヘルドッグス」

「犬も食わねどチャーリーは笑う」

とっても面白いのですが、練り込んだ部分と、適当に流した部分がちらほら見える脚本がちょっと残念。オープニングのブラックユーモアが、どんどん薄められて行って、次第に普通の感動ドラマに流れていく弱さ故に傑作にはなりきらなかった。でも全体にはそれなりに出来上がっていた楽しい映画でした。監督は市井昌秀

 

ホームセンターで働く裕次郎の姿から映画は幕を開ける。ホームセンターの客としてやってきた日和と四年前に知りあって今は幸せな夫婦生活を営んでいる裕次郎だが、ある時、食堂で同僚の蓑山さんから、旦那デスノートという掲示板を見せられる。しかも、そこに、ハンドルネームチャーリーで書き込んでいる内容が、今朝からの自分の妻とのやりとりが書かれていて、妻の日和がチャーリーであると確信する。しかも、裕次郎らの家にはフクロウのチャーリーを飼っていた

 

一方、コールセンターで働く日和は、掲示板への書き込みが出版社の目に留まり、本になる話が舞い込んでくる。夜、出版社から、掲示板に書き込んでいるメンバー同士の食事会に誘われる。たまたま、裕次郎が遅くなるという連絡をもらった日和はその食事会に行くが、そこで、蓑山と出会う。裕次郎は、部下の一人の女性から色目を使われていて、どうも怪しいので蓑山に見張ってもらうように日和は頼む。裕次郎と日和夫婦は、裕次郎の部下の若槻の結婚式に呼ばれていてスピーチを頼まれていた。

 

ある夜、裕次郎は日和に掲示板のことを詰め寄り大げんかをする。翌日から二人はギクシャクし始める。しかし、とりあえず夫婦で若槻の結婚式に行くが、当の若槻はすっかりマリッジブルーになっていた。そんな若槻を新婦が無理やり連れて来る。いよいよ裕次郎のスピーチになるが、裕次郎は書いていたメモをタクシーに忘れてしまい、上がってしまう。そんな裕次郎に、かつて就活をしていた時裕次郎に教えられた、自分の肘を舐めようとして緊張をほぐすというのを日和がしてあげ、裕次郎はそれをやって落ち着いて喋り出す。

 

裕次郎はスピーチで、自宅にある様々なものは、日和と一緒に選んだものだと切々と話して会場を感動させる。これをきっかけに二人の関係は修復されたかに見えるのですが、ある朝、裕次郎が起きて来ると、母が来ていて、日和に赤ちゃんはまだかと問い詰めていた。日和は一度流産しているのですが、それを内緒にしていたはずが、裕次郎に母は聞いていたことを知って、翌日、日和はチャーリーを連れて家を出てしまう。

 

まもなくして離婚届が郵送されて来る。落ち込む裕次郎は、職場で、かつて日和と出会ったきっかけになった耐震グッズを見にきた客と話をして、自分も変わらないといけないと察して、日和の職場に押しかける。そして、最初は電話で、続いて職場まで押しかけて、紙切れ一枚で変わってしまうシステムに乗る必要はないと大音声に叫ぶ。

 

窓の外にレジ袋が飛んでくる。かつて裕次郎と日和が出会った時、公園で飛んできたレジ袋を二人で捕まえれば幸せが来ると追いかけたことがあった。あの時は捕まえられなかったが今度こそと二人はレジ袋を追いかける。公園の木に引っかかったレジ袋を、裕次郎が力で日和を押し上げて取る。こうして映画は終わっていきます。

 

冒頭のブラックユーモアが、次第に普通の夫婦の物語に移っていくのはちょっと物足りないのと、蓑山さんが途中から完全に中心の話から外れるのも勿体無い。裕次郎を誘惑する職場の女の子が実はトランスジェンダーだったり、ほんのちょっとしたありきたりがちらほら見えるのが残念で、面白いテンポの映画のはずが、あとほんの僅か力を注ぎ込めば傑作だったかもしれない出来上がりになっています。でも楽しい映画でした。

 

「ヘルドッグス」

これは傑作ノワールでした。この手の映画は韓国映画のおはこかと思ってましたが、日本で作ればはるかにクオリティの高いドラマに仕上がっていました。素晴らしいの一言、見事な映画を見せてくれました。アクションの面白さ、ストーリーの骨太さ、妙なリアリティと迫力、しかも、作劇のうまさに圧倒され、ラストまで全く目を離せません。見事でした。監督は原田眞人

 

一人の男がジャングルを進んでいて、とある小屋の男を殺す場面から映画は幕を開ける。この男は兼高と言って、かつて巡査だったが、夜、パトロールしていて、自分が怪しいと思った男たちを職質しなかったためにその男たちは、スーパーに押し入って女子高生らを撃ち殺したことがあり、後悔していた。そしてその時の犯人を独自に探し出して抹殺していたのだ。そしてこの日が最後のターゲットだった。兼高は殺したあと警察に連絡し逮捕されるが、警視庁の阿内は、彼に東鞘会というヤクザ組織に入り込みあるファイルを手に入れることと引き換えに釈放すると提案する。しかも、組織の中でサイコな男だが、兼高と相性が良いとデータが示した室岡と組ませることにする。そして一年が経つ。

 

東鞘会にはヘルドッグスと呼ばれる選り抜きの組織があり、その一員としてみるみる出世した兼高と室岡は、組織幹部の土岐のもとで、組織内の仕事を次々とこなしていく。やがて、組織のトップ十朱専属のボディガードまで上り詰める。兼高に阿内が与えた任務は十朱が持つ秘密ファイルを盗み出すことだった。そのファイルには警察情報のさまざまな書き込まれていたのだ。

 

そんな頃、敵対する組織の陰謀が十朱らに迫って来る。西の関連組織と手を組むために十朱は大金を用意してクラブで交渉に出るが、一人のホステスが怪しいと見た兼高が問い詰めると、それは十朱を暗殺するために送り込まれた刺客だった。なんとかその刺客を倒したが、十朱を狙って敵対する組織の暗殺集団が迫ってきていた。兼高らは十朱を逃すために応戦するが、その際、十朱の腹心だった熊沢が死んでしまう。十朱は熊沢の葬儀を密葬で執り行うが、そこへ向かう車の中で、室岡は、兼高が元巡査であるらしいという情報を聞いてしまう。

 

葬儀の最中、かねてから気に入らなかった三神という構成員を室岡は狂ったように殺してしまい、兼高に逃してもらう。いよいよ任務の最終章が迫っていた。阿内は、かねてから東鞘会の幹部大前田に恨みのあるために近づかせていたマッサージ師の衣笠、土岐の愛人である吉佐、実は彼女も潜入捜査官だった。そして十朱を狙う兼高が最後の任務にあたる。衣笠は大前田を殺し、吉佐は土岐を殺し、兼高は十朱からファイルを手にした上で一騎打ちをして倒してしまう。

 

ところが、警察の犬だと知った室岡は、兼高の恋人でもあった吉佐を拉致して兼高を呼び出す。室岡は、吉佐に銃を向け、自分と彼女のどっちを助けるか選べと迫るが、兼高は躊躇なく室岡を撃ち殺し吉佐を助ける。阿内はファイルを手に入れ、兼高に足を洗っても良いというも兼高は今のままで行くと答える。こうして映画は終わっていきます。

 

とにかく、物語が次はどうなるのかとワクワクするし、ヤクザ組織同士の丁々発止も見事で面白い。その上、岡田准一のアクションもさらに磨きがかかって画面が真に迫って来るし、脇役一人一人に至るまで、役者の最高の演技を引き出すかのように演出されていて隙が見当たりません。とにかく、非の打ち所がない傑作でした。

映画感想「よだかの片想い」「川っぺりムコリッタ」

「よだかの片想い」

なかなかいい映画でした。原作があるので、なんとも言えませんが城定秀夫の脚本が良い。さりげなおセリフに散りばめられた、胸に刺さる一言二言がとっても考えさせられるものがあるし、脇役に至るまで存在感がしっかりしていて、映画を見ていて、安心してストーリーを追うことができます。あえて、色彩を抑えた画面も、訴えたい何かを感じさせてくれていい。思いの外いい映画だった感じです。監督は安川有果。

 

左の頬に大きなアザのあるアイコが、自分の記事も載った本のための表紙写真を撮ってもらっているところから映画は始まる。たまたまその脇を映画監督の飛坂が通りかかり、興味を惹かれる。アイコの本は話題になっていった。そして映画化の話が密かに進み始める。ある時、映画関係のスタッフとの親睦会に誘われたアイコは、そこで映画監督の飛坂と出会う。

 

アイコは理系学部の女子大生で、陽気なミュウ先輩といつも楽しい生活を過ごしていた。小学校の時に、アイコのアザが琵琶湖に似ているというクラスメートの言葉に、アイコ本人は若干得意になってしまったが、先生は、ひどいことを言うなと言う叱責をしたことで、アイコの心はかえって傷ついていた。

 

アイコは飲み会の帰り、飛坂に、過去の作品のデータを送ってもらい。それを見て、その素直な映像に惹かれ、飛坂と頻繁に会うようになる。いつの間にか二人は恋人同士になるが、飛坂の元カノで女優のまりえから、飛坂は映画を通じてしか女性を見ていないと言う言葉を投げられる。それでも、映画はクランクインし、撮影は順調に進んでいく。一方、何事にも映画を通じてしか自分を見ていない風の飛坂にアイコは疑問を感じ始める。

 

ある時、アイコは病院で、アザは時間をかければ消せることを診断される。そんな時、ミュウ先輩がラテンサークルの飲み会で衣装に火がついて顔に火傷を負ってしまう。病室を訪れたアイコは、何かが見えた気がし、飛坂に、二人の関係はこれからも今のままだと告げる。それは別れを意味していた。

 

学校の屋上で、ミュウ先輩は、アイコに化粧を施してアザを隠してしまう。二人は陽気にラテンのダンスを踊り始める。ミュウ先輩は、人は裸で生きているわけではないのだから、隠せるものは隠せばいいと言い、こうして映画は終わっていきます。

 

ありきたりの物語ではなく、ストレートに障害を見つめた上で、その価値観の勘違いを訴えかけて来る。そのテーマが実に素晴らしい。いい映画を見た感じです。

 

「川っぺりムコリッタ」

非日常の心象風景を日常の中に描いていくファンタジー映画でした。とってもいい映画ですが、ほんのちょっと長いですね。物語の中心はぶれていないけれど、傍のエピソードの配置がちょっと勿体無いところもちらほら、でもこういう映画は好きです。監督は萩上直子。

 

トンネルを抜けてこちらにやって来る列車、一人の男山田が駅に降り立って映画が始まる。彼はハイツムコリッタという平屋建ての長屋のようなアパートにやって来る。家主の南さんに挨拶をして部屋に入る。山田は、近くのイカの塩辛の工場で仕事を始めるが、ほとんど持ち合わせがなく、毎日の食事に困る。そんな時、突然、隣の島田という男が風呂を貸してくれとやって来る。周囲の人と距離を取りたい山田は、最初は断るが、そのうち、島田は裏庭の家庭菜園で作った野菜を持ってきたりし始める。そしていつの間にか一緒にご飯を食べ、風呂を借り、図々しく山田と付き合うようになる。

 

ここに越してきて間も無く、山田の父が孤独死したという連絡が福祉課から来る。山田は遺骨を引き取り、部屋に置くが、毎晩その遺骨が光って眠れなくなる。実は山田は、人を騙して金を取る詐欺のようなことをした前科があった。塩辛工場の沢田はそんな山田に、とにかく長く続けるようにと諭す。工場には中島という先輩がいるが、この存在が物語に何の必要があるのかが見えないのが気になります。

 

山田の向かいには墓石を売り歩く父溝口と息子の家族が住んでいる。アパートの前で大橋というお婆さんが花に水やりをしているのを見かけるが、実は大橋のお婆さんは二年前に亡くなっているのだという。川岸の粗大ごみの不法投棄の場所にはたくさんの電話などが捨てられていて、溝口の息子がピアニカを吹いている。

 

映画は、アパートの住人のさまざまな物語を群像劇のように綴っていきます。山田は、父の携帯の履歴から、最後に命の電話に電話したことを知る。しかし、役所の人の話では、自殺ではなかったのではないかという。傍に牛乳が残っていて、風呂上がりに飲んだのだろうということだった。風呂上がりに牛乳を飲む習慣は山田にもあった。命の電話に出た人は、かつて、金魚が空に舞うのを見たことがあるという。それは魂ではなかったのかと考えるというエピソードを話す。

 

南の主人は亡くなっていて、その遺骨を南は時々かじっている。南の娘が飼っていた金魚が死んでしまい、山田らと一緒にお墓に埋めてやりるが、突然、粗大ゴミの電話がなる。溝口の息子が出て、空を指差すと、何と巨大なイカの何かがふわふわと浮かんでいた。島田は、自分も連れて行って欲しいと号泣する。島田には息子がいたらしい。

 

台風が来て、島田は震えながら山田の家で蹲る。台風が去って、山田は、父の遺骨を河原で砕く。そばに来た南さんは、葬式をしてあげようと提案する。島田の幼馴染の坊さんがお経を読み、溝口や、その息子、島田さん、南さんらが川岸を弔いの行列を作って進んで行って映画は終わる。

 

人間の戻るところは、きっとどこかにあって、そこへ戻る。人生のほんのいっときの時間をムコリッタに重ね合わせて、人の命、人の人生について、山田という一人の男の父の孤独死を通じて淡々と描いたファンタジーという感じの映画でした。ちょっと長かった気がしないでもなく、もうちょっと思い切ってカットすべきを切れば、もっと言いたいメッセージがくっきり見えてきた気がします。でも、いい映画でした。

映画感想「みんなのヴァカンス」「純愛物語」

「みんなのヴァカンス」

たわいのない話なのに、どんどん引き込まれて、どこか懐かしい想いが蘇りながら綺麗にラストはまとまっている。決して傑作秀作ではないかもしれないけれど、いい映画だった。見てよかったなと思える作品でした。監督はギヨーム・ブラック。

 

夜のセーヌ川岸、フェリックスはナンパしようかと歩いている風から映画は幕を開ける。とっても素敵な女性アルマと出会い、草原で一夜を明かしたが、アルマは家族とヴァカンスに行くから帰らないといけないとそそくさと帰ってしまう。フェリックスは、ヴァカンスを利用してアルマの住む街ディーへ行くサプライズ旅行を計画、親しい友人のシェリフと一緒にエドゥアールの車で向かう。

 

ディーの街についたものの狭い路地を入って車が故障してしまう。一方、フェリックスはアルマに電話をするが突然の訪問に戸惑い、そっけない返事が返って来る。とりあえず、翌日カフェで会うこととなる。エドゥアールの車は修理に一週間はかかると言われる。フェリックスはアルマと会って川で泳ぐが、アルマが怪我をしてしまい救護室で一人の若者と知り合う。結局その日もフェリックスとアルマはそっけなく別れる。

 

救護室で知りあった青年の誘いで、アルマとその姉は渓流遊びに行く事になる。強引にフェリックスも参加する事になり、フェリックスとエドゥアールが行くが、シェリフは中耳炎だからと断る。フェリックスたちは楽しいひとときを過ごすが、シェリフは、赤ん坊を連れている美しい人妻と出会う。子供に好かれたシェリフはすっかりその人妻と時間を過ごすようになる。

 

アルマとフェリックスの溝は埋まりきらず、強引に家に押しかけたフェリックスはさらにアルマから距離を置かれる。アルマの姉の計らいで、もう一度会う事になるものの、フェリックスはアルマとの関係は終わったと納得、パリに帰ることにする。エドゥアールは、修理の費用を稼ぐために、渓流遊びで怪我をした救護室の青年の友人の代わりに、清掃のアルバイトを始める。

 

明日帰る事になった夜、シェリフは人妻の元を訪れ、子供を救護室の青年の知り合いに見てもらってバーに出かける。戻ってきた二人は自然と体を重ねる。フェリックスは、テントを離れて川岸で寝ていたが目を覚ますとウクレレの音楽が聞こえて来る。川に降りてみると、昼、大道芸を披露していた女性がいた。フェリックスはその女性に親しく話しかける。こうして映画は終わっていきます。

 

いつか、どこか、懐かしい一瞬に出会ったような錯覚を覚える作品で、最後の夜のバーで騒ぐエドゥアールやシェリフたちの姿はどこかノスタルジックに胸が熱くなってしまいました。なかなか素敵な一本でした。

 

「純愛物語」

これは素晴らしい名作でした。公開された時代を考えると寒気がするほど一歩先を読んだようなストーリー展開。一見純愛ドラマの如き内容ながら、その背景に描かれる辛辣すぎる残酷さ、原爆に対する人々の本当の恐怖をまざまざとスクリーンに描写していく手腕に圧倒。その上、主役よりも脇役に至るまで主役級の筋金入りの配役で映画全体が恐ろしいリアリティと厚みが出ています。これこそ傑作と言える映画でした。監督は今井正

 

公園で一人の女の子が水飲み場の水を口移しで空き缶に移している。その脇を主人公早川貫太郎が通る。女の子は空き缶の水を野良犬に分け与えている。早川がパンを食べていると、物欲しげに女の子が寄って来るので、パンをやるが、その場を離れると金をすられたことに気がつく。時は二年前つまり1955年ごろに遡ります。

 

デパートでスリをした若者を脅しつけてカツアゲをした早川、トラブルを起こして田舎に隠れていた彼は東京下町の行きつけの食堂にやって来ると、そこにさっきの若者とその仲間がいた。最初は険悪な雰囲気だったが悪同士気が合い、これから一人の女をおもちゃにするから来いという。早川が行ってみると手を縛られた娘宮内ミツ子がいた。揉み合ううちに男が二階から下に落ちたのをきっかけに逃げてしまい、早川はミツ子の縄を解いてやる。

 

その夜、公園で寝ようとする早川にミツ子はアベックのスリをやろうと持ちかける。最初はうまくいくかと思われたが、ふとしたミスで二人とも捕まってしまい、早川は少年院へ、ミツ子は聖愛学園へ送られる事になる。しかし、早川は移送の途中で脱走する。ミツ子は学園で何かにつけて体調が悪いと作業をサボり、みんなから嫌われていたが、小島教官は彼女に目をかける。そんな時、早川がミツ子の学園にやってきて一騒動を起こすが、そこに、早川が幼い頃に世話になった下山教官と出会い、彼の説得で早川は少年院へ行く事になる。

 

ミツ子の体調が芳しくないのを心配した小島は、彼女を外部の病院に連れて行く。そこで、ミツ子は原爆症ではないかと言われる。しかし、ミツ子は小島が目を離した隙に逃げてしまう。やがて、早川は仮出所し、お菓子工場で働き始める。小島からミツ子が学園を出て行った事、体調が良くないことを聞く。まもなくして早川にミツ子から手紙がくる。早川がミツ子が働く食堂を訪ねるが、ミツ子は中央病院で精密検査を受けないといけないと告げる。

 

中央病院へ行く日、早川と約束をしていたが早川は工場を抜けられず、ミツ子は一人で検査を受け、診断される。そして、仕事先をやめて、安宿に寝泊まりするようになる。早川は、彼女の居場所を見つけ、なけなしの給料を届けたりするようになるが、ミツ子の容態は悪くなるばかりだった。早川は同僚がためている金を盗み、ミツ子と一日だけのデートをする。体調が悪いにも関わらず元気に振る舞うミツ子だったが、早川と別れた後、体調を崩す。

 

ミツ子の居場所を探していた小島は、早川の工場で聞き、ミツ子を安宿から連れ出し、知り合いの病院へ入院させる。しかし容態は予断を許せなくなって来る。病院に入ったという連絡と、待っているという知らせを聞いた早川は、この日、ミツ子の病院へ行こうとするが、そこへ下山がやって来る。かねてから探していた自動車修理工場に勤められそうだから面接に行こうという。夢だった自動車修理工場へ行ける事で、早川は散々悩むも面接に先ず出かける。

 

面接が終わり、病院に駆けつけた早川だったが、すでにミツ子はいなかった。今朝ほど亡くなり、解剖のために中央病院へ移されたのだという。やるせない思いで、夜の街を歩く早川の場面で映画は終わる。

 

原爆症がまだまだよくわかっていなかった時代、しかも戦後十年も経って、その症状が出る可能性を映像として描くというリアリティにまず圧倒されてしまいます。映画の出来以前にその勇気が素晴らしいのと、先を読んだストーリー作りに頭が下がります。こういう映画をみると、今の日本映画など比べる土壌にさえ乗らないと思ってしまいます。まさに傑作、これこそが名作と言える作品でした。