くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「僕たちのラストステージ」「愛がなんだ」「ハンターキラー 潜行せよ」

「僕たちのラストステージ」

「ライムライト」以来の感動という感じの、コメディアン物の秀作。とにかく人生の機微がグイグイと心に迫ってきます。こんな相棒に恵まれたら人生は素晴らしいだろうなと胸が熱くなってしまった。監督はジョン・S・ベアード。

 

1937年、コメディ映画の大スターローレル&ハーディの全盛期から映画が始まる。次々と映画出演し、その人気はチャップリンに迫るものがあったが、スタン・ローレルとオリバー・ハーディは、ギャラの問題もあり、わずかなトラブルもあったものの、コンビは続いた。この辺りの描き方がやや弱いものの物語は16年後に移る。

 

2人もすでに高齢となり映画の話もなくなっていた。スタンが、近々映画出演ができそうだという話をする中で、2人はイギリスへ渡る。そして舞台出演の仕事を始めるが、最初は客入りも芳しくない。しかしやがて2人の人気が浸透し始め、満席が続くようになり、それぞれの妻も迎えることになるが、もともと持病のあったオリバーはある時倒れてしまう。

 

そして医者の勧めもあり引退を決意、スタンは新たなコメディアンと再出発しようとするが、オリバーの影がちらつき、開演直前でキャンセルしてしまう。

 

そしてアメリカに帰る決意をして荷造りするオリバーの元を訪れ、2人でアイルランドへ向かう。もちろん妻も同伴である。

 

そして、最後の舞台を演じ大歓声の中映画は終わる。ラストステージで今にも倒れそうなオリバーが必死でスタンと踊るシーンが素晴らしいし、船上で2人が座って語るショットも感動。それぞれの妻が、ヒヤヒヤしながらも見守る姿も素敵。

 

喧嘩しても周囲からあれはコントなのだと思われる切ないシーンを絶妙のタイミングで挿入。二人の歩んできた人生の素晴らしさに胸が締め付けられるほど感動してしまいました。久しぶりにこの手の秀作に出会った感じです。

 

「愛がなんだ」

のらりくらりと展開するドラマで、やたら長く感じたのですが、全体の作品としては一つにまとまっていたかなと思います。岸井ゆきのが好みのタイプで可愛いので最後まで見れた感じです。監督は今泉力哉

 

自宅に戻ったテルコにマモルから電話が入るところから映画が始まる。体調を崩して出られないので、まだ職場なら帰りに食べ物を届けて欲しいという。すでに帰宅していたがマモルのことが好きなテルコはいそいそと食材を買ってマモルの部屋へ。そして看病の後風呂掃除やらを始めるが、マモルに追い出されるように帰らされる。

 

マモルとは友達の友達の結婚の二次会で知り合い、恋人ではないものの、時々会うようになっている。テルコはマモルにぞっこんで、マモル中心の生活をしているが、マモルはそんなテルコが鬱陶しい。

 

ある時、テルコがマモルに呼ばれて出かけると、そこにすみれといういかにもすれっからしたような自由な女がいた。どうやらマモルはすみれが好きなようで、事あるごとに一緒に行動を始める。

 

テルコには葉子やナカハラという友達がいて何かにつけて、葉子の家で食べたり飲んだりしている。物語はテルコを中心に、周りの人たちとのダラダラした物語を描いていくが、中心にはテルコのマモルへの想いということのようだが、言葉やシーンのそれぞれがオブラートに包まれたままに展開していくので、まさにのらりくらりだ。

 

ラストも、マモルとテルコが、どこか冷めたような関係になって、でもなぜか、ここまでの登場人物のつながりは切れたわけでもなく、これからもダラダラ続く感じで終わる。駄作とは言わないまでも、よく掴めない映画だった。

 

「ハンターキラー 潜行せよ」

久しぶりに米露の対決という懐かしい設定を見ました。やはりこの構図は面白いですね。古き良きバトルアクションという感じで、先が読めるストーリー展開ですが、ハラハラドキドキだけを素直に楽しみました。監督はドノバン・マーシュ。

 

ロシア近海の深海、一隻の潜水艦が通り過ぎ、その後ろにアメリカの潜水艦が続く。突然、前方のロシア艦の後部が爆発、それに対応したアメリカ艦に頭上から魚雷が来て一瞬で沈む。

 

アメリカ軍部では、行方不明の潜水艦探索のためアーカンソーが派遣される。艦長に抜擢されたのはジョー。しかし、この作品、この人物の人間ドラマの描写に重点を置いていない。

 

一方、アメリカ側はロシア内部の情勢を探るため特殊部隊を派遣する。そして目撃したのはロシアの軍事大臣のクーデターであることがわかる。さらにロシア大統領も拉致される事態となっていた。

 

また、アーカンソーは沈んだロシアの潜水艦から船長らを救出、ロシア海域深部に潜行するため力を借りることになる。そして、特殊部隊と協力してロシア大統領救出の作戦に加わる。あとは戦争アクションである。

 

危機また危機の後、ロシア大統領を救出。米露の戦争も回避されてハッピーエンド。なんか、一昔前はこういう構図がしょっちゅうあった気がするので妙に懐かしかった。

映画感想「マローボーン家の掟」「シャザム!」

「マローボーン家の掟」

もっと薄っぺらいホラーサスペンスかと思ったら、意外にしっかりと書き上げられた脚本だったのに驚いたし、種明かしもほとんど終盤まで気がつかないほど途中のフェイクが効いていた。監督はセルビオ・B・サンチェス。

 

あり豪邸に家族がやってくる。両親が離婚して母方の性マローボーンになったということらしく。母の言葉では、未来が明るくなったようである。ジャック、ビリー、ジェーン、サムの四人の子供たちは愛する母と幸せに暮らし始める。

 

ところが、ジェーンが部屋でくつろいでいると突然銃声と窓に銃弾の跡が。思わず悲鳴をあげる。庭には誰やら男がいた。そして六ヶ月後、心労がこたえて母は死んで、子供達だけで生活をしている。

 

冷静な長男ジャック、気の強い次男のビリー、優しいジェーン、末っ子のサムは、家中の鏡に覆いをして暮らしている。多いが撮れると何か化け物がくるという。屋根裏のち付く部屋の入り口はレンガで固められ、なぜか屋根裏に何かがいる気配がする。こうしてホラー仕立てで物語が進む。

 

ジャックは間も無くアリーという恋人ができ、愛し合うようになる。アリーに想いを寄せるトムという弁護士が何かにつけてジャックたちを探り始める。

 

母が死んだことを隠し、ジェーンが母のサインを真似て家の権利の書類を手に入れたり、なにやら大金を隠していたり、どんどん謎が深まる。

 

どうやら父親は、野獣のような化け物で、父から家族は逃げたのだが、捕まったはずの父は脱走して家族の元に現れたらしい。そして、どうやったかわからないが屋根裏に閉じ込め、餓死させたようだが、実は生きているらしい気配がする。

 

時折、気を失って倒れるジャック。ジェーンはそんなジャックを助けるため、アリーに全てを告白するノートを託す。そこにはこの六ヶ月に起こった恐怖が書かれていた。

 

せっかく安住の地に来た家族に父に魔の手が迫り、ジャックが一人立ち向かうが、父に襲われる。そして気を失っている好きに、家にやってきた父はビリーたちを襲ったのだ。慌てて戻ったジャックは、弟たちを助けられなかったことを悔いて銃を口にくわえるが、その時、避難場所という部屋の一角に弟たちの気配を感じる。彼らは無事だったのだ。

 

アリーはノートをそこまで読んで、家にやってくる。その前にトムが屋根裏部屋の壁をやぶり、入り込んで、父とあって襲われていた。アリーは避難場所の中に入っていくと、なんとジャックが弟たちにふりをして一人で喋っていた。彼は多重人格だった。弟たちはすでに殺され、ジャックが自殺しそうになったので、ビリーたちが蘇っていたのだ。

 

屋根裏の気配が気になり一人アリーは屋根裏へ。そこで、トムが殺されていて、ジャックの弟たちの死体もあった。そして、父がアリーに迫る。あわやのところでジャックが駆けつけ、銃で父を撃ち殺す。

 

アリーはジャックと暮らすことになり、ジャックの多重人格の地長のための薬を持ち帰り、ジャックと幸せそうに暮らすシーンでエンディング。

 

鏡が、多重人格の伏線なのだが屋根裏のち不気味な存在が、フェイクになってみごとにミスリードされた。今異変は実にうまい。全体に仕上がりがしっかりしているには、脚本家出身の監督ならではでしょう。掘り出し物でした。

 

「シャザム!」

この手のシリーズも趣向を変えて色々くるものの、これと言って目新しいものはない。今回もそんな一本でした。今さら、できの悪いヒーローものも目新しさもない。悪役も普通。監督はデビッド・F・サンドバーグ

 

兄弟と父が夜のドライブ中。どうやら弟は父からも兄からも見下げられている。突然、その弟が魔法使いの前に呼び出されたのだが、勇者に値せずと送り返され、そのあと事故に遭う。そして何年かして、主人公ビリーの物語へ。

 

孤児で里親を転々とするビリーが今回たどり着いたのは沢山の里子を預かる家。そこで、足の悪いフレディと親しくなる。ある時魔法使いに呼ばれ、シャダム!の掛け声で、ヒーローになる力を与えられる。しかし、そもそも子供なので、やることがガキ。

 

そんな彼の前に、かつて魔法使いに追い返された少年が大人になり、嫉妬に狂うシヴァナ博士となって悪の力を身につけ、ビリーの前に現れる。そしてビリーが身につけた力を奪おうとするのが本編。

 

まぁダメヒーローものも今さら目新しくないし、悪役もこれという斬新さもない。結局悪者は倒され、ハッピーエンドとよくある展開で終わる。まぁ、楽しんだというより、とりあえず消化した感じでした。

映画感想「多十郎殉愛記」「藤十郎の恋」「浅草の夜」

「多十郎殉愛記」

すでに時代劇をまともに作ることはできないようです。メインキャスト以外は、殺陣はできるが演技はど素人というレベルの役者を配置して、脚本も弱いので、登場人物が生きていないし、どうしようもない出来栄えでした。監督は中島貞夫

 

時は幕末、居酒屋の用心棒をして暮らす多十郎は、長州を脱藩したものの、剣の腕も見込まれたひとかどの人物だったが、何があったか今のようになっている。

 

尊王攘夷の浪人たちを狩る新撰組らが京都を徘徊、さらに脱藩者を取り締まる薩長藩らが多十郎の存在を知り、討とうとするが、いかんせん、腕が立つ。とまあ、主な物語はこうなのだが、密かに惚れるおとよの存在、多十郎の弟の存在など、雑多な脇の物語がかぶっていく。

 

結局、多十郎は討ち取られ、儚い結末となるのだが、なんとも弱い。特に周辺の脇役がほとんど演技ど素人臭く、見てられなかった。いくら中島貞夫とはいえ、今や時代劇を撮れる土壌はないのだということの証明のような映画だった。

 

藤十郎の恋」

えらく良かった。それほど期待もしてなかったが、これが日本映画の底力と言いたい傑作でした。長谷川一夫も素晴らしいが、いつもと違う京マチ子も絶品。監督は森一生

 

京都、一代の名優坂田藤十郎の全盛期に物語が始まる。ここに江戸から看板役者が興行で乗り込んでくる。そして、坂田藤十郎の人気を取るほどの成功を収めるに至り、藤十郎近松門左衛門に新しい演目を要求する。そしてでてきたのは、当時流行り始めた不義密通を題材にした一本。

 

今まで演じたことのない演目に苦悩する藤十郎は、谷町としてささえてくれているお梶に偽りで言い寄り、不義の心情の演出の手本としてしまう。

 

そして初日、藤十郎の舞台は大成功、それを見ていたお梶は、その芝居が、自分と藤十郎のいっときの出来事そのままであることを知り、その場で自害して果てる。

 

藤十郎は、お梶への思いから芝居をしないと一時は断言するが、近松の一言で鬼となり、第二幕を演じて映画が終わる。まさに鬼気迫るクライマックスの素晴らしさ、歌舞伎舞台と楽屋の空間演出の見事さ、抜きん出たカメラアングルに圧倒されます。

見事というほかない一本。素晴らしかったです。

 

「浅草の夜」

物語を詰め込んだ感じの一本で、よく考えるとツッコミどころ満載ですが、ありきたりに展開しない適当さは映画を楽しむ意味では面白かったです。監督は島耕二。

 

浅草、一人の少年が川に落ちているラッパを拾おうとしてボートが走り去り、悪態を吐くところから映画が始まる。そこへやってきたには近くの芝居小屋の脚本家の山浦。物語はこの芝居小屋からスタート。

 

ここのダンサー節子と山浦はいい仲だが、節子には妹の波江がいる。波江は若手の画家と恋仲だが節子は大反対している。理由は終盤でわかるが、画家の父親は元節子たちの父親で、幼い頃捨てられた恨みがある。

 

若い画家は養子なので波江との結婚は大丈夫だが、この地のヤクザの三代目が波江にちょっかいを出していて、それがまたこじれる。

 

とまあ、二重三重の物語が絡み合って、なんとか収まるところに収まったようで映画が終わる。かなり雑ですが、映画全盛期の一本という風情が漂う楽しい映画でした。

映画感想「踊子」「ビューティフル・ボーイ」

「踊子」

たわいのない話なのに、どうしてこんなに胸に迫ってくるのだろう。やはり物語の厚みがあるからだろう。一見、よくある痴話話なのに、さりげない当時の世相や人々の心の機微が見事にスクリーンから伝わってくるのです。監督は清水宏

 

浅草で踊り子をしている花枝とそこでバイオリン演奏をしている夫の山野が安アパートで目を覚ますところから映画が始まる。花枝は今日は休むという。というのも金沢から妹の千代美が上京してくると知らせが来たのだ。

 

田舎でバスガイドをしていた千代美はいかにも当時としては現代的な女の子で、花枝の舞台小屋を見に行って、ダンサーになると言い出す。花枝、山野のアパートで寝泊まりするようになる千代美は、なるべくして山野と懇ろになる一方演出の男とも関係を持つ。

 

やがて千代美は妊娠、山野の子供だというが程なくして花枝にバレることになる。普通ならここからドロドロのいがみ合いというところだが、子供ができない花枝は、自分が育てるという。この辺りの割り切りや、当時の人々の考えが、この展開に見事に出ている。一方山野は詫びれることなく素直に花枝に謝り、夫婦仲は壊れることもない。

 

しかし、ダンサーに飽きた千代美は今度は芸者になると言い出し、赤ん坊を花枝らに任せて芸者の道を目指す。そして根っからの男好きで複数の旦那を持つようになる。

 

そんな時、演出の男から、千代美の子供のことを言われた山野はその男を殴ってしまう。そして、山野や花枝はここで暮らすことに飽きてきたから田舎に帰ることにする。

 

金沢で子供たちを遊ばして保母の仕事をしている花枝のところに千代美がやってくる。芸者もやめたのだが、汽車に乗ると思わずここにきたのだという。自分の娘を遠目に見て花枝の元を離れる千代美。時の流れ、人生の機微が、たまらなく胸を打つ。今時の薄っぺらなドラマと根本的に違う素晴らしい一本でした。

 

「ビューティフル・ボーイ」

薬物依存に溺れた若者の更生の物語で、またいつもの感じの作品かと思われたが、意外に重い仕上がりのしっかりした映画でした。主演のスティーブ・カレルが引っ張ったと追う感じでもありますし、ニックを演じたティモシー・シャラメの依存状態とシラフの時を見せる演技も見事だった。監督はフェリックス・バン・ヒュルーニンゲン。

 

主人公ニックが相談している場面から映画が始まり。息子のニックが薬物依存で、克服したかと思えば元に戻るのを繰り返している。しかも、最悪のドラッグに手を出し、どうしようもなくなっているのだという。そして物語は一年前に戻る。

 

子供の頃から仲の良いニックとデビッドの姿が交互に描かれ、一方で薬物依存を繰り返すニックの今の姿が挿入される。デビッドは以前の妻ヴィッキーと別れ、今はカレンという新しい妻と幼い二人の子供と暮らしている。ニックもカレンたちとも仲がいいのだが、いかんせんドラッグ依存から抜け出せず苦悶している。

 

デビッドは、そんなニックを必死で支え、何事にも優先してその克服に努力している。物語は、ニックの更生に必死になるデビッドと、なんとか克服しようとするが、いつも挫折するニックの姿が痛々しいほどな悲壮感で描かれていく。

 

そしてとうとう、ニックの助けの電話を無下に断るデビッド。そして、ニックは半ば自殺せんほどの薬物を摂取し病院に担ぎ込まれる。デビッドも駆けつけ、再び二人でベンチに座る姿でエンディング。テロップで、ニックは8年以上シラフのままだと書かれる。

 

薬物依存を病気という観点で捉えた作品ですが、過去と現在を巧みに編集した映像のテンポが実に良い。映画としての出来栄えも評価できる一本でした。

映画感想「荒野にて」「私の20世紀」(4Kレストア版)

「荒野にて」

甘ったれた少年の逃げ回る映画という感じで、成長するわけでもなく、何かを求めるわけでもなく、ただうじうじとする姿を見せられる一本。監督はアンドリュー・ヘイ。

 

主人公チャーリーは、父と暮らしている。近くで競走馬を育てているデルのところでリーンオンピートという馬を任せられ調教を始める。最初は好成績で優勝していたが、デルが酷使するので、どんどん成績が落ちていく。

 

そんな時、チャーリーの父が、恋人リンの夫に襲われ重傷を負ってしまう。そして、とうとう病院で亡くなる。一方馬のピートも成績が振るわずデルは売ってしまうことを決意する。

 

チャーリーは馬を連れて車で逃げ、ワイオミングの叔母の家を目指すことのする。じゃあ、お父さんの遺体や葬儀はどうするのかということだが、それは置いといて、荒野をさまようチャーリーとピートだが、金もなくどん底になっていく。そして、バイクに怯えたピートは暴れて車に引かれ死んでしまう。

 

チャーリーはピートの遺骸をおいてまたまた逃げ出す。そしてホームレスのようになりながら、叔母の家を目指す。

 

そしてとうとう叔母に出会い、一緒に暮らすことになってエンディング。これって、最初からすんなり叔母の元へ行けばよかったんじゃないかという展開である。とまあそんな映画だった。

 

「私の20世紀」(4Kレストア版)

デビュー作ということで、ちょっと前衛的な映像演出が見られるけれど、まるで一昔前のサイレント映画のごとき絵作りが、レトロな雰囲気の中にファンタジックな色合いを見せていて楽しい映画でした。モノクロームの美しい影絵の世界も素敵な一本。 監督はイルディコー・エニェデイ。

 

時は20世紀が開けようとする年。エジソンの電気の発明に人々が歓喜の声を上げて映画は幕を開ける。ここに一人の母がリリとドーラという双子の娘を産み落とす。そしてなぜか二人は孤児となり、寒い冬に公園でマッチを売っている。まるで童話のような物語のスタート。二人はそれぞれ別々の男に連れ去られ、別れ別れになる。

 

台詞があるようでないサイレント映画のようなやりとりと、星空を捉えるファンタジーのようなカットが挿入され、場面はオリエント急行の中へ。美しい娘となったドーラは、いかにも裏社会にいるような狡猾な笑みを浮かべながら男たちと談笑している。もう一人の娘リリは、どこか芯の強い娘となって、しかし、清楚な雰囲気を漂わせている。

 

二人はブタベストで降りるが、ここに一人の男Zが二人を同じ人物だと勘違いし、恋をしてしまう。いたるところに20世紀に入っての変化の出来事が挿入され、男女の性意識や婦人参政権、映画の発明などの場面がおとぎ話のように描かれて、その中でリリとドーラの物語が繰り返される。

 

やがて、エジソンは無線を発明し、その実験の場へ物語は進んでいく。世界が無線で結ばれて時間も空間も飛躍的に小さくなっていく。それまでの通信手段だった伝書鳩が恨めしそうに窓に止まる。

 

そして映像はどんどん遡って、リリとドーラが生まれた瞬間に戻って映画が終わる。ミラーを使った双子とZという男のくだりや、大胆なSEXシーンなども交え、まるで未来SFのようなハイテクな映像なども飛び出す自由奔放な画面作りで、非常に面白い作品に仕上がっていると思います。

 

モノクロームの美しい光と影がオリジナリティあふれる作品として仕上げられた一本でした。

映画感想「魂のゆくえ」「孤独なふりした世界で」

「魂のゆくえ」

なんとも陰気な映画だった。環境破壊に苦悩する主人公の物語なのですが、そこに神への疑問が絡んでくるとなんとも言えない暗い物語になる。監督はポール・シュレーダー

 

250年の歴史がある教会の正面からカメラが寄っていく。中で説教しているのは、トラー牧師。ミサの後一人の女性メアリーが、夫に会ってくれと声をかけてくる。

 

メアリーは妊娠したのだが、地球の環境破壊に苦しむ夫のマイケルが、こんな世の中に生み落すのは罪ではないかと苦しんでいるというのだ。

 

トラーはマイケルに会い、説得をし、理解されたかと思ったが、後日マイケルから連絡があり、待ち合わせの場所に行ってみると、マイケルは頭部を銃で撃って死んでいた。

 

さらに、トラー牧師の上部団体の教会組織は、資本と手を組んでの活動をしていて、そのことも疑問に思っていた。

 

一方体の具合も良くないトラーは、どんどんうつ状態に陥っていく。そんな彼に時折顔を見せるメアリー。そしてある日、メアリーの提案で悩めるトラーに体を重ね二人は浮遊して、シュールな世界へ映像は流れる。

 

やがて教会の式典の日、トラーはかつてマイケルが用意していた自爆ジャケットを身につけて臨もうとするが、すんでのところでやめて、有刺鉄線を体に巻き、有毒な洗剤を飲もうとする。しかしそこに現れたのがメアリーで、二人は抱き合い、キスをして一気に画面が閉じる。

 

全体がベルイマンの「冬の光」を思わせるような映画だった、いやそれ以外にも過去の名作が絡んでいるように思うのですが、知識が追いつかない。ポール・シュレーダーが描かんとして、映像表現の世界は、さすがに知的な仕上がりを見せたように思いますが、キリスト教のことも含め様々な知識があってこそ理解できる一本という感じでした。

 

「孤独なふりした世界で」

なんともつかみどころのないSF映画という一本でした。エル・ファニングが出ているというだけで見に行った作品ですが、さすがにつかまえどころがなかった。監督はリード・モラーノ。

 

廃墟の街をカメラが這うように捉えて映画が始まる。小人の男デルが一軒の家に入り、死体をかたずけ、掃除をして、電池などを手に入れて出てくる。どうやら人類が死滅しているらしく、一人生活をしているようだ。

 

ある時、車の事故を目撃、中にいたグレースという女性を助ける。二人の生活が始まるが、ある朝、デルが目をさますと、見ず知らずの夫婦がいた。グレースを娘だといい、自分らの住むところには大勢の人間がいるから来いという。しかしデルは行かず、グレースは連れ去られるように去っていく。

 

デルはその夫婦が残した住所に向かう決心をする。そしてたどり着いた街には大勢の人類がいた。目指す住所にやってきたデルはそこで、なにやら薬を点滴されているグレースを発見助け出す。そこへ出てきた男は、人類から憎しみや悲しみの感情を取り除くことをしているのだという。

 

その男を撃ち殺し、デルとグレースは帰っていってエンディング。あの街には感情を持たない幸せそうな人々の姿があった。とまあ、そんな映画ですが、今ひとつ秀でた何かがない作品で、本当にエル・ファニングのみ目当ての映画でした。

映画感想「ザ・バニシング 消失」「ハロウイン」(デビッド・ゴードン・グリーン監督版)

「ザ・バニシング 消失」

キューブリックが、史上最高の恐怖といったらしいサイコサスペンスを見る。のだが、全然怖くない。中盤を超えても胸に迫ってくる恐怖も緊張感もなかった。監督はジョルジュ・シュルイツァー。

 

レックスとサスキアのカップルがオランダからフランスへのドライブをしている。何かにつけ喧嘩しそうになるが仲直りして終わるのを繰り返す。トンネルの中でガス欠になった後も、何事もなく元どおりドライブを続ける。ここに何か謎がありそうだ。

 

一方で、レイモンという男の家族が描かれる。大学の教授らしいレイモンは、村はずれにのどかな山荘を購入した。ほのぼのした家族。

 

レックスたちがガソリンスタンドに着く。ガソリンを入れ、サスキアはドラッグストアへちょっとしたものを買いに行く。一方ここにレイモンいる。車の中で、嘘のギブスを手につけて、なにやら怪しい。

 

しばらくしても戻らないサスキアを探しに、レックスはドラッグストアへ行くがいない。やがてパニックになって探すが見つからない。

 

そして、三年が経ったらしい。レイモンは電柱に貼ってあるサスキアを探すポスターを見ている。レイモンが犯人なのは最初からわかっているがいつまでたっても、何をどうしたのか、なんのための犯行をおかしたのかはわからない。レックスには何度もレイモンから手紙が届くので、その場へ行くが全然会えない。

 

ある時、突然レックスはレイモンに声をかけられる。そして一緒にフランスへ行けば真相がわかるという。そして車の中でレイモンはいかにしてサスキアを誘拐するに至ったかを語り始める。

 

女性をナンパして拉致する計画のために山荘を買い、クロロフォルムの効き具合を自分で検証し、準備万端になったレイモンだがなかなかターゲットが見つからない。そしてあの時、偶然が重なってサスキアを誘拐してしまう。

 

そして、レイモンはレックスに、睡眠薬入りのコーヒーを飲めば全ての真相がわかるという。一旦断ったが、サスキアのことを思うあまりコーヒーを飲む。気がつくと、棺桶に入れられ生き埋めにされていた。恐怖に叫んでも誰も助けは来ない。

 

カットが変わると、レイモンが山荘の庭でくつろいでいる。子供たちがはしゃいでいる。その地面には、レイモンが埋めたものがあるかのようなカメラでエンディング。

 

心理サスペンスなのだが、果たして、見えるままに理解していいものか。実はトンネルでガス欠した時に、すでにサスキアは、事故で死んでいたのではないか。その幻影を追うレックスは、サスキアの誘拐事件を幻覚のように見てしまっているのではないか。そう取ればここまでの展開の意味が見えてくる気がします。

だからこそ、キューブリックが褒めたのでしょう。そう思えばなかなかの一本でしたね。

 

ハロウイン」(デビッド・コーエン・グリーン監督版)

ジョン・カーペンター監督版のファンとしては全然期待していなかったが、意外に面白かった。やはりジョン・カーペンターのあの名曲を使ったのが成功だったか。しかも、オリジナル版を知る人には、名シーンのオマージュなどもあって楽しめました。監督はデビッド・コーエン・グリーン。

 

マイケル・マイヤーズのハロウィンの夜の惨劇から40年、二人のジャーナリストがあの事件を再調査している。マイケルは精神病院で厳重に監視されていたが、近々別の施設に移される予定になっていた。

 

かつてマイケルと対決したローリーは郊外の要塞のような家に住み、マイケルとの対決を考えている。そんな祖母に娘や家族は理解がない。

 

ハロウィンの夜、移送するトラックが横転し、マイケルは逃走、ローリーの家族の住む街へやってくる。あとは、あの名曲に乗せて惨劇が繰り返され始める。そして、最後に、ローリーに迫ってくるマイケル。

 

ローリーの要塞のような家に入ったマイケルは、ローリーとの対決の末、ローリーが作った地下室に閉じ込められ、家ごと燃やされて果ててしまう。果たしてマイケルは死んだのか?それはわからないが、あの惨劇から40年、マイケルも今やシニアやろうに(笑)それにジェイミー・リー・カーティスも、お年になるまでマイケルを執念で待つというのもなんともすごい。なんで40年後なのかよくわからない適当さは脇にして、普通に面白かった。