なるほど、これは名作である。ラストシーンに向かってまるで外堀を埋めていくようにプロットが組み立てられている。その脚本のすばらしさはもちろんであるが、これは明らかにウィリアム・ワイラー監督の抜群の演出力のたまものである。3時間足らずという超大作であるが、このドラマにはこの長さが必要だったのである。
一つ一つのドラマの展開がこれよりも短すぎるとただの見せ場にしかすぎないし、これよりも長すぎると、かえって間延びしてしまって肝心のそれぞれのプロットの意味がラストシーンできれいに実を結ばない。まさに、職人的な感でその長さを選び、その中で丁寧に無駄なく、手を抜くこともせずに全力で描いていく職人監督ならではの力量の証明だと思う。
おそらく、これほどの人間ドラマを作ることができる映画監督というのは現代では一人もいないであろう。それは、常に大ヒットを期待され、目先の派手さばかりにその手腕を磨こうとしてきた監督たちには身につける間がない独特の職人技がかけているからである。それは、スピルバーグや今活躍中の名だたる名監督でさえもあてはまる。つまり、どういう時代に映画を作る側にいたかといういわば運命の結果なのだ。
ウィリアム・ワイラーといえば名監督の一人ではあるが、決して芸術作品をとったわけでも、演出したどれもが名作傑作だったわけでもない。しかし、製作者が信頼をしてそれなりのレベルの作品を作れる監督としてその手腕に任せられた一人として、巨匠と呼べるのではないだろうか。
広大な西部の大地で、まるで点のように主人公やガンマンたち、そしてそこにすむ人々が何度もとらえられる。いったい、誰が演じているのかわからないほどに小さくとらえられる構図を多用することが、映画館で大きなスクリーンをみてこその醍醐味であることを監督がいわんとしている証拠である。
映画が始まると、遙か彼方から一台の駅馬車が疾走してくる。乗っているのはこの物語の主人公ジョン・マッケイ。これから起こるドラマの導入部としてはまるで教科書のようなファーストシーンである。
そして、この男、東部で船会社を営んでいたが、婚約者のパトリシアが西部の牧場主の娘であるためにこの地へやってきた。そして、そこでは古き慣習と考えがしっかりと根付き、男は強くたくましくをその信条とする世界なのだ。
ところがこの主人公、やたら温厚で何事も争うということをしない。こうして混じりあいにくい一滴の油が水に落とされて物語が劇的に動き始める。
この地にはパトリシアの父テリルと谷にすむルーファスという敵同士が、ことあるごとに水飲み場の利権を求めて争いを繰り返している。そんな姿を目の当たりにしていくジョンは、ここでの諍いをなくすべく、その原因となっている水源のあるビッグ・ダディという牧場を手に入れることにする。そこの牧場主ジュディはパトリシアの友人でもあるため、それが最良と考える。
チャールトン・ヘストン扮するスティーブという牧童頭との諍いをさりげないエピソードで解消させ、雇い主テリルへのスティーブの心の変化も些細なせりふの中にちりばめていくあたりの演出の見事さは絶品。さらにルーファスという人物の人柄の描き方。思いの外古風で紳士的、ラストで成り行きとはいえ自分の息子を撃ち殺したときの彼の姿のもの悲しさもすばらしい演技でうならせられます。
次第次第にそれぞれのドラマがラストシーンへ集約されていく下りは、これこそが大作といわしめるほど実に見事で、登場人物たちそれぞれに見せ場をつくって、しかも悪人で終わらせない見事な配慮はウィリアム・ワイラーの匠の技を見せつけられる思いでした。
すべてが終わり、ジュリーとスティーブ、マッケナ三人がこれからの未来に向かって馬を進めていくエンディングはこれこそが映画といわしめるシーンで締めくくっています。結局、パトリシアはどうなったのか?という余韻さえ残すところは本当に心憎い。見事な名作でした