くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ブルックリンでオペラを」「毒娘」「インフィニティ・プール」

「ブルックリンでオペラを」

面白い映画なのですが、キャラクターを作り込みすぎたので、展開が奇妙に煩雑になった上ごちゃ混ぜになって、肝心のコミカルな展開が潰されてしまった感じです。もう少し、鮮やかさとシンプルさが欲しかった。でも、スタンダード画面と横長画面を繰り返す絵作りや、劇中劇のモダンオペラの設定などは個性的で面白かった。監督はレベッカ・ミラー

 

舞台の後のパーティでしょうか、オペラの歌を奏でる役者の姿からカメラが移ると、モダンオペラの作曲家で次の作品に悩んでいるスティーブンの姿となる。そこへ、精神科医潔癖症の妻パトリシアが現れ、人混みから逃げる夫に客を紹介したりする。場面が変わると、若いカップルジュリアンとテレザがベッドでいちゃついている。2人でポラロイドで写真を撮りあったりする。ここに、南北戦争のコスチュームプレイを趣味にしているテレザの義父トレイはこの日もイベントから帰って来ると、妻のマグダレナが出迎える。

 

ティーブンはすっかりスタンプで引きこもっているので、パトリシアは散歩にでも行けばと送り出す。スティーブンは行きつけのバーに立ち寄ったが、そこでカトリーナという女性と知り合う。曳舟の船長をしているという彼女に船の中を案内されたが、彼女は恋愛依存症だと言って服を脱ぎスティーブンに迫って来る。つい体を合わせ、スティーブンは船を降りるが、途中で海に転落し、新しい舞台のアイデアが浮かぶ。それは今経験したことだった。

 

そんな頃、パトリシアは一人の女中マグダレナを雇って部屋中掃除していたが、そこへ恋人のテレザを連れた息子のジュリアンが戻って来る。なんとマグダレナはテレザの母だった。パトリシアは学生時代、初恋の相手との間にジュリアンが生まれたが、その後相手と別れスティーブンと結婚した、一方テレザの父トレイはマグダレナと結婚はしていなくてテレザを養子にして義父として暮らしている。裁判所の速記者でもあるトレイは異常なほどに法律に詳しく硬い人物だった。マグダレナは若き日の失敗を繰り返さないためにテレザには大学へ進んで知識を得てほしいと考えていた。

 

ある日、マグダレナはテレザのベッドの下から、スティーブンと撮った裸の写真を発見しトレイに見せてしまう。トレイはテレザがまだ16歳で結婚できないこと、スティーブンが無理やりテレザと寝たのではないかと法的に解釈して裁判しようと言い出す。一方、カトリーナはスティーブンにストーカーのようにつきまといはじめ、スティーブンは、病院で見てもらった方がいいと勧めたため、パトリシアの病院に診察に行く。そこで、パトリシアはスティーブンが書いたオペラのモデルの女性だと気づいた上、スティーブンとも関係があることがわかってしまう。潔癖症のパトリシアは修道女になることを決心して荷物をまとめ始める。

 

ジュリアンが訴えられそうになり、それを回避するためにマグダレナ、パトリシア、スティーブンらはジュリアンがテレザと結婚すればいいのでは考える。しかし16歳で結婚するためにはデラウェア州へ行かないといけない。警察にも顔がきくトレイはテレザを監禁しているので、陸上を車で逃げても捕まる。そこでスティーブンはカトリーナに頼んで、船でデラウェア州へ行くことを考える。マグダレナはテレザを連れて、トレイのコスチュームイベントに参加するフリをして家を出て、隙を見てカトリーナの船に乗る。パトリシアはすっかり精神的に参っているので、自宅で見守ることにする。

 

やがてデラウェア州についたジュリアンとテレザは、一晩で手に入れたカトリーナの牧師免許によって結婚を認められる。スティーブンはカトリーナと恋人同士になり、パトリシアは無事修道女になり、みんなでスティーブンの新しいオペラの舞台を見ている場面で映画は終わる。その舞台はここまでの経緯そのままだった。

 

面白いのですがパズルがパズルのままで綺麗にまとまっていかない脚本が本当にもったいない。でも、ちょっと楽しめる映画でした。

 

「毒娘」

だらだら間延びした脚本と、間の悪い演技、リズムが乗らない演出にぐったりする作品だった。B級にもならない駄作ホラーという一本。こういうものを作って金を取るなと言いたいけれど、仕方ないですね、興味があってみに来たのだから。監督は内藤瑛亮

 

高校生のバカップルが一軒の売りに出ている家に勝手に入る。部屋に入ったら不気味な瓶が並んでいて、ベランダに人の気配がするので男が覗くと、突然赤い服の少女にハサミで切りつけられて映画は幕を開ける。場面が変わり、この家に萩乃、萌花、篤紘の家族が移り住んでくるが、不気味な赤い人物の姿が見え隠れする。

 

ある日、産婦人科に行った萩乃に萌花から電話が入り、ケーキとコーラを買ってきてほしいという。萩乃がケーキとコーラを買って慌てて戻ると赤い服の少女がハサミを持って萌花を襲っていた。少女はケーキとコーラを食べると「またね」と言って去ってしまう。どうやら以前この家に住んでいた家族の娘らしく、近所で有名なちーちゃんという少女だったと刑事は言う。萌花は不登校だったが自宅で勉強して過ごしていた。萩乃は後妻で、萌花の母は火事で亡くなっていた。

 

そんなある日、近所の主婦が、娘がダンスをしているので、その衣装を萩乃に頼みたいと来る。萩乃は以前衣装デザインをしていて、結婚して辞めていたのだ。しかし、今も仕事は再開したかったが、子供が欲しいという篤紘の気持ちに応えようとしていたが、そんな萩乃を萌花は疎ましく思っていた。萩乃は萌花と一緒に衣装デザインを仕上げて主婦に喜ばれる。そんな萩乃に、知人から一人舞台の衣装をデザインして欲しいとやって来る。篤紘は反対したが萩乃はこっそりそのデザインを描き始める。

 

その後もちーちゃんが現れ萩乃達を悩ませ、ちーちゃんの両親も謝りに来たりする。萌花は妙にちーちゃんと仲良くなり、次第に部屋にあげて話をするようになる。萩乃はなんとか妊娠したが、仕事への未練も強くなって来る。そんな萩乃に篤紘はますます横暴になってきて、ある日、自分の意見を言うようになった萩乃を殴ってしまう。それを見ていた萌花はちーちゃんと一緒に父を殺すことにし、ちーちゃんの住んでいる橋の下で支度をする。萌花は、萌花の母も篤紘に殺されたらしいと思い始めていた。

 

萌花が部屋からいなくなったので探していた萩乃と篤紘が家に戻って来ると、突然ちーちゃんが襲いかかる。そして篤紘はハサミで刺されて殺され、萩乃にも迫るが、萌花は母を庇う。ちーちゃんは二人に反撃され階段から落ちるが、姿を消してしまう。

 

萌花は施設に収容され、萩乃はまた仕事を始める。あの家に新しい家族が住むが、二階にいたちーちゃんが現れ、家族に毒ガスを撒いて映画は終わる。

 

全くくだらない作品で、キャラクター造形が全然できていない上に、ありきたりなセリフと適当な言い回しを繰り返していく流れに辟易としてしまう。駄作という言葉がぴったりの一本だった。

 

「インフィニティ・プール」

西洋の富裕層を皮肉った悪趣味なミステリーホラー作品だった。表現がグロテスクなのは構わないが映像に品がないので画面から目を背けたくなる嫌悪感さえ生まれて来る。それでもシュールな展開に面白さがあればいいのですが、そこに一工夫ないために、見終わって、面白かったと言う感想にならない。芸術だと言えばそれまでだが、独りよがりのメッセージ映画という括りでもいいかもしれない一本だった。監督はブランドン・クローネンバーグ。

 

暗闇の中でジェームズとエムの夫婦がいちゃついている会話から映画は幕を開ける。ジェームズは作家だが新しい閃きがなく、裕福な妻エムとリゾートホテルに来て、何かのアイデアを探っていた。ある日、海岸でガビという、毎年ここに遊びに来ている女性と出会う。ガビはジェームズの本を読んだことがあるというのでジェームズは親しみを覚える。ガビは翌日、ホテルの外で食事をしようと二人を誘う。この島ではホテルの外に出ることは禁止されていたが、ガビと夫のアルバンと一緒に、アルバンがスレッシュという男から借りた車でホテルの外へ食事に出かける。

 

食事の後、しこたま飲んだ四人は車でホテルへ向かうが、ジェームズが運転していて誤って人をはねてしまう。アルバンとガビは逃げた方が良いとそのままホテルに帰るが、翌朝、ジェームズのところに警察が来てエムと共に逮捕される。しかし、警察署で、ジェームズのクローンを作った上、それを被害者の息子に殺させることで罪を償う方法があると説明されて、エムは大金を払いその手続きを進める。

 

エムとジェームズの目の前で、ジェームズのクローンは被害者の息子に刺し殺され、その遺灰はジェームズに届けられる。エムはこんな所にいたくないと帰る段取りを急ぐが、ジェームズはパスポートを無くしたからと先にエムを帰らせる。実はジェームズはパスポートをトイレに隠していた。ジェームズはアルバンの知り合いに頼んでパスポートを早く準備してもらうようにする。アルバンは、離れた所のリゾートホテルの設計をしたのだが、そのホテルのインフィニティ・プールの事故で死人が出て責任を追及され、クローンの手続きをしたのだという。しかしそのホテルのオーナーが表彰されたのが気に入らないので、その家に押し入って表彰メダルを盗もうと持ちかけて来る。

 

アルバンやガビとその友人達と一緒にジェームズもオーナーの邸宅に忍び込み、オーナーらを拘束するが、住人と撃ち合いになってしまう。なんとか戻ってきて、またクローンの手続きでガビらも含め刑を逃れたが、ガビはジェームズに、この地にしかない麻薬を勧める。それを嗅がされたジェームズは幻覚を見て、ガビやアルバンらと共に乱行をしてしまう。そして次第にその魔力に取り憑かれ始める。

 

ジェームズのパスポートの手続きが警察の刑事に妨害されているから、その刑事を懲らしめようとアルバンやガビに提案され、一緒にジェームズも参加するが、引き摺り出されてきたのはジェームズのクローンだった。ガビらの行動が異常なものだと思い始めたジェームズは帰国することを決め、隠していたパスポートを持って空港へ行くバスに乗るが、ガビ達が追って来る。そして途中でバスを止められたので、必死でジェームズは逃げ、地元の住民の小屋に転がり込むが、そこは以前轢き殺した被害者の家で、その息子がジェームズに迫って来る。しかしそれも幻覚で、気がつくとガビらと共にいた。

 

ガビらは犬に首輪をつけたジェームズのクローンを連れてきてジェームズと殺し合いをさせようとする。ジェームズは、狂ったように自分のクローンを殴り殺す。やがて雨季がきてホテルは閉鎖の期間に入る。ガビ達は帰国するため空港へ行くが、ジェームズは飛行機に乗らず、閉鎖されたホテルで雨を見ている場面で映画は終わる。

 

エログロの極みの悪趣味な映画で、芸術表現だと言われればそれまでかもしれないが、個人的には受け入れられない一本だった。

映画感想「オッペンハイマー」「コントラクト・キラー」「白い花びら」

オッペンハイマー

2回目の鑑賞でしたが、この映画の真価を確認できた気がしました。1回目の鑑賞後の感想ではアカデミー賞を取るレベルに若干言及しましたが、ある意味、取るべくしての一本だったかと認識を改めます。それは、これだけの登場人物が語る物語を何の混乱もさせずに描き切った作劇のうまさ、脚本術の卓越さ、そして、この時代を細かい編集とカットの連続で映像として表現した抜きん出た映像演出の感性は拍手して然るべき一本だと今回理解できたことです。そして、背後に見え隠れする核兵器への懸念と、人類が道を誤る瞬間をまるで閃光の如く見せた描写には頭が下がります。哲学的な面もあり、社会批判的な面もあり、人間の性を露呈する怖さもある。確かに長尺ではあるけれど、必然的な長尺を見事に整理して一本にした力量は、近年の監督の及ばない面かもしれません。映画史に残して然るべき一本、そんな恐ろしい作品だった。

 

若き日のオッペンハイマーケンブリッジ大学で、雨の降る空を眺める場面、プロメテウスの火の暗示を語るナレーションと映像から映画は幕を開ける。イギリス、ドイツ、オランダと渡り歩いていく若き日のオッペンハイマーは、当時アメリカではまだ軽視されていた量子理論を研究し、それを母国アメリカにも定着させるべく戻って来る。

 

天才と言われたアインシュタインもすでに過去の人と物理学者の間では考えられてきた時代、世界は戦争という大過に見舞われていく。世界的に核兵器の開発に凌ぎを削る中、ナチスポーランドへ侵攻し、ソ連核分裂実験に成功したことで焦ったアメリカは、グローヴス大佐をリーダーに、核兵器開発のためにオッペンハイマーに白羽の矢を立てる。

 

当時は核開発に肯定的だったオッペンハイマーは、ニューメキシコのロスアラモスに突貫工事で都市を建設して研究施設を作り、アメリカ中の優秀な研究者を集めて核開発を進める。そんな頃、政界で入閣を目指すストローズは、アイソトープ輸出に関してオッペンハイマーに揶揄われたことを恨み、さらに水爆開発にも異論を言われて嫌っていた。

 

戦後、ストローズは、原子力委員会の顧問にオッペンハイマーを招き、委員だったアインシュタインに引き合わせたが、池のそばで佇むアインシュタインオッペンハイマーが何かを語った後、アインシュタインがストローズを無視したような態度を示したことが気になっていた。

 

ストローズは、街の靴売りから立身出世した人物だが科学者に対して異常なほどの劣等感があった。そして、原爆投下後、一躍時の人になったオッペンハイマーを葬るべく共産党員と関わりがあったのではという聴聞会を開き、彼の名声を剥奪する手段に出る。しかし、ストローズが商務長官就任にあたっての公聴会で、それらを明るみにしたヒル博士らによって、結局ストローズは失脚してしまう。

 

オッペンハイマーアインシュタインと交わした会話は何だったのか。アインシュタインは、かつて自分を称賛する賞を授与されたが、それは相対性理論は過去のものだということを示す科学者たちが、自分たちを満足させるために送ったものだと語る。そして、近い将来、オッペンハイマーに賞が授与されることがあるが、それはオッペンハイマーの罪を許したのではなく、自分たちの罪を赦すべく自己満足のためのものだからと言う。オッペンハイマーアインシュタインに、原爆開発時、連鎖反応で世界が破壊される懸念を相談に行ったことがあるが、あの懸念は正しかったと言い、アインシュタインは呆然とした気持ちになってストローズとすれ違う。

 

もう一度、物語を簡単に整理すればこう言うことだったと思います。時間を前後させ、オッペンハイマーパートをカラーでストローズパートをモノクロにして交錯して編集し、周辺の科学者の思惑や、妻や恋人とのエピソードを交え、当時の反共運動いわゆる赤狩りの現実、水爆開発への歩み、そして世界的な緊張感を機関銃のように切り返すカット編集と、恐ろしいほどの音響効果、さらにIMAXカメラの威力を最大限にした映像で徹底的にあの時代を描き切った演出が恐ろしい仕上がりを見せた作品だと思いました。圧巻!

 

コントラクト・キラー」

シンプルな物語に、ユーモアを交えた展開を散りばめた素朴なラブストーリー。フィクションとしての映画の面白さを突き詰めていく作りがとっても楽しい作品でした。監督はアキ・カウリスマキ

 

英国水道局、そこで働くレオは、水道局が民営化になる事で、突然、たった一つの金時計だけもらい解雇される。絶望したレオは金時計を金に変え、ホームセンターでロープを買い、自殺しようとするがうまくいかない。たまたま新聞記事で、自分を殺してくれるコントラクト・キラーの存在を知り、路上で情報を探って、コントラクト・キラーの元締めのところにやって来る。そこには何人か男たちがいたが、実際に殺人をするのは別の人間だと告げられる。レオは金を渡して契約を結ぶ。

 

後日、殺されるためにカフェでぼんやりしていた彼のところに、マーガレットという花売り娘が現れる。一目で惚れてしまったレオは殺し屋から逃げるようになる。レオとマーガレットはホテルに泊まる。一方レオを狙う殺し屋は肺癌で、余命わずかだった。そしてついにレオの泊まるホテルを発見する。たまたまレオがタバコを買いに出たところへ殺し屋が部屋に入って来る。そこへレオが帰ってきたのでマーガレットは花瓶で殺し屋を殴り倒し逃げる。

 

レオは、契約を破棄しようと、街でコントラクト・キラーの元締めのところに行った際見かけた男を見つけて後をつけると、なんとその男たちは宝石店に強盗に入ったところに出くわす。その上、男たちは店主を銃で撃って、そのピストルをレオに捕ませて逃げてしまう。防犯カメラにレオの姿が写されてレオは新聞に載ってしまう。一方、マーガレットはレオの行方を探していた。レオは列車に飛び込もうと考えたができなかった。

 

ホテルの受付の情報で、レオを見かけたという墓地へ向かったマーガレットは、途中立ち寄ったハンバーガー店でレオと再会する。そして二人で逃げることにし、マーガレットは駅へ行って切符を手配し、レオは一旦ホテルに戻ってきたが、そこへ殺し屋がやって来る。その頃、宝石店を襲った強盗が警察に捕まりレオの容疑は晴れていた。それを新聞で知ったマーガレットは急いでレオのもとにむかう。レオはホテルの受付の男の機転で逃げるが、殺し屋に追いつかれる。ところが殺し屋は銃を出し、レオの目の前で自殺してしまう。安心したレオが通りに出ると猛スピードで走るタクシーに乗ったマーガレットと出会う。危うく轢き殺されそうになるがすんでのところでタクシーは止まり、二人は見つめあって映画は終わる。

 

あれよあれよと展開するお話がとにかくユーモア満点に突き進んでいくテンポが面白い作品でした。

 

「白い花びら」

モノクロサイレントの形式で、セリフは全て字幕、仰々しい音楽をバックに流しながら、一昔前のような物語をクソ真面目に描いていく、これもまたユーモアの一環かと思わせる一本で楽しかった。監督はアキ・カウリスマキ

 

マルヤとユハがバイクで微笑ましく走る姿のアップから映画は幕を開ける。農場で作った野菜を売りに行く二人は、いかにも仲の良い夫婦という感じで幸せそのものでほのぼのした情景である。ひと稼ぎして家に帰り、ユハは妻マルヤの料理を美味しそうに食べ、ベッドを共にする。

 

ある日、派手なオープンカーを乗ってシェイメッカが通りかかるが、車が故障してユハに助けられる。ユハが車を修理している間、シェイメッカはマルヤに色目を使う。元々歳の離れた夫と貧しい農場生活だったマルヤは、都会的で若いシェイメッカにすっかり惚れ込んでしまう。やがて車が治ってシェイメッカは去っていくが、去り際にマルヤに、必ず迎えに来ると約束する。

 

そして数ヶ月、マルヤはすっかり変わってしまい、派手な化粧をし、ユハの食事も満足に作らなくなくなる。そんな頃、シェイメッカが再び農場を訪れる。そして三人でダンスホールに行くが、シェイメッカがマルヤとダンスをする間も酒好きなユハは酔い潰れるまで飲んでしまう。ユハを家に連れ帰ったが、マルヤは家を出る決心をし、ユハに手紙を残してシェイメッカと出ていく。

 

ところが、シェイメッカがマルヤを連れて行った家は、いかにも夜の仕事をしているような女達と派手な姉がいた。しかも、シェイメッカはマルヤにもホステスのような仕事をするように強要する。マルヤが拒否すると、女中のように使い始める。そんな時、マルヤは隙を見て逃げ出すが、列車に乗ろうとして気を失って病院で目を覚ます。そして妊娠したことを知る。まもなくして子供が産まれる。

 

冬が来て春が来る。ヨハはマルヤのことが忘れられず、意を決してマルヤを連れ帰るべく、斧を研いで街へ向かう。そして、シェイメッカの家に殴り込み、シェイメッカの手下を殴り倒してシェイメッカに迫るが、シェイメッカは銃でユハを撃つ。それでもユハはシェイメッカを追い詰め斧で殺す。そしてマルヤと赤ん坊を助け出してタクシーで逃し、自分はゴミの山の中で倒れて息を引き取り映画は終わる。

 

なんのことはないのだが、カウリスマキだと思うと、これもユーモアかと思ってしまう作品でした。

 

 

映画感想「トータル・バラライカ・ショー」「レニングラード・カウボーイズ モーゼに会う」

「トータル・バラライカ・ショー」

1993年6月ヘルシンキレニングラードカウボーイズ旧ソ連退役軍人らで結成されたレッド・アーミー・アンサンブルとの合同コンサートのライブ映像。監督はアキ・カウリスマキ

 

ピチッと着込んだ軍服姿のレッド・アーミー・アンサンブルとふざけたリーゼントと尖った靴のレニングラードカウボーイズとの奇妙なコラボレーションも面白いのだが、知った曲がたくさん出てくるので飽きずに見ることができた。ステージはまさに圧巻という迫力で、旧ソ連の力量を目の当たりにする面白さもあった。

 

レニングラードカウボーイズ モーゼに会う」

相変わらずナンナンセンスな展開に、終始ニンマリし続ける作品で、一作目ほどまとまりはないものの、テンポのいい曲と遊びまくった演出に拍手してしまいました。監督はアキ・カウリスマキ

 

メキシコで成功したレニングラードカウボーイズだが、テキーラに毒されて、一部のメンバーはいなくなり、今や荒野に追いやられてうらぶれた日々を送っている。そんな彼らにニューヨークから仕事の依頼が来て久しぶりに車でニューヨークを目指す。

 

ニューヨークでの仕事は成功したが、そこで、メキシコで行方不明になったマネージャーウラジミールと再会する。彼は神の啓示を聞いたからとモーゼと名乗っていた。モーゼはレニングラードカウボーイズは故郷のシベリアに戻るべきだと言い、その段取りをつける。

 

メンバーたちは小舟でヨーロッパを目指し、モーゼは故郷に戻るためには土産がいるから後から行くという。モーゼは自由の女神の鼻を盗み、飛行機の羽根につかまってアメリカを飛び出す。そして途中でレニングラードカウボーイズと合流し、一路シベリアを目指す。例によって道中は貧乏旅行となり、物乞いのように演奏してはささやかなかせぎをしてすすんでいく。

 

シベリアには、聖なる光で子牛が生まれているから、そこが目的地だという。途中、メンバーの一人は重病で病院に入院したり、自由の女神の鼻を追ってCIAが後をついてきたりして、とうとうシベリアに着くが、モーゼは目的地を見てはいけないとヨーロッパへ去っていく。こうして映画は終わる。

 

モーゼが水の上を歩けたり、さまざまなお遊びをふんだんに入れた映像が楽しい作品で、カウリスマキのセンスが光る一本でした。

映画感想「RHEINGOLD ラインゴールド」「ラヴィ・ド・ボエーム」

「RHEINGOLD ラインゴールド」

主人公ジワの成功までの波乱の人生を駆け抜けるように描いて行くのがとにかく心地よいほどにテンポが良くて面白い。犯罪を重ねて行くだけの重い話と次々と地域が変わる展開なのに、素直に追いかけていけるリズム感がとってもいい秀作だった。監督はファティ・アキン

 

2010年、シリアの砂漠地帯を捉え、そばにある刑務所にカメラが移動すると一台のトラックが囚人を乗せてきて映画は始まる。降りてきたのはジワ、サミー、ミランらだった。クルド人のジワは所長に呼ばれ、金(きん)のありかを聞かれる。ジワは金をを強奪した嫌疑がかけられていた。しかしジワが答えないので金歯を抜かれてしまう。そしてジワは幼い日を回想する。

 

時は1986年、地元の有名な音楽家エグバルを父に持ち母も音楽家だったが、ある日突然ホメイニらに拉致されて収監されてしまう。しかし、エグバルが有名な音楽家だったこともあり、まもなくして釈放され、地元有力者の家で働くようになる。その家でジアは同年代のミランと出会う。

 

その家でジアはピアノを教えてもらい、やがて十年の月日が経つ。父は音楽家として生きるべく離婚して出ていってしまい、家族は母の少ない賃金で暮らしていたが、ジアは地元の不良たちと付き合い、ドラッグの密売をしながら日々暮らしていた。ある日、別の部族の不良にリンチにあったことから、強くなるべくボクシングを習い、やがてカター(危険なヤツ)という異名を持つまでになる。そして以前自分をリンチした不良たちを次々に血祭りに上げるが、あるスーパーで暴れていて、シリンと再会する。シリンはジアの向かいに住んでいて妹を学校へ送り届けるときに会って以来好きだった。しかし乱暴なジアにシリンは嫌悪感を持ってしまう。

 

ある夜、ライブハウスで一人のラッパーを見かけその音楽とビートに魅せられたジアは音楽を手掛けた男マエストロを訪ねる。マエストロはコンピュータを駆使して電子音楽を作る作曲家だったが、当時はまだ最先端すぎて受け入れられていなかった。ジアは音楽を教えてもらうことを条件にその家を出るが、そこで麻薬の密売で警察に捕まってしまう。ジアはその後、用心棒の仕事を事業としてするべく人脈を作ろうとするが、そこで、今は実業家になったミランと再会する。

 

ジアは地元の有名クラブの用心棒を始めるが、ライバルのヤクザものが脅しをかけてくる。そこでミランはこの地のマフィアのボスをジアに紹介し、ジアはボスの後ろ盾で仕事を拡大、さらに音楽プロデューサーの仕事をするためにサミーという男と、売春婦だがラッパーでもあるエヴァを採用する。

 

事業を拡大し独り立ちするために資金をボスに頼むが、ボスは液体コカインを売りさばく仕事をくれる。ところが、搬送途中追突された上、液体コカインの入った瓶を割ってしまう。ボスに損害をかけたら殺されると判断したジアは、ミランに、ある人物を紹介してもらい、死人の金歯を集めて売り捌く仕事をしている男を襲い、金を奪えば目標以上に金が入るとアドバイスされる。

 

ジアはサミーと、金の護送車を襲おうとするが、運悪くなかなかうまくいかない。究極の手段で警官に化けて何とか金の強奪に成功するが、特殊部隊から狙われ始める。危険を感じたジアらはミランの指示で遠方へ逃亡するが、たまたま訪ねてきたミランが警察に後をつけられ、そのままシリアの刑務所に収監されてしまう。冒頭のシーンである。まもなくしてジアらは別の車で搬送されて、犯罪者として指名手配されているドイツへ送還されてしまう。

 

ドイツで刑務所に入ったジアに、母も妹も面会に来るが、ジアの犯罪歴で何もかもうまくいかないと言われる。そして父エグバルも訪ねてきて、時間を無駄にするなと忠告される。ジアは机に鍵盤を書いて音楽を再開し、マエストロに面会に来てもらい、マエストロを通じて自身のラップ音楽を外に出してもらう。やがて、デビューCDが発売され、大人気となる。

 

場面が変わり現在、ジアはシリンとの間にできた娘を学校へ迎えに来ていた。家に帰ったら娘が、ジア=父に、お父さんは犯罪者だったとネットで知ったと友達に言われたことを話す。ジアは、遠い昔犯罪者だったことを正直に言うが、さらに娘は金のことを聞くのでジアは娘の耳に何か呟く。カメラは大きく海の中に入って行くと人魚が泳いでいて、その先に溶かされた金が広がっていた。こうして映画は終わる。

 

余計な人物描写とか、背景描写はすっ飛ばして、ジアがあれよあれよと生きて行く姿をハイテンポで描いた演出が実に上手い。確かに犯罪者なので、決して褒めるべき人物ではないが、住んでいる地域や宗教や民族問題を考えるとそれもいた仕方ないと思ってしまい、その舞台設定をあっさりと描いたため、映画に無駄な重々しさを生まずに良かったと思う。ラストの人魚シーンもあっと思わせられて良かった。

 

「ラヴィ・ド・ボエーム」

淡々と進む大人のラブストーリーですが、そこに貧しいという現実が常に底辺にあるのを切々と物悲しく語って行く様が非常に情緒があって胸に染み渡ります。ラストの、「雪の降る街を」のメロディに哀愁が詰め込まれる作品でした。監督はアキ・カウリスマキ

 

路地裏、ヨタヨタと一人の男が彷徨い出てくるのを俯瞰で捉えて映画は幕を開ける。ゴミの中に倒れてしまい顔を怪我して、バーに入って薬をもらう。彼の名はマルセル、売れない戯曲作家である。自宅で目を覚ますと、壁に立ち退き命令の紙が貼られていた。役人が来たので滞納している三ヶ月の家賃を下ろしに行くからと荷物を置いて出て行く。そして行き場もなくカフェに行って、そこで画家だというロドルフォと出会う。意気投合した二人は、マルセルに誘われるままに家に戻ると、そこに次の入居人で作曲家のショナールが住んでいた。

 

翌朝、絵の具を描く金がないとマルセルの家に行ったロドルフォだが、マルセルはナンパした女性とベッドにいて追い返される。ロドルフォがある夜帰宅すると、隣の部屋にやってきて、中に入れないミミという女性と出会う。そして部屋に入れてやりベッドを貸してやる。しかし、ロドルフォが外に出て時間を潰して戻ってくるとミミはいなかった。

 

ところが、ロドルフォがたまたま寄ったカフェでミミという女性に再会、いつに間にか彼女に恋してしまう。一方、マルセルは新聞王と会うことになる。黒い服が必要だったが、たまたまロドルフォに肖像画を頼みに来た男の服を拝借して新聞王の元へ。今度企画する雑誌の編集担当になって欲しいと言われ大金を持って帰ってくる。

 

その金でロドルフォは絵の具を買い、ショナールは車を買う。ロドルフォはミミをデートに誘うが途中で財布をすられてしまい、レストランで食事の後、警察がやってくる。食事代は隣の席の男が払ってくれたが、警察はロドルフォの旅券を調べるうちに、アルバニアからの不法入国であることがバレて強制送還されることになる。

 

ロドルフォはミミに電話するも連絡がつかず、ロドルフォの部屋を片付けに来たマルセルらに、ミミはロドルフォが強制送還されたことを知る。しかし、まもなくして、ロドルフォは戻ってくる。ロドルフォは早速ミミの店に行くがすでに辞めていた。しばらく待っていると、裕福な出立の男の車でミミがやってくる。ミミはロドルフォを見るとまた彼の元に戻ってきた。

 

マルセルらは女たちを連れて買い物に連れて行ったりハイキングに連れて行ったりしようと提案、ショナールも彼女を見つけて六人で出かける。しかし、マルセルの彼女は、このままの貧乏生活は耐えられないと、マルセルの元を去る。その夜、ミミもロドルフォにちょっと散歩に行くと言って家を出てしまう。ロドルフォが、ミミがバーにいるのを発見するがミミは戻らなかった。

 

しばらく後、部屋を追い出されたからとミミがロドルフォの元に戻ってくるが、体の具合が悪かった。医師に見せると手遅れだという。入院の費用が必要ということになり、ロドルフォは手持ちの絵を全て売り、ショナールも車を売り、マルセルもコレクションの本を売って金を作る。ミミの病室にいたロドルフォは、ミミが春の景色が見たいというので窓を開け、外に花を摘みに行って戻ってきたらミミは死んでいた。外で待っているマルセルらに、一人になりたいとロドルフォは彼方に去っていく。背後に「雪の降る街を」が流れて映画は終わる。

 

物悲しいお話なのですが、淡々と物語が展開するので、映画全体が暗くならない。それでも何か胸に沁みてくる感覚に囚われる作品でした。

映画感想「果てしなき情熱」「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」

「果てしなき情熱」

笠置静子特集の一本。作曲家服部良一をモデルにしていると言っても全く別物の一人の作曲家の人生ドラマという感じで、ちょっと仰々しい演技とあざとい演出が鼻につく作品でした。岡田淑子、淡谷のり子らの大スターを出演させた音楽ドラマという感じでした。監督は市川崑

 

コップのアップから、背後に一人の男の姿、駆け込んで来た女性がその男が自殺をしようとしているのを止める。男は夜の街に出ていき映画は3年前に遡って始まる。キャバレーの専属作曲家三木は酒に溺れ、思うように作曲も進まず貧乏世帯であるが、クラブ歌手雨宮は彼の曲の素晴らしさを知っていた。ある日、キャバレーのボーイに言い寄られた石狩しんが逃げ、三木の部屋に駆け込んでくる。しんは酔い潰れる三木を見て、どこか惹かれるものを感じる。

 

三木の「湖畔の宿」の歌を勝手にレコード会社に雨宮が売り込んで金を手にしてくれるが、そんな行動も三木には許せなかった。一人信州へ旅行に行った三木は、湖畔で愛犬が溺れて困っている小田切優子と出会う。三木はすっかり優子に惚れてしまうが名前もかわさず別れてしまう。

 

戻った三木は、たまたま男に絡まれている女性を助け、誤って殺してしまって刑務所に入ることになる。しかし、出所の日、しんが出迎える。しんの気持ちに絆された三木は結婚を申し込む。しかし結婚式の夜、三木は停留所で優子と再会する。優子には夫がいた。三木はやるせない思いのまま結婚式に戻り、しんと結婚するが気持ちは優子から離れず、その後、作る曲は全て優子に捧げるものだった。それでも三木の曲は大ヒットして有名になって行く。しかし、貧乏世帯は変わらず、しんはキャバレーで下働きをするようになる。

 

しんと三木の仲も溝ができたまま埋まらなかったが、しんは三木を献身的に支える。それでもとうとうしんは離婚を決意するが、雨宮に、三木は子供みたいな人だから支えてやって欲しいと言われる。一方、三木は自宅に戻らず、とうとう優子の家の前にやってきたが、この日、優子は亡くなっていた。意気消沈した三木は自宅に戻り自殺しようとするが、そこへしんが駆けつけ思いとどまらせる。冒頭のシーンである。三木はしんに、死ぬのだけはやめて欲しいと言われ、一人海岸へ行き、楽譜の中で泣き崩れて映画は終わる。

 

物語の出来の良し悪しより、音楽劇の色合いが全面に出た作品で、市川崑作品の中では中の下レベルの一本だったが、時代を感じさせる意味では楽しめる映画でした。

 

レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ

楽しいコメディだった。とんがったリーゼントにとんがった靴、そのユニークな出立のレニングラードカウボーイズの微笑ましいロードムービーの秀作。全編流れる軽快な音楽と、コミカルな展開、思わずニヤッと笑わせるユーモアに、微笑ましい人間愛を感じてしまいました。監督はアキ・カウリスマキ

 

ツンドラで凍えた大地のショット、畑にとんがったリーゼントでギターを持った男が凍っている。その向こうの小屋でレニングラードカウボーイズが賑やかに歌っている。それをじっと見る音楽プロデューサーだが、これでは商売にならないと呟き、アメリカなら大丈夫かもしれないとアメリカ行きを勧め、従兄弟を紹介してもらう。早速リーダーウラジミール率いるレニングラードカウボーイズアメリカへ旅立つ。当然、凍った仲間も連れて行く。

 

アメリカに着いて、巨大で豪華な車を全財産注ぎ込んで購入する。彼らを慕う頭が禿げた男も後を追ってくる。従兄弟に演奏を見てもらうが、今やロックンロールだと言われ、早速ロックンロールを勉強、次の店でロックンロールを披露する。音楽プロデューサーの従兄弟にメキシコで従姉妹の結婚式があるからそこで演奏して欲しいと言われ、一路メキシコを目指す。しかし、途中の店での演奏の評判は最悪で、次々と店を追い出される。少ない給料をウラジミールは独り占めして進んでいくが、とうとう仲間に見破られ、ウラジミールは縛られて車に乗せられる。そしてメンバーもホームシックがで始めた頃、頭の禿げた男は追いついてウラジミールを助け、いよいよメキシコへ到着。

 

結婚式で演奏するが、凍った仲間も溶けて、一緒に演奏する。それを見ていたウラジミールはサボテンからテキーラを注いで飲んで何処かへ消える。ウラジミールはそれ以来姿が見えなくなったことと、レニングラードカウボーイズがメキシコでトップテンに入ったというテロップが出て映画は終わる。

 

とにかく、ユーモア満載の音楽ロードムービーで、心地よいテンポと笑いの連続に終始微笑みが途切れない楽しい映画だった。

映画感想「過去のない男」

過去のない男

淡々と展開する渇いたコメディという感じの一本で、例によって軽快な音楽センスと冷めたユーモアの数々がニンマリさせてくれて楽しい作品でした。監督はアキ・カウリスマキ

 

列車の中、一人の男が乗っている。目的地に着いたがまだ夜明け前の深夜で、公園で居眠りをしてしまう。そこに暴漢が現れ、男を殴り倒し、金を奪い、財布を捨て、カバンから溶接の仮面を男に被せてその場を去ってしまう。病院に担ぎ込まれるが、顔中包帯で瀕死の状態。間もなく心肺が止まってしまい医師は死を宣告して部屋を出る。ところが直後、男は起き上がり、体に繋いでいる線をとって外に出るがしばらくして河岸に倒れる。その男を子供らが発見し、トレーラーハウスに住む夫婦に知らせる。夫婦は男を介抱し、やがて男は元気になるがが記憶が無くなっていた。

 

施しのご飯を食べ、この地の警備員の男にトレーラーハウスの空き部屋を紹介してもらう。福祉局のイルマに勧められて服を手に入れ、仕事をしようとするが、名前もない中では見つからない。そんな男はイルマと付き合うようになる。男はこの地で福祉局の仕事を手伝い、救援団のバンドに庶民的な音楽をした方が良いと企画しながら生活する。

 

ある日、溶接の仕事を見ていてかすかに自分の記憶が戻り、その溶接を手伝ったことで仕事をもらえることになる。給与が振り込みだから銀行で口座を開いて欲しいと言われ、地元の小さな銀行へ行くが、そこへ強盗が入る。強盗は自分の経営している会社の金を奪い男と銀行員を金庫に閉じ込めて逃走する。銀行員の機転で、スプリンクラーを作動させて二人は脱出するが、男は警察に捕まる。そして名前もない中拘束するしかないと留置所に入れられる。

 

男はイルマに連絡し、イルマは福祉局から弁護士を派遣してもらう。そして無事釈放されたが、後をつけてきたと言って強盗が声をかける。そして、自分は溶接の会社をしていたが、解散するので従業員に金を配って欲しいという。男は引き受けるが直後強盗は自殺する。しかし、強盗と思われた男の顔写真が新聞に載り、妻から連絡が来る。

 

男は列車に乗り、妻の待つ家に行くが、妻は、男はいつも博打ばかりで夫婦喧嘩が絶えず離婚することになったと言う。そして新しい恋人と一緒に暮らしていた。男はその恋人に妻を託し、再び列車に乗る。そこで寿司を食べて日本酒を飲む。そして戻ってくる。ところが列車を降りたところで自分を襲った暴漢が別の男を痛めつけている現場に出くわす。男は木切れを持って応戦しようとすると、あちこちから浮浪者らしい仲間が現れ暴漢を追い詰めていく。その中に警備員もいた。警備員は親睦会の最中だからと男に伝える。男が親睦会の会場に行くとイルマが待っていた。男はイルマと手に手をとって踏切を渡り去っていく場面で映画は終わる。

 

とにかく、至る所にニヤッとさせるセリフや、テンポいい音楽を挿入し、なぜか日本食が出てきたり日本の歌が流れたりと遊び心にも溢れているユニークさがクセになります。カウリスマキ色満載の一本でした。

映画感想「ゴーストバスターズ フローズン・サマー」「オッペンハイマー」

ゴーストバスターズ フローズン・サマー」

理屈づけがやたらくどい上にストーリー展開にキレがないのとダラダラ感が否めず、結局ひねくれた少女が引き起こした人類の危機を自らの知識で退治することになるという雑な話になっていた。そこに昔からのメインキャストを登場させざるを得ず、どんどんくどさが広がってきて、ヒーロー達の登場にもワクワク感がないし、悪役の恐ろしさも今ひとつユニークさに欠ける。全体にそろそろネタ切れ限界という仕上がりの娯楽映画でした。監督はギル・キーナン。

 

20世紀初頭、消防士達が火事の通報か何かで駆けつけると、部屋の中は凍りついていて、傍に金属の球を握った何者かが座っている場面から映画は幕を開ける。そして現代、ゴーストバスターズはニューヨークに現れた竜のようなゴーストを追いかけている。なんとか退治したものの町中破壊してしまって市長からは大目玉を喰らう上に、未成年のフィービーは今後参加することは御法度と言われる。フィービーはその処置に不満を持つものの両親はそのまま受け入れたのでフィービーと両親に溝ができる。

 

フィービーは公園でチェス盤を広げていると、火事で亡くなった同年代の少女の幽霊メロディと出くわし親しくなる。そんな頃、レイモンドの骨董店にナディームという男が金属の球体のようなものを持ち込んでくる。霊的な計測をするととんでもないものと分かり、レイモンドはそれを預かるが、この球体は、かつて世界を凍らせてしまう悪霊ガラッカを封じ込めたものだとわかる。そして、その封じ込めたのがファイヤーマスターだった。実はナディームはファイヤーマスターの末裔だった。

 

ガラッカは封印を解いてこの世にもう一度現れるべく、呪文を人間に呟かせる必要があり、メロディを使ってフィービーに近づいていたのだ。ゴーストバスターズが捕獲したポゼッサーという悪戯幽霊がそのに呪文を盗み出してしまう。フィービーは孤独の中、メロディに近づくべく二分間だけ幽体離脱できる装置に入るがそれは全てガラッカの作戦だった。

 

そして呪文をフィービーは呟いてしまい、ガラッカが鉄の球体から解放され、街を凍らせてしまう。ゴーストバスターズは、初代メンバーらも集まってガラッカに対抗するが歯が立たない。しかしフィービーが考えた真鍮を組み入れた銃をガラッカに向け、さらにナディームの力も覚醒して、ガラッカは破壊されてしまい大団円、ゴーストバスターズは市民達に歓声を受けて映画は終わる。

 

とにかく、そろそろネタ切れ感満載で、話がまとまっていないし、様々なエピソードをこれでもかと並べる作りになってきたので、このシリーズも限界かなと思う。まあ気楽に見れるからこれも良いかもしれません。

 

オッペンハイマー

全編息を呑むほどの緊張感に包まれ、目まぐるしいほどに細かいカットの連続と、三層に分かれたストーリー展開が交錯していく作劇にさすがにぐったり疲れてしまった。オッペンハイマーマンハッタン計画に参加するまでの前半、マンハッタン計画の成功までの中盤、そして政治的に貶められていく後半という三つの展開はシンプルなのですが、いかんせん登場人物と時間軸のシーンが次々と入れ替わり立ち替わり画面に関わって来るので、細かい部分にこだわっていられなくなる。それでも、原爆が完成してトリニティ実験が成功するところから日本に原爆投下されたという連絡が入るあたりは涙が止まらなかった。手放しで傑作だという感想は書けない作品ですが、アカデミー賞を山にように取るほどの力はなかった気がします。監督はクリストファー・ノーラン

 

どこから話が始まるものかはっきりと書き出せないのですが、オッペンハイマー博士が小さな部屋で国家反逆の疑いで審問されている場面に続いて自身の過去や発言を証言している場面で映画は幕を開ける。ここまでをFISSION(核分裂)としている。そして、戦後、米国務長官の任命に際する公聴会で、ストローズがオッペンハイマーとどう関わっていたかヒヤリングされているモノクロ映像が続き、これはFUSION(核融合)と表現される。

 

若き日のオッペンハイマーは、量子理論を唱え、当時の最高物理学者ハイゼンベルグやボーア達から学び、量子力学の第一人者になっていく。この時期、友人ラービ博士にも出会う。

 

ストローズは1947年、オッペンハイマーをAEC顧問に任命する。オッペンハイマーはかつて自身にかけられた嫌疑について言及するがオッペンハイマーの実力を高く評価しているからと任命した。実はストローズはオッペンハイマーと初めて会った際、アインシュタインオッペンハイマーは池のそばで言葉を交わしたのだが、何を言ったのかが気がかりだった。

 

オッペンハイマーは大学で量子力学の講義を進めるが、ドイツの科学者がウラニウム核分裂に成功、ドイツがポーランドに侵攻を開始したと知り、核爆弾の開発が急がれると感じ始める。一方、オッペンハイマーの弟フランクは共産党員になり、さらに学生時代の恋人ジーンや妻キティも共産党員だったことからオッペンハイマーは政府から疑念を抱かれ始めた。

 

1959年、公聴会でストローズはオッペンハイマー共産党との関わりの嫌疑はあったもののAEC顧問に任命したのは彼の優秀さ故だと説明する。ただ、ストローズがアイソトープノルウェー輸出の是非についてオッペンハイマーにからかわれたことは根に持っていた。

 

キティは育児に不向きで、頻繁にオッペンハイマーは非難され、子供をシュバリエ夫妻に預けることもしばしばになっていく。しかし、そんなオッペンハイマーだが、周囲からは国のための仕事に頑張るように応援される。

 

1942年、グローヴス大佐に原爆開発の「マンハッタン計画」の責任者に任命され、ロス・アラモスの砂漠地に研究のための街を作りアメリカ中から研究者を家族ごと集めていく。

 

1943年、テラー博士が核の連鎖反応の理論を発見、これが起こると一回の核爆発で大気中に連鎖反応が起こり世界が破滅すると説明する。テラー博士こそのちの水爆の父と言われた人だった。オッペンハイマーアインシュタインに確認を依頼するが断られ、もしこの理論が正しいならナチスと情報共有し人類滅亡を防ぐように言われるが、結局、理論はニアゼロだと判明する。

 

オッペンハイマーはシャバリエから、アメリカ政府がロシアに情報提供していないことを共産党員で優秀な科学者エルテントンが嘆いていることと、彼を通じればロシアに情報提供できると持ち掛けられるが、それは国家反逆罪だと断る。

 

1959年公開審問で科学者の意見を聞くべきという方針にストローズは不満をあらわにする。さらにオッペンハイマーを慕う科学者から不利な証言がされることを懸念する。

 

オッペンハイマーはロス・アラモスでの研究が進み、化学爆発から物理爆発で一千倍ほど威力がアップするのでキロトンという単位が考案され、大きなプルトニウム爆弾と小さなウラニウム爆弾を作る方針に決まる。テラーは原爆より強力な水爆開発を提案するがオッペンハイマーは却下する。

 

1949年、ロシアが原爆実験に成功し、ストローズは水爆開発が必要だと大統領に主張、またロス・アラモスにロシアのスパイがいたのではないかと疑う。

 

ロス・アラモスは規模がますます大きくなり情報統制も難しくなってくる。ストローズがロス・アラモスと敵対していると考えているシカゴ派のフェルミとシラードともオッペンハイマーは情報共有していた。クローヴスから守秘義務について責められたもののオッペンハイマーはグローヴスを説得して黙らせることもあった。

 

ロス・アラモスでは身辺調査も混迷し始め、ロマンティスが立件されてロス・アラモスから退去させられる事件なども起こる。グローヴスは表向きは厳しいものの原爆開発を急ぐあまり研究者の規則違反は黙認している状態だった。

 

この頃、オッペンハイマージーンとも面会し、彼女がまだ自分を愛しているゆえに会ったのだと聴聞会では答える。キティはオッペンハイマージーンが裸で抱き合う妄想を見てしまい、聴聞会で私生活を暴かれることに限界を感じ始める。

 

ボーア博士がロス・アラモスを訪問、彼は核兵器を持つことは人類にはまだ早すぎると警告する。サンフランシスコではジーンが浴槽で不審死してしまう。オッペンハイマーはこの事件で狼狽するがキティが支える。テラーは相変わらず水爆にこだわるためオッペンハイマーはテラーを原爆開発チームから外し独自に開発に専念するようになる。

 

1949年、ロシアの原爆実験を知って水爆開発を進めようとするAECにオッペンハイマーは、まだ時期尚早であり、世界で協力して核技術を共有すべきだと主張する。しかし現大統領トルーマンとストローズに反発される。この頃、AECに加入したボーデンが、軍人時代にナチスのH2ロケットを目撃したことを聞かされ、核爆弾が搭載される未来を想像する。

 

1945年、ドイツが降伏、ロス・アラモスでは原爆開発に疑問の声が上がるが、オッペンハイマーはまだ日本が残っていること、自分たちはあくまで研究者で核の恐ろしさを見せつけることで核技術共有構想に繋げたいと説得する。そしてトリニティ実験を7月に設定、土地勘のある弟フランクを仕事に就かせる。原爆投下の決定会議でも戦争を早く終わらせるためという大義名分で原爆投下が決定する。

 

そして三年の月日と20億ドルという巨費を投じて原爆はついに完成、トリニティ実験と称された実験が行われる。そして実験は成功し、原子爆弾は米軍に移管しグローヴスもロス・アラモスを去る。広島と長崎に原爆投下するために爆弾が搬出されていった。

 

まもなくして原爆投下の連絡の後、ロスアラモスに集まった家族の前でオッペンハイマーは、大成功を祝う演説をするが、彼の背後は地鳴りの如く揺れ、足元では炭のようになった人間を踏み、悲しみに暮れる人々の姿が歓声の中に見え隠れしてしまう。

 

マンハッタン計画の成功とと共に原爆の父として時の人となったオッペンハイマートルーマン大統領と面会するが、「手に血がついた気持ちです」というオッペンハイマートルーマンは「恨まれるのは開発者ではなく投下した私だ」と答える。

 

1959年、政治家のストローズは、オッペンハイマーが立場を利用して政府を誘導したのではないかなどと考え、オッペンハイマーの行動について回想する。

 

1945年、オッペンハイマーはロス・アラモス所長の退任式で「この施設は呪われるだろう」とスピーチする。1959年、ストローズの写真が表紙のタイム誌にオッペンハイマーの批判記事が載る。これはストローズによる世論操作ではないかと言われ、ストローズは1954年の種明かしを始める。

 

1954年ボーデンに情報提供したのはストローズだった。そして身辺調査の手続きにするため小さな部屋での密室にしてオッペンハイマー聴聞会を開いたのだという。そして審査員も検察官もストローズが指名し、オッペンハイマーの弁護士には十分な資料を渡さなかった。この目的は、オッペンハイマーが政治に口を出せないようにするためだったと語る。実際優秀な弁護士を擁したオッペンハイマーは苦戦する。そして、ボーデンのフーバーへの報告書が読み上げられ、オッペンハイマーと弁護士はロシアのスパイ容疑に打ちのめされる。

 

1959年公聴会、シカゴ派の科学者デヴィッド・ヒルはストローズがオッペンハイマーに個人的な恨みがあることと1954年のオッペンハイマーの社会的地位破壊に言及し商務長官に相応しくないと証言する。

 

聴聞会ではテラーはオッペンハイマーは忠誠心があるが行動や発言は理解できないと証言、去り際にオッペンハイマーと握手するがキティは手をださなかった。グローヴスは、誰も信じていなかったしオッペンハイマーも信じていなかったが不信があったわけではないと断言する。

 

1959年公聴会ヒル聴聞会での検察官を指名したのはストローズだったと暴露する。聴聞会では検察官はキティを厳しく詰め寄り彼女が共産党と金銭的に繋がりがあると指摘する。かつて祖国を捨てたアインシュタインオッペンハイマーに、なぜこの国にそこまで尽くすのかと尋ね、オッペンハイマーアメリカを愛しているからだと答える。

 

1959年ストローズが激昂していた。ヒル公聴会でストローズを追い詰めたのはかつて聴聞会でストローズがオッペンハイマーを追い詰めたのと同じことをされ、結局科学者に自身の立身出世を阻まれたと感じていた。それでも、オッペンハイマーを守ってやった気でいるストローズだった。

 

聴聞会ではオッペンハイマーが米国に忠誠ある市民だと認められたが共産党員との関わりは否定できず公職追放となる。1959年の公聴会でストローズの昇進は却下され、彼の昇進反対署名にJFKもいた。

 

1947年、オッペンハイマーがストローズと初対面の日、庭の池のそばに佇むアインシュタインオッペンハイマーに原爆成功を祝福するがいつか決着は下るだろうと告げる。それは賞賛も含まれるがその栄光は所詮人間は自分本位なのだと話す。オッペンハイマーアインシュタインに、地球を燃やし尽くす核爆発の際の連鎖反応の話について、あれは成功だったと告げる。アインシュタインは言葉を失いストローズの脇を過ぎていった。

 

ストローズが最後まで、オッペンハイマーアインシュタインが池のほとりで交わした会話を気にしていたが、ラストでこの場面がフラッシュバックされ、オッペンハイマーは池の波紋を眺めて、地球中に核ミサイルが発射され、世界中が核兵器で破壊され地球が滅ぶ映像の後オッペンハイマーのアップで映画は終わる。

 

トリニティ実験で原爆が完成し、世界が変わる瞬間を作ってしまったオッペンハイマーの苦悩。当初、原爆が爆発すると連鎖反応が止まらず、大気が核爆発を誘発するという懸念が、実は冷戦からその後の核競走への暗喩であったエンディングは寒気がするものがある。オッペンハイマーの妻の存在や、不倫相手の描写など人間ドラマ部分もしっかり描いたゆえか、恐ろしいほど長尺の作品になった上、クリストファー・ノーランお得意の交錯した作劇が、かなりしんどい映画になっています。クオリティは相当ですが、対抗馬が少なかった故のアカデミー賞受賞ではないかと思います。