くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「バケモノの子」「フレンチ・カンカン」「ハッピーエンドが

kurawan2015-07-14

「バケモノの子」
細田守監督作品、これはよかった。

ストーリーの構成といい、展開のリズムといい、ほとんど無駄のない出来映えに、オープニングからラストまで引き込まれてしまいました。

もちろん、細田監督の作品は、どれも、大好きですが、初めてみた「時をかける少女」のあとの二本は、正直、若干、間延びが存在する。といって、欠点と呼ぶほどでもないのですが、今回は、その無駄がほとんど見られない。しかも、創造性もしっかりとオリジナリティにあふれ、アニメとしても見事に完成されている。とにかく、クライマックスは泣かせてもらいました。

映画は暗闇に人魂のような光が点って、その光が、この物語の舞台である、どこかの現代を説明する。そこは、人間世界と別に、バケモノと呼ばれる、神となる生き物の世界が存在する。

こうして、タイトルバックからストーリーが始まる。一見ファンタジーのようだが、そんな陳腐なものではない。

映画は、一人の少年、蓮が夜の町をさまよい、そこで、たまたま人間世界に遊びに来ていたバケモノの熊徹と出会う。しかし、その一瞬の後、蓮はその場を離れるが、実は連の母は事故でなくなり、父は離婚して行方不明、親戚に引き取られるのがいやな蓮は家を飛び出す。そして、たまたまかつて見かけたバケモノを見つけ後を追っていくとバケモノの町渋天街に迷い込んでしまう。そこで熊徹の弟子にされてしまう下りから、熊徹と蓮が
ののしり合いながら心が通い始め、やがて9年、蓮が青年になるところへと流れる。

この時の流れが実にうまいし、この展開の前半部分が、後半の物語に深みを与える。

熊徹はこの町の新しい宗帥として、猪王山との対決を控えている。さらに猪王山の息子二人の話が絡み、さらに、中盤で、蓮が人間世界に戻り、父を見つけ、楓という少女と出会い、知識に対する欲望に目覚めるくだりもある。

前作「オオカミこどもの雨と雪」が母とこどもたちの話だったが、今回は父とこどもの話となっている。

一時は、熊徹と別れ人間世界にもどるつもりだったが、気になり、渋天街に戻ってみると、猪王山と熊徹の対決の日で、蓮(九太)の応援で、熊鉄が勝つが、よこしまな闇に支配されていた猪王山の長男一郎彦の刀が、熊鉄を貫く。

命は助かったが、元は人間だった一郎彦は人間世界に行ったため、九太が彼を追い、人間世界での対決となる。しかし、自らの闇に一郎彦を引き込んで、自殺するつもりの九太(蓮)を守るため、熊徹は、神になる権利を手に入れ、神となって九太の心に入り、一郎彦を倒す。

もちろん、すべてがハッピーエンドで、一郎彦もまともになるのだが、蓮の心に飛び込んだ熊鉄の、父親としての存在感に涙するし、そのあとの、登場人物全員のハッピーエンドに、たまらない感動を呼び起こされるのです。

もちろん、細田守監督作品は、いまだに「時をかける少女」がダントツに好きですが、今回の作品も、好きな一本になりました。とにかく、めちゃくちゃよかったです。


フレンチ・カンカン
フランスのムーラン・ルージュでのフレンチ・カンカン誕生の物語を、実話とフィクションを混ぜて描いた作品。監督はジャン・ルノワールである。

すばらしいの一言につきる。特に、クライマックス、フレンチ・カンカンの舞台シーンが圧巻、いや圧巻を越えて、胸が熱くなり、気持ちが踊り出すのです。

にぎやかに踊り回るダンサー、袖で、じっとその成功を祈る主人公ダングラールを演じるジャン・ギャバン。そして、客席に行き「踊ってみたいですか?」観客に聞く。この絶妙の切り替えしとカットのつなぎがすばらしい。

色彩の組立の豪華さも、まさに豪華絢爛。それも、格調の高さではなく、場末のムーラン・ルージュのイメージを崩すことなく庶民的な色彩、これがエンターテインメントだといわんばかりの傑作。

物語は実にシンプル。興業がふるわなくなった主人公のダングラール、ふとした機転で、
フレンチ・カンカンが流行ると判断しダンサーを集め始める。しかし、手形は不渡りとなり、建築中のムーラン・ルージュの工事もストップ、家も追い出される始末となるが、最初に見つけた才能あるダンサーミニを慕う貴族が支援を申し出る。

こうして、恋と嫉妬が渦巻きながら、フレンチ・カンカン初日を迎えるのがクライマックス。数々の不義もし、嫌われるところは嫌われてきたダングラールだが、舞台をみる観客の歓声を舞台袖でじっと聞く姿は、ただ、興業を愛する一人の男の姿だった。

大成功を納めたムーラン・ルージュの前で、踊るまねをする酔っぱらいの姿を遠景でとらえてのエンディングもすばらしい。これこそ、ジャン・ルノワールの天才的な感性のなせる技である。


「ハッピーエンドが書けるまで」
物語が今一つまとまりがないのですが、リリー・コリンズをみたいだけの作品なので、これで良しとしましょう。監督はジョシュ・ブーンです。「あと1センチの恋」で大ブレイクのリリー・コリンズの映画を引っ張りだしてきたのでしょう。製作年度は2012年です。

物語は、男ができて家を出てしまった母エリカの思い出を忘れられない父ビルは、元妻の家に忍び込んでいる。さらに娘のサマンサはそんな両親の姿を見ていて、恋愛や結婚に妙な偏見もあり、男性とのつきあいは割り切ったSEXと考えている。弟のラスティはクラスメートのケイトに思いを寄せるが、まだまだ初で思うように行かない。そんな姿から始まる。

この家族の物語を、父ビル、娘サマンサ、息子ラスティの三人三様のラブストーリーを絡めながら、次第に成長していく姿を描いていく。しかも、父、娘、息子は作家を目指していて、それなりに才能があるという設定があるが、この背景も、それほどストーリーの中に生きていないのもちょっともったいない。

サマンサは級友のルイスに言い寄られ、ラスティはケイトが麻薬中毒であることに思い悩む。ビルは、セフレと遊びながらも、かつて自分が犯した不義にたいするエリカの優しさが忘れられず、戻ってくると信じている。

結局、それぞれが思うようになってハッピーエンドになるのだが、では、ビルのセフレは?エリカの今の夫は?など、書き残された登場人物、エピソードが消えてしまうラストはちょっといただけない。

結局、誰が主人公で、どういう話の軸があるのかが曖昧になったまま終わってしまうのだ。唯一、更正施設に入ったケイトが、最後のラスティたちのパーティに顔を出すであろう予感だけが脚本として生きている。

悪い映画ではないし、リリー・コリンズはかわいいし、年とったとはいえジェニファー・コネリーもチャーミングだ。だから、この映画はそれでいいのだ。そういう一本だった。