「兄消える」
これだけ芸達者な老齢俳優が揃うと、それだけで蘊蓄のある人生の機微が感じられて、切々と胸に染み渡る感じでした。監督は文学座の演出家西川信廣。
小さな鉄工所を営む鉄男の父の葬儀の場面に映画は始まります。地元の友達が集い、たわいのない時を過ごした後、家に帰った鉄男は、夜中に物音で目覚める。出てみるとそこに40年前に父親に追い出された兄金之助がいた。しかも、訳のわからない樹里という女も一緒だった。
金之助はしばらく鉄男のところに居候することになり、物語が始まる。といっても、これという劇的なものはなく、淡々とした田舎の町の日常が描かれて行き。ほとんど若者らしい登場人物は現れず、唯一金之助が勝手に世話を焼く小学生が出てくるのみである。
樹里は東京で信用金庫の金を横領したらしく逃げていて、それに金之助が付き合っていた。金之助は時折、腹痛を起こすようになっている。
ある時、樹里は追ってきたサラ金の男たちに拉致され、金之助は樹里を探しに東京へ旅立つ。樹里が鉄男のために見合いサイトに登録していて、そのお相手の連絡が鉄男のところに来る。
鉄男はいそいそと出かける準備をする朝の新聞に樹里が警察に捕まった記事が載っている。出がけのポストに金之助からの手紙があった。その手紙には、金之助は余命半年と言われ、今フィリピンにいるという。樹里は横領の金は使っていなかったので罪は軽い旨も書かれていた。そして、鉄男が見合い相手と会う場面で映画は終わる。
人生ってこういう平凡な中に幸せがあるのかなぁとしみじみと感じてしまった。私も歳でしょうかね。なんか心に残る映画になりました。
「嵐電」
ファンタジーとして描こうとしているのか、オムニバスの面白さを狙っているのか、あるいは嵐電というややノスタルジックな抒情性を狙っているのか見えない上に物語がまとまっていないので雑然と見えてしまったのは残念。監督は鈴木卓彌。
嵐電の帷子ノ辻の駅そばに部屋を借りて嵐電にまつわる不思議な話をまとめて本にしようとしている衛星のシーンから幕を開けるが、そこに修学旅行でこの地にやってきた学生、この地でお弁当の配達をしているをしている店の店員の女性嘉子、東京から太秦にやってきた俳優の卵の青年、8ミリで嵐電を撮影する高校生、フィルムカメラで彼を追う女子高生の話がかぶさってくる。
嵐電で時折現れる、狐と狸のシーンが物語の核になってスパイスの役割を果たすはずが、そのインパクトが単発で終わってしまう。衛星の妻との過去が物語の核になるようで、最後まで見えない。8ミリ少年子午線と彼を慕う南天の話も弱い。唯一嘉子と役者の卵の青年譜雨のラブストーリーが終盤際立つのにそれもラストで消えてしまう。結局、わかりづらいままに終わった感じの勿体無い映画でした。
「ビッグボウの殺人」
これは面白かった。オープニングの絵からして見事だし、さらに続くストーリー展開のサスペンスも絶妙、伏線やネタを出すタイミングも見事なので、最後まで真犯人がはっきりしなかった。これが職人技というものでしょうか。監督はドン・シーゲル。
グロッグマン警視が、先日逮捕した殺人犯の死刑執行の刑場から帰るところから映画は始まる。この陰陽のカメラアングルからして見事である。
ところが、処刑した犯人にはアリバイがあることが判明し、無実の人間を処刑したことが判明、グロッグマンは責任を取ってバーンズに警視の職を譲ることになる。グロッグマンは友人のビクターと真犯人を探そうと動き始めるが、おりしも、友人のケンドールが密室状態で殺される。
バーンズは、その犯人探しを始めるが、次々と容疑者が出てくる。そして、とうとう、ケンドールのアパートの住人のラッセルを犯人と特定する。しかしラッセルはグロッグマンに、実はケンドールの事件の時、ある夫人と不倫関係だと告白する。その夫人は巻き込みたくないと言ったが、グロッグマンは、その夫人を探しにフランスへ行く。
一方、ビクターの部屋に黒手袋をはめた男は忍び込んできたので、銃で追い払う事件も起こる。
ラッセルは有罪となり、死刑執行の日が近づく。ギリギリ戻ってきたグロッグマンだが、夫人は亡くなっていた。しかし、グロッグマンはビクターにある告白をする。
実は、ケンドールこそが、冒頭の殺人事件の真犯人で、そのケンドールを殺したのは自分だとグロッグマンはバーンズらの前で自白するのだ。グロッグマンは能力のない捜査をするバーンズに復讐することそして、真犯人を正しく罰するために自分で今回の事件を計画したのだ。
真相がこうして明らかになるが、光と影を使った絵作りの見事さ、革手袋をグロッグマンが落とすタイミングのうまさなど、絶妙の仕上がりになっています。とにかくフィルムノワールの世界を堪能させてくれる1本でした。