くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「大いなる不在」「ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ」「お母さんが一緒」

「大いなる不在」

なぜか涙が止まらない。一人の認知症に至った老人のこれまでの人生がサスペンスタッチで映像の中から滲み出てきるように伝わって来る物語に、なんとも言えない人生の深さ、生き方の機微、そして一途な愛、息子への思いが切々と感じられてしまいます。陽二が自分でもどうしようもなくなっていく老いに向き合うものの、行き場もなく自らを投げ出してしまわざるを得ないラストに胸が苦しくなるほどに悲しさを感じてしまいました。息子を演じた森山未來の淡々としてそれでいて温かみのある演技、彼を支える妻を演じる真木よう子の透明感あり存在、一途に生きてきた陽二を演じた藤竜也の深みのある存在感、そして彼を支える妻直美を演じる原日出子の温もり、どれもがとっても良い映画だった。監督は近浦啓。

 

閑静な九州の住宅街に一台にバンが静かに入って来る。その車に隠れて特殊部隊の面々が隠れ一軒の家に到着する。そして玄関から突入せんとするが出てきたのはスーツを着込んだ一人の老人陽二だった。こうして映画は幕を開ける。場面が変わり、舞踏劇か何かのセットと演じる卓の姿。舞台奥にシュールな映像が浮かんでいる。父陽二が認知症で施設に収容された知らせを受けて、妻夕希と一緒に九州の施設にきた卓は、職員から今後の対応についての説明を受ける。万が一食事も取れなくなったら延命治療をするかと問われて、今ここで返事できないと卓と夕希は施設を後にし、実家にやって来る。

 

卓の父陽二は大学教授で、25年前くらいに卓は一人で実家にやってきたことがあった。陽二は、アマチュア無線を趣味にし、三十年近く直美という妻と暮らしているが、実は直美と陽二はそれぞれに家庭がありながら交際し、それぞれの家庭を捨てて結婚したらしい。映画は、現在とこれまでの陽二の生きてきた物語を交錯させながら前に進んでいく。

 

卓が実家で整理などをしていると、突然宅配の弁当が届く。緒方という女性が契約したのだというが卓には緒方という女性に心当たりがない。そこへ、直美の息子だという男が訪ねてきて、直美の入院費用を立て替えている旨を知らせに来る。卓が直美が入院している病院に行くと入院していた事実はないと聞かされる。直美が倒れて病院へ入院した後、陽二の世話をしたのは直美の妹緒方だと知る。直美の息子の話では、緒方は陽二に襲われて、足を怪我したのだという。

 

そんな物語の合間に、卓と夕希が陽二を訪ねるくだりや、陽二が直美との生活の中で次第に認知症が進んでいく流れ、あるいは夕希を陽二に引き合わせた過去などが描かれていく。陽二は、次第におかしくなっていくのを自覚し家中にメモを貼るようになる。直美は、ある日陽二が自分を忘れてきたのを知り、かつて陽二からもらった手紙の数々を綴ったノートを見せるが、かえって陽二は逆上したりする。限界を知った直美は家を出ようと決意する。

 

卓は、陽二が残した直美の手紙の綴りを緒方を通じて直美に渡してほしいと緒方を訪ねるが、直美はすでにいないのだという。定かではないが、直美は自殺したのか海に向かっていく描写などが挿入されるので、死んでいるのかもしれない。直美を送り出した陽二は、警察に電話をし、身繕いを整えて、カバンを持って家を出る。冒頭のシーンである。東京では次の舞台に備えて稽古する卓の姿が映される。陽二が入っている施設の職人に卓は、延命治療をして可能な限り生かせてほしいと頼む。こうして映画は終わる。

 

時間軸を前後させながら次々と登場する人物の謎をサスペンスタッチに語りながら、陽二と直美の切ない恋愛ドラマを手紙を通じて語り、長い間疎遠だった父に対する思いがほぐれていく卓を映し出し、衰えていく陽二の悲哀も丁寧に描いていく展開がとにかく胸に迫るドラマがあります。良い映画でした。

 

「ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ」

30分足らずの短編映画で、正直何の話しかというほどのものでもない一本だった。監督はペドロ・アルモドバル

 

ある街で女性が殺される事件が起こる。犯人らしい足を引きずる男を目撃したという情報で、保安官のジェイクは、その男を犯人と考えるが、それはかつての恋人シルバの息子ジョーだった。

 

そんな時、シルバがジェイクを訪ねてやって来る。ジェイクとシルバはゲイカップルの恋人同士だった。二人はベッドを共にするが、翌朝、ジョーを逮捕しにいくジェイクにシルバは、見逃してほしいと言う。しかし、ジェイクは聞き入れず、喧嘩別れしたシルバはジョーを逃すためにジョーのいるところへ行く。その後をつけてきたジェイクがジョーに銃を向けるが、ジョーはジェイクに銃を向け、シルバがそれを止めるためにジョーに銃を向ける。

 

ジェイクがジョーに銃を捨てるように言い、ジョーも一旦は銃を捨てるが隙を見て逃げようとし、ジェイクと格闘になる。シルバがジェイクを撃ち、ジョーはそのまま逃げ、ジェイクはその場に倒れる。シルバはジェイクを助け、部屋で手当てをし、かつて二人で牧場をしようとした話をして映画は終わる。

 

どういう意図で制作されたのか分かりにくい作品で、短編らしいウィットの効いた展開も見られない映画だった。

 

「お母さんが一緒」

延々と続く会話劇の連続という作りは舞台劇のような様相ですが、三姉妹の機関銃のような女子トークがとにかく楽しい。ただ、テレビドラマの再編集版としてよく仕上がっているものの、やや堂々巡り感が見え隠れするのはいた仕方なく、面白い作品ですが、終盤はちょっとしんどかった。監督は橋口亮輔

 

母の誕生日を温泉でやろうという三姉妹が、旅館の送迎車がぬかるみにはまり押さざるを得なくなった場面から映画は幕を開ける。つく早々、文句ばかり言う長女弥生に辟易として応酬する次女の愛美。そんな様子を冷たく見る末妹の清美。しかも、連れてきた母も愚痴を言っているらしい。

 

そんな姉たちの前で、清美は結婚することに決めたと告白、フィアンセのタカヒロもこの旅館にくると告げる。そして、母の誕生パーティの夕食の場でタカヒロを紹介すると言う清美に姉たち二人は大騒ぎ。そこへタカヒロが到着し、ああだこうだと言う会話の結果、母に紹介する手筈を考えることになる。

 

ところが、夕食の席で、母は、弥生がプレゼントしたショールに対して、プレゼントよりも結婚と孫を見せろと言ったため弥生が切れて大波乱のうちにパーティは大失敗となる。この場面はあえて映さず、流れの中で説明される。部屋に戻った三人は例によってお互いを責め合い、タカヒロも右往左往する展開となる。そして、結局大喧嘩となってバラバラになりかけるが、翌朝、愛美が早朝に出かけたパワースポットの水を母に飲ませたら、母が妙に柔らかくなり、弥生のプレゼントも受け入れ、三姉妹は温泉に入り、タカヒロも後で温泉に入り、どこかうまくまとまって映画は終わる。

 

タカヒロのキャラクターをもう少し上手く使えればもっと良い作品になったかもしれないが、終始母の姿は出さず、三姉妹とタカヒロの会話劇を延々と続ける構成は面白いものの、もう一捻り全体のまとまりが欲しかった感じです。

映画感想「クレオの夏休み」「ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン」

クレオの夏休み」

とっても優しくていい映画でした。母を亡くした幼い少女が、ほんの少しづつ成長して旅立つ姿に涙が溢れてきました。シンプルなアニメーションが随所に散りばめられた映像がとっても素朴に美しく彩られる感じも素敵。心が温かくなる一本でした。監督はマリー・アマシュケリ。

 

美しい水彩調のアニメーションとタイトルが終わると、一人のフランス人の少女クレオが、乳母のグロリアと一緒に眼科でメガネを調節している場面になって映画は幕を開ける。クレオの母は癌で亡くなり、アフリカから乳母としてグロリアが雇われて幼い頃から面倒を見ていた。クレオはいつもグロリアと一緒で、母のように慕っていた。しかしある日、グロリアの母が亡くなったという知らせで、グロリアは子供たちの面倒を見るために故郷へ帰ることになる。ここに戻ってこないというグロリアにクレオは、夏に遊びに行くと約束する。

 

父がなかなかクレオを旅立たせてくれないので、無理を言って一人グロリアの故郷にクレオはやってくる。グロリアには息子のセザールや、妊婦の娘ナンダがいて、世話をしていた。クレオはグロリアに泳ぎを教えてもらったり、セザールらと一緒に遊んだりして日々楽しく過ごす。

 

まもなくしてナンダに陣痛が始まり、グロリアが付き添って病院へ向かう。クレオはセザールに預けられるが、セザールはグロリアの金を盗んで遊びに行ってしまう。クレオはセザールの後をついていくがセザールは男の子たちと崖から海に飛び込んでは騒いでいるばかりで、クレオには入りにくかった。夕方、セザールはクレオをおんぶして帰ってくる。

 

赤ん坊が生まれるとグロリアは赤ん坊につきっきりでクレオは次第に寂しさと赤ん坊への嫉妬さえ生まれるようになって来る。グロリアは、自分のお金がなくなっているのに気づき、クレオとセザールを問い詰め、セザールの仕業だと分かったが、セザールはグロリアに反抗して家を飛び出す。

 

ある日、ナンダが赤ん坊をグロリアに預けて出かけた時、赤ん坊が泣くのでクレオが静かにさせようと赤ん坊のそばにきたが、次第に憎しみが表に出て、昼寝しているグロリアの邪魔をするなと赤ん坊を押さえつけようとする。そこへグロリアが入ってきて赤ん坊を助けてクレオを叱るがクレオは飛び出し、崖まで行ってセザールが飛び込んでいた崖から飛び降りる。クレオはグロリアに教えてもらったように泳ぎ、セザールに助けられて家に帰る。

 

クレオはグロリアに、赤ん坊が死ねばグロリアと一緒に家に帰れるからとグロリアの胸で泣く。やがて夏休みが終わり、クレオが帰る日が来る。空港までグロリアが送ったが、それぞれ別々に幸せに暮らそうと呟く。クレオを送り出した後、飛行機にまっすぐ向かうクレオを見送りグロリアは涙が止まらず泣き続けて映画は終わる。

 

母を亡くしたクレオがとっても切ない存在だし、一方のグロリアにとっても赤ん坊の頃から面倒を見たクレオは娘のように可愛く愛しい存在になっている。しかしいずれ別れが来ることはわかっているというシンプルな話に涙せざるを得ない。上品な色彩のアニメが、クレオの母の死や、グロリアとのこれまでなどを映し出す演出も素敵で、本当に優しい作品でした。

 

ヒューマニスト・ヴァンパイア・シーキング・コンセンティング・スーサイダル・パーソン」

ヴァンパイアコメディというタッチの作品で、面白い構図やシーンもある一方で、平凡そのもののシーンも散見され、しかもストーリーがテンポに乗ってこないのは脚本の弱さか、演出の甘さか、せっかくの題材を活かしきれていないのがちょっと勿体無い映画だった。監督はアリアーヌ・ルイ=セーズ。

 

暗闇の中、誕生日を祝う言葉から明転するとこの日誕生日のサシャがキーボードをプレゼントされている場面から映画は幕を開ける。さらに玄関のベルが鳴り、近所の男性がピエロの格好でお祝いに訪れる。招き入れられた男性は一通り芸を見せた後、縄抜けをすると自ら箱に入る。しかし抜けられず暴れていると、サシャの両親や家族らがその男性を襲う。どうやら吸血鬼家族らしい。このオープニングがとっても面白い。

 

しかし、サシャは人を襲うことができず、いつも血液パックを持ってちゅうちゅうと血を啜って生きている。この設定も楽しい。両親はサシャに人を襲うことを覚えさせるために従兄弟のドゥーニーズに預けることにする。サシャはドゥーニーズと一緒にターゲットを物色し始めるが、サシャはなかなかその気にならない。なんとか見つけたつまらない男JPをドゥーニーズが襲い、サシャにも襲わせようとするが、サシャは車のクラクションを鳴らしてドゥーニーズの行為をやめさせる。結果、JPは中途半端に血を吸われて吸血鬼になってしまう。

 

そんなサシャはある夜、ボーリング場の屋上で今にも飛び降りようとしているポールを見かける。ポールは下で見上げるサシャを見て降りていくが逆にサシャは屋上に舞い上がり、驚いてコンテナにぶつかって気を失ってしまう。サシャはポールを助けてポールの自宅に連れていく。そして自分は吸血鬼だが人を襲えないことを告白、ポールは学校でいじめられて、これという人生の目標もなく自殺願望があるのだという。

 

自分を見つめ直すサークルに出かけたサシャはそこでポールと再会する。ポールは自分の血を吸うことでサシャは吸血鬼として自分は自殺できるという提案をするがサシャの牙が伸びてこない。ポールは死ぬ前に、これまで自分を馬鹿にしたクラスメートや校長先生に復讐をしたいと家を訪ね回る。そして、最後に自分をいじめていたアンリにポールは襲い掛かろうとするが逆に襲い返される。あわやという時サシャの力が現れ、アンリの仲間を投げ飛ばし、アンリの血を吸って殺してしまう。

 

知らせを聞いたドゥーニーズがアンリの死体の処理を手伝うが、ポールがまだ生きていて、自分たちが吸血鬼だと知っているのは良くないから殺すと言い出し、サシャはドゥーニーズを殴り倒しポールの元へ行く。ポールとサシャはモーテルに行くが、そこでポールは自分を吸血鬼に変えて欲しいとサシャに言う。そして、自殺願望者を探し、協力してお互いの願望を叶える人道主義吸血鬼になりたいと説明する。

 

サシャはポールが襲われることを想像すると牙が伸び、そのままポールに噛み付く。しかし。ポールが復活するのに苦しむのでサシャは家族に助けを求める。駆けつけたサシャの両親らがポールに血液パックで血を飲ませ、ポールは吸血鬼となる。サシャとポールはサシャの母の病院へやってきて、末期の老婦人の安楽死を助ける。サシャが最後の音楽をキーボードで弾いて、ポールが血液パックに血を移していく。そしてことが済んで二人が病院を後にして映画は終わる。

 

シンメトリーな構図や、テンポの良い音楽のリズム、ちょっとコミカルなシーンを織り交ぜた面白さが随所に見られるが全体にテンポが悪く、お話がまとまっていないために長さを感じてしまう。せっかくのアイデアを活かしきれていない感じの映画でした。

 

 

映画感想「エノケンのとび助冒険旅行」「メイ・ディセンバー ゆれる真実」

エノケンのとび助冒険旅行」

家族向けのお伽話ファンタジーで、セット撮影を徹底してトリック撮影を駆使した楽しい仕上がりの映画でした。監督は中川信夫

 

人形使いのとび助が、今日も街頭で子供達を前にお芝居をし終える。お金を集めたが、一人お福だけはお金がないという。そんなところへ人さらいがお福を連れ去ろうとし、とび助が大乱闘するが、人さらいに頭を殴られて、数が数えられなくなる。お福は、母の住む日本一の山の麓に行けば、素敵な木の実があり、それを食べると元に戻ると言われる。

 

早速、とび助はお福を連れて、お福の母の村を目指すことにする。途中、がんこ坊やふらふら坊、いじわる坊のところを抜け、人喰いばばあに食べられそうになったり、死の森で化け物たちと戦ったり、おかしな街で見せ物小屋に連れ去られたり、人喰い鬼を退治したりと大冒険を繰り返し、ようやくお福の母の村に辿り着き、木の実を食べたとび助は元に戻り、お福、その母と賑やかに走り回って映画は幕を閉じる。

 

なんのことはないお伽話の世界ですが、スローモーションやトリック撮影、ミニチェアワークなど、懐かしい手作り特撮がとっても楽しい。書割のセットも独創的で、カメラアングルや構図、編集の面白さも見られ、ちょっと懐かしいながら、面白い一本でした。

 

「メイ・ディセンバー ゆれる真実」

自分の解釈が正しいのなら恐ろしいほどの傑作なのかも知れないが、深読みしすぎかと思わなくもない。しかし、主演の二人ナタリー・ポートマンジュリアン・ムーアとくればこう考えざるを得ないと思う。素直な幸福で包まれたプライベートな空間に、映画というフィクションの仮面をかぶって他人が入り込んで、真摯に再現しようとするはずがいつのまにか邪念が蝕んでいる。それを逆手にとって、そんなことはわかっていると言わんばかりに、グレイシーとジョーはエリザベスを手玉にとったのではないか。そんな映画だった気がします。挿入される大袈裟な音響効果、意味ありげなシーンの数々、冒頭のシーンがいつの間にか第三者によって汚されようとしている展開にあっさりと笑い飛ばしてしまうような終盤。これは、映像が作り出した人間の心の姿だと思いました。監督はトッド・ヘインズ

 

邸宅の大きな庭でバーベキューが開かれようとしている。庭にはプールが修繕中で、大勢の客が出入りしている。主催しているのはグレイシーとジョーという幸せそのものの夫婦。間も無く高校の卒業式を迎えようという双子のチャーリーとメアリー。実は彼らは二十年前、36歳のグレイシーは23歳年下の13歳のジョーと不倫関係になりスキャンダルを生んだ夫婦だった。グレイシーは未成年との関係で罪に問われ服役、獄中で子供を出産して出所後に結婚した。

 

今も嫌がらせが続くものの幸せな生活を営んでいる。この度、この題材を映画にすることが決まり、この日、主演を務める女優のエリザベスが役作りのリサーチのために訪れた。玄関先で小包を発見、チャイムを鳴らしても返事がないのでそのまま裏のテラスのバーベキュー準備の場にやってくる。出迎えたグレイシーは小包は排泄物の嫌がらせだからと夫のジョーに捨てさせる。

 

エリザベスはグレイシーに執拗な観察と質問を続け、その中でグレイシーとジョー、さらに彼の周りに人たちは、次第に過去を改めて向き合うようになっていく。エリザベスはグレイシーの元夫トムや、トムとグレイシーの子供達にも会う。しかしトムの言葉からは、グレイシーの批判はあからさまに出てこない。それでも、グレイシーのお菓子の注文は、近所の知人たちが繰り返し注文しているだけだとトムは話したりする。グレイシーとジョーが出会ったペットショップの店長にも会い、グレイシーとジョーが情事に至った物置に行って自らその場を再現してしまうエリザベス。

 

ジョーは、何やら別の女性とメールのやり取りをしているらしい。蝶の蛹を育てているが、グレイシーから嫌がられている。エリザベスはトムとグレイシーの息子ジョージーと出会う。彼は、かつてグレイシーが幼い頃に兄二人から何かされたのではないかという事を仄めかされ、その真実を話す代わりに映画の音楽監督に推挙してほしいと言われる。

 

ジョーはエリザベスを自宅に送った際、喘息の器具を調整しに部屋に入り、かつて、グレイシーと関係を持った直後にグレイシーにもらった手紙をエリザベスに渡す。そして、エリザベスと体を合わせてしまう。後にその手紙の内容をエリザベスが一人語りするのだが、グレイシーがジョーとこういう関係になったこと、この手紙はすぐに捨ててほしい旨のことが書かれていたらしい。

 

ジョーが自宅に戻り、ベッドに眠るグレイシーのそばで考え事をしていて、グレイシーはかつてジョーが自分を誘惑したなどと言って言い合いになってしまう。やがてチャーリーとメアリーの卒業式の日、グレイシーの姿は見えなかったが、ジョーは子供二人を学校へ届ける。グレイシーは一人猟に出て、獲物を見つけるも銃を発砲しない。そして卒業式、ジョーは外で見守り、会場にはグレイシーとエリザベスがいた。エリザベスの帰り際、グレイシーは、ジョージーが言ったことは信じない方がいいなどと告げてその場をさる。

 

やがて撮影が始まり、グレイシーとジョーがペットショップの物置で情事に発展する場面、エリザベス扮するグレイシーは蛇を持ってジョーに迫っている。そして何度かのテイクで監督のOKの後、もう一度やりたいというエリザベスの言葉で映画は終わる。

 

果たして、グレイシーとジョーの関係は最初から歪んでいるのか?冒頭で20年も一緒にいることはお互いに愛していないとできるわけがないというジョーのセリフが素直なところなのか?エリザベスがリサーチする中で見えて来るものが果たして彼女の邪念が生み出していくものなのか、グレイシーとジョーは決して純粋な幸せを送っていないのかも知れないが、それでも二人の絆がしっかりしていて、エリザベスら他人の入る隙がないのではないかという解釈でこの映画を楽しみたい気がします。そこまで考えさせるトッド・ヘインズの演出力に拍手したいと思います。

映画感想「先生の白い嘘」「潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断」

「先生の白い嘘」

原作のテーマが難しすぎるのか、映像にしきれていない脚本が、結局だらだらとシーンを繰り返すだけになってしまって、焦点の見えない作品になってしまった感じだった。面白いわけでもなく、ミステリアスでもなく、中途半端なラブストーリーのようになっている映画だった。監督は三木康一郎

 

居酒屋で高校教師をしている美鈴と親友の美奈子が飲んでいる。そこへ二人の友人でもある早藤という男性も加わる。酔って好き放題に喋る美奈子は、突然早藤と婚約したと美鈴に告白する。しかし、実は早藤は時々美鈴を呼び出しては屈辱的に美鈴と関係を持っていた。六年前からそんな立場になった美鈴も、拒否できないもどかしさに悩んでいて、食べ物の味がわからないと言う病気になっていた。

 

そんな時、学校で一人の男子生徒新妻が、クラスで揶揄われる事件が起こる。さらに彼がバイト先の年上の女性とホテルに行ったと言う噂が広まり、担任の美鈴が事情を聞くために新妻と面談することになる。その席で、美鈴はつい本音を暴露し、学校側が何もなかったと言う返事をもらうようにと言う依頼を無視した行動を取る。しかも、新妻も、実際にホテルに行ったこと、そこで、女性のあの部分が怖くてたまらないなどと告白するに及んで、それぞれの女性から男性への、男性から女性への考え方の恐怖、暴力を言い合ってしまう。

 

以来、新妻と美鈴は接近し、新妻が美鈴の家に行って親しくなっていく。新妻の祖父が植木屋だったこともあり、美鈴は新妻を気兼ねなく自宅に呼び、とうとう口付けをしてしまう。まもなくして、美奈子が妊娠、早藤と美奈子は正式に籍を入れる。しかし、早藤は女としての美奈子を支配できなくなる苛立ちを覚え、さらに美鈴に強行的になっていくが、美鈴も美奈子が母として逞しくなる姿を見て自分も意思を持って早藤に対峙していくようになる。

 

ところが、たまたま美鈴が早藤に学校の外で罵倒される姿を見た新妻は、早藤の会社の前で早藤に詰め寄ってしまう。早藤は美鈴に、自分たちの関係を新妻に話したと告げ、新妻の前で抱かれるか、自分の前で新妻と体を合わせるかすれば別れてやるとホテルに呼び出す。美鈴は入院している美奈子を訪れ、リップを借りた上で早藤の待つホテルに行く。そして、自ら下着を脱いで、女の体の怖さを知れと早藤に迫る。

 

早藤は自分が惨めになったことを知り、逆上して美鈴の顔をめちゃくちゃに殴り部屋を出ていく。美奈子のところに、酔った早藤が戻り、そのまま寝てしまう。美奈子が恐る恐る早藤の携帯を見て、美鈴のいるホテルの事を知り、そのホテルへ向かう。そして血だらけの美鈴を発見する。後日、美奈子が早藤の部屋を訪ねると、なんと早藤はクローゼットで首を吊っていた。慌ててロープを切ると息を吹き返したが、言葉も出なかった。そのショックか、美奈子は破水する。美奈子はタクシーを呼ぶように早藤に言うが、早藤は警察に電話をして、自分は女を襲ったことを自供する。

 

半年後、美鈴は顔の傷が完全に治らないまま学校へ行く。学校では新妻と美鈴が口付けしている写真が出回っていた。教頭たちの前で、美鈴は。学校を辞める旨を告げる。帰りのロッカーで、新妻が、美鈴を守れなかったけれど美鈴が好きだと告げるが、美鈴は、お互い男と女だからとあっさりと別れていく。この辺りがよくわからなかった。美奈子は留置所の早藤を訪ねる。こうして映画は終わる。

 

テーマが非常に微妙な難しさがあるために、映像になった時点で、ぼやけた展開になってしまったようです。なんとか表現しようと悪戦苦闘した結果、それぞれのエピソードがバラバラに中途半端な仕上がりになったようで、映画にするには無理がある原作なのではないかと感じてしまいました。

 

「潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断」

いい映画なのですが、焦点が中盤以降に具体的になってきて、前半の描写が今ひとつ意味をなしていずに、やたら作品の尺を伸ばすためだけに配置された脚本構成がちょっとあざとすぎてもったいなかった。救出劇から後をもっと丁寧に練り込んで膨らませればもっといい映画になったように思います。監督はエドアルド・デ・アンジェリス。

 

1940年、イタリア海軍の潜水艦コマンダンテカッペリーニ号は、イギリス軍の物資供給を断つために大西洋へ旅立とうとしていた。この艦の船長サルヴァトーレが妻リナと過ごしている場面から映画は幕を開ける。戦争で負傷し、コルセットをつけざるを得なくなった体で、サルヴァトーレは潜水艦に乗り込む。ここまでがカットを繰り返したり、意味ありげなシーンを交錯させたりとちょっと凝りすぎた感じです。

 

やがてジブラルダル海峡を超えて大西洋に入るなか、食料も厳しくなった頃、前方に大型の輸送船を発見する。コマンダンテ号に発砲してきたので、サルヴァトーレは船籍がわからないままに撃沈を指示する。その船は中立国ベルギーのカバロ号だった。船員たちは救急艇で脱出し、一隻は他の船に助けられたがもう一隻が行き場がなく、コマンダンテ号が最寄りの港まで牽引することになる。しかし途中で救急艇が破損し、乗組員をコマンダンテ号に移すことになるが、定員を超えるため、一部は船橋に残すしかなく、潜航できないまま、イギリス海軍の支配領域を進むことになる。

 

案の定、イギリス海軍の軍艦に出会い発砲を受けるが、潜航出来ず、無線で仔細を連絡、イギリス軍も発砲をやめてコマンダンテ号を通してやる。コマンダンテ号は無事ベルギー船の乗組員を港に届けるが、ベルギー船の船長は積荷はイギリス軍の兵器だと告白、サルヴァトーレもそれを知っていたと答えて別れる。そして船は沖に向かって出航して映画は終わる。

 

救助されたベルギー人の一部が破壊工作をしたり、コマンダンテ号のシェフがベルギーの料理を教えてもらう場面など、エピソードもふんだんに盛り込めるはずが、時間切れで適当に処理した感も見られ、ちょっと残念な展開だった。決して駄作ではないのだが、もっと肩の力を抜いて、素直に描きたいところに集中すればもっと良くなった気がします。

映画感想「フェラーリ」「現金と美女と三悪人」(熱泥池 改題縮尺版)

フェラーリ

なかなかいい映画でした。クライマックスのミッレミリアのレースシーンは圧巻だし、その後のペネロペ・クルス演じるラウラの存在感に胸が熱くなってしまいました。ただ、この場面に行くまでのドラマ部分の弱さ、時代背景の空気感、主人公フェラーリのカリスマ性の描写が若干弱いので、映画全体に力強さが見えないのはちょっと残念。決して凡作ではなく、並レベル以上の作品なのですが、贅沢を言えば後一歩迫力が欲しかった。監督はマイケル・マン

 

1947年、フェラーリ社が創業され、そして時は1957年、創業者エンツォ・フェラーリは愛人リナのベッドで目覚めるところから映画は幕を開ける。そっとベッドを出て静かに車を出してそのまま妻ラウラの待つ自宅へ戻っていく。朝食までに戻ると約束していながら遅れたフェラーリを罵倒し、銃さえ向けるラウラ。ラウラはフェラーリ社の共同経営者でもあり資金面を牛耳っていた。

 

フェラーリ社は経営が逼迫していて、今の販売台数では破産が目に見えているとエンツォは宣告される。そして、今の販売台数の約四倍を売り上げるために、来るミッレミリアのレースで優勝することが必須とされる。専属ドライバーの一人が事故で亡くなり、後に期待の若手デ・ポリターゴが加わることになる。

 

エンツォは、工場や株式の名義がラウラになっていることから、資金交渉のために、エンツォに変更するように言われる。その交渉をラウラに提案するが、ラウラは50万ドルの小切手と引き換えに同意すると答える。しかし、ラウラが銀行で署名のない小切手を受け取った際、不遜な邸宅の不動産の名を耳にする。その場所に行くと、そこはエンツォの愛人リナの家だった。しかも、息子もいた。実はエンツォとラウラの間にも息子ディーノがいたが難病のため亡くなっていて、エンツォは毎朝、ディーノの墓に参ってから出社していた。

 

ミッレミリアのレースが近づき、ラウラはエンツォに小切手のサインと引き換えに工場など譲渡の契約書を渡す。そしてレースは始まるが、終盤、デ・ポリターゴの車が大事故を起こし、見学していた九人の人を巻き込んでしまう。一方、取引契約が済むまで現金化しない約束の小切手をラウラは現金にしていたため、フェラーリ社は破産手続きに入ってしまう。それをエンツォはラウラに責めるが、ラウラは事故の記事を封印するには現金がいるだろうから使えばいいとエンツォに手渡す。さらに自分が生きている間はリナとの息子ピエロを認知しないようにと願望を言う。エンツォはピエロをディーノの墓地に誘い、二人で墓石に向かうシーンで映画は終わる。テロップで、ラウラは1978年亡くなったこと、ピエロは現在、フェラーリ社の副会長であるテロップが流れる。

 

しっかり作られたクオリティの高い作品ながら、今一つこちらに迫ってくる迫力に欠けるのは前半がひたすら地味で暗いせいかもしれない。しかし、その反面終盤が一気に躍動感ある展開に変わるという構成は上手いと思います。一流の役者を配した作劇の重みも十分伝わるし、見応えのある一本でした。

 

「現金と美女と三悪人」

オリジナル版をぶつ切りした感じの作品で、シーン同士のつながりは唐突なままに、なんとか物語はわかるというまさに珍品映画でした。監督は市川崑

 

北海道へ向かう船の中、同行する栗田のいびきで眠れずキレるカツミの場面から映画は幕を開ける。そして喧嘩になり、カツミが怪我をして、船内で医者だと言う千葉の助けを求める栗田。船内ではカツミと船員のラブロマンスもあるが、突然場面が変わると栗田とカツミは北海道の山小屋にいる。

 

どうやら栗田は会社の金を横領し、その金を隠しているらしい。カツミは契約で一緒にきたらしいが、どういう経緯か全くわからない。そこへ、いかにも悪そうな千葉が栗田の素性を知ってやってくる。そして金を要求するが、栗田は隠し場所を教えず三人はしばらく行動を共にする。

 

カツミは山を降りたくなるが栗田が解放してくれないので途方に暮れ、サイロに寝ていたアイヌの男の助けを求めて山を降りかけるが、男は突然逃げ出し、カツミはまた小屋に戻る。立ち寄った山男達に頼むが彼らはこれから山奥に向かうのでダメだと言う。そこへ、カツミの恋人が栗田に助けられてやってくる。栗田は千葉と争って千葉を銃で撃つ。小屋に戻った栗田は、カツミと恋人に逃げるように言う。そこへ、一人の男を連れて千葉が襲い掛かり銃撃戦となる。

 

カツミと恋人は裏口から逃げる。千葉は栗田と格闘し栗田を倒し、馬でカツミらを追う。火口に追い詰められたカツミたちだが追ってきた千葉は馬から火口に落ちて金もろとも消えてしまい映画は終わる。

 

なんとも言えない一本だった。

映画感想「SCRAPPER スクラッパー」「憧れのハワイ航路」「ハワイ珍道中」「ラッキー百万円娘」(びっくり五人男改題短縮版)

「SCRAPPER スクラッパー」

ポップでモダンな映像作りとデジタルカメラならではの細かいカット、フレームの変更、手持ちカメラを振り回す躍動感あるカメラワークと、テクニカルな映像の面白さは楽しめるが、映画全体としては実に淡々としたリズムで描かれる父と娘の物語なので、そのギャップがどことなく素朴で胸に迫るものが感じられる映画でした。監督はシャーロット・リーガン。

 

カラフルな壁の色合いの集合住宅、一人の少女ジョージーが友達のアリを遊びに誘うところから映画は幕を開ける。遊ぶと言っても、二人で自転車を盗み、売って小遣いを手にするというものだった。ジョージーの母は最近亡くなり、ジョージーは福祉局からの確認を巧みに交わして一人で暮らしていた。

 

ジョージーがアリと家で遊んでいると垣根を超えて一人の男が家に入ってくる。そして自分はジェイソンで、ジョージーの父親だと名乗る。最初は戸惑うものの、ジョージーがアリと自転車を盗んでペンキを塗ってるのにアドバイスしたり、ジョージーがアリと喧嘩をして一人で自転車泥棒をするのを手伝ったりするうちに、二人の心はどことなく惹かれ始める。

 

ジョージーはジェイソンと自転車を盗もうとしていて警官に見つかり、逃げる途中でジョージーは携帯を無くしてしまう。そこには母との思い出の動画が残されていた。夜一人で探していると、近所のライラがからかってきたので、ジョージーはライラを殴って逃げてくる。後日ライラの母親が文句を言いにきて、ジェイソンがライラの家に謝りに行く。

 

ジェイソンはジョージーに誕生日プレゼントだとブレスレットを贈り、ケーキを与えたりする。ジョージーは、家に、鍵をかけた部屋があった。ジェイソンが興味を持って、鍵を壊してその部屋に入ると、天井を突き抜けられるようにガラクタが積み上げられ、ジョージーの母の思い出が詰め込まれていた。ジョージーはジェイソンに怒ったのでジェイソンはある朝、ボイスメッセージを聞くようにと携帯を残して姿を消してしまう。

 

ジョージーがそのボイスメッセージを聞くと、それは余命宣告されたジョージーの母がジェイソンにジョージーを託した言葉だった。ジョージーはジェイソンを探しに行くが見つからず、ようやく近所のバスケットコートで子供らと遊ぶジェイソンを発見、一緒に暮らすことを約束する。二人で自宅にペンキを塗っていると、垣根を超えてアリがやってきて映画は終わる。

 

シンプルな話をモダンな映像で淡々と描くリズムはちょっとした心地よさを覚える作りになっています。決して一級品ではないかもしれませんがいい映画でした。

 

「憧れのハワイ航路」

岡晴夫美空ひばりの音楽映画の要素に古き良き人情ドラマを掛け合わせたまさに娯楽の王道のような一本。たわいないながらも練られた脚本は当時の職人芸を目の当たりにしてしまう面白さがあります。所々に涙を誘われ、所々に笑いを散りばめ。それでいて楽しい。これが映画ですね。監督は斎藤寅次郎

 

フラダンスをバックにしたタイトルの後、松吉の飲み屋の二階で岡田がギターを弾いて歌っている場面になって映画は幕を開ける。同居人の山口は公会堂の設計に応募して賞金を得るべく頑張っている。山口はいつも通うパン屋の娘に惚れられている気のいい男。ダンスホールで山口はバイトで似顔絵を描いていたが、そこに、花売り娘の君子が現れる。まだ幼い美空ひばりである。しかし店長に追い出されたところで、ヤクザ者に絡まれた君子を岡田が助ける。そして君子を松吉の飲み屋に連れて行き花を売らせる。

 

君子には姉千枝子がいた。そして松吉の女房みきは昔生き別れた子供がいてそれが千枝子と君子だとわかるが、千枝子たちはみきを母と呼ぶのを躊躇ってしまい、みきは病にふせってしまう。一方岡田は千枝子に惚れてしまうが、千枝子には好きな人がいて岡田の恩師の奥さんにその身元を相談されてしまい、岡田は失恋してしまう。

 

岡田の父はハワイに住んでいたが、千枝子が作る輸出用の人形、さらにはダンスホールで喧嘩で大騒ぎになった時に歌で助けた岡田はその縁でハワイと貿易している社長の情報から父の生存を知り、ハワイへ行くことになる。山口の設計図はパン屋の娘久美子がいつも山口が買ってくれるパンに親切でバターを塗ってしまい、台無しになってしまう。一時は喧嘩別れした山口と久美子だが岡田の仲裁で仲直り。千枝子と君子もみきを母親と呼ぶことになり、飲み屋で一緒に暮らすことになる。岡田が船で旅立つ日、山口は千枝子の本心を聞いてやるからと約束して岡田を見送り映画は終わる。

 

ぎっしり詰め込まれたエピソードの数々が、たわいないながらも心に染み渡るほどに人間身に溢れ、まだまだ幼い美空ひばりの存在感、大ヒット曲「憧れのハワイ航路」のメロディも相まって、楽しくて仕方ない娯楽映画に仕上がっていました。これが映画ですね。

 

「ハワイ珍道中」

なんとも珍品映画だった。新東宝初のイーストマンカラー作品でハワイロケ敢行したのはわかるがお話は支離滅裂に展開していく様はあっぱれ。途中訳わからなくなって眠気に襲われてしまった。監督は斎藤寅次郎

 

ハワイで大成功した丈吉が日本へ生き別れの娘チエミに会いに来るところから映画は幕を開ける。しかし、育ての母八千代はチエミを渡したくないので5年前に亡くなったと丈吉に告げる。一方チエミにも父親は死んでいると話していた。チエミは歌手としてハワイに行くことになり、芸能ブローカー半田は東や酒井、プレイボーイの歌手川畑らを連れてハワイにやってくる。ところが半田が金を持ち逃げし、東らがその隠し場所の島へ丈吉の用意した船で行くが原住民に捉えられてしまう。

 

なんとか原住民の諍いに乗じて脱出した半田たちはハワイに戻ってくる。たまたまチエミはパイナップル会社の社長の門衛をしている丈吉に出会う。お互いに素性を知らないままだったが、ふとしたことから丈吉はチエミが自分の娘だと知り、社長のふりをするために社長の娘アンナの手助けで、社長になりすまし、チエミと会うが、チエミは門衛をしている父の方が素敵だと答える。

 

チエミが日本へ帰る日、丈吉はチエミに父と呼んでもらい、いずれ立派になると約束する。川畑も現地で知り合ったアンナに、いずれ船長になって迎えにくると約束してハワイをさって映画は終わる。

 

田端義男の音楽映画でもあり江利チエミの音楽映画でもある娯楽作品だが、とってつけたストーリーによる引き伸ばしが支離滅裂になっていくのはいかにも映画黄金時代の珍品を思わせる一本だった。

 

「ラッキー百万円娘」

大量生産時代のたわいない娯楽映画で、これというものはないけれど、まだまだ幼い美空ひばりの天才ぶりを垣間見られる作品だった。監督は斎藤寅次郎

 

街頭でピーナツを売っている貧乏学生栗山ら二人の姿から映画は幕を開ける。そこへ一人の少女ひばりが車に撥ねられてしまう。栗山は彼女を病院へ連れて行き、気がついたひばりは宝物にしている宝くじを見せる。復員してくる父を探しているというひばりをかわいそうに思った栗山は、友人で最近結婚したばかりの倉井のところに預けるが、妻の嫉妬で追い出されてしまう。青空楽団に預けても、楽団内がトラブルになって追い出されて行き場がなくなる。

 

行きつけの居酒屋三太のところへ行くもうまくいかない。ひばりは青空楽団に結局引き取られ、歌を歌ったりしながら父を探すことにする。そんな時宝くじの当選番号を見た栗山はひばりのくじを思い出し、街頭で歌っているひばりのところへ行く。百万円当選の記事が新聞の出て、ひばりは賞金はこれまで世話になった栗山らにわけていたが、そこへ新聞を見たひばりの父が現れる。栗山の提案で賞金は寄付することに決めたところへ青空楽団のリーダーが作曲した曲は新東京音頭に選曲され、みんなで踊る姿で映画は幕を閉じる。

 

オリジナル版を短縮したことでストーリーはかなり飛び飛びになっているけれど、美空ひばり映画だと見るとこれはこれで面白い作品だった。

映画感想「Shirley シャーリイ」「ブリーディング・ラブ はじまりの旅」「生きている画像」

「Shirley シャーリイ」

アメリカ怪奇幻想作家シャーリイ・ジャクスンの伝記映画。幻想か現実か交錯するストーリーと、エロス、グロテスクを交えた展開、という面白い作りの作品なのですが、やや混沌としたカット割りとカメラワークに翻弄されてしまって、今ひとつまとまりに欠ける作品だった監督はジョゼフィン・デッカー。

 

列車の中、フレッドとその妻ローズは、フレッドの恩師スタンリー教授に頼まれて、教授の妻で怪奇幻想作家シャーリイの世話をするためにしばらく住み込むために向かっている場面から映画は幕を開ける。熱々の二人は列車の中でSEXをし、やがてシャーリイの家に着くが、偏屈で人当たりも悪いシャーリイの歯に絹を着せない物言いに初日から気分を害される。

 

シャーリイは「くじ」という短編小説発表後スランプに陥り、新聞で見かけたポーラという女子大生の失踪事件を題材に新作に臨んでいた。夫のスタンリー教授も変わった人物で、フレッドが提出した論文を罵倒するだけで自分の地位を脅かされることに人一倍プライドの強い人物だった。しかもローズに色目さえ使うようになる。

 

しかし、必死でシャーリイを世話するうちに彼女のカリスマ性に毒されていくのを感じるローズだった。実はローズは妊娠していて間も無く出産するが、ローズの心が不安定になるのを敏感に感じたシャーリイもまたローズに心を惹かれるように感じ始める。そんな人間同士のリアルな世界に、シャーリイが書いているポーラ失踪事件のフィクションの世界が絡んでくる。

 

フレッドは、大学で女子大生と浮気をしているというのをシャーリイに教えられたローズは、子供を連れて大学に乗り込み、その帰り、シャーリイの車に乗せてもらって、登山口の入り口に連れて行ってもらう。そしてローズは赤ん坊をシャーリイに預けて崖の上に行く。崖の上ではいつのまにかローズはポーラになっていた。今にも飛び降りそうになるローズに、思いとどまるように説得するシャーリイだが、二人は崖から飛び降りる。

 

やがて、新作は完成、ローズとフレッドはシャーリイの家を去る時がくる。ローズたちが車で去り、新作の完成を祝福してスタンリートーシャーリイがダンスをする場面で映画は終わる。果たしてどこまでがフィクションでどこまでが現実だったのかというラストである。

 

面白い脚本なのだが、やたら出てくるSEXシーンや出産の恐怖のグロテスクシーンなど趣味の悪い演出もあり、映像にする段階での演出スタイルが今ひとつ仕上がっていない感が伝わってしまう作品で、なんとも分かりづらい映画に仕上がった一本でした。

 

「ブリーディング・ラブ はじまりの旅」

凡作ではないかもしれないが、なんともつまらない映画だった。今更こういうテーマという陳腐さもあるが、エピソードの配分が良くなくて、終盤にかけて都合よく取ってつけたようにエンディングを迎えてしまう。ラストの映像は美しいので、これで締めくくりたいという意図は見えるのですが、娘役のユアン・マクレガーの娘がいかにも不細工だし、終盤までのクソ展開に辟易としてしまった。監督はエマ・ウェステンバーグ。

 

車に乗る父と娘、娘は薬物の過剰摂取で救急搬送されたらしく、父が施設に入れるために、画家の友人のところへ行くと嘘を言って連れ出したらしい。何かというとアルコールを飲もうとしたり薬物を探したりするクソな娘をなんとか連れ回す父。所々に幼い頃の娘と父の微笑ましいシーンが挿入される。

 

途中、車の修理で立ち寄ったヒッピーのような家族に翻弄されたり、ブロードウェイ舞台志望の娼婦と出会って、娘が用を足した際に何かに噛まれたところをアドバイスもらったり、ところどころのシーンは綺麗なのだが、いかんせん、娘に感情移入できない上に、かつてアルコール依存症で家族を捨てたらしい父のドラマが十分描かれていないので、娘がひたすらバカにしか見えない。

 

モーテルで母の電話を取った娘は、自分が施設に向かっていることを知って父と口喧嘩して飛び出し、見知らぬ男の車に乗って、男の家でドラッグを吸って気を失って路上に捨てられたのを通りがかりの車に発見され、父に連絡した娘はすっかり反省し、さらに父の日記を読んで素直になり、父に託された車のキーで施設に自分で向かう。施設に入った娘は一旦外に出るとそこに父が見送る姿があった。かつて子供の頃、学校へ送ってもらった時はドアを出ると誰もいなかったのとかぶって感動のラストシーンとなる。

 

終盤だけが映画としてよくできているように思いますが、それまでがいかにもご都合主義に展開する様がちょっと雑で残念。いずれにせよ、この手のドラマは鬱陶しいだけにしか感じませんでした。

 

「生きている画像」

たわいない人情噺ですが、良質の品のある一本でした。監督は千葉泰樹

 

洋画の大家瓢人先生がこの日も帝展の審査をしている場面から映画は幕を開ける。公募展に応募するも落選の常連田西や、自分の作品に満足せず、特選に選ばれても自ら破ってしまう南原ら瓢人の門下生は様々。行きつけの寿司屋すし徳の主人はへんこつ者だが、ある日突然、瓢人の画風の絵を描き始めて帝展に応募するようになって家計は火の車になる。

 

田西はいつもモデルをしてもらっている美砂子と結婚することになるが、生涯独身の瓢人には反対される。しかし、美砂子の思いは強く、田西は美砂子と結婚、まもなくして妊娠するが、腎臓の病で美砂子は伏せってしまう。そんな田西を瓢人は何かにつけて助けてやり、画商に絵を買いに行かせたりする。南原は女の事で警察沙汰になるも瓢人が助けてやる。すし徳の借金は瓢人が内緒で肩代わりしてやる。

 

ところが、美砂子は赤ん坊を産んだ後この世を去る。田西は満身の思いで絵を出品、今回ついに特選になる。展示場で赤ん坊を抱く瓢人、駆けつけたな南原、田西がこれまでを思い出して感慨に耽る姿で映画は終わる。

 

なんのことはない映画ですが、全編に漂う上品な空気感が心地よい映画でした。