「初姿丑松格子」
脚本と監督が良ければ、たわいない人情時代劇もここまで面白くなるかという典型的な傑作でした。登場人物の心の機微が染み入るように胸に伝わってきます。橋本忍らしいサスペンスフルな展開と構成、さらにしっかりとした画面作りと演技演出に引き込まれてしまいました。面白かったし、胸が熱くなってしまいました。監督は滝沢英輔。
狭い路地の溝が映され、ある長屋で起こった殺人事件を取り調べにきた岡っ引き常吉の姿から映画は幕を開ける。殺されたのは料理屋川竹の若旦那巳之助で、傍には老婆も死んでいた。常吉に尋問される浪人風の侍とチンピラ風の男は、この家に三両の金を貸していてその取り立てに来ただけだという。常吉は、犯人を川竹の料理人丑松だと目星をつけその行方を捜査し始める。
常吉は、この辺りの料理人の元締め四郎兵衛の家に丑松は行ったのではないかと立ち寄るが四郎兵衛はのらりくらりと拉致が開かず、常吉は、丑松が通っていた金子道場へ赴く。金子道場の主人は酒飲みでこの日も飲んだくれて道場に寝ていた。常吉が問い詰めたが、開き直った金子は、家探しでもなんでもしろと豪語したので、常吉はとりあえずその場を去る。
常吉が帰った後、金子は道場の裏に行く。そこには丑松が隠れていた。金子は丑松にことの次第を聞くことになる。こうしてこれまでの物語が語られる。
丑松は川竹の女中お米と親しくなり恋仲だった。しかしお米に気のある巳之助は、お米の母お熊に貸した三両の金の返済のかたにお米を貰い受ける証文を手にしていて、浪人風の男らを連れてお熊を責め立てていたがお熊は言い逃ればかりして取り合っていなかった。
やがて、四郎兵衛の取りなしもあり、丑松とお米は祝言をあげ、お熊の家の二階に住むようになる。ところが丑松は川竹を首になり、遠く離れた料理屋で働くようになる。そんな丑松をお米は毎晩待っていたが、ある夜、借金の取り立てに来た巳之助は手下の浪人らにはやされ、強引にお米を手に入れようとする。お米は必死で抵抗し、タンスに頭を打ち気を失う。
変事を聞いたお熊が階段を上がってきたので、巳之助はついお熊を突き落として殺してしまう。そんな時、丑松が帰ってくる。丑松はことの次第を見て、手にした出刃包丁で巳之助を刺し殺し、お米と逃亡、四郎兵衛の所へ逃げ、お米を四郎兵衛に預けて江戸を去ることにする。ことの次第を聞いた金子は、夜になってから江戸を出たほうがいいと進める。
丑松は江戸から離れた熊谷の旅宿で料理人になって過ごし始める。二年が経ち、丑松はお米に会うべく江戸に向かうが、途中の板橋で、弟分の裕次に呼び止められる。折下夕立で足止めされていた丑松はそのまま板橋の妓楼に上がり込む。裕次は一旦自宅に戻ると丑松を残すが、その際、一人の芸妓を手配していた。丑松のところにやってきた芸妓は身を落としたお米だった。
一旦は激怒した丑松だが気を取り直してお米にことの次第を聞く。どうやら四郎兵衛に執拗に迫られ、体を汚された末に女郎屋へ売られたのだという。一人部屋に戻った丑松に、妓楼の主人が、お米がここにきた経緯を説明する。最初は四郎兵衛はお米を大切にしていたが、次第に心が動き、ついお米を自分のものにしてしまった。それを知った四郎兵衛の妻お今は四郎兵衛を責め、四郎兵衛は背に腹は変えられずお米を妓楼に売り飛ばした。そしてお米は流れ流れて板橋にきたのだという。
お米は妓楼の主人が持ってきた三三九度の盃で丑松と酒を交わした後、身支度をすると部屋を出るが、庭で首を括って自害する。それを知った丑松は四郎兵衛に復讐するべく江戸に向かう。四郎兵衛の屋敷にきた丑松は、四郎兵衛が一番風呂に入りに行っているとお今に聞く。丑松が四郎兵衛を殺しにきたと知ったお今は丑松に身を任せて夫を守ろうとする。しかし、女の性に辟易とした丑松は、お今を刺し殺し風呂屋へ向かう。
丑松は風呂場にいる四郎兵衛の所へ忍び込み大乱闘の末四郎兵衛を刺し殺す。お今が殺された現場を見た常吉らも丑松を追い始める。丑松は瀕死の思いで金子道場へ転がり込む。金子は丑松を逃すが、常吉ら役人が追ってきた。丑松はなんとかお米の墓に辿り着き、墓に泣き崩れる。そこへ駆けつけた常吉らは丑松に縄をかけしょっぴいて行って映画は終わる。
単純な人情噺ではあるけれども、女に翻弄されていく主人公の生き様、さらに、どうしようもなく人生を転がり落ちていく女の姿、欲の絡んだ周辺の人々の心の機微が見事に描ききれている。一級品とまではいかないかもしれないが、非常に奥の深い厚みのある人情ドラマでした。いい映画でした。
人間のエゴと集団心理の恐怖という今更使い古されたテーマを残忍さと下品さで貫いた仕上がりの作品で、目を背けるほどに極端さがない分かえって韓国映画らしさが薄れてしまって毒が見えなくなったのはちょっと物足りなかった。主人公の存在が二つに分かれてぶれている上に、背景の人間ドラマが描ききれていないので作品としてものすごく薄っぺらく仕上がってしまった感じです。面白く作れるストーリーなのに、力不足が目立った映画だった。監督はオム・テファ。
アパート建設が相次いで、人々は快適なアパート暮らしに憧れているふうな映像から映画は幕を開ける。そして突然、沢山のアパートが立ち並ぶ場所が巨大な地殻変動で崩壊する様が描かれる。ミンソンとミョンファの若い夫婦はこの日、目覚めたものの、周囲のアパートが全て崩壊し、自分たちの住む棟だけが残ったことを知る。ソウルの気温はマイナスで、外にいることは死を意味する。ミンソンらはある親子を匿ってやるが、間も無く、アパート住民の中にサバイバルへの危機感の恐怖が起こり始める。
たまたま一軒の部屋が火事になり、その火事を身をもって消化したヨンタクという男がいた。居合わせたミンソンとヨンタクで消火したが、このアパートの婦人会会長の女は、人々の混乱をおさめるために声を上げ始め、主だった人々の中でリーダーの必要が叫ばれる。そして、危険を顧みず消化活動したヨンタクがリーダーに指名される。ヨンタクは目立たない男だったが、リーダーとして活動し始める中、次第にそれらしく振る舞うようになる。
このアパートの外の人々も中に入れて欲しいと迫ってくるが、ヨンタクは必死で追い返したことからすっかり住民の信頼を得て、ミンソンを右腕に、まず自分たちのアパートの住民以外を追い出してしまう。ミンソンらが匿っていた親子も追い出すことになり、ミョンファは疑問を感じ始める。ミンソンはかつて、大災害の際に一人の女性を助けられず逃げた過去があり罪悪感を持っていた。
ヨンタクは次第に独裁者の如く住民を支配するようになり、ミンソンら住民も強引に自分たちのアパートを守ろうと狂気的になっていく。ところが、ヨンタクの隣に住んでいたへウォンが戻ってきたことから状況は変わってしまう。ヨンタクというのは実は本名はセボンと言って、本物のヨンタクの部屋を買ったが騙されていて金だけ取られていた。そのことでヨンタクの家に来たセボンは、揉み合ううちにヨンタクを殺してしまい、自分がヨンタクになりすましてここの住民になっていた。
へウォンから真実を知ったミョンファは、偽ヨンタクの留守に部屋に入り、本物のヨンタクの死体を発見する。折しも、食料調達に行っていた偽ヨンタクら一行は、外の住民に反撃を喰らって這々の体で帰ってくる。ミョンファは人々の前で偽ヨンタクの化けの皮を剥がすが、偽ヨンタクは逆上してへウォンを突き落として殺してしまう。そこへ、以前から反感を持っていた外部アパートの住民が押しかけ、ヨンタクらは追いやられてしまう。その争いの中でミンソンは大怪我を負う。偽ヨンタクは、自室に逃げ込むがすでに瀕死の状態だった。
なんとか脱出したミンソンとミョンファだが、翌朝ミョンファは冷たくなったミンソンを知る。ミョンファは通りかかった数人の人々に連れられ、崩壊したアパートの部屋に行く。その人々は、ミョンファらのアパートでは人を殺して食べていたのかと聞くがミョンファは、普通の人たちでしたと答えて映画は終わる。
ミンソンら若夫婦とヨンタクの二つの主人公のように描かれ。どちらにも焦点が定まっていない上に、それぞれの過去のドラマが本筋にほとんど反映してこない。さらに、脇役が全て使い捨てられていて、映画全体の膨らみに貢献しない。ゾンビ映画で何度も使い古されたサバイバルテーマをうまく韓国調に翻案しようとしたのだろうがどれも中途半端に終わっていた。残念な一本でした。