「ロッタちゃん はじめてのおつかい」
たわいない子供映画かと思っていたら、思いの外楽しい映画だった。当時大ヒットしたのもうなずける作品でした。主人公ロッタちゃんの愛くるしさだけでなく、何気なく展開するエピソードに心温まる感動を覚えるし、街の人たちのさりげない物語に人間味溢れる叙情が漂います。スウェーデンという国柄もいいのかもしれませんが、見て損のない一本でした。監督はヨハンナ・ハルド。
5歳の女の子ロッタちゃんが可愛がっている豚のぬいぐるみバムセとベッドで目を覚ますところから映画は幕を開ける。ママがやって来て着替えを急かすが、兄のヨナスと姉のミアがロッタちゃんが可愛がっているぬいぐるみのバムセを殴ったと訴える。そんなのは夢よというママはロッタちゃんに早く着替えるようにと毛糸のセーターを出すが、ロッタちゃんはそれはチクチクするから嫌だと言い、ママが出て行った後、ハサミで切り刻んでしまう。そして階下に降りてママが用意したココアを飲もうかと思うが結局また二階へ上がる。
ママが出て行った後、ロッタちゃんは家出することに決めて、お隣のベルイおばさんの家に行く。ベルイおばさんは、ロッタちゃんのために物置に部屋を作ってくれる。そこへヨナスとミアもやって来てしばらく遊ぶが夕食だからとパパが迎えに来て行ってしまう。一人残ったロッタちゃんはベルイおばさんの用意した食事をして一人ベッドに入る。しかし、寂しくなってくる。そこへパパが迎えに来て、ロッタちゃんは大喜びでパパとママの家に戻る。
クリスマスが近いある日、ロッタちゃんは雪が降るようにと神様に頼んで、当日雪景色になる。ソリでスラロームができるからと一人通りを行ったり来たりするロッタちゃん。ママに頼まれて、ゴミ捨てと風邪で寝込んでいるベルイおばさんの家にパンを届けに行き、途中、ゴミとパンの袋を間違えて捨ててしまい大騒ぎ。
一方、雪が多くて木こりが森に入れずツリー不足の年で、ツリーが買えなかったロッタちゃんのパパはがっかりして戻ってくる。ツリーを飾るのを楽しみにしているヨナスもミアも泣いてしまう。ロッタちゃんはベルイおばさんの家に行き、お手伝いをして、ベルイおばさんに頼まれて雑誌を買いに行く。そこで、たまたまストックホルムに樅木を運ぶトラックを見かけ、分けて欲しいとロッタちゃんは頼むが断られ走り去る。ところがトラックから一本樅木が落ち、ロッタちゃんはお店の人に手伝ってもらって樅木を持って帰り、パパ、ママ、ヨナス、ミアを驚かせる。
復活祭の日、ロッタちゃんはヨナスやミアと魔法使いの格好で回るのを楽しみにしていたが、ヨナスたちは友達の誕生会に出かけてしまう。ロッタちゃんは仕方なくパシリスさんのお菓子屋さんに行くが、この町ではお菓子は売れないからとギリシャに帰る準備をしているパシリスさんに会う。しょんぼりするロッタちゃんを見たパシリスさんはクリスマスの売れ残りのお菓子をたくさん分けてくれる。
ロッタちゃんはそれをバムセおばさんの物置に隠す。そこへヨナスたちが戻って来て、みんなで魔法使いになってお菓子をもらいに近所を回るが、時すでに遅く何も残っていない。さらに、パシリスさんの店が閉店でパパは復活祭の卵も買えなかった。がっかりしたヨナスやミアを見ていたロッタちゃんはその夜、部屋を抜け出す。
翌朝、ヨナス、ミア、パパ、ママが庭に出ると。そこにはクリスマスの綺麗な包装をされたお菓子が所狭しと置かれていて、傍にうさぎの着ぐるみのようなコートを着たロッタちゃんが眠っていた。復活祭にくるうさぎの格好をし、うさぎもサンタもいるんだと言わんばかりのロッタちゃん。そこへギリシャに向かうパシリスさんの車が通り過ぎていく。それを見送るロッタちゃんのカットで映画は終わる。
とにかく微笑ましいほどに楽しくて、たわいのない日常のたわいのない出来事の数々なのですが、夢溢れている空気感がとっても良くて、日頃さりげなく見ている景色をもう一度見直したくなってしまう映画だった。
「水平線」
悪い映画ではないし、出来もそこそこなのですが、いかんせんテーマが暗いですね。それでも、自分たちの考え方の別の視点を突きつけられた衝撃はかすかにありました。災害や犯罪をいつまでも風化させないことが正しいのかどうか、その勇気あるテーマに臨んだ姿勢は見事だと思います。監督は小林且弥。
福島県、散骨業の仕事をする井口真吾は、この日も旧友清一の船に乗せてもらい、依頼人の骨を海に流す用意をしている。遺族から預かった遺骨を細かく砕き固めて海に流すのが彼の仕事らしい。妻を東日本大震災で亡くし、娘奈生と大きな家で暮らす真吾は、毎日が後悔の日々だった。奈生は近くの水産加工所で働き、同僚でシングルマザーの河手と親しくしている。
ある日、松山といういかにも疲れた風貌の若者が散骨を依頼しにくる。真吾は、松山の書類が整っていなかったので遺骨だけ預かる。ところが後日一人のジャーナリスト風の男江田がやって来て、松山が預けた遺骨は横須賀連続殺傷事件の犯人のものだと告げる。そして、震災で遺族が亡くなっている海に殺人犯の骨を撒くことはどうかと問いかけてくる。真吾は無視するものの、江田は動画をアップしたり、殺傷事件の遺族を連れて来たりしてくる。以来、散骨の仕事がなくなり、奈生も職場で上司から注意されてしまう。地元の漁師も散骨による風評被害を恐れるようになる。
一方、河手がある日奈生に、三万円貸して欲しいと頼んでくる。アレルギーで苦しむ幼い息子を育てているのを知っていた奈生はなけなしの金を貸してやる。しかし、河手は時々仕事を休むようになる。奈生の同僚が、実は河手には子供などいないのではないかと言い、奈生は親友の沙帆と河手のアパートへ行く。しかしそこには幼い息子が留守番していた。奈生らが帰りかけると派手な音楽をかけた車が入れ違いに入ってくる。中から河手と若い男が出て来た。奈生は自身の考えに腹が立つが、そんなことで傷つく奈生は嫌いだと沙帆は言う。
真吾は江田に言われてとある工事現場へ向かっていた。あれから連絡がつかない松山がその現場で働いているのだと言う。真吾は遺骨を返却するべくやって来たのだが、必死で生きる松山を見て踵を返し帰っていく。真吾は遺骨を砕き散骨の準備をし、夜、車で外出する。江田が後を追うが、真吾は行きつけのスナックに行った風を装って親友に車を借りいつもの船の船長清一に無理を言って、船を借りて沖へ出る。そして殺人犯の遺骨を散骨してやる。
翌朝、漁業者らが真吾に詰め寄る。その帰り江田に引き止められた真吾は、風化させたくないと言う江田に、遺族らは悲しい思いを拭えず、早く風化させたいのだと言い返す。その言葉に江田は言葉が出なかった。真吾は溝ができた奈生を自宅に車で乗せて帰るが、奈生にこれまで頑張って来たことをねぎらい、自由に生きるように言う。そして、松山の散骨事件以来仕事が止まっていた散骨の作業場を開けて、依頼者の遺骨の処理を始める真吾の姿で映画は終わる。
テーマこそ暗いし、ジャーナリスト江田やSNSの使い方など一瞬嫌な雰囲気になりそうな映画だったが、描く視点は実に冷静で考えさせられる。一級品とは言えないかもしれないが、一見の値打ちはある映画だった。
「アバウト・ライフ 幸せの選択肢」
お話が面白くなりそうなのに、膨らみのないストーリー展開で、豪華キャストの割には、中身の薄っぺらい映画でした。監督はマイケル・ジェイコブス。
モノクロ画面での映画のワンシーンから物語は幕を開ける。感涙している一人の観客サム、それが気になる女性グレースは席を移動したサムの横に座る。二人は意気投合し、会話が弾んで、近くのモーテルに行きかけるが、居心地が悪く深夜レストランに行き、結局モーテルへ行くが気まずくなり散歩に出る。ここに高級ホテルのベッドで不倫を重ねて四ヶ月になるハワードとモニカ。モニカはセクシーな格好でハワードに迫るがハワードは話を逸せて、結局別れ話のようになってハワードは出ていく。友達の結婚式に出たミシェルはブーケを受け取る約束の場に立つが、受け取ったのは彼女の恋人のアレンで、二人は気まずくなり喧嘩別れしてしまう。
ミシェルは両親の実家に帰ってくる。なんと両親はハワードとグレース。一方アレンも実家に戻ってくるが両親はサムとモニカだった。ミシェルは恋人アレンとの経緯を両親に話し、アレンもミシェルとの経緯を両親に話す。そしてハワードとグレースはアレンとその両親を食事に招待することにする。
ハワードたちの家にやって来たサムたちは、あまりの偶然に驚きながらつきつ離れず奇妙な会話をしながらアレンとミシェルの結婚問題に触れ会話を繰り返す。ところがふとした会話から、サムとグレース、ハワードとモニカの関係がそれぞれにばれてしまう。ミシェルとアレンは両親がそんなこととは知らずにお互いの関係を修復する。ハワードやサムらもそれぞれの関係を理解したのか許したのか、クライマックスはアレンとミシェルの結婚式の場面、ハワードとグレースも定位置に、サムとモニカも定位置に立って、それなりに丸く収まって映画は終わる。
なんのウィットの効いた展開もない軽いタッチの古臭いアメリカンコメディという作品だった。もっと膨らませる才能があれば面白くなりんじゃないかと思ってしまう物足りない脚本という一本でした。