くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「緑の夜」「レオノールの脳内ヒプナゴジア(半覚醒)」「僕らの世界が交わるまで」

「緑の夜」

クオリティの低い映画ではないのですが、現実と幻想の狭間のような展開とひたすら暗くくどい流れは見ていて、気持ちが沈んでいくだけの感覚に囚われる作品だった。しかし、主人公の現実逃避が生んだ夢幻のような曖昧さが癖になるほどに面白い映画でした。監督はハン・シュアイ。

 

韓国の空港の搭乗者チェックする担当のジン・シャは、中国から婚姻ビザで韓国に来て働いていた。乗客の中に緑の髪の不審な女性を担当したジン・シャは、靴にセンサーが反応したこともあり怪しいと判断する。しかし緑の髪の女は、今日は搭乗をやめると帰ってしまう。その日の職務が終わったジン・シャが空港を出ると、緑の髪の女に呼び止められ、一緒にタクシーに乗ってジン・シャのアパートまでやって来る。

 

女が部屋を離れた隙にジン・シャが女のカバンをみるとドラッグが入っていた。緑の髪の女は薬の運び屋だという。ジン・シャは上司に連絡するが、緑の髪の女は、みんな仲間だという。ジン・シャは女と一緒に逃げることにする。ただし、薬を売った金の分前で正式なビザを買い取ることを考える。

 

二人は薬の仲買人の所にいくが、出どころがわからない薬は買えないと言われる。緑の髪の女は自ら薬を試して気絶してしまい、ジン・シャは、別居している夫イの店に行く。しかしイはDVで、いきなりジン・シャに襲いかかる。そこへ背後から緑の髪の女がクリスマスの装飾ライトで首を締め、ジン・シャはスタンドで殴り倒してイを殺してしまう。

 

二人はそのまま逃亡するが、ジン・シャは途中で緑の髪の女をおろし、一人で罪をかぶろうとする。しかし気を取り直し引き返してみると、緑の髪の女ハ一人ボウリング場にいた。二人は靴についた血を洗うべく洗面所に入るが、後から泥酔いした男が入ってきて気を失う。ジン・シャはその男の財布から金とホテルのルームキーらしいものを奪いホテルへ行く。そこで二人は抱き合う。

 

ホテルを出た二人は、イの店に戻り、ジン・シャは恐る恐る部屋に入ると、なんとイは生きていた。ジン・シャはイを助けようと運び出そうとするが、後から入ってきた緑の髪の女はイを階段から突き落とす。二人はタクシーで海鮮市場に行き食事をし、緑の髪の女は一人去っていく。

 

ジン・シャは職場に戻るが、そこに緑の髪の女が持っていた鞄と同じカバンを持つ男がやって来るが、そのまま通してやる。そこへイの携帯から電話が入る。出てみると相手は刑事で、イの家に連れて行かれ、イは心臓麻痺を起こして階段から落ちて死んだらしいと説明される。

 

ジン・シャが部屋に入ると、室内はきれいに掃除され昨夜からの騒ぎはどこにも見られない。刑事が、全てうまくしたからと告げて去る。刑事も緑の髪の女の仲間なのかと疑うジン・シャは、ソファの下でドン美容室のスプレーを発見し、緑の髪の女の知り合いか彼氏かのドンの美容室に向かう。

 

ジン・シャはドンに会うが、ゴミ箱に緑の神の女の靴が捨てられていて部屋の奥で物音がしていた。ジン・シャはドンがタバコを吸うためライターに火をつけた際スプレーを吹きつけ、さらにハサミで刺して殺す。物音がする部屋に入って行くと一匹の犬がいた。海鮮市場で緑の髪の女が言っていた飼い犬らしかった。ジン・シャはその犬を懐に入れてバイクに乗る。背後からパトカーの音が聞こえる。両手を離したジン・シャが、「怖くない」と呟いて微笑んで映画は終わる。

 

全編、非常に暗いムードで展開するのはちょっとストレスですが、映画の組み立て、テンポはなかなかの仕上がりで面白い。監督の才能を感じさせる一本でした。

 

「レオノールの脳内ヒプナゴジア(半覚醒)」

一見、インディーズ作品的な小手先映画に見えるのですが、全体を見据えた作りはちょっとした映画と言える作品でした。現実と幻想、リアルとフィクションを取り混ぜて映像を駆使して好き放題に描いていく演出は、使い古された感と、斬新感が入り乱れ、ラストのご陽気な締めは、映像を楽しんだという満足感を味わせてくれました。チャレンジ精神満載の一本だったかもしれない映画だった。監督はマルティカ・ラミレス・エスコバル

 

かつては有名な映画監督だったが今や年老いて自宅でテレビを見て、電球を替えるにも手元が危ういレオノールの姿から映画は幕を開ける。息子のルディが戻って来ると、電気代が未払いだと催促に来ている男と出会う。お金はレオノールに渡していたはずだがと問い詰めるが、レオノールは映画代に使ってしまったらしくとぼけるばかり。どうしようもなく悩むルディは出稼ぎにも行けないと職場で母のことを相談したりする。玄関先には何やら透明な人物がいるが、のちに、死んだルディの兄貴ロンワルドらしいとわかる。

 

ある時、一人で新聞を読んでいたレオノールは、傍の扇風機がロンワルドのイタズラで電気が入り、飛ばされた新聞の記事がレオノールの目に止まる。それは脚本コンクール募集の記事だった。レオノールは、未完成のアクション映画「復讐のフクロウ」を思い出す。劇中劇の映画のシーンはスタンダードサイズになり、主人公の男の兄が悪漢に殺され、復讐に立ち上がるシーンが描かれる。

 

話を書き進めるレオノールだが、隣人の夫婦喧嘩で窓の外に投げ捨てられたテレビがレオノールの頭に落ちて、レオノールは昏睡状態になって入院する。医師はルディに、以前同様に話しかけるのがいいとアドバイスし、ルディは必死でレオノールに話しかける。一方、レオノールは半覚醒の状態で脚本の物語の先を頭の中で書いていた。

 

映画の中でロンワルドは悪漢の囲い物のダンサーイサベラをさらって逃走し、悪漢に追いかけられていく。アクションを繰り返し、敵を倒していくロンワルド。現実では、ルディの兄ロンワルドはレオノールの撮影現場に遊びに来ていて、本物の銃を使ったシーンで誤って銃弾を受けて死んだのだった。

 

映画の中では、イサベラもロンワルドも捕まってしまう。現実世界でルディが母の病室に行くと母の姿がない。なんとテレビの中で母はロンワルドらを助けるために悪漢のアジトに乗り込んでいた。母を助けるためにルディもテレビに頭をぶつけてテレビの中に入り込む。そしてロンワルドとレオノール、ルディが悪漢と戦うが、誤ってロンワルドの銃がレオノールを撃ってしまう。レオノールはテレビの中では死んでしまうが、やがて明かりが灯りレオノールは目を覚まし、両手で画面を左右に広げると、みんなが踊り始める。そして劇中劇はハッピーエンド、フィリピンの高架下の景色が映され映画は終わる。

 

幽霊なのか透明な人物をちらほら出したかと思うと、劇中劇で展開するアクションと、現実生活の素朴さを交互に描き、主人公の心象風景をファンタジックに描いていく。そして、終盤、いきなりの群舞シーンで見ている私たちの心を明るくした後のエンディングは。映画の作り方を知っている人の演出のような気がします。小品ですが面白い作品でした。

 

「僕らの世界が交わるまで」

メッセージをコンパクトにまとめたちょっとした秀作だった。音楽の使い方が実に上手いし、小道具の使い方、画面作りの面白さも秀でていて、全体のテンポがとっても心地よいのですが、描く内容はめんどくさいほどに鬱陶しい。このアンバランスが生み出す独特の空気感にいつのまにか画面に釘付けされてしまいました。面白い作品だった。監督はジェシー・アイゼンバーグ

 

ネット画面、世界中のフォロワーがジギーという若者が歌う、決して上手ではない上に薄っぺらい歌詞の曲を聴いている。どうやらかなりのフォロワーがいて投げ銭もそれなりに稼いでいる風である。部屋の外ではいかにも堅物だがそれなりの地位もある風な父親がいる。

 

母親のエヴリンはDVや児童虐待で苦しむ人たちを助けるシェルターを運営している施設の所長らしい。エヴリンは車では格調高い音楽を聴き、無駄のないコンパクトな車に乗り、理想を掲げて日々を過ごしているが、息子とは溝ができている。父親も存在を無視されているようで、息子や妻とも距離ができている。この家族は皆バラバラであるが、と言って不幸ではない奇妙な空間になっている。

 

ジギーは同じ学校にいるライラに気があるが、ライラは社会問題に興味があるようで、話題に入れないジギーは困っている。ある日、エヴリンのシェルターにDVから逃れてきたカイルとその母がやって来る。ジギーと上手く接することができないエヴリンは、ジギーと同じ学校に通い、いかにも親孝行で優しく真面目そうなカイルに、ジギーに向けられない自分の理想を求め始める。ジギーは、ライラに好かれるため、政治問題に興味を向けようとライラの参加する集会に顔を出し、ライラが書いた詩に曲をつけたりする。

 

しかし、エヴリンもジギーも次第に行動がエスカレートし、しかも自分自身で制御できなくなり、さらにその状況に気がつかないままに相手に押し付けて行く。ある日、カイルの母から、カイルへの干渉を控えてほしい旨の意見を言われ、エヴリンは慌てて学校にいるカイルのところへ行き自分の望むものをぶつけてしまうが、カイルに完全に否定されてしまう。一方ジギーもライラの詩につけた曲を配信したら反響が良くて、収益に結びついたと熱くライラに語ったことでライラに子供だと言い返されてしまう。

 

ようやく、いつに間にか自分の主義主張、考え方から逃れられなくなっていることに気がついたエヴリンは、シェルターの事務所の自室に入りジギーの配信を聞き始める。ジギーも母のシェルターを訪れ、数々の感謝状や写真を見つける。そして、エヴリンもジギーもお互い気が付かなかった相手の姿にようやく気がつき、二人は見つめ合って映画は終わる。

 

終盤までの展開は、とにかく鬱陶しいほどに二人の登場人物の行動に辟易として行くのですが、当然ながらラストは出口が見えて終わるのだろうと推測されて展開を追っていきます。その過程で流れる音楽の使い方が実に上手いし、シンメトリーな画面作りと、エヴリンの家の食卓のシャンデリアや階段の配置などの空間作りや、車、ギター、帽子その他の小道具や調度品の使い方もうまい。90分足らずのコンパクトな作品ですが、心のすれ違いを描いたヒューマンドラマとしての色合いが見事に凝縮されている仕上がりになっています。なかなかの映画でした。