くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ルルドの泉で」「善き人」

ルルドの泉で

ルルドの泉で」
ベルリン映画祭五部門受賞の話題作。世界最大の巡礼地で奇跡が起こるとされるフランス南部のルルドを舞台に主人公クリスティーヌが経験した奇跡の物語を中心にストーリーが展開していく。監督はオーストリアジェシカ・ハウスナーである。

配膳をする人々、朱色のカーディガンを羽織った介護人たちが担当である巡礼ツアーの人々を伴ってその部屋に集まってくるところから映画が始まる。背後にアベ・マリアが朗々と流れている。車いすに乗るもの、つえを突いて来るもの、そのほか様々な人々がやってくる。

そこで介護人のリーダー的な女性セシルがツアーの日程を説明。カメラは主人公クリスティーヌに焦点が合う。彼女の介護人はまだ若く、時折セシルによるアドバイスをうけながら一生懸命世話をする。

泉の水を身に浴び、聖なる石に触れ、司祭による祝福を受ける行事が描かれていく。「惑星ソラリス」のテーマにもなった曲「われ,汝に呼ばわる,主イエス・キリストよ(バッハ)」が流れる。

物語は自分で体を起こすこともできない主人公であるクリスティーヌが在る夜、ふつうに起きあがり、歩けるようになる。そして、奇跡と認定され、人々の賞賛を浴びる一方でささやかれる嫉妬と妬みが彼女を包み始める。という単純な物語である。

主人公の名前はクリスティーヌと書いていますが、解説にかかれていただけで、作品の中では彼女の名前は一度も語られなかったように思います。ストーリーは単純ですが、細かいカットやせりふにちりばめられた作者の思惑が物語を実に深みのあるものにしているのがこの作品の特徴ではないかと思います。

初日、泉へ向かう人々はめいめい、信仰がいかほど強いかを見せつけるがごとく行動しますが、翌日にはマリアの像に振り向きもせず目的地へ向かいます。画面中央にぽつんと残るマリア像のショットが非常に印象的。

一方奇跡を受けるクリスティーヌは現地の案内人の男性に声をかける。ほんのわずかなせりふの間合いに素っ気ないそぶりがないでもないが、たてるようになったクリスティーヌには非常に親密に近づいていく。ラストで、ダンスを踊る途中で突然倒れるクリスティーヌ。しばらく彼女によりそうが、さりげなく離れていくショットが実に残酷である。

司祭に立ち止まって祝福してもらえば奇跡が起こったことがあると聞けば、クリスティーヌの車いすを突然押して一番前に立つ同室の老婆(母親なのでしょうか?それでも高齢すぎる気が)。最後まで彼女の願いは不明であるが、母ととらえればつじつまは合うものの非常に意味深な存在で描かれる。クリスティーヌを夜の町に連れ出したり、とかく彼女に近づく。山登りに参加したクリスティーヌが案内人の男性と一緒に頂へ行くのを必死で追いかける。そして、二人がキスするのを見つめる彼女の視線が何とも複雑である。せりふがないしクリスティーヌに語りかける場面のほとんどないので肉親なのかどうか最後までわからない。

送別会の準備の場でセシルは突然倒れ、そのまま意識が戻らなくなる。熱心にツアーの世話を続けていた彼女に起こる不幸が、悲しいのではあるが、あまりにもさりげなく処理される画面が複雑である。

そして、巡礼ツアー最後の日。祝福される中、最優秀巡礼賞をもらうクリスティーヌは幸福の頂点へ。案内人の男性とダンスをし、未来が彼との生活になるのではという希望が彼女の周りをとりかこむ。しかし、ダンスの途中で突然力が抜けたように倒れる。不安の中壁によりそう彼女のそばにさりげなく車いすを持ってくる老婆。二人のショットが非常に長く画面を占める。元に戻るのではないかというささやきが漏れてくるような重苦しいシーン。

クリスティーヌはゆっくりと車いすに座り、それを押す老婆。暗転、エンディングである。

果たして、彼女はどうなったのか?それは観客の想像になる。そして、奇跡をもたらす意味、ふつうにいきる人々が幸福で、障害のある人が不幸であるかという問いかけ、信仰深く過ごす人々の他人への妬みの存在。この老婆の本当の意味、などなど、さまざまな疑問、問いかけを残して映画が終わる。

ほとんどの登場人物の名前が語られず、一ツアーの人々として淡々と描かれていく。あまりにも日常的なシーンを繰り返しながら、細やかな演出で人々の心のドラマを描写する。クリスティーヌに起こった奇跡さえもがふつうに描かれているので、これは奇跡のドラマではないと明らかにわかる。それぞれのシーンを思い起こせば思い起こすほどに緻密に組み立てられた画面の数々に隙のないことが浮かび上がり、尋常の映画ではなかったと納得してしまう。とはいっても、キリスト教圏ではない私たちにはたしてこの作品のすべてを身にしみて感じたかというと疑問かもしれません。

非常に個性的な映画であり、その意味で卓越した作品であったと思いますが、一方で地味な作品でもあった気がします。

「善き人」
C・P・テイラーの戯曲をヴィセンテ・アモリン監督が映画化した作品で、舞台劇であるが、非常に映画的な作品に仕上げられている秀作でした。

1937年、主人公ジョン・ハルダー教授が思いもよらずヒトラー総統の官邸へ呼ばれ車に乗っているところから映画が始まります。彼の書いた小説がヒトラーの目に留まり、論文をお願いしたいとの要請らしく、当然のようにナチスへの入党をさりげなく伝えられる。このやりとりのシーンもいかにもナチスといわんばかりの描写ではなく、ふつうの軍人の会話のように自然な描写が行われているのが実にリアルでもあるのである。

時は1933年、忙しく料理をするジョンの姿、執拗にピアノを弾く妻ヘレンの人物描写と二階から叫ぶやや痴呆気味の母が描かれる。ハイスピードのカメラワークと編集でどこかコミカルにさえ写るこのシーンがファーストシーンと対比的に描かれて非常に印象的である。

妻はどうやら家庭的ではないようで、それをカバーするジョンの姿が微笑ましいほどに和やかでさえある。しかも母親思いの優しい性格も見事に描いていく導入部が見事。

彼には親友のモーリスというユダヤ人がいる。お互い気心が知れ、何でも相談に乗る間柄である。
ある日、ジョンは学校で熱心に講義を聴く女性徒アンの来訪を受ける。雨でずぶぬれでやってきた彼女を家に入れてやるが、妻も、母も入る家にふつうに招き入れる彼の純粋さを描くシーンもなかなかのものである。

しかし、彼はアンと恋に落ち、ヘレンと離婚することになる。

1938年、すでに親衛隊の中尉となったジョンはアンと結婚し幸福な生活にはいった。ヘレンもそういう彼を憎むこともなく接するシーンもあって、それぞれに善人ばかりであると思う。

ナチスに入党したジョンは自分の姿に当惑したときに周辺の人々が歌っているかのような幻覚に見回れる。原作の戯曲にあるというこの演出は映像にするに当たっての苦心だったかもしれないが、実に自然に映像的な処理がなされているのはみごとなものである。

ある日、パリ駐在員のドイツ人がユダヤ人におそわれるという事件が起こる。翌日にはユダヤ人の一斉検挙が始まると理解したジョンはモーリスを国外へ脱出させるべくパリ行きの切符を手配、ジョンに取りに来るようにメモを残し、妻に切符を預けて自分は出頭し取り締まりに参加する。連行されるユダヤ人たちが歌を歌い出すシーンの幻覚に不吉なイメージを抱くジョンの心を投影する。

ところが、戻ってみるとモーリスはこなかったというし、モーリスは行方不明に。

後日、ジョンは、ナチスの文書検索によりモーリスが収監された収容所を調べる。そしてその資料には逮捕されたのは取り締まりの夜であることがわかり、妻がモーリスをゲシュタポへ通報したことを知る。

ジョンはそのままモーリスのいるらしい収容所へいくが、そこはあまりにも悲惨なところだった。次々と力つきて倒れるユダヤ人、銃声、不気味な煙突、片隅にユダヤ人が楽器を演奏するシーンに出くわす。モーリスの姿はない。ジョンは「本当に現実か」とつぶやき涙を流す。カメラはゆっくりと引いていって次々とあふれてくるユダヤ人の雑踏を画面いっぱいにして暗転エンディングとなる。このラストが実に映画的なのだ。

細かな人物描写による映像はもちろんであるが、一見平和そうに繰り返されるジョンの生活のシーンが物語のほとんどを占める。しかし、終盤、ユダヤ人の検挙シーンから一気に悲惨な映像へとなだれこみそのまま劇的な大団円を迎える物語構成の見事さは原作の良さ以上に映像としてのリズムが的確にマッチングした結果によるものだと思う。

平凡な文学者である主人公が偶然か必然か、次第にナチスとしての存在に染まり、その中に浸ってしまわんとするシーンが、クライマックス、取り締まりに出頭するときに妻に自分の姿を鏡で見なさいといわれてその姿をジョンが見るシーンである。

しかし、妻にモーリスを通報されたと知るや再び文人としての自分を取り戻し収容所へ向かう。この人間としての変化が本当に手に取るように映像として具体化されている。合間合間に挿入される静かな歌声の幻覚シーンが彼の心の動揺を物語り、反発しながらもどこかでナチス入党による自分の出世に酔っている姿もかいま見せる。

ラストシーンの一筋の涙がどうしようもなく時代に翻弄されていった自分への涙でもあるのではないだろうか。ナチスユダヤ人迫害を描いた作品はその全編が暗いものになるのが多いがこの作品はその微妙なバランスが在る意味リアルなのである。先日見た「サラの鍵」よりよほど出来映えのいい映画だった気がします。