くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「Diner ダイナー」「さよなら、退屈なレオニー」「救いの接吻」

「Dinerダイナー」

監督は蜷川実花ですが、彼女には静止画の絵作りはできますが映画の絵作りはできない。これは今回も同じでした。個々のカットはサイケデリックで彼女の個性が出るのですが、カメラワークが加わると実に平凡なものになってしまう。しかも殺し屋が殺し屋に見えないし、玉城ティナのキャラクターが弱すぎて映画が勢いづいてこない。脚本の弱さで、登場人斑が全員一緒に見えてしまう。まあ普通の映画でした。

 

いかにもシュールな映像ですと言わんばかりに、毎日に悩み暮らす主人公オオバカナコの場面から映画は幕を開ける。夢のメキシコに行くために一攫千金三十万円のバイトを申し込んでなにやら殺されそうになる。そして、連れていかれたのがボンベロという男がシェフをする殺し屋専用のダイニング。

 

とまあ、映画センスのない蜷川監督の取ってつけたような演出と色彩表現がまず前面に押し出される。原作があるのでなんとも言えないが、どうやら殺し屋たちをまとめていたボスが殺され、その犯人探しとこのダイナーの摩訶不思議な空間のお話なのだが、どれも中途半端で、全然メリハリが見えてこない。

 

結局、真犯人は見つかったものの、ボンベロと殺し屋の対決になって、オオバカナコは脱出して夢のレストランを始めたところへ、瀕死の重傷から立ち直ったボンベロと犬の殺し屋菊千代が現れ御涙頂戴のエンディング。

 

スローモーションで花びらが舞ったり、カメラをふり回した演出を繰り返すものの、全体の流れに美しさもオリジナリティも見られず、さらにキャストの演技演出が明確にされていないので塊にしか見えない。

 

犬の菊千代も役不足に終わるし、出てくる殺し屋の個性がただのサイコにしか見えない。ボンベロ自身もそんなすごい殺し屋にも見えない。結局脚本の弱さ、アクション演出の弱さをおざなりにして、ただ自分好みのサイケな映像ばかりの映画になってしまった感じです。

 

「さよなら、退屈なレオニー」

映像のセンスがいいのか、たんたんと進む何気無い物語なのに、映画の中の引き込まれていきます。画面の構図もどこか清々しいほどに洗練されているし、登場人物それぞれが平凡なようでドラマチック。主人公レオニーの心の揺れ動きもテンポよく描かれています。監督はセバスチャン・ピロット。

 

レオニーが道に立っている。これから母の恋人でラジオのDJポールの誕生会に呼ばれていた。レオニーはとりあえず出席するが、手を洗うと言ってたち、そのまま店を後にする。そして通りかかったバスに飛び乗ってタイトル。このオープニングが素敵。

 

レオニーの実父は組合のリーダーだったが、組合活動で会社を追われ会社自体も無くなった。それを非難したのがポールだった。高校卒業まで1ヶ月のレオニーだが将来の目的もなくイラついている。

 

そんな時町のカフェでギター講師のスティーブと知り合う。とりあえずギターを習い始め、スティーブと過ごすうちに何か目的が見えないかと模索するが、見えてくるものはない。恋愛感情が生まれるわけでもなく、付き合いを続ける。

 

そんなレオニーは町外れに住む実父とのひと時が心の支えだった。物語はそんなレオニーが何気なく過ごす日常を捉えていくが、挿入される音楽のセンスがいいし、時に大きく画面を捉えた構図など映像のテンポも実にいい。

 

レオニーは夜のグラウンドの整備のアルバイトを始める。

ポールはレオニーと親しくなろうとするが、憎むだけのレオニーにはが立たず、実父がかつて母を殴ったことを教えてしまう。心底実父を慕っていたレオニーは実父に問い詰め、帰ってきてポールの車をバットでめちゃくちゃにする。

 

レオニーは行き場もなく、ギター教室もやめ、スティーブと知り合ったカフェに行く。そこへやってきたスティーブ。二言三言話してレオニーは店の外へ。そこに止まっていたバスに飛び乗っていずこかへ走り去って映画は終わる。

 

レオニーが管理しているグラウンドの灯りがつかず、真っ暗な中でキャッチボールをする場面、それに続く暗闇の中に見えてくる蛍の明かりなど素敵なカットもたくさんあり、映像センスの良さが伺える。レコードを流し、曲を挿入する選曲も物語にリズムを生み出してとってもいい。傑作というレベルではないですが、素敵な秀作という感じの一本でした。

 

「救いの接吻」

淡々と進む夫婦、家族、親子の物語。その根底にある愛の物語はひたすら心象風景として描かれていく。監督はフィリップ・ガレル

 

映画監督のマチューが妻で女優のジャンヌに、今回の作品の配役から外すという話をしそれに反発するジャンヌの姿から映画が始まる。

 

息子のルイへの愛情を交えながら、妻との関係にどこか隙間が生じている夫婦の愛の行方の物語。新たに配役された女優との関わり、マチューとジャンヌの夫婦の関係、そして三人の家族の物語。

 

時にカメラはそれぞれの表情に食い入るように迫り、時に延々と言葉を語る姿を追っていく。その合間に、息子ルイの愛くるしい姿を挿入し、絆がしっかりしているようでどこか脆い家族の姿を描写していきます。

 

結局、崩壊していったのでしょうか。駅で一人になるジャンヌの姿で映画は終わります。

どうもフィリップ・ガレル監督作品は苦手ですが、並の作品ではないことだけは理解できるかなという感じでした。

映画感想「ハッピー・デス・デイ 2U」「アイアン・スカイ 第三帝国の逆襲」「二十歳の原点」

「ハッピー・デス・デイ2U」

癖になるくらい面白い。とにかくテンポがいい。乗りの面白さは前作同様ですが、さらにちょっとジンとくる展開も挿入し、前作を凌ぐほどの楽しさを見せてくれました。監督はクリストファー・ランドン。

 

前作でカーターの部屋で目覚めたツリーの前に飛び込んでくるカーターの友達ライアンが車の中で目覚め、いつものように研究室にいくが、そこで仮面を被った殺人鬼に襲われる。そして、なんと彼は時間のループに閉じ込められ、繰り返すことに。一方のツリーはループから逃れカーターとの楽しい日々を送っていたが、ライアンの言葉に自分と同じ境遇になったことを知る。

 

そしてライアンはある研究をしていて、どうやらその研究で作ったシシーという装置のためにこんなことが起こったのを知る。しかも、もう一人のライアンが現れ、それを消すために装置を動かしたために、再びツリーがループに戻されてしまう。

 

ところが、新しいループの世界では、死んだはずの母は生きているし、カーターは嫌いなダニエルと恋人関係、さらにロリーはいい人になっていて、ツリーが不倫していた教授ガブリエルと不倫関係にあった。

 

そこで、ループを閉じることを考えるが、除外する関数を見極めるためにツリーが何度も死んで試行錯誤を完成させていくことになる。

 

あとは同様の展開がテンポよく進み、やがて成功、最後に装置を起動させることにするが、ツリーは母が生きているこの世界の残るか前の世界に戻りカーターとの恋愛関係になるか選択を迫られる。

 

そして最後の最後、以前の世界に戻ることを決意、装置を稼働させるが、すんでのところでハプニングになりかける。期限の時間が迫る中、ロリーを助けるためにツリーは病院に向かうが、なんと仮面の犯人はガブリエルとなっていた。

 

しかし、なんとか危機を脱出、ツリーは元の世界へ。エピローグで政府機関がシシーに興味を持ち、ライアンらを招致することに決定。ループの被験者にダニエルを選ぶことにしてエンディング。

 

なんとも痛快なくらいに面白いし、悪ノリも連発してくる今作は前作をさらにバージョンアップ。SF的な機械の登場でちょっと俗っぽくなったとはいえ、前作の謎をさりげなく明かしながらの新たなサスペンスコメディは本当に楽しかった。ここまで作り込んで脚本ならシリーズになってもいいくらいですね。

 

アイアン・スカイ第三帝国の逆襲」

第一作から7年たっての続編。下品な悪ノリととどっかで見たようなストーリー展開と大作と言わんばかりのCGで、ちょっと癖になるようなカルト映画ですが、これはこれで見てしまいました。監督はティモ・ボレンソワ。

 

月面裏のナチスの攻撃を撃退したもののその後の核戦争で地球は荒廃、生活できなくなった人類は月のかつてのナチスの基地で生活していた。しかしここも資源が枯渇。そんな時、ロシアのオンボロ宇宙船が軟着陸、地球の地下にロスト・ワールドがありそこに資源があることを知った主人公オビは、メンバーを募ってオンボロ宇宙船で地球へ向かう。

 

このオンボロ宇宙船、ミレアムファルコンのガラクタ版のような出で立ちというのがまず笑う。そしてオビたちは地球の深層部に到着、そこはなんと名だたる政治家や指導者がゾンビと化し、人肉を食らう不気味な街だった。しかもリーダーはヒトラーで、様々な有名人の化け物がいた。スティーブ・ジョブズのゾンビなども出てきて笑ってしまう。

 

そしてそのエネルギーの源は、聖杯という、どっかで聞いたネタだったりする。そしてアドベンチャーの末に聖杯を持ち帰り、オビーたちは一路火星を目指す。エンドクレジットの中、火星の裏側にはソ連のマークの基地があり…というオチがありエンディング。

 

まぁ、悪ノリの塊のような映画で、決して脚本に凝っているようなものも見られないカルト映画ですが、癖になる麻薬のような面白さがある一本です。

 

二十歳の原点

原作も読み、何十年も前に見た作品を久し振りに再見。監督は大森健次郎。

 

初めて見た時もそうでしたが、ストレートに感情移入する感じはありませんでした。しかしたんたんと一人ゼリフで紡いでいく物語は、ラストシーンで一気に爆発するように迫ってくるものを感じます。

 

果たして彼女がどう感じ、どう考え、どういう苦悩の末に死を選んだのか、いや、選んだわけではなく、気がつくと死に囚われていたのか、その真相は残された日記の中にだけあるのかも知れません。

 

見終わるともう一度見たくなる。読み終えるともう一度読み直したくなる。そんな、心に残しておきたい作品の一本です。

映画感想「初めての旅」「新幹線大爆破」「白鳥の歌なんか聞こえない」「戦争を知らない子供たち」

「初めての旅」

これは良かった。青春映画の秀作という感じのロードムービーでした。下手に綺麗事で済まさない展開も見事。監督は森谷司郎

 

青年勝が道端のスポーツカーを見つけるところから映画が始まる。たまたま通りの向こうに純一という青年が通りかかり、二人でこの車を盗んで走り始めて物語が始まります。

 

純一は富士山の裾野で牧場をしている叔父の元に行きたいと言い、二人は、そこを目指して進みます。途中、これまでの二人の過去を回想し、映像が挿入されて、ロードムービーに深みを添えていく脚本も素晴らしい。

 

そして、目的地につきますが、折しも警察がやってきて二人はは逮捕される。護送の途中で、ドライブの途中で知り合った少年が事故に巻き込まれていたりするのを目撃。

 

取調室で、二人の親のことを聞かれ、純一の父が法務省の次官だと明らかになると、二人の扱いが変わってしまう。そして二人は引き離されて映画が終わる。

 

勝のやるせないような表情が印象に残るエンディングです。小椋佳の曲に乗せて展開するストーリーが妙な哀愁を帯びるなかなかの名作でした。

 

新幹線大爆破

何度目かのスクリーン鑑賞。大好きな映画です。改めて見ると、その脚本のすごさに圧倒されてしまいました。スピーディな展開のみでなく、官僚側と市民側の対峙まで描かれている二重三重に書き込まれた奥の深さに感嘆してしまいました。監督は佐藤純彌

 

物語は今更なので書きませんが、冒頭の貨物列車に仕掛ける場面から、タイトルバックへの畳み掛けのうまさ。いきなり本筋に入って緊張感あふれるサスペンスが展開。そしてその中で描かれる官僚側の事務的な仕事と現場の対峙。もちろん皆必死になって自分の仕事をこなしているのに、どこかずれていることに気がつかないほんの僅かな機微が恐ろしいほど緻密に描かれています。

 

ラストシーンの哀愁に至るまで、いつのまにか犯人に同情してしまう自分に気がつきます。犯人の背景はほとんど描写されないのに、なぜかその人生が見事に見えてくるのですから、これはもう一級品を超えたドラマです。

日本映画のサスペンスの最高傑作かもしれませんね。本当にいい映画です。

 

白鳥の歌なんか聞こえない」

今の視点で見るとなんともうじうじした男の物語なのだが、非常に知的な青春ドラマとしてはかなり良く出来た作品だと思います。セリフの一つ一つ、会話劇の一つ一つが洗練されていて、不思議なくらいのみずみずしさが垣間見えてきます。いい映画ですね。監督は渡辺邦彦。

 

大学入試に失敗した主人公薫は恋人由美と過ごす日々をなんとなく過ごしているところから映画が始まる。

 

由美は大学に入ったが、彼女の先輩で、ちょっと大人の雰囲気の女性小沢と知り合うことになる。一方薫の周りには小林や横田らの友達が出入りし、日々の生活をそれなりの目的で過ごしている。

 

淡々と過ごす薫の物語ですが、窓を開けると蜘蛛の巣が朝日に光ったり、雨や夜の空気感がとにかく繊細な映像で描かれていく。

 

小沢は近所にいる、何かに力のあるらしい老人のことを気にかけている。恋人なのか愛人なのかは説明がないが、この老人は間も無く命を終えようとしているらしい。

 

薫の日々の生活を描きながら、恋人由美とのエピソードに小沢と老人のエピソードが絡み、最後は老人の死で映画は終わる。

 

どういうお話かというほどのものがないのに、この不思議な空気感はなんだろうと思いますが、洗練されたセリフの応酬と、細やかな映像描写が素敵な映画でした。

 

戦争を知らない子供たち

なんとも雑多な映画で、ジローズの名曲に基づいての映画とはいえ全く一貫性の見えない演出と脚本は、ノリだけしか言いようがないが、これもまた時代を見る作品としては楽しむことができました。監督は松本正志。

 

二人の学生一郎と敏夫は仲良しであるが、たまたま米軍基地のそばを歩いていて、なぜか捕まって、なぜか謹慎処分になる。一方、教室でキスをしていた敏夫と君江も先生に咎められて、謹慎に。

 

そんなことに反感を持った三人は教室n立てこもるが、仲間に来たクラスメートもすぐに抜けてしまい自然崩壊。そこで三人は旅に出て、旅回りの役者に混じってのひと騒動の後、学校に戻ってくるが、校庭に不発弾が見つかって、大騒ぎになるが、一郎はその不発弾のそばで立てこもるものの、結局、春になれば晴れて学校へ行く姿でエンディング。

 

色々、当時の世相の映像が挟み込まれ、一見自由な発想でシーンが紡がれているようで、全く統一性がない行き当たりばったりにしか見えない。でもまあ、楽しい映画でした。

映画感想「いちごの唄」「ゴールデン・リバー」「僕はイエス様が嫌い」

「いちごの唄」

期待もしていなかったけれど、意外に普通に見ることができた。特に欠点もないが、特に目を見張るものもない映画ですが、良かったです。監督は菅原伸太郎。

 

冷凍食品会社に勤めるコウタが、レンジをにらんでいるところから映画は始まる。自社の食品に愛着を持っているが、ちょっとおかしいのかなというキャラクターとして登場する。

 

ある時、通りで中学時代あーちゃんと呼んでいたマドンナ千日と中学校以来で再会する。そして、たまたまあったラーメン店でラーメンを食べて、夕方まで話をして別れるが、毎年この日、七夕に会うことを約束をする。

 

中学の頃、コウタは伸二という友達がいて二人で、千日のことをあーちゃんと呼んでいた。いつも自転車で坂を下り、近所の孤児院が作っているレタス畑に飛び込む遊びに夢中になっていた。

 

ある雨の日、いつものように自転車で下っていた二人の前に、雨でスリップした軽トラが走り抜けていく。そしてあーちゃんのほうへ向かったと思ったら、伸二があーちゃんを突き飛ばし助けて、伸二のこけたところに軽トラが突っ込む事故が起こる。伸二は亡くなり、二人はそのことで心の傷を負っていた。

 

毎年七夕にコウタはあーちゃんに会ううちに、密かな恋心が生まれてくるが、ある時、中学時代あーちゃんが孤児だった話をした後、もう会わないことを決める。

 

そして、久しぶりに田舎に帰ったコウタは、家族の愛情に触れ、久しぶりに中学時代の自転車に乗ることを決意する。そしていつもの坂に向かっていた時、たまたま田舎に帰ってきたあーちゃんと再会する。あーちゃんは孤児院の院長に再会し、彼女がただの捨て子ではなかったと聞かされやっと前向きに生きる決心をしていた。そして二人で坂を駆け下り、今や千日紅の畑に変わっているかつてのレタス畑に飛び込んで映画は終わる。

 

伸二も孤児院育ちでその時に千日と出会った過去や、いちご園という孤児院名が気に入らずストロベリーフィールドと呼んでいたこと。そして、その意味は千日紅のことで永遠の愛を意味することなどが最後に明らかになっていく。

 

ラーメン店の店員やコウタの兄弟、家族のユニークなキャラクター作りも楽しい一本で、最後まで飽きずに観れるいい映画でした。

 

「ゴールデン・リバー」

とっても真面目な西部劇。じわじわと胸に迫ってくる人編ドラマの秀作。美しい映像と心温まる人間味あふれるドラマにいつの間にか引き込まれていってしまいました。監督はジャック・オーディアール

 

時は1851年オレゴン、名の通った殺し屋シスターズ兄弟が折しも仕事の殺しを行なっている場面から映画が始まる。彼らには雇い主がいて提督と呼ばれる男だった。そして次の仕事は、黄金を見つけ出すことができる薬品を手にしたというジョンとハーマンを捉えることだった。

 

物語は二人が手がかりを探りながらジョンたちを追うのが中心になる。いくところで、有名な殺し屋シスターズを殺そうとする輩などをかわしながら、ついにジョンらに追いつく。ところが、いつまでも戻ってこないシスターズに提督の追っ手も迫ってくる。

 

ジョンらとイーライとチャーリーのシスターズ兄弟は手を組んで金を探ることにする。そして刺激の強い薬品を川に撒き、金が浮かび上がってくる。思わず我を忘れて金を集めているうちに、つい欲が出て追加の薬品を撒こうとして、チャーリーは右手に重傷を負い、ジョンらは死んでしまう。

 

チャーリーは右手を切断し一命を取り留めるが、提督の追っ手が次々とシスターズ兄弟に迫ってくる。イーライは一人で追っ手を迎え撃ち、この事態を解決するために提督を撃つべくオレゴンに戻ってくるが、なんと提督は病に死んでしまったところだった。

 

何もかも虚しくなり、シスターズ兄弟は実家に戻ることにする。迎えたのはたった一人暮らす母だった。食事をし、風呂に入り、平穏な日々を満喫する二人の姿で映画は終わる。

 

美しい景色のショットと、緊張感あふれる銃撃戦、そして実家でのノーカットの流麗なカメラワークの末のエンディングと、全体の映画のリズムが実にいい。地味といえば地味な西部劇ですが一見の価値のある秀作でした。

 

「僕はイエス様が嫌い」

なぜシネコンにというレベルの作り方の作品ですが映画としてはクオリティが低いというわけではない。でも、細かい部分のリアリティは適当に済ませているあたりは、ちょっとどうかと思います。監督は奥山大史。

 

雪深い田舎に東京からやってきた由来。転向した学校で間も無くして和馬という友達ができる。この小学校はなぜか礼拝が行われていてキリスト教である。由来はお祈りをしようとするとなぜか小さなキリストが現れるようになり、希望をすると軽く実現することがわかる。

 

物語はこのキリストとの絡みより由来と和馬の交流が中心になるが、ある時、和馬が交通事故に遭い、間も無く死んでしまう。こんな時こそと由来はキリストを呼び出そうとするが結局叶えられずにお別れの会になる。

 

由来の心の動きを静かなタッチで捉えていくカメラがちょっと素敵な作品で、70分あまりという小品ながら、映画としてはちょっと魅力がありますが、シネコンで普通の入場料で公開する作品かとは思います。

映画感想「メモリーズ・オブ・サマー」「家族にサルーテ!イスキア島は大騒動」

「メモリーズ・オブ・サマー」

映像も美しいし、映画としてのテンポもなかなかセンスがいい。カメラワークも見事なのですが、水面下の部分、行間の部分が分かりづらくて、推測が多すぎて、ちょっと難しかった。監督はアダム・グジンスキ。

 

少年ピョトレックと母ヴィシュアが歩いている。踏切を渡るがピョトレックは線路の上で立って動かない。気がつかず振り返った母ヴィシュアが叫んで暗転してカットが変わると、母とピョトレックが池に飛び込んでいる。何度も何度も。この繰り返しの映像がまずうまい。

 

仲の良い母と息子のシーンが続く。ある時、ピョトレックは都会からやってきた少女マイカが気になり始めるが、マイカは町の体の大きな不良少年と仲が良くなっている。

 

一方ヴィシュアは、おしゃれな服を買い毎晩出かけるようになる。ピョトレックが後をつけるがはっきりせず、ある時帰ってきたヴィシュアは泣きじゃくる。

 

ピョトレックは水辺で一人の少年と知り合うが、ピョトレックは少年が見ていて欲しいというのを後にその場をさる。しばらくして、子供が溺れたらしい出来事が起こる。ピョトレックはてっきりあの時の少年だと思う。

 

ピョトレックは、なぜか泣きじゃくる母と過ごしていると、そこへ大好きな父が帰ってくる。解説ではソ連に出稼ぎに行っていたらしい。ヴィシュアは、これからもずっと一緒にいてほしいと懇願する。

 

三人は移動遊園地で楽しく過ごす。そこで、ピョトレックは溺れたと思っていた少年と再会し、自分の勘違いだと知るが、その少年の母はなにやら不審な目でピョトレックを見て去っていく。

 

ある時、ピョトレックが家に帰ってくると入れ違いにあの少年の母とすれ違う。中に入ると、なにやら落ち込んでいる父の姿。夜になり母も帰ってくるが、父は再び家を出ていく。もしかしたら少年の母は何か政治的な何かに関わっていて、ピョトレックの父に何かを告げたのではないかと思う。

 

そして冒頭のシーン。父が土産に買ってきたチェス盤にカメラが移動してガランとして部屋。踏切にとどまったピョトレックに母が駆け寄ろうとするが、汽車は線路のこちら側を走っていて、汽車を挟んで母とピョトレックが立つ。そして、母の頬に涙が流れ映画は終わる。中盤でピョトレックとマイカのエピソードも挿入されていて、不良少年に突っかかっていくピョトレックや、マイカとの口喧嘩などのエピソードも入っている。

 

とにかく、伏せられている物語を映像で感じ取らないといけないのだが、ちょっと難しい。非常にクオリティの高い作品ですが、ポーランドという舞台でもあり、自分の理解以上の何かが隠されている気がして、すっきりと青春の甘酸っぱい物語と捉えにくい面のある映画でした。

 

「家族にサルーテ!イスキア島は大騒動」

長回しの流麗なカメラワークと、オーバーラップしていく様々な物語の交錯を楽しみながら、人生の機微を切々と感じる素敵な人生賛歌映画でした。監督はガブリエレ・ムッチーノ。

 

ピエトロとアルバ夫妻の金婚式に招待された親戚たち。それぞれがそれぞれの家族を抱え、それぞれに平穏に見える彼らがフェリーに乗って夫妻の住む島にやってくるところから映画が始まる。

 

無事に式を終え、さあ帰ろうというところ、シケで船が出ない。仕方なくこの島に泊まることになったのだが、次々とそれぞれの家族のほころびが見えてくる。

 

一つのいざこざを捉えるカメラが、すれ違いざまに次の家族のトラブルを捉え、さらに、いたるところで愛してる愛してないを繰り返しながらキスとSEX。この辺りまさにおおらかなイタリア映画の典型。

 

そしてそれぞれが崩壊し、どうしようもなくなったところで、無事船が出ることになり、それぞれが帰っていく。当初よりより良く変わった夫婦もいれば、破局になる夫婦もいる。新たな愛が生まれたカップルもいる。

 

皆が帰り、静かに食事を楽しむ夫妻のカットでエンディング。人生って楽しいものだなあとしみじみ感じるところですが、やはり国柄の違いでもう一歩のめり込めなかった。しかし、映画のクオリティは実に高い一本でした。

 

 

映画感想「赤頭巾ちゃん気をつけて」「俺たちの荒野」「太陽を盗んだ男」「赤い鳥逃げた?」

「赤頭巾ちゃん気をつけて」

こういう映画は本当になくなってしまいました。行き場のない若者の姿をストレートなセリフの繰り返しとカメラ演出だけで見せる典型的な作品。ラストの一人の少女を見送って前向きになる主人公のシーンが胸に迫ってきます。監督は森谷司郎

 

主人公薫が、犬の散歩をしている。1969年の東大紛争で東大入試が中止になり、一気に目標を失ってしまった若者たち、その一人が今回の主人公。そして、家に駆け込んで足の親指に怪我をし、好きなテニスができなくなるところから映画は始まります。

 

恋人らしい女性もいるが、どこか冷めているし、友達も皆、行き場を無くしたように薫の周りに溢れている。酒を飲み、踊り、SEXをし、意味のない恋愛なのか女遊びにしか進む方向が見えない若者たち。

 

そんな若者を描くために長ゼリフ、カメラアングルを駆使し、時に世の中の動きを捉えるカットが挿入されていきます。殺伐とした心を終盤まで描きますが、赤頭巾ちゃんの絵本を買いに来た少女と出会った薫は、彼女のために夢のある赤頭巾ちゃんの本を選んであげて、見送る。

 

帰りに恋人を誘い、夜の街に歩いていく。雪が降ってくるが心はようやくなにかを見つけたかのように未来を見ているようです。青春映画の傑作です。切ない恋も何も出てこないけれど、どこか、若さ故の未熟さがたまりません。良かった。

 

「俺たちの荒野」

これは良かった。二人の青年のやるせないほどの青春の一瞬がバイタリティあふれる演出で描かれていきます。こういう勢いのある映像はとにかく観ていて引き込まれてしまう。監督は出目昌伸

 

哲也とジュンは上京してきたものの就職にあぶれ、哲也はバーで働いたり米軍の軍人に女を世話したりしながら、女の紐のような生活。一方のジュンは車の整備工場で働いている。二人はある時荒地のような土地でバイクを乗り回していて、一人の清純な女性ユキに出会う。そしていつの間にか3人で遊びまわるようになる。

 

やがてジュンはユキに惚れていくが、その清純な姿に次第に哲也も彼女に惹かれてしまう。そして、哲也の彼女の嫉妬からちょっと疎遠になった3人は一旦は別れ別れになるが、いつのまにか惹かれ会うように集まる。しかしすでにユキの心は哲也に傾いていて、ある時突然、ジュンは鉄塔から身を投げて死んでしまう。

 

哲也はジュンの遺骨をジュンが買った荒地に撒いてやり映画はここで終わる。とにかく展開のバイタリティが半端ではなく、青春のほとばしりという感じのみずみずしい迫力に満ちている。かつて若者たちは熱かった。そんな懐かしささえ感じる爽やかな映画だった気がします。

 

太陽を盗んだ男

およそ40年ぶりくらいにスクリーンで見直したが、やっぱり面白い。傑作やね。ただ、こんな題材をとった為に長谷川和彦監督、映画を作れなくなったのは残念。

 

冒頭の原子力発電所を観察している主人公木戸の姿と音楽にかぶるオープニングから、原爆を作る緊張感あふれるシーン、さらにその後のアクション、そして、ディスクジョッキーとの絡みから、クライマックスへ。

 

たたみこんでいくストーリー展開のリズムとテンポの良い編集、カメラワークが絶品。しかも主人公のキャラクター造形も実に面白い。

 

主人公は狂人なのだが、人間味溢れている。その生身感の面白さもストーリーに見事な味付けになっているし、明らかなフィクションながらも、リアリティのあるシーンの連続もうまい。

 

前半の被曝するシーンや猫の死、後半のDJの死など、切ないシーンもしっかり書き込まれた脚本も言うことなし。まあ、終盤がややしつこいのだが、それでも一級品のピカレスクロマンだと思います。

 

「赤い鳥逃げた?」

やっぱり良かった。ほぼ40年ぶりくらいか、若き日が蘇ってくるノスタルジーもありましたが、青春映画の名作だなと思います。監督は藤田敏八

 

卓郎が人妻とベッドでSEXしている場面から映画が始まる。そこへ出張していたはずの夫が帰ってきて、胡散臭い銃を持った宏も入ってくる。這々の体で卓郎は逃げるが、実は宏も夫も卓郎もグルだった。

 

宏と卓郎は、目的もない毎日の中、その日暮らしのような適当な仕事で生活をしている。寝る場所がないという宏を卓郎は、自分がころがり込んでいる女の部屋に連れていく。そこにはマコという自称令嬢がいた。

 

こうして3人の、目的もない青春物語がスタートする。とにかく行き当たりばったりに生きる三人の生き生きした姿がみずみずしいほど純粋な感じなのです。

 

とはいえ、これと言って仕事もなく、ゆすりたかりまがいのことで生活する三人は時に警察に逮捕されたりしながらの日々。そして、マコの正体を知った宏たちは誘拐したことにして富豪の父に金を要求するが、取引の現場で、父はその娘は自分の娘ではないと言って取引を拒否する。

 

どうしようもなく三人は車で走り出すが、直前にトランクに隠した元刑事を追ってパトカーや野次馬とカーチェイス。そして取り囲まれ、卓郎も撃たれて死んで、宏とマコは車に立てこもる。警官の集中銃火を浴び車は爆発して映画は終わる。

 

短く燃え尽きた若者たちの一瞬の物語は、とにかく、胸にグッと残る切なさを感じさせられます。やはり名作ですね。

映画感想「ギターはもう聞こえない」「アマンダと僕」「Girlガール」

「ギターはもう聞こえない」

恋多き男のめくるめく物語で、これという大きなうねりもなく淡々と進む。しかも時間の流れをすっ飛ばしていくので、時に混乱してしまうが、ラストを迎えると、なぜか人生の感慨にふけってしまう秀作。監督はフィリップ・ガレル

 

ジェラールとマリアンヌ、マルタンとローラの二組の恋人の描写から物語は始まるが、主人公はジェラールである。ふとした言い争いでマリアンヌが家を出てしまい、ジェラールはある人妻と付き合うが間も無くしてマリアンヌが帰ってくる。

 

しばらく一緒に過ごすが、再び彼女は去り、ジェラールは一人の女性と結婚し子供もできる。そんな時、またもマリアンヌが帰ってくる。ジェラールは、今もマリアンヌを愛しているのだ。

 

そして、マリアンヌはいずこかへ去るが程なくして死んだという知らせが届く。ジェラールは、そのことを妻に告げ、その後六ヶ月の息子と生活を始めようとするが、妻は去っていく。

 

マリアンヌに永遠に忘れることがないといったジェラール。永遠の恋を捨てることなく、現実に愛も受け入れるという主人公の姿は、ちょっとわかりづらいのですが、時の流れから何気なく伝わってくる何かがあります。

 

次々と恋を交わす主人公の物語ですが、本当に愛するのはマリアンヌだけ。その一途さと、人生の機微を不思議な感覚で描いた作品という感じでした。

 

「アマンダと僕」

これは良かった。瑞々しいほどの感性で描いていく一人の少女の立ち直りの物語。テニスの試合を見事に使ったラストシーンが素晴らしかった。監督はミカエル・アース。

 

アパートを斡旋する仕事を副業でしているダヴィッドが、やっと顧客を案内して、姉サンドリーヌの娘アマンダを迎えに学校へ走るところから映画が始まる。

 

アマンダはダヴィッドになついていていつも一緒にいる。ダヴィッドはアパートに一人の女性レナを案内するが、彼女に次第に心を惹かれ、間も無くして恋人関係になる。そして、ある時、ダヴィッドはサンドリーヌ、レナらとピクニックに行くことにする。ところが、ダヴィッドの顧客が列車の遅延で大幅に遅れ、慌てて自転車で目的の公園に向かう。

 

ところが、現地についてみると大勢の人が血だらけで倒れていた。銃を持った男たちが無差別に乱射したのだ。そして、サンドリーヌは死に、レナも重傷を負ってしまう。悲嘆にくれるダヴィッドだが、彼にはアマンダに母の死を知らせる仕事があった。

 

ダヴィッドはアマンダに事の次第を話すものの、アマンダにはすぐに実感として伝わって行かない。しかしアマンダの養育の問題が目の前に迫ってくる。ダヴィッドにもその権利はあるのだが、独身な上に、自分も仲の良い姉の突然の死をまだ受け入れられていなかった。

 

一方レナも、事件のショックから立ち直れず、田舎に帰ると言ってダヴィッドの元を離れていく。それでもダヴィッドは必死でアマンダと過ごし、サンドリーヌが事件の直前に手に入れたウインブルドンのチケットを持って会場へ向かうことにする。

 

そこで、長い間あっていなかったダヴィッドの母アクセルにも会う。そしてアマンダとダヴィッドはセンターコートの会場へ。客席で試合を見つめるアマンダだが、一方の選手が劣勢で追い詰められていくと、思わず、もうダメだからと、かつて母に教えてもらったプレスリーの舞台のエピソードを重ねて泣きじゃくり始める。それは母の思い出でもあり、もう二度と会えない事の諦めと絶望を思い出してのことだった。しかし、劣勢だった選手は巻き返し、逆転していく。それをみたアマンダに笑顔が戻る。そして、母の死を受け入れる決意をしたかに見えた。こうして映画は終わる。

 

物語後半が、平静なアマンダと、絶望で涙ぐむダヴィッドの姿が中心なのに、クライマックスのテニスシーンで一気にアマンダの心の姿に焦点が集まる脚本が素晴らしい。スポーツシーンをこういう使い方をしたのを始めてみた気がします。必見の秀作でした。

 

「G irl ガール」

これは見事な人間ドラマでした。主人公の心の葛藤、追い詰められた焦り、その全てがストイックに自分を追い詰めて練習するバレエシーンに凝縮された演出が素晴らしい。観ている私たちもどんどん胸が苦しくなってくる。LGBTを描いた作品は、これまで一歩引いてみてしまっていましたが、これは食い入ってしまいました。傑作です。監督はルーカス・ドン。

 

主人公ララがベッドで目覚めるところから映画が始まります。有名なバレエ学校へ入学するために幼い弟と父と引っ越してきた。ララは心が女性で肉体が男性という障害のある女性だった。そして、女性バレリーナとして学校へ入学するが生徒のほとんどが12歳くらいから訓練を受けている生徒たちで、ララは、まず追いつくことから始めなければいけなかった。

 

ララは持ち前の生真面目さで人一倍練習して、正式に入学を許されるが、一方で、転換手術にそなえホルモン療法が始まる。テーピングで無理やり股間を目立たなくして、トイレに行かないように水分を取らず練習するララは、みるみる体力を落としていく。さらに、みんなについていくために人一倍練習をし、心も体も追い詰めていく。

 

そんなララの姿に父親はなんとか助けになろうとするが心を閉ざしていくララ。バレエの練習シーンでカメラがララを執拗に追いかけていき、彼女の心の葛藤を描写していく演出がとにかくすごい。

 

しかし、本番も近づき、思うようにホルモン療法の効果も出ず、練習も進まない中追い詰めて追い詰めてとうとう倒れてしまう。そして医師からはしばらくバレエをやめるように言われ、舞台は客席から見ることになる。

 

しかし、体力も回復し、落ち着いてきたララの姿をみて、安心した父は、倒れてからはララが出かけないようにドアに鍵をかけていたが、その朝は鍵をかけず、普通に弟を学校へ送るのと仕事に出かける。一人残ったララは救急車を呼ぶ。そして氷を持って自室に入ると、股間を冷やし、ハサミで自らのペニスを切る。

 

かけつてた父と病院へ行き、そして、治療は終わる。カットが変わり、一人歩くララの姿で映画は終わる。壮絶なクライマックスですが、そこまで追い詰められ苦しむ彼女の心の物語が、ここまでの厳しいバレエ練習に打ち込む姿で見事に描かれています。たしかに彼女は病気なのですが、その苦悩をここまで描いた映画はこれまでなかったと思います。傑作でした。