くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「アイ・アムまきもと」「“それ”がいる森」「マイ・ブロークン・マリコ」

「アイ・アムまきもと」

同じ原作となる英伊合作映画「おみおくりの作法」もなかなかの佳作でしたが、今回舞台を日本に移したこともあり、ストーリー展開の構成が上手く処理され、身近に感じて泣いてしまいました。阿部サダヲが良かったのかもしれません。監督は水田伸生

 

市役所で、孤独死をされた人を個人的に調べ葬儀を出してやっているおみおくり係の牧本が孤独死した人たちを調べ葬儀を出している場面のエピソードから映画は始まります。一人暮らしで身寄りもなく、いつも釜から直接ご飯を食べ、横断歩道ではしつこいほど左右を確認し、殺風景な部屋で暮らす牧本は、将来自分が入る墓地もすでに用意して生活している。そんな彼は、ある時一人の男性の孤独死の連絡を警察から受ける。住所を調べてみると自分の家の向かいの部屋の住人だった。名前を蕪木という。

 

遺体を預かるのは三日間だけだと刑事に念を押されながら、牧本はいつものように身寄りを探し始める。そんな頃、役所に新任の局長がやってきて、非効率なおみおくり係は今回で最後ということになる。牧本は小さな手がかりから、かつて過ごしていた漁村を訪ね、友人や知人から蕪木の身寄りを探っていく。そしてとうとう、養豚場で働く一人娘の塔子にたどり着く。さらに、炭鉱で働いていた頃の同僚鎗田にも辿り着き、蕪木の過去が次第に明らかになって来る。それに伴い、牧本自身にも何か変化が起こり始める。

 

牧本は自分が用意していた墓地を蕪木に譲ることにし、塔子にその旨知らせる。自分達を捨てた後の父の姿をもっと聴きたいという塔子に、葬儀の後で会う約束をする牧本。牧本は塔子が好きだった白鳥を蕪木がガラケーに撮っていたのを思い、自分もカメラを買う。そして、カメラを覗きながら横断歩道を渡るが、信号無視して走ってきた車に轢かれてしまう。牧田は、かつて取り扱った孤独死した人が呟いていたらしい「頑張った」の言葉を繰り返し死んでいく。

 

この日、蕪木の葬儀が執り行われ、鎗田をはじめ、蕪木が関わり、牧田が探し回った知人たちが集まって来る。そして彼らはそのまま墓地に向かった。時を同じくして、牧田はその上の丘にある無縁墓地に収められようとしていた。つきそってきたのはかつて牧田と喧嘩友達だった若い刑事だった。塔子は、まさかすぐそばで牧田が埋葬されていることは知らないままだった。

 

やがて、蕪木の姿が無縁墓地の前に現れる。さらに次々と牧田が扱った人たちの姿が無縁墓地の周りに集まって来る。こうして映画は終わる。

 

オリジナル版とほとんど同じ展開で流れるのですが、今回のリメイク版の方が全編隙なく観客を引き込んでくれます。終盤は分かっていたとはいえ泣いてしまいました。いい映画でした。

 

「“それ”がいる森」

一体何十年前の感性でこんな稚拙な筋立てとエピソードを考えたのかと思えるガタガタの脚本、さらに芸達者を揃えた割に役者丸投げの演出で、見ていられないほどに展開が破綻している。もうスクリーンにものを投げつけたくなるような出来栄えの映画だった。馬鹿にしてるとしか言いようがない。子供向けのテレビドラマでもこんな適当なものを作らないだろうと思う。監督は中田秀夫

 

東京で金を強奪したカップルが福島県の天源森に金を隠しに来るところから映画は始まる。そこで何者かに襲われる。何ともありきたりのオープニング。ここに、妻の父親に嫌われて福島県に単身で移り住んで、りんご農園を営む田中の姿。りんごが害虫にやられて困ってる。そこへ東京から一人息子の一也が母と喧嘩してやって来る。ここに学校に転入して生活するようになる一也は、クラスメートに誘われて天源森に入っていき、その帰り金属製の物体を見つける。クラスで信じてもらえない二人は再度天源森へ入っていき、そこで何者かにクラスメートが襲われる。あまりに稚拙な流れにイライラしてきます。

 

子供たちが行方が分からなくなる事件が頻発し始め、警察は熊の仕業だろうと捜査するが、違うらしいとわかる。田中のビニールハウスに化け物が現れ、田中は襲われるが、化物は害虫に侵されたリンゴを触った途端逃げてしまう。次々と子供たちがいなくなり、田中は一也のクラスメートが撮った写真と自分を襲ってきた時の写真から、化け物の存在を確信、警察などに知らせるも相手にされず。自分で何とかしようとし始める。まあ当たり前ですね。

 

実は化物は子供の体が目当てのエイリアンだとわかる。害虫が効果があるとわかった田中はそのエキスをとってエイリアンに向かっていく。この地の電源を全て止めたエイリアンは、小学校に避難している子供たちに向かって来る。一方、田中と一也は、友達をさらったエイリアンを追って森の中へ行く。そして、エイリアンは誤って田中と一也を飲み込んでしまい、田中のポケットのエキスにやられてしまう。エイリアンは子供の成長細胞を欲していたが、人間のウイルスなどは60年前に一度来た時の経験で対処してきたが植物にはまだ対処できていないことがわかり帰っていく。もう大笑いのツッコミエンディングである。

 

全てハッピーエンド?になって、田中の妻もここへ移り住むことになり、一也も家族と一緒にここで暮らせるということで良かった良かった、って、じゃあ死んだ友達やら犠牲になった刑事やらはどうなんやというおちゃらけな終わりです。

 

小学生らの古臭い喧嘩場面や、友達思いの一也は何度も友達を見捨てているのに、タイミング遅れで正義感を持ち出し助けに行くし、大人の会話は幼稚園以下の知識レベルのやりとり。松本穂香江口のりこら芸達者を脇に揃えたものの何の演出も入れていないために、もうめちゃくちゃ。こんな映画海外に見せられないくらい恥晒しの作品だった。

 

「マイ・ブロークン・マリコ

映画はフィクションである。そのフィクションの中に作り手のメッセージ、登場人物が表現する何かがこちらに伝わればいい映画だったのかなと思います。この作品もそんな映画だった。女性監督らしい散りばめられた小ネタのユーモアが、重苦しくなりがちなテーマを心地よく軽くしてくれた。小品ですが、見て損のない一本でした。ただ、永野芽郁は頑張っているのですが、いかんせん線が弱い上に可愛らしすぎて、主人公の不良感がどうにも出しきれなかったのは残念です。ちょっとこういう役には早かったのかもしれません。監督はタナダユキ

 

小さな会社で営業をしているシイノトモヨが食堂でラーメンを食べている。テレビでベランダから転落死した女性のニュースが流れて来る。その女性の名前がイカガワマリコと聞いてシイノは顔を上げる。彼女の友達だった。こうして映画は始まる。早速家に行くがすでに遺体は火葬されているらしい。マリコは幼い頃から虐待を受けていた。そんな過去を回想しながらシイノはマリコの遺骨を奪取することを決めてマリコの実家に向かう。

 

そこには、マリコの再婚相手キョウコが出迎えてくれた。部屋に入り遺骨の前にいるマリコの父を見たシイノは、かねてから考えていたマリコの遺骨を奪取する。そして窓を飛び出し、向かいの川を渡って逃亡する。さてどこへ行こうと考えた時に、かつてマリコが行きたいと言っていた、まりが浜を思い出しバスに乗る。

 

バスの中で一人の女子高生を見かけ、かつての自分を思い出す。目的の場所について海岸を目指していたシイノは、突然カバンをひったくられる。一旦は必死で追いかけるも追いつくわけもない。通りかかったマキオという若者に金を借りてマリコはその場を切り抜ける。しかし、泊まるあてもなく、浜の船で寝ているところでマキオと再会する。

 

シイノは、海岸に面した崖の上に行くが、そこへバスに乗っていた女子高生が何者かに追われ走って来る。唐突な展開である。シイノは遺骨の入った箱で追ってくる男を殴りのだが、その拍子に遺骨がばら撒かれ、シイノは崖下に落ちる。しかし海岸で目を覚ますシイノ。マキオは、昨年自分もここを飛んだが死ねなかったのだと飄々と告げる。

 

警察で事情聴取を終えたシイノは松葉杖をつきながら、駅でマキオに駅弁をもらい列車に乗る。自宅に戻ってきたが、会社は結局退職させてもらえないブラック企業で、そのまま元の生活に戻った。しばらく後、シイノが帰ると、キョウコがマリコの遺品と最後の手紙をドアノブに残していた。その手紙を読み、思わず頬笑んだシイノの顔で映画は終わる。

 

シイノのさりげない小ネタのセリフが心地よいし、小学校時代、中学校時代、大人になってからのシイノとマリコの日々を現代と交差させながら淡々と描く現代が何とも面白い。マキオの存在もさりげなく画面の隅に登場させるだけだし、キョウコの登場もうまい。重いテーマをうまく処理した作品という感じの一本でした。