くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「武士の一分」

武士の一分

期待していたのかどうか?藤澤周平原作の時代劇三部作、などと後からとってつけたようなシリーズの第三作目「武士の一分」。
見所は木村拓哉が時代劇にでるというところである。そして、山田洋次監督作品というところか。

たそがれ清兵衛」は確かによかった。時代劇としての完成度の高さは近頃の作品の中では秀逸であった。アカデミー賞のノミネートも十分納得のいく作品であったが、といって、世界で通用するほどのものかどうかという不安も十分の作品でした。

そもそも、山田洋次監督については以前から書いていますが、それほどの巨匠とは思えない。つまり、日本の映画界を引っ張れるカリスマ性はないのである。構図の組み立てといい、殺陣のシーンの見事さといい、おそらく、ここまで演出できる監督は今の日本にはいない。かつては掃いて捨てるほどいたこの程度の演出のできる人材がである。

ところで、今回の「武士の一分」物語は将軍のお毒味役であった主人公が、たまたま、赤貝の毒に当たってしまって失明、お役後免になるところを、妻の身を挺しての上司への嘆願で、免れた(と本人も思っているのですが)。
しかし、妻はその上役に手込めにされ、その後も関係を続けざるを得なくなり、しかも、上司は結局、何の尽力もしていないのである。それを知った主人公が妻と離婚、その上司を仇討ちせんと剣の腕を磨いて果たし合いをするという物語だ。

たそがれ清兵衛」同様、下級武士の話であるし、そんな武士のしがない一軒家、毒味役のいる部屋、そして果たし合いをする川べりのみを舞台にして物語が進んでいく。こじんまりとした景色と、セットであろうと思わせる木々、そしてCGで見せる蝶や蛍などがちりばめられている。

思い出してみると「たそがれ清兵衛」も同様の場所での物語展開であったが、見え見えのセットの木々やCGはなかったような気がする。

明らかに「たそがれ清兵衛」のヒットから生まれた時代劇であって、山田洋次が最初から藤澤周平を描かんとしたものではないと思えて仕方ない。解説の夜と、藤沢周平作品の前二作は東映京都の時代劇セットを使った本格的な舞台を利用しているが、今回は東京のセットを利用しているそうである。

そのためか「たそがれ清兵衛」のときほど、俳優たちが演じる背景に迫力もないし、胸に迫ってくるものも半分ほどである。
本当に最初か三部作で作るつもりなら、どうしてこの三作目だけ手抜きになっているのか。このあたりは私が山田洋次を嫌う理由でもある。要するにこだわりがないのだ。

ところで、初めて時代劇を演じる木村拓哉であるが、私はよく頑張っていると思いました。庭で木刀を振るシーンはなかなか迫力があるし、腰も据わっています。努力したのでしょう、それに山田洋次監督の演出もあるのでしょう。とはいっても真田広之が演じる殺陣は非常に鬼気迫る迫力があることは確かです。アクション俳優からスタートしてそのあたりの体のこなしができているためでしょうか。さすがに、木村拓哉にはそれは無理だったようですね。

一方の妻役の檀れいであるが、どうも線が細い。あまりにもどこにでもいる人というイメージがある。「たそがれ清兵衛」の宮沢りえと根本的に演技力と存在感に差がありすぎるのだ。

物語設定という、根本的なストーリー展開といい、登場人物の配置といい「たそがれ清兵衛」と非常ににているために、よけいに比べてしまう。

こうしてみてくると全体としてはこじんまりとまとまっていていい映画なのですが、「たそがれ清兵衛」を見た後のような満足感は味わえませんでした。山田洋次はなにをしてるのだろう。と思わざるを得ません。

作品の質は中の上でしょう。しかし、もっとこだわって、観客に迫ってこないと話にならないことも確かです。特に最近は巨匠山田洋次なんていうキャッチフレーズまでつきだしたのですから、もっとこだわりと信念を持った映画作りをしてほしいと思います。でないと巨匠とはとても呼べないし、日本の映画界を引っ張っていくほどの人とも思えません。