くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「マンティコア怪物」「異人たち」

マンティコア 怪物」

こういう映画かとサプライズで締めくくる作品だった。延々と繰り返す長回しと淡々と進むストーリーの背後に潜む謎を必死で追っていくと、結局、ただの異常性愛者の物語に唖然としてのエンディングは、確かに面白いが、それ以上でも以下でもなかった。監督はカルロス・ベルムト。

 

ゲームのクリーチャー制作をVRで行っている主人公フリアンのシーンから映画は幕を開ける。普段は自宅で仕事をし時々会社に出向き打ち合わせなどをする。この日もフリアンのデザインしたクリーチャーが好評で、あとは村人などの造形が必要だと言われる。

 

自宅で仕事をしていたフリアンは、助けを求める声に気がつく。向かいの部屋が火事で、中に少年がいるらしい。フリアンはドアを蹴破って少年クリスチャンを助け出す。異常はないが煙を吸ったので具合が悪くなったら病院へ行くように、と救急隊に言われる。その夜、気分が悪くなったフリアンは病院へ行くが、パニック症候群だからと安定剤を処方される。

 

フリアンはバーで女性をナンパしてベッドに入るが、うまくSEX出来なかった。後日会社の同僚サンドラのサプライズ誕生パーティでディアナという女性と知り合う。ディアナは寝たきりの父を介護しながら美術史を専攻している学生だった。フリアンは次第にディアナに興味を持ち付き合い始める。一方、フリアンは会社から貸与されたパソコンで自宅で少年のキャラクターを作ってみたりする。

 

しばらくしてフリアンは引っ越すことにし、クリスチャンらとも別れる。ディアナとは何度かデートを重ねるが、ある日、自宅のベッドでSEXをしていた際、ディアナの父が亡くなった知らせが届く。ディアナは自宅に帰り、葬儀の場にフリアンも出かける。ところがそれからフリアンの電話にディアナが出なくなる。一方会社の人事部長に呼ばれ、フリアンが自宅のパソコンで私的に少年のキャラクターを作っていたことがバレてパソコンを引き上げられる。

 

電話に出ないディアナに、フリアンは直接家に行くが、迎え入れたディアナは、少年の動画を見たと言い、もう会いたくないと別れを告げる。フリアンは、いたたまれなくなりクリスチャンの家を訪ねる。母が留守だというので言葉巧みに部屋に上がり、ココアに睡眠薬を入れてクリスチャンに飲ませる。フリアンはクリスチャンをベッドに運び悪戯しようとするが、クリスチャンの部屋に、体が虎で顔が人間の絵が貼られていて、フリアンと名付けられているのを見て思いとどまり窓から身を投げる。

 

フリアンは命は助かったものの脊髄を損傷し動けなくなっていた。ディアナが見舞いにくるようになり、自宅に戻ったフリアンは、ベッドでディアナに介護される姿で映画は終わり。

 

主人公の心の底にあった幼児性愛者の異常性が表に出てくる展開、不遇者を介護することにある意味快楽を覚えるディアナの異常性などがもっと寒々と恐ろしければ面白かったのですが、ちょっとゾクゾク感が物足りず、化け物のクリーチャーデザイナーという設定も、どこか異常に父親にこだわるディアナの行動も今ひとつ生きていないのが残念。面白い作品になりそうなのに勿体無い一本だった。

 

「異人たち」

全くの駄作というわけではないのだが、不必要なゲイ設定が物語を奇妙に汚してしまった感じで、山田太一原作などと大手を振るのはどうかと思える映画だった。監督はアンドリュー・ヘイ。

 

タワーマンションに暮らす主人公アダムが窓の外を眺めている場面から映画は幕を開ける。突然火災警報がなって外に飛び出すと、六階の部屋に灯りがついていて一人の男が見下ろしているのを見つける。部屋に戻ったアダムの部屋にハリーという男が突然訪ねてくる。そしてゲイだという。部屋に入れて欲しいというのを断ったアダムは奇妙な気分になる。そして、幼い頃に交通事故で亡くなった両親の写真を眺め、子供の頃を過ごした懐かしい家にやってくる。

 

ところが、家のそばの公園で父の姿を見かけた気がしたアダムは、かつての家にやって来るとなんと両親がいた。アダムを自然と受け入れ、三人で家族のようなひと時を過ごす。マンションに戻ったアダムは、エレベーターでハリーと出会い家に誘う。そしていつの間にか二人は体を合わせる。このマンションにはアダムとハリーしか住んでいないらしいという。

 

アダムは、再び実家を訪ねるが母しかいなかった。アダムは母に自分がゲイだと告白、母は戸惑いを隠せなかった。その後もアダムはハリーと逢瀬を繰り返す。後日、父一人の実家にやってきて、ゲイについての告白をする。アダムはハリーにも両親に会って欲しいと思い連れていくが、家に入れず、両親の姿だけを認めて帰ってきた。

 

後日、一人で両親のところに行ったハリーは、両親から、この家にやって来るのはやめた方が良いと言われ、最後に三人でショッピングモールに行き食事をする。即死だったかと両親に尋ねられたアダムは即死だったと答えるが、実は母は事故のあと数日病院で苦しんでいた。

 

両親とも別れたアダムはいたたまれなくなり、ハリーの部屋を訪ねるが、そこで浴室で一人死んでいるハリーを見つける。しかも死後かなり経っていた。浴室を出るとアダムの目の前にハリーがいた。誰も自分が死んだことに気がついてもらえず、孤独の中、あの日アダムの部屋に行ったのだという。アダムはハリーをベッドに誘い、自分が守るからと抱きしめて映画は終わる。

 

原作が非常にピュアなファンタジーだったので、いくら今どきとはいえゲイ設定を入れ込んで汚してしまうのはなんともいただけない。しかもゲイの二人はただのおっさんで美しさも何もないから余計に見栄えの悪い作品に仕上がった気がします。クライマックスの場面の交錯シーンや、幻想か現実か見紛うような演出は上手いと思いましたが、それが良かっただけに、余計に無駄な設定が残念でした。都会の大人の孤独を描いた一本という今どき映画だった。