くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ブラック・ブレッド」「少年は残酷な弓を射る」

ブラック・ブレッド

「ブラック・ブレッド」
どういう風に切り口を求めたらいいのかわかりにくい映画だった。結局、勉強もできて純粋だった主人公の少年アンドレウがある殺人事件で友人の少年が死んだことから次第にその事件の背後に潜む様々な大人の世界の醜い現実が見えてくるというというのを描いたのだろうと思います。

もやっとしたタイトルがゆがんで車輪の回るショットに画面が変わって映画が始まる。そして馬車が走るところへ一人の男が駆け寄りその御者で馬車の中で眠る少年の父をなぐり殺しそのまま馬車を崖の下へつき落とす。その落ちたところで主人公アンドレアが発見、友人の少年が瀕死の姿で横たわり、鳥の名前を告げる。それは洞窟にすむ化け物のことらしいが、それはともかくアンドレアは母の元に戻り馬車の事故を報告。ところが、この事件を殺人と判断した警察がアンドレウの父ファリオルを犯人として逮捕してしまう。

祖母の家に身を寄せたアンドレウ。その家には手首のないいとこのヌリアがいて、いつのまにか二人は仲良しになっていく。これで物語はこの二人を中心に進むかと思われたが、父を助けるために母が村の権力者のところで体を与えたり、金持ちの夫人に媚びを売ったりという物語が語られていく。

父は無実と信じるアンドレウの前に、かつて父がかかわった事件が見えてきて、その発端から今回の事件に発展していった様が物語の表にでてくると、一方でアンドレウとヌリアの物語は脇になり、といってアンドレウとファリオルの親子の確執も今一つストーリーの牽引にはならずに、今まで見えなかった尊敬する父の姿が崩れ始め、母の姿にも疑念が生まれアンドレウは次第に自分のいきるすべが曖昧になってくる。

そこへ森で裸で飛び回る青年が登場し、なぜか彼は病気で近づいてはいけないといわれるし、最後にアンドレウが頼っていってももうすぐ羽を広げていってしまうといったりとアンドレウにより所になるものが次々と離れていく。

結局、金持ちの夫人の養子になり大学へ行かせてもらう。母が面会にきても冷たくあしらい、帰っていく後ろ姿をガラス越しにみるアンドレウは息でガラスを曇らせて彼女の姿を視線からけしてしまってエンディングになる。

ヌリアが提案した村をでることも結局拒み、すべてを信じられなくなって自分だけを信じることを決めたアンドレウの不安定な視線をとらえるクローズアップがこの作品を最後まで引っ張っていく展開となった。

全体に一本筋を通したストーリーにしていないこと、それを意図したとはいえメッセージが見えにくく混沌としてしまった展開が作品全体をもやに包んだようにしてしまった。これが目的だったかもしれないが不思議な作品だったと思います。時代が1940年代のスペインという設定がどこにも語られないので解説がないと?になるところでした。

一人の少年が、大人の現実を目の当たりにし、すべてを信じずに自分だけを信じることを決意し自立することにした物語、ミステリードラマという形を取っていますが謎解きよりもシリアスな人間ドラマだった気がしました。


少年は残酷な弓を射る
ある意味のめりこんでしまい癖になるような恐怖と緊張感が漂う独創的なサスペンス映画と表現したらよいのだろうか。不気味なくらいに嫌悪感と緊張感が全編を覆った唯一無二の作品に出会いました。

映像が研ぎすまされたほどに繊細で緻密。そしてカットの組立が現代と過去、空間を前後に繰り返すのですがその切り替えしも並の編集ではない。このリズムはどこからくるのか、このカットとカットのつなぎのセンスはどこからくるのか。そんな疑問にとらわれているうちに物語はどんどん先に、いや行きつ戻りつしながらストーリーとして一つにまとまってくる。そして、一見そのシーンとは全く関係がないように流れるバック音楽のオリジナリティにもこの作品の独特のリズムの源泉がみえる。

さらに、主人公エヴァを演じたティルダ・スウィントンのクールでヒステリックな感情が押し込められたような一触即発の冷静な姿と息子ケヴィンを演じたエズラ・ミラーのゾクゾクするような背筋が寒くなる冷めた存在感が生み出す緊張感もこの作品のムードを二倍三倍にも増幅している。

演技陣の存在感とリン・ラムジー監督の感性、さらにレディオ・ヘッドとジョニー・グリーンウッドの生み出す音楽が見事にコラボレートした身の毛も凍るような傑作だったのかもしれません。

真っ白なカーテンが風に揺れている。カットが変わると半裸の男女がトマトか何か赤いものにまみれたお祭りの群衆を真上からとらえる。とても人の頭に見えないカメラアングルがこの作品の物語の先行きを語るようである。そしてその中で二人の男女が牽かれあうようなシーン。エヴァと未来の夫フランクリンである。そして一人の女性が目覚める。主人公エヴァであるが、外にでると家は真っ赤なペンキをかけられ、乗るはずの車もペンキまみれ。なぜか、近所の人々は彼女をミセスKと呼ぶ。

映画は彼女が家のペンキを落とす時間と平行して、ここに至るまでの彼女を時に過去に、時に現代に映しながら時間を前後させて描いていく。一つ一つの映像演出が実にテクニカルでそのシャープな映像にクールな幼いケヴィンが登場するという導入部は一気にゾクッとこの物語に引き込まれてしまう。

生まれてすぐのケヴィンはことあるごとに泣くばかりでエヴァを悩ませ、少し大きくなってもいつまでもおむつがとれない。しかもことあるごとにエヴァをにらみつける視線があまりに冷たい。尋常を越えた知能がなせる異常な行動にしか見えない。このあたり、子役を使っているにも関わらずすばらしいシーンが連続する。

知能が高すぎる狂った子供の物語のように進むがおもちゃの弓を買ったところから少年に、そして青年に時間が流れる。その中で微妙にエヴァがケヴィンを適当にいなしているように接していく姿は演技として見事というほかない。

一方、残忍な本性を隠していることに夫が全く気がつかないという好対象な演出を施すわけではなく、あくまで妻エヴァに優しい姿を見せるというのもストーリーが薄っぺらくならなくて良かったと思う。

しかし、妹が生まれ、彼女がなぜか左目を無くす事故?がおこり、エヴァと夫は最後の決断に向かう。全体に必要以上に背つめ宇するようなカットを挿入せず極限まで省略した脚本も見事である。

ところが夫婦の破綻を待つ前にケヴィンは洋弓を手に学校で乱射事件を起こし警察に捕まる。それをみたエヴァが家に戻ると夫フランクリンと娘セリアはケヴィンの矢に倒れている。風に揺れる白いカーテンの先にその光景をみるエヴァ

そして現代。ペンキが拭われて美しくなった家を後にケヴィンがいる留置所へ向かうエヴァ。そして、16歳で事件を起こしたケヴィンもすでに18歳。大人の刑務所に移ることになる。そして、「なにもかもわかっていたつもりだったが今は違う」と母エヴァにつぶやいたケヴィンをエヴァが抱きしめる。

ひとり、留置所の廊下を歩くエヴァは真っ白な光の中外へでてエンディング。

ラストシーンまでとにかく極度の緊張感が漂い、サスペンスフルな不気味さに終始していたにもかかわらず丸坊主になったケヴィンを抱きしめるエヴァのシーンがなぜか熱い感動に変わる。いったい、このケヴィンの真に求めていたものは、方法は異常ながら母の愛ではなかったのか。そして、廊下を歩くエヴァをとらえるシーンをみているうちに、母というものの恐ろしいほどの力強さが強烈な波動になって響いてくるのである。いったいこれは何なのだろう。そう思っているうちに映画はエンドタイトルとなる。

もしかすると恐ろしいほどの傑作だったのか?手放しでそんな言葉で感想を書きたくないような至上の映像表現に出会ったような気がしました。